◇3◇ その人、この世で一番嫌いです。
(……もしかして、何かお父様におっしゃってくださるかも?)
ライオット伯爵と私を二人にしたあの方。
私の意思ではなかったことを唯一わかっているはずのメイス侯爵夫人なら、状況を変えられるのでは?
そう愚かにも期待して、私は部屋を出た。
使用人と顔を合わせないように注意して時間をかけて移動し、隣の部屋から応接室を、そっと、覗く。
両親が、メイス侯爵夫人を迎えていた。
「――――な、何ということをおっしゃるのですか!?」
お父様が立ち上がり、荒々しい声で叫ぶ。
顔はこちらから見えないけれど、背中に怒りが充満している。
一方、メイス侯爵夫人はたいそう優雅に微笑んで見せる。
「むしろ誠意あるお申し出ではございませんこと?
ライオット伯爵は、フランカ嬢を愛人としてお世話したいとおっしゃっていますの。
結婚できない身になってしまったのだから、紳士として責任を取るということですわ」
――――はい?
『責任を取って』私を愛人にする、そう伯爵が言っていると?
メイス侯爵夫人、そうおっしゃったのですか?
(ええと……? どういう、意味ですか?)
父や母は『愛人』を、『ふしだら』な女の例として挙げていた。
……お金のある殿方からお金をもらって、結婚するわけではなく、何か良からぬことをして生活する、というような。子を産むこともあるものだと。
うっすら聞かされたことがある。国王陛下にもかつて『公妾』という愛人の女性がいて、王妃様とは別に御子をお産みになったのだと。
以前父が、仲間内でその『公妾』の女性のことを、言葉を尽くして罵っていたのを覚えている。
……ライオット伯爵にキスされそうになったことを、私は思い出した。
ああいうことをして、お金をもらうということなのだろうか?
思い出しても気持ち悪くなる。
責任を取るというなら、せめて、
『私が無理矢理フランカ嬢にキスしようとしたのであって、フランカ嬢が望んで私と二人きりになったのではない』
と説明して回ってほしい。
『愛人』にすることが責任を取ることって、意味がわからない。
「む、娘を『傷物』にしたあげく、愛人によこせとは、何という言い草……」
「それもこれも、フランカ嬢の落ち度でございましょう?」
笑いながらメイス侯爵夫人が言った。
(私の落ち度……あなたの言うことを聞いたのが、私の落ち度なの!?)
「せめて独身の殿方と二人になったのでしたら、責任を取って結婚しろと要求することもできましたでしょうに」
(――――あなたが、私と伯爵を二人にしたんでしょう!?)
そのことについては、私も父と母に何度も説明した。
なのに両親はそれについて言い返さない。
私の言葉を信じていないの?
もしかしてメイス侯爵夫人は――――ご自分が、私たちを置き去りにしたことを、否定しているの?
(それとも……夫人は、わざと私をあの庭に連れ出した?)
その私の疑念を証明するかのように、夫人は恐ろしい言葉をつづける。
「わたくし、フランカ嬢の女としての幸せも考えてお話ししているのですわ。
屋敷の中に一生押し込められたり、修道院に送られたりするよりは……たとえ愛人としてでもお慕いしている殿方のもとで人生を送り、子を産む方が、はるかに幸せではございませんの?」
(慕ってないっ!!!!!!)
もう少しで大声を出してしまうところだった。
……なんてことを話しているの。
この世でたぶん一番嫌いな相手を、慕っていることにされている私の立場!!
しかも、そんな人のもとで子を産めですって?
「そ、そんなにもフランカは、ライオット伯爵のことを…。
だってあの子、伯爵のことは大嫌いだと……」
お母様! そうよ、何度もお母さまにも説明したわよね??
「ほほほ。素直になれないだけですわ。若いお嬢様のことですから」
「そ、そうなのでございましょうか…」
あっさり負けないで!! お母様!!
「と、とにかく!!
侯爵夫人。私は、娘を愛人になどする気はございません!!
そのようなことをすれば、ボスウェリア家の名誉にさらに泥を塗ることになります。
ライオット伯爵にも、どうぞそのように…」
「ライオット伯爵は――――昨年、王宮の権力闘争によって降格となってしまいましたが、ご存じのとおり、昨年まではライオット公爵でした。わが国では王族に次ぐ名家中の名家ですわ。
その影響力は今もなお健在。
そして、もともと殿方は、令嬢とは違って醜聞の影響を受けづらいのです。
今回のことがございましても伯爵は社交界を追われることはない。
それはおわかりでございましょう?」
「そ、それが何か…!?」
「フランカ嬢を愛人にいただけましたら、罪滅ぼしに、ボスウェリア子爵家の社交界への復帰を後押ししてくださるとのことですわ。
良いお話とは思いませんこと?」
ほほほほほほ、とメイス侯爵夫人は、ひときわ高い笑い声をあげる。
力なく座り込むお父様。
オロオロした様子のお母様。
私は、拳を握りしめ、こちらの存在に気づかないメイス侯爵夫人の顔をにらみ続ける。
人を、一体なんだと思ってるんだろう。
――――死んでなんかやるものか。
――――ましてや、絶対に愛人になんかならない。
一人生きていく道を、絶対に見つけてやるんだ。
私はその夜密かに荷物をまとめ、明け方そっと、屋敷を出た。
◇ ◇ ◇