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明日なんか来ないで

作者: トミネ

「ねえ、何で別れないの?」

「可哀想すぎて見てられないわ」

「お願いだから、彼を自由にしてあげて」

「貴女の我儘に彼を付き合わせないで」

「お金や権力で縛るなんて最低です!」

「彼は優しいから貴女に合わせてるのよ」

「貴女みたいな(ひと)、彼には似合わないわ」


 その他、諸々何を言われたかもう覚えていない。忘れる程、言われ続けてきた。彼と知り合ってからかれこれ何年経つだろうか、その間、言われない日は無かったと思う。始めの頃は流石に反論したけど、毎日毎日言う相手が違うだけで同じような事を言われ続ければ、もういいか、とってしまうのは当たり前の事だと思う。


「貴女も僕に靡くくらいの男好きなんだから、彼くらい自由にしても良いんじゃないの?」


 と、流石に男性にまで言われた時は、驚いたけれど。咄嗟に出たのは、


「ご自分を卑下している様に聞こえなくもないから、そんな風に言わず、ただとっとと別れたら良いと言った方が良いわ」


 だった。その方はキョトンとされたけれど、次の瞬間顔を真っ赤にして怒って大きなお世話だ!と大声を上げ、去っていかれた。私も驚いたけれど、いつもの事と諦めて私も戻る事にした。

 その日から、私への言葉に不貞が加わった。


「自分は別の男に手を出してる癖に、彼もだなんて本当に彼が可哀想よ!」

「男娼でも買ってれば良いのよ!」

「最低女!」


 私は身の潔白をいつだって証明出来るけれど、言った所で何が変わるのだろう。ただ相手を怒らせて終わりの、いつもと同じになってしまうだろう。だったら、そんな無駄な事はしたくない。そんなある日、可愛らしいお嬢さんが、目に一杯の涙を溜めてやって来た。


「どうか…どうかお願いします。彼を解放して下さい。その為なら私、何でもします。お金なら必ず働いて返しますから…」


 と。健気な可愛い女の子のは、私の前に跪いて乞うたのだ。驚いた私は


「お金に困っているならお貸しするから、そんな所に跪かないで。折角の可愛いお洋服が汚れてしまうわ」


 そう返した。相手はポカンとしたけれど、次の瞬間わっと声を上げて泣き出し、去って行ってしまった。怒られるより、泣かれる方が辛いけれど、これもいつもの事だ。

 けれど、その日から私への言葉に、心の無い女だと言う内容が加わった。


「恥ずかしく無いの!?年下の少女を泣かせて平然として!」

「跪かせたそうね、なんて人」

「お金で黙らせようとしたんですって、やっぱり最低だわ」


 と言う風に。

 やって来る人間と会わなければ、話すら聞かない冷たい女、と。出掛ければ、彼ばかりに押し付け自分は遊んでいるだけだ、と。


 流石に、疲れた。


 何をやっても、私は相手を不快にする。そんな才能を持っているらしい。だから誰も手を差し伸べても来ないのだろう。彼も、使用人も、家族ですら。

 何度も、何枚も、自分の名前を書いた離縁書を、私は自分の机の中に仕舞ってある。彼が離縁したいと言ったなら、直ぐにでも渡せる様に。失敗しても大丈夫な枚数は有るだろう。言い返さなくなってから毎日一枚ずつ増えて行った離縁書は、何枚になったのだろう。この机に入りきらない分は、クローゼットの下に重ねてある。


「ねえ、旦那様。離縁したいのなら、遠慮はせずに仰って下さいませね」


 私は一度、過去にそう言った事がある。その後、言わずもがな私への言葉が増えた。傲慢に上から目線で威圧するなんて、と。

 私の家族には、


「こんなに騒がせてしまって申し訳なく思っています。ですがもし離縁しても、彼の家への支援は無くさないで下さいませ。彼は何も悪くありませんから。全て、私の不徳の致すところですから」


 と言った。その後は、彼が悪く無いのは当たり前の事なのに、被害者ぶるなんて、と。

 彼の家族には、


「私のせいでご迷惑をお掛けして申し訳ありません。両親には今後もしっかりとお付き合いをしてもらう様話してありますので、お金の事は何ら心配は要りませんのでご安心下さい」


 と言った。その後は、お金お金と恩着せがまし。お金と権力さえ無ければ何の魅力も無い癖に、と。

 使用人達には、


「もし此処に居るのが苦痛ならば、紹介状を準備しますね。皆さんが優秀なのは分かっていますから、きっとどこへ行っても問題無いでしょうから」


 と言った。その後は、言う事を聞かないなら追い出すつもりだ、彼等が居なければ何も出来ない癖に、と。

 本当に、才能と言わずして何と言うのだろう。きっと生きているだけで人を苛立たせる人間なのだろう、こんな人間が何故生まれてきたのかもう分からない。そろそろ、息をするのも、苛立たせる様になるのではないかしら。

 私には、昔、鳥の友達が居た。話す事が出来る、九官鳥の友達が。なかなか話さなくてずっと「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」と簡単だと思われる言葉を毎日聞かせていたのに、ある日突然話し出した言葉は、


「焼き鳥丸焼き!」


 だった。難しい言葉であるはずなのに、何故?そして何処でそんな言葉を覚えたのか、私には全く分からなかった。でも、その回答は直ぐに出た。私の弟の所為だった。弟がコックの言葉を面白がって真似した言葉の一部をを覚えてしまったのだ。弟の声が聞きやすかったのか、私の声が聞きにくかったのかは分からない。家族は面白がっていたし、何より大人達は、弟に面白い言葉を覚えさせるなんて良くやったと楽しそうにしていた。その光景に、私はショックを受けた。何でそんな平気な顔をしていられるのか。鳥は確かに食べる事もあるけれど、この子は食べる種類ではないけれど、どうして何も知らない、分からないこの子に残酷な事を言わせて笑えるのか分からなかった。今一現状を理解していない弟ならまだしも、大人は笑う事なのか。私はその日から、肉や魚が一切食べられなくなった。見ただけで吐き気を催す様になった。そして私の友達も、弟に託した。私の言葉を覚えず、弟の発した何気ない残酷な言葉を発した友達。

 きっと全て、私がおかしいのだろう。その日から、否それ以前から、私の感覚は人と違い、おかしかったに違いない。だから今もずっと、苛立たせる事しか出来ないのだろう。


 私に明日なんか必要ない。明日なんか来ないでいい。






「妻が来ていませんか!?」


 とある夜、姉の旦那が駆け込んできた。朝から出掛けたきり、今も未だ帰ってこないのだと言う。使用人一人付けず、出て行った、と。


「…此処に来る訳がないじゃないですか、義兄さん」


 そう、姉が此処に、この屋敷に来る事は、もう、無い。

 物心がつき始めた頃、姉から九官鳥を貰った。姉が大事にしていた筈の、九官鳥を。その当時は物凄く嬉しかったし、何よりその子がお喋りで、楽しくて、沢山可愛がったのを覚えている。でもその代わりに、姉が僕に話し掛ける事が無くなった。僕から話し掛ければ応対はするけれど、姉の瞳に光は無くて。微笑む顔はいつも同じで。それに気づいた時、姉は常に一人で部屋からあまり出てこなくなっていた。嫌われる様な事をしただろうかと、両親に聞いたり使用人に聞いた事もある。その度に、貴方は何も悪く無い。悪いのは貴方をそんな風に思わせる姉だ、と皆が口を揃えて言う。始めの頃はそう思っていた。でも、ふと思い出した。少し前に死んでしまった、九官鳥の事を。あの子が話す言葉の中で、一番多かったのは「焼き鳥丸焼き」。鳥の癖にと誰もが笑うその言葉に、僕自身もそう思って笑った。それがあの子がよりによって一番最初に話した言葉だった事も、余計に笑い話だった。でも、考えてみれば、姉が肉や魚を受け付けなくなったのは、子供の頃だった筈。もしかして、その言葉を聞いたからだったとしたら。大切にしていた存在が、食べられる様な事を言って、それがショックだったとしたら。一生懸命挨拶を覚えさせようとしていたと聞いた事があったし、あの子もその後直ぐに挨拶も話す様になった。でも、一番最初に言ったのは…そしてそれは僕が当時コックの真似をしたせいで…不可抗力とは言え、たったそれだけの事とはいえ、子供だったあの頃、沢山の事を感じ、吸収する柔らかな心には、受け入れられなかったのだったとしたら。おまけに周りは楽しいと笑う………さぁと血の気が引いた。姉は大切な友達が残酷な言葉を話す度、周りがそれをおかしいと笑う度、どんな思いでいたのだろう。肉や魚を食べられなく成る程なショックを受け、その友達すら弟に託し一人で過ごす程だったのだ、その原因を作った僕を嫌わない理由が無い。光の無い瞳でハリボテの笑顔を浮かべる姉を思い出し、自身を抱き締めた。そして謝ろうと決心して、姉の部屋に向かえば、姉は僕を見ていつもの様に微笑んだ。どうしたの?と穏やかな声だった。


「ご、ごめんなさい、姉さん」

「?何故謝るの?」

「僕のせいでしょう?僕のせいで姉さんはあの子を手放した!お肉やお魚も食べられなくなった!」

「何を言っているの?貴方のせいじゃ無い。私自身の問題なのだから、謝る必要なんて無いわ」

「でも!」

「貴方はあの子を可愛がってくれた。私は感謝する事はあっても、謝られる事なんか何も無いの」


 思わず泣いてしまった。姉は優しい。優し過ぎて、分かっていない。その言葉が、謝罪を拒否している事を。そして泣いた僕を見た使用人から両親へ報告が行き、姉は怒られたのだ。


「弟を泣かせるなんて、姉として最低ですよ!」

「お前は何が気に喰わないんだ。部屋から出ずに引きこもってばかりで」

「申し訳ありません」

「謝るなら初めからしないで頂戴」

「全くだ。お前が欲しいと言ったからあの鳥も買ってやったと言うのに、途中から投げ出して弟に押し付けて」

「………」

「何だ、今度は謝る事もせんのか」

「全く、どうしてこんな風に育ってしまったのかしら」


 その日から、姉はハリボテの笑顔すら無くしてしまった。そして、話す事すらしなくなってしまった。そんなある日、父が姉にと婚約者を当てがった。会社が破綻しそうな所を助ける代わりに、姉を娶れと言ったそうだ。姉の意思はそこに無い。相手は会社を立て直さなければならない。沢山の従業員を抱えた、そこそこ大きな会社だったから余計にだ。その家の息子は二人居て、長男は既に結婚していた。姉の相手となったのは、次男だった。そしてその次男は社交界で有名な色男で、沢山の()()が居た。彼自身も結婚に乗り気では無かっただろうが、家の為、自分の暮らしの為にも、結婚を受け入れたようだった。そして二年後、二人は結婚した。彼の実家は、我が家がしっかりと援助した事もあり、持ち直して来ていた。だが未だ未だ不安定な状態だった。それから三年、軌道に乗って来た頃、彼は持ち前の色男振りを発揮し始めた。社交界に戻り、沢山の彼女達を作り始めたのだ。自分達の子供を作らずに。姉は何も言わなかった。この家に帰ってくる事も無かった。ずっと仕事をした。一度帰って来た時は、騒がせている事を詫び、それでも彼の実家を未だ助けて欲しいと頭を下げた時。久し振りに見た姉の姿、聞いた声は、誰もが黙る程に凪いでいた。

 それから更に二年だ。姉がこの家に来る筈がない。誰も助けてくれない家に、居場所が無い場所に、誰が足を運ぼうと思うのか。


「義兄さん、姉がこの家に来る筈が無いでしょう。此処は姉が帰る場所じゃ無い」

「だが、だとしたら何処に…」

「何故気にするんです?」

「え…?」

「我が家は貴方のご実家を助ける為に姉を嫁がせました。そして貴方や貴方のご実家もそれを渋々ながら受け入れた。だから支援し、今も取引しています。ですが、結果として姉の評判は金と権力で貴方を買った悪女にさせられた。姉が何を言っても、何をやっても全て悪い意味に捉えられ、どうやっても悪者になる。それを、貴方は愚か、我が家も助けはしなかった。誰一人、姉に手を伸ばさなかった。それは偏に、貴方が望んだ事では無いのですか、義兄さん。安心して下さい、これからも我が家は取り引きを致しますよ。姉が望んだ最後の願いですから」


 今の今まで助けなかったのは、姉に必要な事と思わなかったからだ。僕らが手を出せば、周りはまた姉を責める。そんな事、させる訳がない。

 両親も、本当はずっと姉に詫びたがっていた。僕が子供の頃からの話をして、あの鳥の話をした時に顔面を真っ青にしていた。そして僕を泣かせた時の事も、言い過ぎてしまったと後悔していた。何せ、その日から姉は表情と言葉を失ったのだと分かっていたから。でも話し掛けても人形の姉にどうする事も出来ず持て余し、結果婚約と言う形でこの家から出し、幸せにしようとした。社交界で有名な色男であれば、見目も麗しく女性の扱いにも慣れているだろうと。それであれば閉じた姉の心も開くのではと期待した。でも蓋を開ければ、姉は悪役にしかならず、本人は一度援助を切らないようにと頭を下げに来ただけ。そうなれば守れるのは、旦那である、夫である目の前の義兄だけだったのに、姉はそれすら受け付けなかった。ならば。


「義兄さん」

「………」

「…そう呼ぶのも、辞めた方が良いですね。姉の事です、恐らく離縁書は用意してある筈です。ですから、貴方はそれに自身の名前を書き提出すれば、自由ですよ。我が家がそれを責める事は致しません。寧ろ、最後までご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。姉の事は忘れて、幸せになって下さい。離縁すれば、貴方は貴方を幸せにしてくれる方を選べる自由となりますから」

「………」

「大丈夫、()()()()()。貴方はそんな人に振り回され、華やかしい人生に僅かにも傷を付けられた()()()()。最後まで迷惑を掛けられたのに、それでも()()()()()()()()。そう世間は、()()()()()()()。ですから心配なさらず、離縁書を出して構いませんよ。我が家も()()()()()います。寧ろ本当に巻き込んでしまって申し訳ありませんでした」


 姉さん、これで良かったんだよね?貴女は誰かに助けられたかった訳でも、彼と幸せになりたかった訳でも無いんでしょう?僕に謝られるのも、両親に謝られるのも必要ないって言うんだろうから、言わないよ。言える立場じゃないからね。でもずっと思っているよ。ごめんなさい姉さん。あの時に戻れるのなら、違う言葉を選ぶよ。そして、姉さんの心を殺さないように、皆んなで守らせて欲しい。でもそんな事ができる筈ないから、この世で姉さんが望む通りに、僕等はするだけだ。何処かに逃げるのも、死ぬのも構わない。でも、出来れば生きて幸せでいて欲しい。


 日が変わったら明日なんか来ないで、あの日が来れば良いのに。






 机の中、そしてクローゼットの中、他の引き出しの中にも、離縁書は在った。数え切れない程多いその書類全てに、妻の名前が入ってた。後は自分の名前を書いて提出するだけ。それを持って役所に行けば、受付の人間やその奥の人間にも、不躾な視線を浴びた。


「……お待たせ致しました。頂きました書類につきましては、不備は見当たらず、申請は滞りなく通りましたので、この時点より離縁を認められました」


 彼女と別れた。完全に、他人となった。自由に、なった。


「…あの」


 ふと、受付の女性が言い難そうに声を掛けてくる。中々立たない自分に対してか、それとも自分へのアプローチか。


「差し出がましいですが、何故、今迄離縁をなさらなかったのでしょうか?」

「え?」

「奥様は…あの方は、ほぼ毎日離縁書を受け取りにいらっしゃっておりました。離縁書も()()ではありません。ほぼ毎日となればかなりの金額になります」

「………」

「失礼ながら、貴方様方のお噂は、我々身分の違う者の中でも知らぬ者はおりません。だから一度聞いた事があるのです。どうして毎日受け取りに来るのかと。そんなに失敗する事も無いはずだと」

「………」

「あの方は仰った。自分が此処に来て離縁書を手にしなければ、困る方が居ると。困る方は旦那様かと聞いたら、どうでしょうねと。確かに他人の家の事に首を突っ込む事は、大変失礼に当たりますし、私如きではもっと無礼でしょう。でも、此処で働く私どもは知っています。あの方の周りには、あの方の一挙手一投足を見張っている人が常に居らっしゃった事を。あの方は決して貴方様や他の方の事はお話にならなかったのに、次の日には悪い噂が広がる。だから、私達も聞くことをやめ、日々の仕事として書類を渡しておりました。でも…」

「…でも?」

「…あの日、あの方は小さな手紙を下さいました。仕事とは言え手を煩わせて申し訳い、いつもありがとう、と書かれた掌に収まる程の小さな手紙を。そして、その後貴方様がこうして離縁書を提出された」


 彼女は震えていた。今にも泣き出しそうだと思った。


「手紙の内容は私達役所の人間全員に教えました。私が、この口で。ですが悪い噂は広がらなかった。当たり前です、此処に居る人間はあの方が悪い人だとは思ってない、だから()()()のです。あの方が良い人だと言えば、何故か悪意としてあの方に向かい、傷付ける。私達はあの方の事はよく知りませんが、申し訳ないと謝れる方である事は理解できます。決して悪口を言う方でも無い事を。見ている方に気付いていたかどうかは存じ上げませんが、あの方は私を信用して下さったから手紙を下さったんだと、とても嬉しかったのです。そして、それを自分だけで持っておくものではないと判断して、周りに言ったのです。そしてその判断は正しかった。あの方の悪い噂は広がらず、今、貴方様へ不躾な視線を向ける結果となった」

「………」

「クビにされますか?無礼極まり無い我々を。ですが、私は、私共は覚悟の上でやっております。あの方は望まれていないでしょうが。どうぞ、お好きになさって下さい」


 彼女は最初の窺うような態度では無く、堂々と告げた。目には軽蔑を宿して。そして彼女は分かってやっている。此処で自分達がこうして反撃し、辞める事があれば、それが元妻への誹謗中傷となる事を。それでも、彼女は、この場の職員達は少なくとも、己が正義と思っている。


「…ふふ」

「な、何ですか」

「否、失礼。随分と正義感の強い方だと思ってね」


 身分の違う相手に、己が立場を無くす覚悟をして、他人の為を思って動く。実に羨ましい自己犠牲の精神だ。だが。


「酷い人間だと判断した相手に、女性である貴女が言い募る事も、自己を犠牲にしても構わないと言う覚悟を持つ事も、私には出来ないよ」

「………」

「貴女は自己を犠牲にすれば済む話でも、私は沢山の人間の生活を握っていてね、簡単に身動きが取れないんだよ。それに、誰もが遊びと取られる事も、社交では中々に必要でね。その相手の立場や身分を知れば、皆が納得するものだよ。取引相手のご婦人やご令嬢達だからね、ご主人やご家族と近付く為に一番手っ取り早いんだよ」

「だ、だとしても」

「そうだね、不誠実で危険な橋でもある。実際何故か勘違いする方が出て来て大変だったよ。勿論ちゃんと割り切ってお付き合いしてくれる方々が大半だったけれどね。そういう方の相手はやはりその事を理解しているから色々話が早いんだけれどね、勘違いをしてしまう方の相手も勘違いするからね、本当に大変だったよ。それこそ、元妻も巻き込む程にね。だとしても彼女は理解してついて来てくれた。こうして離縁書を取りに来る()()()()()()()も忘れずにね」

「なっ!?」

「ありがとう、彼女を庇ってくれて。けれど関係無い人間はあくまでも他人だ、口出しは不要なんだ。勿論君達を責めるつもりは無いよ、今後私が此処に来る事も無いからね。でも、忠告だ。人間である以上、感情はあるものだろうが、君や他の人達がやっている事は過干渉だ。これから先も野次馬になるのなら、口を出す事は止めておきなさい。無駄に口を出す事は、過剰なお節介となり身を滅ぼし兼ねない事を覚えておいた方がいい。ではね」


 そう、何も知らない人間が口を出すのは違う。彼女の苦しみは、彼女しか分からない。家族ですら分からない。そして私の立場も、私しか分からない。正義感が悪いとは言わない。綺麗な道しか進まない人生の人間も居る。だが私は、それにはなれなかった。

 己の価値観を押し付けるのは、時として必要になる事もある。会社がいい例だ。そぐわないなら辞めてもらう。その点では、彼女は本当に素晴らしかった。完璧だった。


 さあ、全て終わった。


 自分の役目も、彼女の役目も全て終わり。役者は皆、解放された。この瞬間に。カーテンコールは予定に無いから、このままアンコールを待たずに終わる。長かった。本当に長かった。茶番劇、三文芝居…決して良い舞台ではなかった筈だが、最後に最高の観客が花束をくれた。確かにシナリオは最低でも、役者は揃えていたからこうなるべくしてなったわけだが。


 明日なんか来ないでいい。今、この時を迎えられたのだから。

※登場人物


・元妻、姉

とある金持ち権力者の元に生まれた長子。子供の頃のショックのせいで菜食主義に。やる事なす事悪意に取られる為、昔からの蓄積が限界となり、全てに疲れて失踪する。


・弟

とある金持ち権力者の元に生まれた後継。幼い頃に無意識に姉を傷付けて来たことに後悔し、これ以上傷付け無いよう、悪意を向けられない様、逆に触れないようにしている。


・両親

とある金持ち権力者。魑魅魍魎の中に居た為、若い頃はピリピリしていた。そのせいで幼かった息子の為にと多少の分別の付いた娘には厳しかった。後にそのせいで感情を無くした娘に後悔の念から、せめて幸せをと思ったが空回りする。


・元夫

破産しそうだったそこそこ大手な会社の次男。社交界では色男として名を馳せていた。自分のこれから、そして会社の為に過ごし、妻やその周り、自分すらその為の役者とし、「誰もが幸せ」になるシナリオを考えた。


・義家族

両親、兄夫婦となる元夫の家族。父親が現会社の社長だが、継ぐのは長男ではなく次男。それは次男の元妻や支援した元妻実家へのお詫びとお礼の為だったが、失踪及び次男の素行から、長男へと切り替えた。それがせめて詫びになればと思っている。


・間男

元妻を誘惑した男。元夫よりシナリオの役者として選ばれたが、出演料を貰って早々に退散した。事情を知っていた為、元妻に密かに同情していた。


・町娘

元妻に抗議した女。元夫よりシナリオの役者として選ばれたが、元夫に対する気持ちは本物だった。元妻は純粋に嫌いだった。

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