このたび婚約破棄が決まりましたが、それはそれとして面倒くさい後輩のフォローに追われています
「……俺のせいで、すみませんでした」
青年が伏せた顔を上げた。少しくせのある亜麻色の髪がふわりと揺れ、切れ長のアイスグレーの瞳がのぞく。ルーアは思わずこぼれそうになった感嘆のため息を、とっさに舌打ちに切り替えた。
(ほーんと、顔だけはいいんだから……)
長いまつ毛に、すっきりと通った鼻すじ、ビスクドールのようになめらかな肌と形のよい輪郭。世の乙女が欲しがる要素をふんだんに無駄遣いしているのが、この問題児だ。
彼の名前はジノ。ルーアと同じこの国の中央魔法局に勤める魔法官で、今年二十ニ歳になる。ルーアとはパートナーを組んで一年半ほどだ。
若手の魔法官の中では群を抜いて優秀だが、その言動は少々、いやかなり難があることで有名だ。せめて彼の性格か容姿、どちらかでも平凡であれば、余計なトラブルに巻き込まれることも、ルーアが尻ぬぐいに追われることもなかっただろう。
「まあ、やっちゃったもんは仕方ないしね」
――それは先日のこと。王宮にて開かれた園遊会で、自分たち魔法官は警護の担当をしていた。その最中ジノに話しかけてきたのが、とある子爵令嬢だった。
『今日のために新しいドレスを仕立てましたの。いかがかしら……?』
子爵令嬢は社交界に出たばかりの十六歳。恥ずかしがり屋の少女は、麗しい青年に話しかける機会をずっと狙っていたのだろう。コーラルピンクのドレスをまとう乙女に、この後輩はとんでもないことを告げた。
『子爵令嬢は肌が地黒な上に青みがかっていらっしゃいます。残念ながらそのお召し物は、余計に顔色が悪く映りますよ』と。
ジノの辞書に世辞や遠慮という言葉は存在しない。ある意味、性根が純粋で真っすぐなのだろうが、そう表現するにはあまりにも邪悪だ。影で同僚がジノのことを『正論の当たり屋』と呼んでいると聞いた時は、たしなめるよりも妙に納得してしまった。
――ルーアは腰に手をあてて告げる。
「とにかく発言には気をつけてね! そりゃあ、かわいい一人娘が泣かされたら親は怒るわよ」
ジノの失言に令嬢はショックを受け、泣いて逃げ帰ってしまったらしい。そして今朝、ジノがたまたま席を外していたときに、父親の子爵が『あの無礼な若造を出せ!』と、わざわざ魔法局へ怒鳴り込んできたのだ。
「侮辱した覚えはありません。あの方なら、もっとハッキリした色が似合うと思って――」
「そんなことはどうでよろしい!」
ルーアはジノの意見をピシャリと封じる。どこか不服そうな顔をしているあたり、この問題の本質を彼はまだ理解していないようだ。
「……ところでルーア先輩」
常にふてぶてしいこの青年には珍しいことに、遠慮がちに問いかけてきた。
「子爵からそんなにキツく詰められたんですか?」
「え?」
「だって、そんなに泣いて……」
重いまぶたを瞬かせ、ルーアはきょとんとジノを見つめた。今朝のルーアの目元は腫れ上がり、ろくに開かない。鼻の頭も真っ赤で、顔全体がむくんでいた。
いい年をした女が、このご面相で謝罪に出てくれば、怒り狂っていた子爵もさすがに勢いを削がれたようだった。『……もういい。あの若造にはよく言い聞かせておけ』と、さっさと帰ってくれた。不幸中の幸い、と言うには、さすがに釣り合いが取れないが。
ルーアはこういうとき職場の後輩に向かって、どういう顔をするべきなのかわからず、「さっき転んじゃった」というくらいの軽さで、肩をすくめてみせた。
「実は昨日、ヴァイスから婚約破棄したいって言われちゃったんだよね」
ルーアは昼の休憩時間に人気のない庭園の片隅で、改めて昨日の出来事をジノ語って聞かせた。あまり他人に深い入りしないゼノにしては珍しく、『その話くわしく聞かせてください』と、せがんできたからだ。
「――で、普段あんまり行かないような、おしゃれなお店で夕飯をって誘われたら、『いよいよプロポーズ!?』って期待しちゃうじゃない。それがまさかねぇ……」
ルーアが指定されていた高級料理店に向かうと、婚約者は先に店内の片隅で待っていた。……隣に座る若く美しい女性と共に。
元婚約者のヴァイスは王室付きの馬車を扱う御者で、年齢はルーアと同じ二十七歳だ。付き合い始めて四年、正式な婚約を交わしたのは二年ほど前だ。
昇進し、収入を増やしてから結婚したいという、ヴァイスの言い分はもっともだ。だがこの国の平均結婚年齢を過ぎたルーアとしては、あせる気持ちを抑えられなかった。そして最近、年齢以外にもルーアには早く結婚したい理由ができた。
『いつになったら結婚するつもりなの!?』
最近は会うたびに、こんなセリフばかり吐いていた気がする。そしてついに昨晩、ヴァイスはルーアに向かってはっきりと告げた。
『他に愛する女性ができた。君との婚約はなかったことにしたい』と。
正直なところ、ヴァイスの気持ちが自分から離れつつあったことには薄々感づいていたし、彼の隣に若い女性が座っているのに気付いた瞬間、覚悟は決めていた。
自分が全面的に悪いと、いやに潔く頭を下げるヴァイスと、その傍らで子ウサギのように震え涙ぐむ二十歳くらいの女性。いっそ色香たっぷりの悪女と共に、開き直って高笑いでもしてくれればよかった。そしたら、こちらも頭からワインをぶちまけてやることができたのに……。
やり場のない憤りと落胆に、夜通し泣き続けた結果がこの無残な顔だった。
「間違いなく、婚約はご破算になったんですね?」
「『慰謝料はこっちが払うから』まで言われたら、さすがにもう無理でしょ。いくら私でも、あれ以上みじめったらしく喰い下がれないよ」
ジノは話が長引きそうだと判断したのか、持っていた紙袋から昼食のサンドイッチを取り出した。ライ麦パンにレタスを挟んだだけの、同僚たちから『ニワトリのエサかよ』とツッコまれ、『バターは塗ってあります』と反論していた、彼の定番の昼ご飯だ。
魔法士は男女を問わず大喰らいが多いが、その中にあって彼は極端に小食だ。体力勝負の仕事柄、貧相というほどの体格ではないが、ジノが立ち上がって伸びなどをしている姿を見るたびに、「ほっそい腰だなあー」と心配になってしまう。……もちろん口に出して指摘はしないが。
ジノは厚みはないものの、手のひらを広げたくらいの大きさのサンドイッチを、三口ほどでペロリと食べてしまった。その食べっぷりは感心するほど豪快だ。
(こういうところは、普通の男の子って感じ……)
繊細な美貌や優雅な出で立ちに、身分を問わず若い女の子たちから『麗しの君』などと呼ばれているが、指先についたバターをペロリとなめているジノは、普段の澄まし顔とは裏腹に少しだけ子供っぽい。
「ルーア先輩?」
親戚の子供に向けるような、微笑ましい気持ちで見つめていると、ジノが思議そうな顔をした。
「――ああ、ごめんね」
「それでさっきの話ですけど、先輩の婚約者って昇進してから結婚したいとか言ってた人ですよね? 御者なんて簡単に空きが出るポジションじゃないし、そんな条件に先輩を付き合わせるなんて、そもそもが不誠実ですよ。しかも裏でこっそり女作ってるんじゃ、案の定クソ野郎じゃないですか」
そんなジノの反応は、ルーアにとって少しだけ意外だった。正論で人をぶん殴ってくる後輩のことだから、ヴァイスだけでなく、そんな男に結婚をせがんでいたルーアもこき下ろしてくるだろうと、ひそかに身構えていたのだ。
「そ、そう思う?」
「ところで先輩の性格からして、結婚に関して年齢や世間体をそこまで気にしていたとは思えません。あせっていたのは、他にも事情があったんじゃないですか?」
その一言に、今朝の始業時間までには止めてきた涙腺が再び熱くなってくる。ブワッと音を立てる勢いで涙を流すルーアを見て、ジノがのけぞった。
「すみません、余計なことを」
「お、おばあちゃんに花嫁姿見せてあげたかったなあ……」
ルーアはグスグスと鼻を鳴らしながら、田舎にいる祖母の優しい顔を思い出す。婚約者と別れたなどと伝えれば、祖母はどんなに心配するだろう。そう考えて、また涙があふれてきた。
「おばあさんって、確か先輩を育ててくれたっていう?」
「うん、最近具合がよくないらしいの」
ルーアは早くに両親を亡くしている。自分を育ててくれたのは田舎の祖母だった。魔法の手ほどきも祖母から受けた。祖母がほめてくれるのがうれしくて、幼いルーアは夢中で魔法にのめり込んだ。こうして魔法官となり、独り立ちできたのも祖母のおかげだ。
祖母がいなくなる、など考えたくもないが、独り身の孫を心配させたまま逝かせてしまうなどもっと嫌だ。
苦しい想像にヒグヒグとしゃくりあげていると、ため息が重なった。
「そんなにショックでしたか、あの男と結婚できなくて」
「短い付き合いじゃないもの。いつかは結婚して家族になるって信じてたし……」
自分で答えて「あれ?」と思う。
(そっか、もうヴァイスとは一緒にいられないんだ)
確かに昨晩から『結婚できないこと』に落ち込んでいた。でも『ヴァイスを失ったこと』に、実はそれほど動揺していなかったことに気づく。
沈黙するルーアに何か思うところがあったのか、ジノが痛ましそうな表情を向ける。
「……すみません」
「べ、別にジノ君が謝ることじゃないでしょ」
ふいに、立ち上がったジノが腰に手を当てて空を仰いだ。
「――よしっ」
何かを決意したかのようなつぶやきに、ルーアは首をかしげる。
「先輩の田舎ってマディーレ地方でしたよね?」
「うん。王都からだと、行き来するだけで丸一日かかっちゃうんだよね」
「来月くらいに休み取れませんか? できたら三日以上まとめて」
「それは申請すれば取れると思うけど……」
ジノの言葉にルーアはハッとする。
(まさか仕事は自分に任せて、休暇を取っておばあちゃんに会って来いってこと!?)
『他人の立場と気持ちを考えなさい』――ルーアは事あるごとに、ジノに口うるさく聞かせてきた。その彼が傷心の先輩にここまで気遣いができるようになったとすれば、今までの苦労も報われるというものだが――。
「よかった。俺もたまってる休暇消化しろって、上から言われてるんですよね」
――そんなことなかった。
痛むこめかみを抑えながら、ルーアは努めて冷静に問う。
「えーっと……これってジノ君も休みを取りたいから、被らないように調整しろって話で合ってる?」
「おばあさんに結婚の報告行くなら、俺も一緒に行きますんで」
「……ん? 何て?」
「ですから、おばあさんに結婚の報告行くなら、俺も一緒に――」
「待って、待って!」
ルーアは改めて呼吸を整えると、小さな子供を相手するようにジノに言って聞かせる。
「あのね、先輩いつもジノ君に言ってるよね? 大抵の人は君ほど頭の回転がよくないし、とっぴな発想もできないの。人の理解を得るためには、面倒でも順序立てて丁寧に説明しましょうねって」
「はい。だからルーア先輩は、おばあさんに花嫁姿を見せたいんですよね? ひとまず結婚の報告をして、おばあさんを元気づけてあげましょうよ。実際の式の日取りなんかは後で考えるとして……ああ、でも指輪は早く仕立てた方がいいですよね。今度一緒に見に――」
つらつらと立て続けに言われ、「新居の住所は俺の家でいいですか? 」と、話が進んだ辺りで、ようやくルーアの理解が追い付いてきた。
「誰と誰が結婚するって!?」
「だからルーア先輩と俺です」
「何で!?」
「だって先輩は魔法と仕事が好きじゃないですか」
(ダメだ……話が飛躍し過ぎて、ちっとも言ってることがわからない)
これまでルーアが諭してきたことは、さほどジノには響いていたなかったようだ。徒労感にぐったりする。
「俺は同じ魔法士として先輩の気持ちがわかります。だから応援しますし、仕事も家庭も協力します」
「うん、それは結構なことなんだけどね……」
「だったら問題ないですね」
「あるよ!私と結婚して君に何か得があるわけ!?」
「ありますけど」
「あるの!? ……いや、あるな」
ルーアはあごに手を当て神妙な顔でつぶやいた。
極上の顔と、この面倒くさい性格のせいで、当然ジノは女性関係のトラブルも多い。性根は正直なので、意外にもジノは良いと思ったことに関しては、素直に他人を褒める。だから本人はその気がないくせに、女性をたらし込んでくるのだ。
しかもどういうわけか、良くも悪くも情念の深いタイプの女性が多い。ジノの恋人を自称する女性が、『もてあそばれた!』と職場に怒鳴り込んできたのは一度や二度ではない。
『いっそあいつに、結婚指輪か首輪付けられないか?』と上司も言っていた。首輪はともかく、ダミーの結婚指輪をジノに付けさせる作戦は、実はルーアも本気で考えていた。
(ジノを本当に結婚させちゃえば、この気苦労も減るかも!? いやいや、でも肝心な相手が私っていうのは――)
ジノへの執着をこじらせた女に背中から刺されそう……とイヤな想像をしてしまった。
「そもそもさ、結婚って貴族様とか大富豪なんかの政略結婚ならともかく、普通は好きな人同士でするものなんですけど」
「別に平民だって恋愛感情がなくても、安定した生活基盤と互いへの信用があれば、まっとうな結婚生活は成立すると思いますけど。魔法士が喰いっぱぐれることはまずありませんし、何より俺は先輩に好感と信頼を抱いています。先輩だって、何のかんので俺を気に入っていますよね?」
夢のような美貌に微笑まれ、ルーアは小さくうめいて顔をそらす。一瞬だけ……本当に一瞬だけだが、危うく真に受けるところだった。
(ようするに先輩として尊敬してます、みたいな感じだよね)
無邪気な子供が、友達に好意を伝えるような感覚なのだろう。そしてルーアがジノを気に入っている、という点に関しても否定はし切れなかった。少なくとも憎く思ったことはないし、手のかかる子ほどなんとやらというやつだ。
「おばあさんに花嫁姿を見せてあげたいんですよね? 他に当てがあるんですか?」
弱い点を突かれて、ルーアはぐっと返す言葉を失う。自慢ではないが、この数年ヴァイス一筋だった。すぐに恋人になってくれそうな、異性の知り合いなど当然いない。
ルーアが口ごもっていると、「じゃ、決まりですね。あとで婚姻届もらってきます」と言って、ジノは立ち上がった。
「いや待って――」
ジノはこれ以上の話は不要とばかりに、ルーアに向かって後ろ手をヒラヒラ振ると、どこか弾むような足取りで去って行った。
※※※※※※※※※※
――物事にはいつだって表と裏があり、これはルーアの知らないところで起こっていた物語だ。
それはルーアがヴァイスにフラれる一週間ほど前のこと。数日後にせまった、園遊会の打ち合わせのために遅くまで魔法局にいたジノは、帰り道に安酒場に寄り夕食を取っていた。
「――自分より稼ぎがいい嫁さんとか勘弁してほしいわ」
店の片隅で、お決まりの夕食である雑穀のリゾットを口にしていたジノは視線を上げた。カウンター席には、年の頃は三十前後に見える男たちが座っていた。
「おまえ昇進するまでとか言って、そのオンナ待たせてるんだろ?」
「予定もないクセによ」という言葉を皮切りに、男たちが一斉に笑った。
この店は食事もできるが、本来は酒と肴が売りの店だ。こんなところでリゾットや、せいぜいワインくらいしか頼まないジノの方がイレギュラーなことはわかっている。
酒場で酔客が多少ハメを外すのは当然仕方ないこと――。ビリビリと耳をつんざくようなバカ笑いに眉をひそめつつも、目をそらそうとした瞬間、ふと男たちの一人に見覚えがあったことに気づく。
『この人はヴァイス。私の婚約者なの』
休日に偶然街中で出会ったルーアが、隣で腕を組む男をそう紹介した。しゃれた流行の柄のタイを巻き、波打つ金髪をかき上げる、整えられた短い顎ひげが特徴的な男。
『どーも。君がルーアが組んでる後輩クンかな?』
少し気取ったしぐさや物言い、何より人を値踏みするような視線に最初から好感などなかった。自分にしては相当な努力でもって、嫌悪を表に出さず穏便にやり過ごしたのは、ひとえにルーアへの気遣いだ。
「遠回しに仕事やめろって言ってるんだけど、伝わらねーんだよ」
再び聞こえてきたその声に、スプーンを持つ指に力を込めた。
(あんたに何がわかる……)
今自分がどれほど愚かしいことを口にしているのか、あの男にはきっと永遠に理解できないだろう。
――かつてジノは国王主催の魔法士による御前試合で、ある無名の魔法士と対戦した。その五分足らずの出来事は、子供の頃から天才と称され、英才教育を施されてきたジノの根幹をへし折ってしまった。
ジノはそれまで所属していた魔法局の花形、エリート街道と言われる王族護衛室から異動願いを出した。異動先は、以前の職場と同じ王宮内の敷地にありながら万年人手不足。『貴族のお相手からドブさらいまで』と多岐に渡る仕事を冷やかされる中央魔法局だった。
『彼女が君と組んでもらう魔法官だ』
そう仕事上のパートナーとして紹介されたのは、自分より年上の女性魔法官だった。つややかでよく手入れされた栗色の髪と、万人受けしそうな朗らかで明るい笑顔が印象的な人だ。
中途半端な時期に花形部署から左遷されてきた元エリートのうわさは――もちろん正確には違うのだが、彼女も聞いていたはずだ。だが彼女は興味をおくびにも出さず、ジノをただの後輩魔法士として歓迎してくれた。しかしそれは、ジノが期待していた反応ではなかった。
ジノは恋こがれるような想いで、その女性魔法官に会うため中央魔法局へやって来たのだ。彼女はたまたま妙齢の女性であったが、きっと相手が男でも老人でも同じことをしていただろう。魔法士としての本能ごと心を奪われたのだ。
御前試合では多くの魔法士たちが、華やかで見栄えのする魔法や、発明されたばかりの新技を披露する中、彼女は教本通りの魔法しか使わなかった。
ただしそれは、針穴に糸を通すような緻密さと練度で構成されたものだ。例えるなら、そこら辺の土塊から作った泥団子を、技術と時間をかけ磨きに磨き上げ、宝石と並べても見劣りしない代物に仕立てるような、そんな狂人じみた修練のたまものだ。
しかも彼女は人の良さそうな笑みとは裏腹に、試合運びは狡猾――と言い現わすにはあまりに泥臭く、それでいて勝利には貪欲だった。高みにあるが平坦な道を歩んできたジノにとって、あまりにも衝撃的な出会いだった。それなのに……。
『君が護衛室から来たジノ君? 初めまして、よろしくね』
御前試合でジノに勝利した無名の魔法士こと、ルーア・ペネラリューはまったくの自分のことを覚えていなかったのだ。
さすがにこれにはジノも落ち込んだ。人生でこれほど心惹かれた魔法士と出会ったのは初めてだというのに、自分の存在は彼女に欠片の影響も与えていなかったのだ。
そして現在も彼女にとっての自分は、『腕は立つが性格に難のある後輩魔法士』でしかない。目を掛けてもらっていることに悪い気はしないが、最近はルーアの隣に並ぶと、妙なあせりを感じるようになってきた。
職務上のパートナー関係などほんの数年のこと。何かの理由で異動などがあれば、それこそルーアと顔を合わせる機会はなくなるだろう。いくら良くしてもらっていても、あくまで仕事上のことだ。自分はルーアの友人でも家族でも、まして恋人でもないのだから。
――こうして焦燥感を持て余していたジノは、偶然にもルーアの婚約者であるヴァイスの本音を耳にしてしまった。
「外で働くと女は生意気になるからな。あいつ男のプライドってやつがまったく理解できねーんだよ」
「おまえ、他にも女いただろ。あっちの若い方に乗り換えれば?」
「でも歳はともかく、顔と体はルーアの方がなあ……」
そんな言葉を耳にすれば、もう我慢ができなかった。ジノは両手をテーブルに叩きつけるように立ち上がる。その音に周りの酔客が驚いたように視線を向けたが、馬鹿笑いを続けていたヴァイスは気づいていなかったようだ。
「――こんばんは、お久しぶりです」
ジノは仕事中は、特に女性に向かって絶対するなと言われている、とっておきの笑みを浮かべヴァイスに近づいた。
そして「あれ? 君は……」と、呆けた顔をしたヴァイスの首裏を、ふいに腕を伸ばして鷲づかみにした。
「いっ――」
息を詰まらせ、目を白黒させているヴァイスの耳元に顔を近づけ、ジノはやわらかな声音でささやく。
「……ちょっとお話しましょうか。そこの裏路地で」
※※※※※※※※※※
「――なーんて話を、その日たまたま居合わせたっていう、知り合いから聞いたんだよね」
ルーアはクルミを実をかじりながら、じっとりとした視線をジノに向けていた。
ここはジノの行きつけだという大衆酒場で、ルーアはテーブルを挟み、彼の正面に陣取るように座っている。ジノは表情こそは平静を装っていたが、あえてルーアと視線を合わせまいとしているのか、そっぽを向いたままだ。
ルーアが店に足を踏み入れるのは初めてだったが、元婚約者のヴァイスからも、この酒場にはよく立ち寄ると聞かされていた。――さらに職場の知り合いの多くが、この店をひいきにしていた。ルーアは彼らから、一週間ほど前にこの酒場で起きた、『ある出来事』について聞かされていた。
「で、その若い男がヴァイスの首根っこをつかんだまま外へ連れ出して、それっきり二人は戻ってこなかったんだって」
「……それ本当にヴァイスさんだったんですか? あんな量産型のヒゲ生やした男なんて、どれも似たようなもんでしょう」
ようやく口を開いたジノは、さりげなくヴァイスをこき下ろす。
「その知り合いの人たちって近衛所属の衛兵なの。職務上よく顔を合わせる、王室御者の顔を見間違うはずないんだよね」
「はあ……」
「そのヴァイスを連れ出した若い男、いかにも魔法士っぽいローブを着てて、亜麻色の髪だったらしいんだけど」
ジノは余裕じみた表情で薄く笑った。
「まさか先輩、それが俺だって疑ってるんじゃないでしょうね? 魔法士でなくてもローブを着る人はいるし、亜麻色の髪なんて珍しくもないですよ」
ルーアは鋭く目を細める。
「……知り合いは近衛所属って言ったよね? あの人たちは御者もそうだけど、王族の周囲に仕えている人間の顔は、職務上特に意識して覚えるようにしてるんだって。……たとえば一年前に突然エリート街道を蹴って、異動していった『元』護衛魔法官の顔なんかもね」
「それは――」
「君は興味のない人の顔も名前も覚える気がないみたいだけど、相手もそうとは限らないんだよ」
ジノは何かを反論するように口を開きかけたが、やがて諦めきったように天井を仰いだ。
「……尋問ですか、これ」
魔法犯罪がらみの取り締まりは、自分たちの魔法官の仕事であり、場合によっては犯人の取り調べも行う。情報を小出しにしながら、相手の出方をうかがい、矛盾を突くやり方は基本中の基本だ。当然ジノもそれを知っているはずだが、自分が問いただされる側に回ると勝手が違うらしい。
「わかりました。認めますよ」
ついにジノは降参とばかりに、軽く両手を掲げた。
「じゃあヴァイスが私に別れを切り出したのは、その『お話し合い』のせいってこと?」
「そういうことになりますね。具体的にはまずあのムカつくヒゲを――」
「それは言わなくていいっ!」
(そういえばヴァイスと最後に会ったとき、ヒゲがなかったような……)
ルーアは二人の間に何があったのか、あえて聞くつもりはない。もしジノが魔法士として非合法的な手段を用いていれば、ルーアは立場上見過ごすことができなくなる。……我ながら小賢しいが、知らなければそれまでだ。
ルーアは眉根を寄せたまま頬杖をつく。やがて沈黙に耐え切れなくなったのか、ジノが気まずそうに問いかけてきた。
「……やっぱり怒ってますか?」
「怒ってる。でも君に対してじゃない」
では何に怒っているのかといえば、ヴァイスの本性に対してなのか、男を見る目がない己へなのかは、自分でもわからなかった。
酒場の淡いオレンジの灯りがじわりとにじむ。やり場のない怒りに、うっすらと涙を浮かべるルーアの目の前に、白いハンカチが差し出された。
「どうぞ。使ってください」
染み一つない、しっかりとアイロンでプレスされたハンカチだ。ジノは人間への対応が雑なわりに、小物や仕事道具の扱いは丁寧で、育ちの良さを感じるときがある。
「ありがとう」
使うのがもったいないくらい綺麗なハンカチだが、ここは彼の気遣いをむげにする方が失礼だろう。ルーアは受け取ったハンカチを、そっと目元に押し当てる。
「……帰省の件はなしですか?」
ハンカチから視線を上げると、なぜかジノはひどく沈痛な表情を浮かべていた。
「帰省?」
ルーアは小首をかしげる。『ヴァイス連行事件』のせいで頭がいっぱいだったため、それ以前の記憶がすぐに思い出させなかったのだ。
「 ああ、おばあちゃんのこと! 」
ルーアはパチンと両手を打ってから、気まずい想いで視線をそらす。
「それがねー……実はあのあと伯母さんから手紙が来たんだけど、私の早とちりだったみたい!」
「早とちり?」
「おばあちゃん、ギックリ腰でしばらく寝込んでただけだったの。今はすっかりピンピンしてるって。前の手紙で伯母さんが、おばあちゃんベッドから起き上がることもできないって言ってたから、てっきり……」
へへっと照れ隠しに笑うルーアを、ジノはうろんげに見つめてくる。
「……それ、俺に気を遣わせないためのウソじゃないですよね?」
「ないない。心配かけてごめんね?」
拝むように謝るルーアに、ジノは物言いたげな視線を向けたが、結局は軽くフンと鼻を鳴らしただけだった。
「とにかくよかったです。おばあさんに何事もなくて」
「ってわけで、結果的にはあせって結婚しなくてよかったわけ」
「結婚しなくてよかった?」
「そりゃあそうよ。もしヴァイスと結婚を強行してたとしても、あの人に浮気相手を切るつもりはなかっただろうし」
「ああ、そっちか……」
なぜかジノは胸をなで下ろすように独りごちる。
「あっ、ヴァイスからもらえる慰謝料どうしよう。後生大事に抱えてても運気が下がりそうだし、パアっと使っちゃった方がよさそうじゃない?」
ジノとの『お話し合い』の内容は知らないし知りたくもないが、ヴァイスが浮気をしていた立場で婚約破棄を申し出たことは事実だ。慰謝料は当然の権利として受け取るつもりだった。
ルーアがそんなことを考えていると、ふいにジノは「……よしっ」と小さくつぶやいた。その妙に清々しい顔に、彼が自分と結婚すればいいと言い出したときのことを思い出す。
あのときは想定外の申し出に、ただ驚くやら呆れるやらで頭がいっぱいだったが、今はあれもジノなりの優しさと思えば……実は結構うれしかった。
自分たちが互いの存在に、ひそかな居心地の良さを感じていることは察していた。おそらくだが、子供の頃から天才と称されてきたジノにとって、遠慮なく小言を言ってくるルーアの存在は新鮮に映るのだろう。
ルーアもまたジノの後始末にグチをこぼしつつも、誰にも懐かぬ猫が自分にだけ寄って来てくれるようで悪い気はしなかった。
彼が言うところの、『信頼関係で成り立つ結婚生活』というのも、実現不可能ではないかもしれない。……今となっては考える必要もないことだが。
ジノは半分ほど残っていた雑穀リゾットを豪快に、でも品はよく食べ切る。空になった食器を端に寄せると、店の女将に声をかけた。
「エールを二杯。あと適当につまめる物も」
そっけない注文に、「はいよっ!」と愛想よく返事を返した女将が間を置かず、大きなグラスを卓に勢いよく置いていった。なみなみと注がれたエールを見ながら、ルーアは少し目を丸くしてつぶやく。
「君のこと下戸だと思ってた……」
「飲めますよ。バカ騒ぎに付き合わされるのがイヤなだけです」
職場の上司や同僚の誘いを、いつもすげなく断る後輩はあっさりと言った。
「もぉー、最近の若い子はすぐそういうこと言う」
「先輩だってまだ若手の部類じゃないですか」
「それは……まあね」
魔法官としても人生の中でも、二十七歳などほんの小娘だった――どうせそう思う日がいつか来るのだろう。
「せっかくだし乾杯しましょうか」
どうせ形式ばったことも嫌いだろうと思っていた後輩は、意外にもそんなことを言った。
「何に乾杯する?」
「新しい門出に、でいいんじゃないですか」
婚約破棄された女に使う言葉ではない気がするが、あえてそれでもいいかと思った。
「いいよ。――じゃあ新しい門出に!」
「二人の新しい門出に」
(……ん?)
グラスを掲げながら、その言い方だと少しニュアンスが変わってしまうのではと思う。ジノなりの『改めて二人で仕事をがんばりましょう』みたいな意味かなと考え直し、ルーアは勢いよくグラスを傾けた。
結局、夜が更ける頃になっても、二人は酒場に居座り続けていた。
香辛料のきいた肉汁たっぷりのソーセージをエールで流し込む多幸感は、言葉では言い尽くせない。ルーアが息をついて酔いしれていると、卓上に一枚の紙を差し出された。
「……飲み始める前にサインをもらおうと思って、すっかり忘れてました」
そういえば今日の昼間に、ジノから経費に関する稟議書を作成するので、責任者の一人としてサインするよう頼まれていたことを思い出す。
「こんなところで、すみません。どうしても明日の朝一で提出したいんです」
「いいよ、いいよ。こんなのいくらでもするよ。私こそすっかり忘れててゴメンねー」
グラスを片手に上機嫌のルーアは、鼻歌混じりで指示された箇所にサインをする。ジノは書類を受け取ると、妙に丁寧な手つきで折りたたんで、ローブの内ポケットにしまい込んだ。
「……ありがとうございます、ルーアさん」
ふと自身の手にジノの手が重ねられる。少し儚さすら感じる秀麗な顔立ちとは裏腹に、長い指と角ばった関節が目立つ男性らしい手だ。
視線を上げれば、ジノはやわらかく優しい笑みを浮かべていて、こちらを一心に見つめる瞳は熱を帯び淡くうるんでいた。ルーアは短くはない時間を共に過ごしてきた後輩が、初めて見せた表情に一瞬目を奪われる。そして――。
「ジノ君かなり飲んでたしね。さすがに酔うか」と、のん気に受け流した。
――翌日、ルーアが出勤すると自席には、なぜか「サインしとけ」と言わんばかりに、責任者の署名欄が空いたままの稟議書が置かれていて、朝一で書類を提出したいと言っていたはずのジノは休暇を取っていた。
(確かに昨日酒場でサインしたよね? あのやり取りはまさか夢……?)
記憶が飛ぶほど飲んでないはずと、首を傾げつつも、たまった仕事を前にぼんやりと考え事をしている時間はなかった。
この謎が解けたのは、そんな出来事を忘れかけた頃。今日は定時で上がれるとソワソワしていると、上司が書類の束を押し付けてきた。
「庁舎の市民局から連絡が来てたぞ。それ、魔法官が結婚するに当たって提出する書類な。ジノの分もあるから、明日渡しといてくれ」
「……はい?」
「姓はどうするんだ? 変更するなら早く言えよ。――ったく、最近の部下は水くせえな。結婚の報告くらい自分からしてこいよ」
ブツブツつぶやきながら去っていく上司の背中を、ルーアは呆然と見つめ、しばらく考え込む。
「あっ……ああーっ!?」
今朝から姿の見えない後輩が何をしでかしてくれたのか、ルーアはようやく理解した。
【終】
お読みいただきありがとうございます。もしよろしければ評価やブックマークをいただけるとうれしいです。
ちょっとシリアスやダークよりな話が続いたので、明るめの話が書きたいなあと思いました。しょっぱいものと甘いものの反復横跳びで今後も乗り切っていく予定です。