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17.夜会への招待

程なくして、バッハマン伯爵から夜会の招待状が届いた。


「リア、すまないが2週間後の夜会に同席してくれないか?」


「どちらの夜会ですか?」


「叔父だ。食事を見直した叔父に感動した夫人が、きっかけをくれたリアに是非とも会いたいと。私も視察に行きたいというのもあったし、叔父もビールを多くの人に知ってもらいたいということで、夜会を開くことにしたそうだ。叔父と交流のある貴族や投資活動をしている貴族が中心に呼ばれているそうだ。社交としては良い機会になるとは思うがどうだろうか?」


「バッハマン伯爵夫人には是非ともお会いしたいと思います。やはり私としては身内とは親しくしたいと思いますので」


自分の結婚で自分の家族とは縁を切った形になったマリアンネは家族のつながりが欲しかった。


「その、社交に抵抗はないか?」


「私が社交に出たのは5年前の一度きりですから。侯爵夫人として活動しなければならない機会もありましょう。少しずつ慣れていけたらとも思います」


「ありがとう」


夜会まで、マリアンネは最低限のマナーとダンスを身につけるよう努める日々を送ることになった。


◇◇◇


2週間後、バッハマン伯爵邸に赴いた。


「立派なお屋敷ですね。パーティーホールも広いです」


マリアンネの生家も伯爵邸だが、同じ伯爵でもずいぶん違うものだと感心した。


「祖父は侯爵と伯爵の爵位を持っていたんだ。長男である父は侯爵を次男である叔父は伯爵を継いだ。伯爵領もまるまる継いだが元が侯爵家の出だからね。感覚が通常の伯爵家よりは羽振りが良いかもしれない。この屋敷は叔父が継いだ後建て直したものだよ。パーティーホールは侯爵邸のものより広いな」


ハインツェル邸が特別貧相だったわけではなくバッハマン邸が特別立派なのだと理解した。


「まずは主催の叔父に挨拶しよう」


マリアンネはアレクシスにエスコートされバッハマン伯爵の元へと向かった。


「やあ、アレクシス、来てくれてありがとう。よく来てくださいました、夫人。先日はありがとうございました。あれから痛みはありませんよ。こちらが妻のドーリスです」


「アレクシス様、ご無沙汰しておりましたね。ローゼンハイム侯爵夫人、私はドーリス·バッハマン伯爵夫人です。この度は主人がお世話になりました。お会いできて光栄です。助言をいただいたと聞きましたからこんなに愛らしいお方だとは思いませんでした」


皆愛らしいと表現してくれることに、童顔の自分は幼く見えるからだろうとマリアンネは思っていた。


「ローゼンハイム侯爵夫人のマリアンネと申します。この度はご招待いただきありがとうございます。こちらこそお会いできて光栄です」


守銭奴だと思っていたバッハマンの夫人にしては大人しく優しそうだと不思議に思った。


「ご無沙汰しておりました、ドーリス様。結婚の報告も遅くなりましたことをお詫び申し上げます」


「いえ、いろいろとご事情がおありなのでしょう?こうやってお会いできましたから構いませんのよ。実はね侯爵邸から戻ってきてから主人が嬉しそうにしておりますのよ」


にっこりと微笑んでいるドーリスの視線の先にはバッハマン伯爵とマリアンネが談笑している姿があった。


「嬉しそうにですか?」


痛みが消えたことにか?病の解決法が判ったことにか?出資を得られそうなことにか?まさか自分が結婚したことにか?とアレクシスは考えを巡らせていると、


「貴方との距離が近づいたことにだと思いますわ」


「え!?」


「うふふ。普通の叔父と甥として接することができたからだと思っておりますの」


「まさか、ご冗談を」


そこへバッハマン伯爵家嫡男のイザークがやってきた。


「ご無沙汰しております、アレクシス様」


「これはイザーク様、ずいぶん長いことお会いしておりませんでしたね。すっかり青年だ」


「はい。もうアレクシス様と杯を交わせますね。こうやってまたお会いできたこと嬉しく思います。ところで、父とお話されている女性はどちらの方ですか?」


「ああ、私の妻マリアンネです」


「アレクシス様ご結婚されたのですか!それはおめでとうございます。とても愛らしいお方ですね」


イザークは頬を染めているように見えた。


(ああ、そうか)


今までは自分の周りにいる人物にしか会わせていなかったから気がつかなかったが、イザークとマリアンネは同い年だ。社交の場に来ることは恋愛対象に成りうる人の目に触れることが増えるということでもあった。


「イザーク様はご結婚はされていないようですが、ご婚約は?」


「いえ、まだ。なかなか年を重ねるに連れて難しくなってきました。こんなことならもっと早めに考えておくべきでした」


さすがイザークだ。バッハマンもとい、ローゼンハイムの血をひくだけあって造形の美しい顔立ちをしている。背が高いことも血筋であろう。そして何よりバッハマンのおかげで伯爵家の中でも裕福だ。その嫡男であることも魅力があるのであろう。イザークが挨拶に来てから令嬢らの視線が痛いのは気のせいではなかった。


「君も大変だな」


「アレクシス様のお気持ちが理解できました。実は母の元にアレクシス様が挨拶にみえたのを見計らって抜けてきたところです」


それでこの視線なのかと理解した。


「アレクシス様はどのように乗り切ったのですか?」


「婚約者がいれば少しは落ち着くが、急いで探すこともない。前妻の所為で散々な目に遭っているからな。なんたって呪われた侯爵だ。まあ、結果的にこれが一番の人避けになったぞ」


「なるほど…参考にします」


参考にしないでいいよとイザークの肩をポンと叩くと、バッハマンとマリアンネの会話が一区切りした様子だった。


「マリアンネ、こちら従兄弟のイザーク様だ。バッハマン伯爵の嫡男だから長くお付き合いすることになるだろう。覚えておいて」


「よろしくお願いいたします…」


イザークを見つめると何か思うことがあったのか、マリアンネは固まっていた。


「どうした?」


「あ、いえ。さすが皆さん背が高いですね。私は見上げてばかりです」


「疲れてしまったか?」


「いえ、大丈夫です」


「では、他にも挨拶を済ませよう」


では一旦失礼しますとバッハマン一家から離れた。


その後は公爵と侯爵関係の客人に挨拶を済ませると、ビールと軽食を堪能した。


「私、バッハマン伯爵のビール好きかもしれません。ビールの中でも好みの部類です」


「リアは酒を飲む印象がなかったが、もしかして過去か?」


「はい、実はなかなかの酒豪でした」


「そうだったか。では今度晩酌をしようか。ここでは控えめにしておいてくれ」


「わかりました」


「私はもう少し投資仲間と挨拶したい。リアはここで待っててもらえるか?視界に入る所にはいるから。良いかい?君は侯爵夫人だ。先ほど挨拶を済ませた人以外は君が話しかけたり目を合わせない限りは相手から話しかけることは出来ないから無礼な言葉をかけられるようであれば私や主催者である叔父に助けを求めなさい」


侯爵夫人になって初めての社交だ。名前も顔も把握してないマリアンネが1人で対応することは難しい。失礼のないよう侯爵家以上の者にマリアンネへの教育も兼ねた挨拶まわりをしておいた。


ビールが入っていたグラスも空いてしまい、小皿にあった料理も食べてしまった。下手に動くと誰かと目が合ってしまいそうで、マリアンネはやや視線を下げて壁の花となっていた。


そこへ、1人の女性が近づいてきた。ドレスの裾を視界の隅に確認すると、記憶を巡らせた。


(先ほど挨拶したご婦人やご令嬢にこの色のドレスを着た方はいらっしゃらなかったわ)


淡かったり寒色が多かった中、濃いボルドーのドレスの女性はこちらに体を向けているようであった。


「ちょっと貴女?見ない顔ですけど、どちらのご令嬢ですの?」


「…」


「聞こえてますの?アレクシス様と一緒にいらっしゃったようですけれど貴女はあの人の何ですの?」


「!…」


アレクシスの名前が出てきたことに、顔を上げそうになった。


「ちょっと、貴女に話していますのよ!聞こえませんの?」


「…」


一方的に話しかけてくる女性がどんどん声の大きさを上げていく為、注目を浴び始めてしまった。


すると、参加者らがざわざわと騒ぎだした為、いろいろな情報が飛び交い、聞きたいわけではないのに耳に入ってきた。


《エルヴィーラ様だわ。あの方まだローゼンハイム侯爵様につきまとってますの?》

《つきまとっているというか未練があるんではなくて?》

《あんな異名つけてまで陥れたいんではないの?》

《あら、マリアンネ様災難だわね》

《マリアンネ様?》

《ええ。先ほどローゼンハイム侯爵夫人だとご紹介いただいたわ》

《ローゼンハイム侯爵様ご結婚なさったの!?夜会に女性を伴うなんてなかったですものね》


これにはこのボルドードレスの女性もキッと目を据えマリアンネを睨み付けた。


「貴女、あの人の夫人なの?あの呪われた侯爵の?呪われてるって知らないの?」


「…」


マリアンネはまだ顔を上げなかった。直接名乗られた訳でもなければ、このエルヴィーラがアレクシスとどのような関係か判らなかったからだ。


《まだ呪われた侯爵なんて言ってるわよ》

《幸せな結婚が出来ないのは自分の所為だって判らないんじゃない?》

《あの人は今クレバー子爵夫人でしょ?》

《え!?アンデルス伯爵令嬢は子爵夫人になったの!?クレバー子爵って女ったらしで有名じゃない》

《そうそう、どれだけ非嫡出子がいるか》


(この人、子爵夫人。じゃあ尚更顔を上げなくても良いわよね)


しかしこの後予想外なことが起こった。


《マリアンネって、ハインツェル伯爵家の令嬢じゃない?》

《確かに、小柄だったし面影があるような》

《すごい貧しかったわよね、伯爵家って》

《今、どうなったのでしょうね?社交で見たことないもの》

《そりゃそうでしょ。デビュタントで古いドレスを着てくるんですもの。毎回同じドレスなんか着れないじゃない》


するとエルヴィーラはニヤリと口角を上げた。


「ちょっと貴女、貧乏伯爵の出身なの?それはそれは。そうよね~。呪われた侯爵に嫁ぐなんて、お金に困ってなかったらしないわよ。それにしてもこんな幼妻、あの人そんな趣味だったなんて。あ、そうかまだ貴女知らないんじゃない?アレクシス様があんな気持ち悪い身体してるなんて。こんなに幼いんじゃまだ手を出せないもの。敢えてそういう方を選んだのかしら」


アレクシスを貶す発言にさすがにマリアンネも限界を迎えた。


「貴女は何がしたいのですか?他人の夫の名前を気安く呼ばないでくださいますか?」


「気安くって私はあの人の元妻ですわよ」


「だから何ですの?元ということはもう他人です。それに貴女は今子爵夫人でらっしゃるそうじゃないですか?人妻が他の男性の名前をお呼びになるのもいかがかと思いますが」


反論を始めたマリアンネの言葉に会場は静まり返った。


「こんなお子さまに夫だ妻だって語って欲しくないわね~」


「先ほどから子供だとか幼いだとかおっしゃってますが、私はこう見えても20歳の成人女性です。まあ、年増の貴女からしたら20歳もお子さまですわね」


辺りからはクスクスと笑い声が起こった。


「んなっ!」


「それに私は変な方とはあまり関わりたくないのですよ。ずっと大声で独り言をおっしゃっている方とは」


「独り言って!私はずっと貴女に話していましたよ!マリアンネ様でしたっけ?」


「あら、名前を呼ばれた気がしますけれど、おかしいですね?私は独り言ですけれど」


「何をおっしゃってますの?これが会話じゃなかったら何ですの!?」


「会話だと認めてよろしいんですの?貴女の為を思ってこの場を納めようと思っておりましたのに」


「はぁ!?」


エルヴィーラはのらりくらりと躱されてきた態度に怒りを露にした。


やれやれとため息をつきマリアンネは扇子で口元を隠した。



「では、言わせてもらいますね。私は侯爵夫人です。立場上、伯爵以下の皆様には自分からお声かけや許可をしなければ話さないようにマナーとして教わりました。このような場で貴女から話しかけられるのはおかしいのです。貴女は子爵夫人でいらっしゃいます」


「何よ。貧乏伯爵令嬢が!」


「出自でも何か?私も貴女も貧富の差があれど生家の爵位は同じく伯爵です」


「ぐっ!?」


マリアンネの反撃は、単純ながらも当たり前のことで、野次馬をしていた参加者らも同調し見守っていた。


「私と貴女の出自が何であれ今は、私は侯爵夫人で貴女は子爵夫人です!非礼にも程がありますよ。何がしたいのですか?貧乏貴族出身の私を嘲笑いたいのですか?それとも元夫のローゼンハイム侯爵を陥れたいのですか?私のことは事実ですから構いませんけれど、後者であれば許すことは出来ません。私の夫を傷つけるなど放っておくことなど出来ません!どちらにせよ、不敬と侮辱罪で訴えることも出来るのですよ!」


パチンと扇子を閉じキッと睨みを効かせたマリアンネだが…、一同は思った。


《《怖くない!?可愛らしい!?》》




そこへアレクシスとバッハマン伯爵がやってきた。


「騒ぎが起こっていたのにしばらくは妻が何も言わなかったし相手が君だから静観させてもらったが、流石にもう限界だ。呪われた侯爵と異名をつけられようが放っておいたが、妻が傷つけられるのは黙っておけない。そもそも私達の離婚の誓約で互いのことは口外もしなければ今後関わることも一切しないとした。私達の離婚が早急に成り立ったのは白い結婚が認められたからであって、それは婚姻期間から誰もが判断できることだ。君の為の誓約だったのに」


この国では婚姻から1年以内の離婚は認められない。ただし、白い結婚であった場合は例外とする。


「そのまま大人しくしていれば、君は離婚歴があろうが次の貰い手はいくらでもあったはずなのに、先程も妻に匂わせていたな、まるで私達の間に関係があったかのように。私が呪われてようがなかろうが、それは君の次の婚姻には関係ない。自分が巻いた種だ。まともな貴族ならば、社交に出る度に元夫を悪く言い、それは身体に刻まれた呪いがあるからだと触れ回るなんて、異性の身体を見る機会があるなんて白い結婚も嘘だったかもしれない女を娶ろうなどと思わない。結果君を娶ったのはアンデルス伯爵家の支援が狙いで女ったらしのクレバー子爵だ。まあ、君が撒いた異名のおかげで私の地位と見目だけが目的だった令嬢らが近づかなくなったから平和に過ごせたし、妻と出会うことになったからな。その点には感謝だ」


不幸になったのは自分だけだと思い知らされたエルヴィーラは歯をギリリと食い縛った。


そしてバッハマンが一歩前に出た。


「さて、クレバー子爵夫人。私は貴女を招待していない。女の尻を追い回しているクレバー子爵など招待しておらんしその夫人もだ。招待したのは君の父アンデルス伯爵と夫人だ」


それを聞いたアンデルス伯爵は真っ青な顔をして飛び込んできた。


「失礼しましたバッハマン伯爵。妻は体調を崩しておりまして、代わりに社交に行きたがっていた娘を帯同させました」


「貴様のことは投資家であるからこの夜会に招待した。正直に言えば、貴様の娘の所為でアンデルス伯爵にはいい気はしていない。私の甥を貶す貴様の娘の行いには心底腹立たしく思っていた。本日は私の主催する夜会での行いだ。もう見逃す訳にはいかない。一連の不敬と侮辱を罪に問わせていただく。クレバー子爵とアンデルス伯爵、夫人及び娘の監督不行届について、どちらの家にもだ。アレクシス、問題ないか?」


アンデルス伯爵とエルヴィーラは青ざめている。バッハマンの確認にアレクシスは提案した。


「叔父上、侯爵家の私から申し立てましょうか?」


「いや、構わんよ。これくらいさせてくれ。何しろ甥である君と私を救ってくれた侯爵夫人を侮辱するなど許せん」


「叔父上…」


アレクシスは先程のドーリスの言葉を思い出した。


「では、お願いします」


「うむ」


「騒ぎの序でによろしいでしょうか?」


「なんだ?」


アレクシスはホールの真ん中に立つと参加者らに聞こえるよう話をした。


「この場を借りて説明したい。楽しい夜会に水をさしてすまなかった。今まで私は呪われた侯爵と言われていたが呪われてなど全くない。私の胸元には生まれつきの大きな痣がある。これは見た目の問題であって病や呪いの類いではないことは証明されているものだ。それを彼女は気持ち悪いと言って私を退けた。私達が白い結婚だった理由でもある。これについては彼女に嘘はないことはここに証言しておく。そしてここにいる妻はそんな私の事を全て受け入れてくれている。私は妻のことは心から幸せにしてあげたいと思っている。穏やかに過ごせるようあまり騒ぎたてるようなことはしないであげて欲しい。以上だ」


そしてまたバッハマンとマリアンネの元に戻った。


「叔父上、お騒がせしました」


「いや、やっと異名に異議が唱えられて良かったよ」


この後は残る社交を済ませ、バッハマン伯爵夫妻の元へ向かった。


「私達はこれにて失礼しようと思います」


「ああ。不快な思いをさせて悪かった」


「いえ、逆にすっきりしましたよ。ありがとうございました叔父上」


そして横にいるドーリスに体を向けると囁いた。


「ドーリス様、先ほどおっしゃっていた意味が何となくわかったような気がします」


それを聞くとドーリスはにっこりと微笑んだ。


「うふふ。そうでしょ?マリアンネ様のおかげかしらね」


「いえ、そうではなくきっと…」


「あっ…」


アレクシスが言いかけると、ドーリスがよろけた。


慌ててアレクシスが支えると、イザークが横に来て抱えた。


「大丈夫ですか?母上。下がって休みましょう」


「ごめんなさいね、ありがとう、イザーク」


イザークに連れ立ってパーティーホールから下がろうとするドーリスが心配で、マリアンネは同行して良いか申し出た。イザークは父の行動変化の一因となったマリアンネの申し出を受け入れた。


◇◇◇


とりあえず控え室のソファに腰掛けさせた。


「大丈夫かい?母上。今日は社交をしたから疲れてしまったかな?」


「ごめんなさいね。ちょっと立ちくらみがして」


「ドーリス様、このようなことはよく?」


「母は元々体が弱いのです。普段は部屋で休んでいることが多くて。今回は主催でしたし、アレクシス様がお見えになると聞いてましたから…」


「うふふ。無理してしまったわね。でも良かったわ」


にっこりと微笑んだ顔は血の気が失せている。


「あの、失礼します」


そう言うとマリアンネはドーリスの手をとった。ドーリスの手を観察し終えると、マリアンネは様子を伺っていた侍女に指示を出した。


「そちらのクッションをとってくださいますか?」


「かしこまりました」


クッションを受けとると、ドーリスにソファに横になるよう促し、足元を高くするようクッションを足の下に入れた。


「ココア、もしくはチョコレートはありますか?」


「はい。どちらもすぐにご用意出来ると思います」


「ではお願いします。それとゆで卵はありますか」


「シェフにお願いすればご用意出来るかと」


「ではそちらもお願いして、まずはチョコかココアを」


「かしこまりました」


手際よく指示を出すマリアンネにイザークは呆気にとられた。


「リア?ドーリス様はいったいどうされたのだ?」


「伯爵夫人は貧血です」


「「貧血?」」


「貧血が進むと爪が反り返ることがあるのです。スプーン爪と呼ばれるのですが夫人の爪を確認しましたらその状態でしたので。頭に血液が回るよう頭を低く足元を高くしました。チョコやココアをお願いしたのは応急的に糖分と鉄分を補給するためです。ゆで卵はさらに補助出来るかと。元々お体が弱いということですが、お食事はしっかり摂れていましたか?」


「それが最近食が細くて…」


「慢性的に栄養不足でしたかね…。今後は鉄分を効率よく補給出来るようなお食事をしましょうか。量が食べられなくても工夫できることはありますから」


「アレクシス様、夫人はいったい何者ですか?」


「知識が豊富でね、特に栄養の」


「はあ。賢くもあり、勇ましくもあり、愛らしくもあり。とても素敵な方ですね」


「はははっ、ほんとにね。私も日々驚かされ魅了されツボにはまってるよ」


◇◇◇


「お騒がせしてしまったわね。侯爵夫人、ありがとうございました」


「いえ、お役に立てて良かったです」


「でも、いったいいつから気にかけてくださってましたの?目の前でふらついたからと控え室までついてきてくださるなんて」


「夫婦は食生活を共にすることが多いですので、大体のご夫婦は似てくるのですよ。伯爵夫人とは初めてお会いしましたが、栄養過多のバッハマン伯爵とは違って細身でいらっしゃいましたし、お顔もずいぶんと青白かったものですから、気になっていました」


「まあ、はじめから」


「それに、アレクシス様とのお話が途中だったことも気になっていまして」


「そうでしたわね。何か言いかけてくださってましたね」


マリアンネはちらりとアレクシスを見上げた。


「あの、また深入りしてしまってよろしいでしょうか?」


またとはアーベライン公爵夫妻に続いてということだなと悟った。


「ああ。何が気になったんだい?何か気にしていただろう?」


「ええ、その、伯爵夫人はイザーク様のお母様…」


はっきりとは聞けず言い淀んだ。


「うふふ。そうですね、違いますわ。私は後妻です。どこでそうお思いに?」


「ローゼンハイムの血筋は皆様ブロンドに緑の瞳です。そして伯爵夫人も同じくブロンドにアンバーの瞳ですが、イザーク様は漆黒の髪に緑の瞳でしたので。でも顔つきはローゼンハイムに似ていましたから、お母様が違うのかと」


「私とイザークでは親子に見えませんものね」


「…母上。私は貴女を母としてお慕いしています」


「ありがとう、イザーク」


「あの、たぶん私が考えていることは、アレクシス様が先ほど伯爵夫人に言いかけていたことと同じだと思うのです。先程の言葉をお伝えしてくださいませんか?」


するとアレクシスはドーリスに目線を合わせ、話を始めた。


「叔父上と私の関係が深まったのがマリアンネのおかげだと貴女はおっしゃったが、私は貴女のおかげだと思っています」


「…なぜですの?」


「最後に背中を押したのはマリアンネの言葉でしょう。ですが、マリアンネと会う以前に既に叔父上の行動が変わってますから。あの守銭奴が自らの力で領地改革をしています。今まででは考えられません。イザーク様もそう思いませんか?」


アレクシスの言葉にイザークも同意した。


「はい。義母上、つまりドーリス様に出会い父上は変わりました。初めはいつものことだったのです。母が外に男を作って離婚届を突き付けて出ていきました。伯爵夫人が必要だったか私に母を用意しようとしたのかはわかりませんが後妻を迎える考えに至ったようです。ドーリス様は裕福な子爵家のご令嬢でした。しかし病弱な為嫁ぎ先が見つからずいき遅れていたんです。そこに目をつけた父上は、娶る代わりに資金援助を提示したんです。元々跡継ぎは私がいますし、夫人が病弱でも構わなかったんです。婚約は成立し、ドーリス様は伯爵夫人となりました。ドーリス様は私にたくさんの愛情を注いでくれました。子爵家は質素に倹約を重ねることで潤沢した家でしたので、ドーリス様は贅沢をすることなく慎ましく生活し、執務もこなすなど夫人として切り盛りしてくれました。そして父上には日々感謝と労りの言葉を紡いでいらっしゃいました。すると、あれだけ金や地位が全てだった父上が、今の生活を大切にするようになったのです。この伯爵邸や伯爵領だって十分な資産だしこれを繁栄させ次世代に繋げようと舵を切りました。それだけではないのです。離縁したアレクシス様をはじめは嬉々として見ていました。ローゼンハイム侯爵の跡継ぎが生まれなければ、継承権は父上にありますから。ところが伯爵邸を守り出した頃から、クレバー子爵夫人の言動に怒りを表すようになりました。しかし両家にお互い一切関わらないという誓約があることは知っていましたから静観していたんです。今夜やっと懲らしめることが出来ましたから、父上は叔父として甥であるアレクシス様を守りたかったんだと思います」


そこへ、バッハマン伯爵が息を切らしやってきた。


「ドーリス!体調は大丈夫か!?」


「あなた。ええ、大丈夫ですよ。私も侯爵夫人に助言いただきました」


「なんと!?夫人には世話になってばかりで、ほんとに何て言ったら良いのか…」


あのバッハマンが人の心配をしている。ドーリスへの愛を目の当たりにしたアレクシスは驚きを隠せなかった。


「だからビールが美味しいのかな…」


金を稼ぐ為に始めたというより、領地を良くするために始めた事業だ。愛を持って取り組んだ結果の成果であろう。


「叔父上、出資させてください。そして成功した暁には、侯爵領にもその技術を伝授していただけたらと思います」


「アレクシス!本当か!もちろんだとも!ありがとう」


すべての用件を済ませたアレクシスらは帰路へとついた。


後日、マリアンネは貧血改善のための献立と、ドーリスへの料理は出来る限り鉄鍋で調理するよう書面で知らせた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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