籬岸流《りがんりゅう》
僕らは、遠浅の海を確かめて遊ぼうとした。
自分達の泳ぐ能力がどの程度かも知らずに・・・。
「この沖って、遠浅なんだよね?」
そう言ったのは・・・確かに太田君でした。
僕らは海底の砂に足を着けて、腰まで海に浸かって辺りを見回しました。
角村君は「知らないオジサンが、このずっと沖に出た所で立ってたからな・・・だから、あの辺はそうなんだろうな」と、言って沖を指差しました。
僕と太田君も、その指差す方向を見ましたが、僕にはそれが何処なのかハッキリとは分かりませんでした。
「そうか・・・」と言った太田も、多分、良く分かって無かったと思います。
その後に角村君は、僕らの立ってる所から50メートルぐらい離れた所にある、河口の方を見ました。
僕らにとって、その川は地元に近い場所に流れてるので割りと知ってました。
河口の手前迄なら幅は4メートルぐらいだったので、そんなに大きな川では無かったのですが、それなりに水量はあるのが、海面に浮き上がる海水と真水の混ざり合う独特の模様から、遠くからでも窺えました。
角村君は「あの川の流れに乗って行ったら、沖まで出るのに早いかも知れないけど・・・それはサスガに危ないかぁ」と言いました。
その意見には僕も賛成でした。
しかし太田君は「そうか?危ないのか?」と言うので、角村君は「自分の力とは関係なく沖に流されるのは、怖いだろう?」と言ったのです。
それで太田君は「そんなもんかなぁ・・・」と、ちょっと不満な表情でした。
それに対して角村君は「それに、海水はそんなに冷たく無いけど、川水は海水よりも冷たいかも知れないし、真水は海水よりも浮力が少なくなるから、海面・・・ってか、水面に身体を浮かせるのには、海水よりも体力が必要になるんだ、それに、真水と海水は直ぐに混ざり合わないから、そこに乱れた水流が生まれて・・・」と、畳み掛けるように長々と説明をしてたので、僕は「まあ、とにかく。泳ぎの上手い人に習って、沖に行って見ようよ」と、二人の間を取り持つつもりで、そんな事を言ったのです。
それで一応は納得した太田君は「それなら角村が先導してくれよ。俺らはその後を付いてくから」と言うので、角村君は「まあ、任せろって。お前らに合わせて、ゆっくり泳ぐから、遅れるなよ?」と言うと、彼は僕らに背を向けると、沖に向かって泳ぐコースを見定めてました。
それから「じゃあ、ゆっくりな」と言って、沖に向かって海底を蹴り泳ぎだした角村君は、見事なクロールでぐんぐんと泳いで行ったのです。
僕と太田君は、角村君に置いてかれた感じになったので、一瞬、互いに顔を見合わせました。
それから、少し慌てて角村君を追いかけたのです。
プールなら、水面にレールのように連なる浮きでできたコース・ロープもあればプールの底に線が引かれてるので、クロールで行っても自分が真っ直ぐに泳いでるか分かりますが、砂浜の海底には当然ですが目印になる物など何も在りません。
ですから、角村君を追う僕らはクロールで行っても、時々は平泳ぎに変えたりしないと、彼とは違う方へと行ってしまう可能性が高かったのです。
それでも、遠浅への挑戦はもう始まってしまってましたから、僕と太田君は、グングンと先を行く角村君を、追うしか無かったのです。
いや、僕と太田君は『それしか無いと思い込んでた』のでした。
僕の水泳の腕前は、学年で中の上だったので、この程度の事ならそんなに不安には思ってませんでした。しかし太田君は、学年で中の下ぐらいだったので、僕は太田君よりも先に行くのは良くないと思って、泳ぐ速度を少し落として、太田君の少し後ろを泳いでました。
遠浅を目指してるということは、その手前の海底は足が届かない位の深さの所が在るということです。
しかし、僕らは水中を見るための水泳メガネとかゴーグルとかは着けて無かったので、海水の中を裸眼で見て足場が在るかどうかを確認するか、すこし立ち泳ぎをしてみて確かめるぐらいしか無かったのでした・・・。
水泳の得意な角村君は、自分の中で定めた目標があるようで、1分ほど僕らが追いかけても、只ひたすらにクロールで遠ざかって行きます。
太田君は時々、平泳ぎをして角村君の位置を確認するので、僕も時々、平泳ぎをしてました。
この時、僕はちょっと不可思議な感覚に捕らわれました。
それは、ずっと先を行く角村君が早いのは分かりますが、それに遅れて泳いでる僕らの速度も、普段よりも幾分か早く泳げてるように思えたからでした。
(何だろう・・・・泳いで疲れてくるけど・・・後ろから押される様に楽に泳げてる気がする)
僕はそれは『たまたま、上手く塩の流れに乗ってるだけ』だと思いました。
河口からは離れてて、川水の影響を受ける場所では無いと思ったからです。
プールで泳いでる経験と比べたら、海で泳いでる経験など1割も無かったのに、そう思ったのです・・・。
顔を海面に浸して下を見ると、海底まで3・5メートルほどにもなる深さでした。
海水は少し茶色がかってましたが透明度が意外と高く、海底の砂には、海面の波と太陽の光が作り出す光の模様が見えました。
それは綺麗でしたが不気味でもありました。
海底に足が届かないというだけではなく、自分が高い所を飛んでるようで、しかもそれが気持ち良い感覚では無く、引き込まれてしまうような恐怖を感じさせる光景でした。
平泳ぎをする太田君が、僕の方を見て「この辺にも浅瀬は無いの!?」と、聞いてきたのは、その時でした。
もう既に、岸から離れて2分近く泳いでたと思います。
その声にハッとした僕は、一瞬考えた後に「分からない!」と言ってから直ぐに「疲れたのか!?」と聞いたのです。
太田君は「ちょっと!」と言いました。
泳ぎながらの会話なので、互いに長く話せません。
僕らは懸命に泳いで角村君に追い付こうとしてる最中なのですから、普段以上に短い時間で息が上がってきてました。
当たり前ですが、僕らは海を泳いでます。
プールと違って、疲れたからといって掴まって休める所など、何処にも無いのです。
僕と太田君は今さらになって、プールと違う環境に焦りを感じ、普段以上に緊張を強いられ、体力を無駄に使ってしまってた事に気が付きました。
僕の体力には余力があると自分では思ってましたが、太田君は体力の余裕が無くなりかけてるのが、彼の息遣いと泳ぎ方から伝わって来ました。
平泳ぎの速度を落として、時々、僕の方へと顔を向けようとしながら泳ぐ太田君の後ろ姿を見た僕は焦り、考えました。
それは、このまま沖に向かって何処かの足場を見付けるのが良いのか?
それとも、これまで足場らしい所が一つも無かったけれども、ここから直ぐに引き返したら良いのか?・・・です。
この先、あと少し泳いだら、ちょっとした足場が在るかも知れません。
でも僕らには、それが分かりません。
先を行く角村君に聞ければ分かったでしょうが、彼は途中で休むこと無くクロールで行ってるので、僕らの声が聞こえるとは思えませんでした。
そして、角村君が休まずに泳ぎ続けてるのが『途中に足場が無い』からなのか『自分の泳ぎの実力を示したい』からなのか、それとも『泳ぎだしたら夢中になって、僕らの事など忘れてしまってる』のかも分からない状況でした。
「戻ろう!」
そう言ったのは、僕でした。
太田君の泳ぐ後ろ姿を見てた僕は『この直ぐ先に、浅瀬がある事に掛ける事は出来ない!』と思ったのです。
太田君は「分かった!」と即答しました。
その迷いの無い返事に、僕は逆に焦りました。
『言うが早いか』とはあの瞬間でした!
太田君はもう、丘への進路を取って、僕の方へと向かって来たのです!
その顔は必死と言えました・・・。
それは、太田君の余力は、僕が思ってた以上に少ないのだと分かった瞬間でもありました。
「焦るな太田!」
そう声を掛けた僕の声は、きっと焦ってたでしょう。
僕の方へと向かって泳ぐ太田君は、一瞬、驚いた表情をすると、無言で頷き、直ぐに硬直した表情になりました。
この瞬間の太田君の反応の意味を、僕は彼よりも少し遅れて知る事になります。
太田君は岸へと戻る為に、平泳ぎで僕の方へと泳いで来ました。
彼はクロールがそんなに得意では無かったので、楽に呼吸しながら岸に戻るには、平泳ぎの方が楽だと思ったのだと思います。
それからでした。
僕らが本当に焦り・・・そしてパニックに陥ったのは・・・。
立ち泳ぎをしてる僕の所に、平泳ぎで向かってる太田君が近付いて来ました。
僕は帰りも太田君の後を追いかけるつもりだったので、彼が僕の前を横切るのを立ち泳ぎをして待ってました。
そして、太田君が僕の前を横切った直後です。
僕の視線は自然と岸へと向くと同時に、自分から岸への距離を確かめました・・・。
(え?!岸が・・・遠い!!)
それは、僕達が自力で泳いでたスピードからすると、考えられない距離を沖に向かって泳いだ事になる光景でした・・・!!
何となく、追い潮に乗ってる気はしてましたが、まさかこんなに沖に出てるとは思いもしなかったのです!
河口付近の砂浜の海岸線は、全体的に緩やかなカーブを描きつつも、全体的には
横一線でした。そして、沖の方に目安になるような小島とかも無かったので、自分の位置を目測るとすれば、ずっと遠くの山等の風景を目安にするか、砂浜の岸辺を振り返って見る以外に何も無かったので、沖ばかり見てた僕たちは、思いがけないだけ沖に出てる事に、全く気が付か無かったのです。
海水浴場であれば沖に遊泳区画を示す浮きが設置されてますから、そんな事にはならなかったでしょう。
僕達が敢えて遊泳禁止の海を選んだので、起こしてしまった事でした。
(角村が大丈夫なのかは分からないが、今は僕達が戻るのが先だ!)
僕はそう思って、岸に向かって平泳ぎする太田君を追いました。
しかし、僕らはさっきまでとは違って潮の流れに逆らって泳ぐ事になったので、なかなか先へと進めなくなったのです。
全身に当たる向かい潮が、川のように早いのだと分かったのは、この時になってからでした。
それは、全然前に進んで無いと思えるどころか、更に沖に流されてるように思えました。
平泳ぎでは、まるで前に進める気がしないし、手足にかかる水の抵抗が大きすぎて、直ぐに疲れてしまうのが分かりました。
僕は「太田!とにかくクロールで行こう!」と言いました。
太田君は、返事をしなかったのですが、僕の声で泳ぎをクロールに変えてくれました。
それを確認した僕も、直ぐにクロールに変えて、岸を目指しました。
しかし、それでも僕達は沖へ流されてるのです。
それが分かったのは、クロールでの息継ぎの間に顔を海水に着けて下を見ると、見える海底の砂の景色が、僕の足の方から頭の方へと流れて行くのが見えて分かったのです。
それは、恐怖そのものの光景でした!!
(このままでは絶対に岸に着けない!!)
そう思った僕は(左の方向へ逃げてはどうか!?)と、思ったのです。
その根拠は、岸に向かう僕らの右手の向こうには河口があったからです。
だから僕は(このまま行っても、右へ行っても沖に流される・・・なら左側に行くしか無いだろう!)と考えて決断しました!
それも賭けでしたが、他に助かる術は無いと考えたのです。
僕は声を出すために一度、平泳ぎに変えると「だめだ太田・・・左へ!・・・・左へ行こう!」と精一杯の声を掛けました。
太田君はクロールを続けてるので、僕の声は届いて無いようでしたが、僕も待てませんでした・・・。
岸まで体力が持つか不安だったのです。
僕が左に行けば、太田君はクロールをしながらも僕の姿が視界に入って、付いて来てくれるのではないか?とも思いました。
それで、僕がクロールに変えて左に向かって泳ぎ始めよとした瞬間でした。
「そっちに行っちゃダメだ!!こっちに来い!!」と、突如!若い男の力強い声がしたのです!!
驚いた僕が声のした方を見ると、黒く日焼けした男性が立ち泳ぎをしながら、海面に左腕を上げながら大きく振って[こっちへ来い!]という仕草をしてるのです。
僕からの距離は10メートルぐらいでしたので、良く見えました。
太田君との距離は、もっと近かった筈です。
海面から見える部分だけですが、その男性は割りと筋肉質に見え、泳ぎ慣れてる感じでした。
(僕達の様子を見て助けに来てくれたのか!?)
僕はそう思って、勇気付けられました!
しかし、その男性が誘う方向は、真っ直ぐに岸に向かう方向だったのです。
僕は、そこは流れが早すぎると考えて、左に逸れようとしてたのですから、迷いました。
しかし、僕にはもう、真っ直ぐ岸に向かうのは無理だと思ったのです!
助けに来てくれた男性が、この海を良く知ってる人なのかも知れないとも思いましたが、僕は兎に角、今の潮流から逃れたかったので、左方向へと泳ぎ始めました。
クロールをしながら、時々、太田君を見ると、彼はさっきの男性に向かって泳いでました。
男性も時々、立ち泳ぎをして太田君を岸へと誘導してくれてるように見えました。
しかし・・・でした。
僕は岸に対して左に水平方向へ逃げてるので、潮流に依って沖に出されてるのですが・・・。
太田君と、見知らぬ男性は、岸に向かって泳いでるのに、僕よりももっと沖に流されて行ってるのです・・・!?
(僕は横に向かって泳いでるのに、太田がもっと沖に?!そんなに潮流が早いのか?!)
僕が、そう思った時でした。
僕の周りの潮の流れが、急に穏やかになったのは。
(沖に出される流れが止まった!?)
僕は一瞬、そう思いましたが。直ぐに気が付きました。
(いや、多分、違う・・・沖に出される潮流の外に出たんだ!)
こうなると僕の身体は一気に楽になりました。
さっきまでは潮流と戦ってた状態でしたが、穏やかな海なら少ない力でも浮いてられたし、少ない力で岸を目指す事もできるからです。
僕は自分の位置から岸を見ました。
平坦な砂浜の海岸線を、海面から顔を出しただけで距離を測っても正確では無かったですが、僕は(今なら岸に辿り着ける!)と、確信できました。
自分の身を守れそうだと思った僕は、その時になって改めて太田君の事が気になりました。
僕は体を左に傾けながら泳ぎ、太田君を探しました。
僕は愕然としました・・・・!
太田君が更に沖へと流されて居たからですが・・・。
それに、僕と太田君を助けに来てくれたかのように見えた男性も、太田君と一緒に流されて居るのです!
(そんな・・・どうして?!)と、僕は思い、太田君と男性を見比べました。
(あの人・・・泳いで無い!?)
さっきは気が付きませんでしたが、男性は、海で泳いでるようには見えない動きをしてるのです!
潮流を無視し、泳ぐ動きと海面とが合って無いのに、常に太田君の前に居て、繰り返し左手を上げて太田君を誘ってるのです・・・・!!
(どういう事なんだ!?)と、僕が思った瞬間でした。
さっきまで日焼けして若々しい姿だった男性の姿が、腐乱した死体のように変化したのは・・・!!
その姿は遠目でも分かる、ただれた肌に、一部の骨が剥き出しになった腕。頭部は髪の毛が抜け落ち、頭蓋骨が露出してました。
そして、何よりも恐ろしかったのは、剥き出しの歯と、目玉の無い顔でした・・・!
僕は、全身の血の気が引くのが分かりました。
(太田・・・・太田は・・・・『死者にさそわれてる!!』)
「太田ぁー!!戻れー!!そっちへ行くなぁー!!」
(横にっ・・・・僕の居る方に!!)「横に!左に泳げぇー!!」
この時、そんな大声を出せる体力は、僕には無い筈でした。
なのに・・・・僕は自分でも驚く程の大声を張り上げて立ち泳ぎをし、左手を上げて太田君を呼び戻そうとしたのです!
この時。
岸辺に居て休んでた西崎君と新谷君が、その僕の叫び声を聞いて、始めて太田君が沖に流されて溺れそうになってると気が付いたのです!
同時に、沖の遠浅で休んでた角村君も、僕の声で太田君が流されてると気が付きました!
角村君は、流れの早さに驚いてたそうですが、兎に角、遠浅の場所を目指して辿り着いてたのです・・・。
岸辺で立ち上がった西崎君と新谷君の2人は、大声を上げて僕と太田くんに手を振って「こっちへ来い!」と叫びました。
それで西崎君は海に走り込んで、僕の方へと向かって来ましたが、足の届く所までくると、そこから僕に声を掛けて「こっちだ!俺の所へ来い!!」と、僕を励まし呼び寄せてくれました。
その姿を見た僕は、太田君を追うのを諦め、西崎君の方へと向かって泳ぎました・・・。
西崎君が僕に手を伸ばしてくれてたので、僕は必死でその手を掴み引き寄せました。
生き残る為に無我夢中・・・。
それも最悪の意味での無我夢中でした!
西崎君は水難救助の知識が少しあったそうで、それで足が届かない場所まで僕を助けに行っては危ないと思ったので、足が着く岸辺までしか僕を助けに来なかったそうです。
確かに、もしも、西崎君が沖で泳ぐ僕の近くに来てたなら、僕は彼に抱き付いて、海に沈めても自分だけ浮き上がろうとしたかも知れません。
なぜなら、僕が掴んだ西崎君の手首には、後で僕の手形をしたアザが残ったからです・・・。
岸辺に引き上げられた僕は、自分の足で立ってるのがやっとでした。
それでも、太田君を目で探しました。
しかし・・・・。
沖には1人しか居ませんでした。
それは、こんなに離れてても、どうして良いか分からずに呆然と立ち尽くして居る、角村君・・・・ただ1人だったのです。
つ づ く