彼はマクシム
娼館で二週間ほど、金持ちのおじさんたちの相手をする。彼らの汗臭い吐息や、下卑た笑い声に辟易しながらも、それが私にとっての「仕事」だ。ここで太客を捕まえられれば、危険を冒さずに済む。でも正直、武具を盗んで売った方が、ずっと金になるんだ。この手の汚れ仕事に慣れてしまうたびに、私はもう、ただの犯罪者だと、心の奥底でつぶやく。
あれから半月が経った。ローガンはもう、私みたいな娼婦のことなど忘れた頃だろう。街中で会ったところで、この人の多さだ。逃げればいい。
私はこの街の小路を、隅々まで熟知している。迷路のような路地裏は、私の逃げ道であり、隠れ家だ。
今日もナンシーと客引きに出る。薄暗い通りを、獲物を探す獣のように見回す。私たちが声をかけるのは、強そうな冒険者風の男か、金持ちそうな商人風の男。どちらも、私の「仕事」の対象だ。
今日は少ないな。まだ時間が早いのもあるけど。声をかけられずにいると、逆に声をかけられた。
「あの、失礼。よろしければ僕と飲みませんか?」
「え……?」
正直、戸惑った。向こうから声をかけられることなんてほとんどないのに、その上、目の前に立っているのは、容姿端麗な貴族風の男だ。月明かりの下でもわかる、その整った顔立ちに、思わず見惚れてしまう。
「びっくりした……貴族の方から声をかけられることなんてないもので……」
私の声は、ひどく上ずっていた。
「ああ、私など田舎貴族です。あまりにも美しいので、つい声をかけてしまった」
男は、優しい声でそう言った。その声には、私の知る男たちの持つ、下心の色が感じられない。
「お上手な人……ええ、行きましょ。ナンシー、この人と行ってくるね」
「うん、わかったよ」
この人、何か目的があるのかしら。本当にこのままついて行ってよかったの? 私の警戒心が警鐘を鳴らす。
「名前を聞いていなかったな。僕はマクシムと言います」
「私はローズです」
「ローズさんはお仕事ですもんね。デート代は払います。バーに付き合っていただけませんか?」
え、本当について行っていいの……? 警戒心がさらに強くなる。危ない人なのかもしれない。
「いいバーがあるんですか……?」
「いや、バーに行くのが初めてなんだ。女性と一緒にカウンターバーで飲んでみたかったんです」
は……? 私が連れて行くの? まさか、この私が案内するとは。
「じゃあ、私がたまに行くカウンターバーでいいですか?」
「ああ、こっちが誘ったのに案内までさせてしまって、すまない……」
マクシムの言葉に、私の警戒心が少しだけ緩む。本当にただ、バーに行きたいだけなのかもしれない。
カランコロン……
バーの扉を開けると、心地よい鈴の音が響く。
「ああ、いい音だなぁ」
マクシムが、目を輝かせて店内を見回す。その表情は、まるで初めておもちゃを手にした子供のようだ。
「いらっしゃいませ。ああ、ローズさん、男性と一緒とは珍しいですね」
マスターの落ち着いた声が響く。
「そうね、いつも一人かナンシーとだもんね」
このバーは、私とナンシーの行きつけだ。マスターは口数は少ないけど、いつでも私たちを温かく迎えてくれる。なんでも相談できる、私にとって数少ない安らぎの場所だ。いつもの奥のカウンターに座る。
「ローズさん、デート代の前払いだ。もちろんここも奢る」
マクシムが、ずっしりとした札束を私の手元に置く。
「え!? こんなに?」
「いきなり声をかけた怪しい男について来てくれたんだ。これくらいは払わせてください」
「はぁ……ありがとう」
1万ブールも……一般労働者の平均年収が5万ブールなのに……。いったい何が目的なの……? 私の頭の中は、疑問符でいっぱいになる。
「お飲み物は何に致しましょう?」
「んー、僕、こういう所は初めてなんだ。マスターのおすすめをいただけますか? 何でもいいです」
「かしこまりました」
マスターは慣れた手つきでカクテルを作った。グラスに落ちる氷の音が、店内に軽快に響く。
「スクリュードライバーでございます。カクテルにはそれぞれに言葉がございます」
「カクテルに………言葉?」
マクシムが、不思議そうな顔をマスターに向ける。
「こちらのカクテル言葉は『あなたに心を奪われた』です。お客様のローズさんに対する想いではないですか?」
マスターの言葉に、マクシムの顔が赤くなる。
「これは参った……はい、ローズさんをひと目見て、つい声をかけてしまった。こんなことは初めてだ」
それを聞き、笑顔で頷いた後、マスターはシェイカーを振ってカクテルグラスに注いだ。
「ローズさんにはこのアラスカを。カクテル言葉は『偽りなき心』です。彼を少し警戒してますね? 私はたくさん人を見てきた。こちらのお客様の想いは本物ですよ」
「マスターには敵わないな……だからこの店、好きなんだ。ありがとう」
私の心の奥底を見透かされているような気がして、思わず苦笑する。
「では、ごゆっくり」
マスターは過度な干渉はしない。そっと私たちから離れ、他の客の接客に戻った。
「いやぁ、素敵な店に連れてきてもらったなぁ。ローズさん、ありがとう」
グラスを右手に、真っ白な歯を見せて微笑んだ。この人、すごくいい笑顔で笑うのね。今まで出会った男たちとは、何もかもが違う。
「いいえ、なんか拍子抜けしたよ。マクシムさん、もうちょっと砕けて喋りましょ」
「そうだね、その方が心の距離が近づく。そうさせてもらうよ」
この人、すごく話しやすい。彼と話していると、心が軽くなるような気がする。普通に笑ったの、いつ振りだろう。
「いい時間になったね。ローズさん、いいお店を紹介してもらって本当にありがとう。すごく楽しかったよ」
「うん、こちらこそありがとう。いっぱい笑わせてもらったね」
「また一緒に飲んでくれる?」
「ええ、もちろん」
私の言葉に、偽りはなかった。
「マスター、お会計お願いします」
外に出た。夜の街の空気が、少しだけ冷たく感じられる。このあとはホテルか。いい人なんだけどね、残りのお金をもらって帰るかな。そう、いつものように。
「ローズさん、ありがとう! また行こうね! おやすみ」
「え……? あっ……ああ、おやすみなさい」
マクシムは、にこやかに手を振って、そのまま大通りへと帰って行ってしまった。本当に飲んだだけで……変な人。彼は私に、お金以上の何かを与えてくれた気がした。それが何なのか、まだ分からないけれど。