無神経な男
仕事が終わり、僕は足早に大衆酒場へと向かった。賑やかな喧騒が心地いい。今日はオリバーと語り合う日だ。この場所の方が、堅苦しい屋敷よりもずっと話しやすい。
「君がビールとは珍しいな」
オリバーは、僕がジョッキを傾けるのを見て、目を丸くした。
「あぁ、レトルコメルスですっかりハマってしまったよ」
琥珀色の液体が喉を通り過ぎるたび、一日の疲れが溶けていくようだ。
「美味いよな、仕事終わりには最高だ」
オリバーも、満足そうにビールを飲む。
今日はオリバーに相談があって僕が誘った。切り出しにくい話題だが、彼ならきっと真剣に聞いてくれるだろう。
「オリバー、サーシャを覚えているかい?」
僕の言葉に、オリバーの表情が少し変わった。
「あぁ、君の許嫁だってことを皆に自慢してたね。君は成績優秀で武術にも長けてたし、容姿もいい。女は皆羨ましがってたな」
彼は、昔を懐かしむようにそう言った。
「褒め過ぎだオリバー……」
僕は、少し照れてしまう。
「いや、事実を言っている」
オリバーは、いたって真顔だ。
「そのサーシャが、結婚披露パーティーに来ていたんだ。その時に言われたよ、許嫁がいながら女を連れて帰ってきて結婚までするとはねって。私はハッキリと貴方から振られた事はないと」
僕は、パーティーでのサーシャとの会話を、詳細にオリバーに話した。
「言わなかったのか?」
オリバーは、首を傾げる。
「言ったよ、僕は親が決めた結婚なんてする気はないってね」
「……確かにハッキリとサーシャを振ってはいないな。けど、それは屁理屈だよ」
オリバーの言葉は、僕が感じていたことをそのまま言い当てていた。
「僕もそう思う。けど、一人の女性を傷つけてしまった事は事実なんだ」
僕の心には、まだ罪悪感が残っていた。
「君は真面目すぎる、気にすることは無いよ。サーシャもまだまだ若いんだ」
オリバーは、僕の肩を軽く叩いた。
「そうなんだけど……私は執念深い、後悔させてやるって言われたよ……」
サーシャの言葉が、脳裏をよぎる。
「それは怖いな……」
オリバーは、少し顔をしかめた。
「僕に何かあったら、ローズを頼むよ」
思わず、そんな言葉が口から出た。
「おいおい、サーシャはそこまで馬鹿じゃないよ」
オリバーは、笑い飛ばすようにそう言った。
暗い話ばかりでは酒が不味くなる。僕たちは、話題を変え、仕事の話や昔の思い出を語り合った。僕は親友と酒を片手に、遅くまで語り明かした。彼の存在が、僕の心の重荷を少し軽くしてくれた気がした。
「ただいま」
屋敷のドアを開けると、温かい灯りが見えた。
「おかえり!」
ローズは、僕の顔を見るなり、満面の笑顔で出迎えてくれる。その笑顔を見るたび、僕の心は安らぎで満たされる。
「すっかり遅くなっちゃったね。話が弾んでしまったよ」
僕は、彼女の頭をそっと撫でた。
「そりゃ、親友とお酒を飲めばそうなるよ。たまにはいいんじゃない? 仕事ばっかりじゃ息が詰まっちゃう」
彼女は、僕の気持ちを理解してくれる。その優しさに、僕は改めて感謝した。
「あぁ、ありがとう」
オリバーが言う通り、僕は考え過ぎなのかもしれない。けれど、サーシャには分かってもらえるまで詫びよう。少し気にしておかないとな。彼女が僕たちに何か危害を加えるようなことはないだろうが、それでも、万が一ということもある。
ローズに心配をかける訳にはいかない。僕は彼女を幸せにしなければならない。僕がここに連れてきたんだ。彼女の笑顔を守ることが、僕の使命だ。
僕はローズとの子供が欲しい。彼女との間に、新しい命を授かりたいと強く願う。早く僕たちの所に来てくれないかな。
今日は休みだ。僕にとって、ローズと過ごす時間は何よりも大切だ。僕はそこまで仕事で家を空ける訳では無い。ワークライフバランスはしっかりとるべきだ。ローズとの時間はしっかり取っている。
「ローズ、ちょっとお父様と話があるから行ってくるよ」
僕は、書斎に向かう前にローズに声をかけた。
「うん、分かった。私はリザとお買い物に行ってこようかな。まだ道が分からないところも多いんだよね」
彼女の隣で、リザがにこやかに微笑んでいる。
「分かった、気をつけてよ」
リザは我が家で働いてくれているメイドだ。ローズと本当に仲がいい、いい事だ。彼女が来てから、屋敷の中も明るくなった気がする。
両親の屋敷に行き、父の書斎の扉をノックする。
「お父様、おはようございます」
「あぁマクシム、おはよう。珍しいな、どうした?」
父は、僕の来訪に少し驚いたようだ。
「サーシャのご両親にお断りを入れて頂いたと思うのですが、どうでしたか?」
僕は、切り出すようにそう尋ねた。
「ご両親とは、親が縁談を持ち込むのは古いのかも知れないとお話したよ。ただ、サーシャは相当落ち込んだみたいだ、学生時代に断ったんじゃなかったのか?」
父の言葉に、僕は胸が締め付けられる思いだった。
「そうですか……彼女には上手く伝わっていなかった様です。詫びなければならないですね」
「いや、気にする事は無いだろう、もうお前は結婚したんだ。逆に彼女の気持ちを逆撫でする事にもなりかねん。サーシャは賢い子だ、すぐに切り替えるさ」
父は僕の肩を叩き、諭すようにそう言った。
「そうでしょうか……友人にもそう言われました。なるほど、考えすぎるのも彼女に対して悪いのかもしれない」
父の言葉とオリバーの言葉が重なり、僕は少しだけ納得した。
僕は今まで女性とお付き合いした経験がない。女心がさっぱり分からないんだ。知らず知らずのうちに傷付けていることもあったんだろうな、サーシャのように。その事実に、僕は少し落ち込んだ。
「分かりました、ありがとうございます」
父に感謝を伝え、書斎を出た。
ローズを傷付ける事もあるかもしれないな。僕は本当に無神経だ……。彼女の心を傷つけないように、もっと気をつけなければならない。
「おかえりローズ」
午後の明るい光が差し込むリビングで、ローズとリザが楽しそうに話しているのが見えた。
「ただいま! 今日はリザと一緒にピッツァを焼いてみるよ。リザも食べていくでしょ?」
ローズは、僕を見るなり満面の笑みでそう言った。テーブルの上には、小麦粉や野菜が並べられている。
「え、私も良いんですか?」
リザは、恐縮したようにローズを見る。
「僕も手伝おう、役に立つかは分からないけどね……リザも一緒に食べようよ、食卓は賑やかな方が良い」
僕は、二人の輪に加わった。
三人で楽しくピッツァを焼いた。ローズは何でも楽しくしてくれる。彼女は、メイドと友達のように接する。貴族としてはめずらしいと思うな……。でも、それが彼女の魅力だ。
「おいしー! 大成功だねリザ!」
ローズが、焼きたてのピッツァを一口食べ、目を輝かせた。
「本当ですね! 私も家でやってみよ」
リザも、嬉しそうに頷く。
「ワインをおろそうか。リザも飲んで休むといい」
僕がそう提案すると、リザは驚いたように目を見開いた。
「え、私怒られないですか……?」
「誰が怒るのよ、雇い主は私たちよ?」
ローズが、いたずらっぽく笑う。
「では、遠慮なく頂きます!」
リザは、嬉しそうにワイングラスを受け取り、三人でディナーを楽しんだ。温かい食卓を囲む時間は、僕にとって何よりも幸せな時間だ。ローズが来てから、僕の日常は、以前よりもずっと豊かになった。