第五章/最終章 儚いこと
第五章/最終章 - 儚いこと
校門をくぐって見上げると、見慣れたいつもの学校だった。にぎやかな学生寮。緑の多い中庭。見た目の少し古くなった校舎。
「…………」
雨の降りしきる朝。翔は、普段となんら変わらない一瞬一瞬にわずかな安堵を覚えていた。ふうっとため息を吐いて、肩を落とす。今朝の出来事を始めからなぞるように思い浮かべ、途中で気分が悪くなってやめた。
――夢だったんだ、全部。
無理にでも自分に言い聞かせようと、彼は硬く目を閉じた。
「おっはよ」
寮の入り口からひょっこりと顔を覗かせた啓作。傘の下、雨に少し濡れた茶髪に手ぐしを通す彼は、相変わらずの能天気な声で挨拶をした。
「おはよ」
「嫌に疲れた顔してるね」
「――そう? 別になんともないよ」
怪訝そうな顔をした啓作だが、それ以上彼を問い詰めることはしなかった。その代わりに、“昨夜のこと”を尋ねる。
「昨日、帰ってたんだって? 夜になっても部屋に戻ってこないから心配した」
翔はぎくりとして顔を強張らせ、数秒後、反射的に止めてしまった息をゆっくりと吐き出した。
月曜日に寮に来て、金曜日に一旦各自の家に戻るのがこの学校の寮制度だ。木曜日の昨日は当たり前のように寮で一夜を明かすはずだった翔が、同室の彼に黙って家に帰っていたのだ。
「いや、いいんだけどさ。家、何かあったの? 確かお母さんと二人暮らしだよね、翔んとこ」
「あぁ……、母さんが誕生日だったから食事してきただけ。言わなかったっけ?」
食事、と啓作は目を丸くした。
「言われなかった! なぁんで俺を誘ってくれないの!」
翔の母さん美人じゃん、と残念そうな啓作の表情に、特に疑っている様子は無い。よかった、と思う。翔は少し苦笑を浮かべて、黒崎翔を演じきる。
「じゃ、今度ね。……あ、そうだ、君の班の科学レポート」
かばんの中から一枚のプリントを取り出した翔。それを見た啓作が、打って変わって申し訳無さそうな顔をする。
「悪いねぇ、いつもいつも」
つまり、啓作が科学の授業で行った実験結果をまとめ忘れたのを、彼が完璧に仕上げて持ってきたのだ。
「はい」
「さんきゅ!」
しかし彼も単なるお人よしではない、要は見返りである。プリントを丁寧に両手で受け取った啓作も、それを薄々感じていた。
「……ええと、おいくらで?」
予想通りの好転に、翔は唇の端を上げて笑う。笑ってでもいないと、なんだかそのまま精神がおかしくなってしまいそうで怖かった。
「今週末、“君んち”に泊めて」
「……ふうん」
そこで何やら察したらしい啓作が、傘を肩に乗せてにやりと笑った。翔はその様子に気づき、いつもするように彼をふざけて睨む。
「構わないでしょ? 部屋数だけは不気味なくらいあるんだから」
しばらく間をおいた啓作が、意味深長な笑顔を浮かべながら一言。
「いい、けど」
「――――?」
思いもしなかった文末の逆説に、翔は無意識のうちに身構えていた。啓作は傘を上げて雨模様の空を大きく見上げながら、小さな声でこう言った。
「俺の予想が外れてなければ、朝から随分思いつめてるね?」
思わず啓作を振り返った翔。啓作は傘を肩の上に戻すと、驚いた顔をしている翔を横目で見やり、こう続ける。
「珍しいね、君が人に隠し事バラすなんて」
「……何、を」
翔に一言の文句さえ言わせず、にやにやと笑っている啓作。その何もかも見透かしているかのような目から目線を外して、翔は少し傘を下げた。
校門を入ってすぐのところに礼拝堂がある。それぞれの信仰している神へ礼拝をする習慣があるこの学校では、毎朝八時丁度になると、生徒たちが礼拝堂へ集まってくるのだ。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう」
翔がわざわざ傘を上げて挨拶をしたのは、本校の校長。今年で創立十年を迎えるこの学校の、初代校長である。彼は啓作にも声をかけた。
「おはよう、啓作」
「おはよ、上条サン。天候崩れちゃったねぇ」
素行の良くない啓作がとやかく言われないのには、理由があった。彼はいわゆる天才、つまり“できるのにやらない”奴だからである。成績はその気になれば翔をも上回るほどなので、特待生として学校に通学しているのだ。つまり学校側も、特待生、しかも校長の甥にあたる生徒を退学になど、そう簡単にはできないのである。
よく見れば、全体の模範のような翔の制服姿と比べて、啓作はワイシャツの襟をだいぶ開けているし、ピアスもつけて、髪の毛も染めている。“職権乱用”ならぬ“特権乱用”、学校内での自分の位置を充分に理解した上で、いつにおいてもそれを有効活用している、頭の良い啓作がいた。
礼拝を終え、生徒達がそれぞれの教室に向かう。
「おい、聞けよ! 体育館が雨もりだから、器械体操中止だって!」
「っしゃ、ラッキー! 自習じゃん!」
「食堂行こうぜ!」
声を遠くに聞きながら、翔が礼拝堂の裏でぼんやりと雨を眺めていた。クラスがある校舎が左奥に見えて、その奥にいくつかの山々が連なり、地平線が鈍く光っている。ちょっといい景色だ。
その様子を、翔の見えない角度から眺めている啓作。礼拝の後に自販機で買った熱い缶コーヒーを開け、ふうっと白いため息をつく。今朝の翔の、啓作からしたら明らかに不自然な様子が気になっていたのだった。
「来る途中、エスカレーターでカップルがやたらくっついてると思ったら」
「チュー、してた?」
「そう! もう気持ち悪いのなんのって!」
「他人のイチャイチャなんざ、朝から見てらんないよなぁ」
他愛もない話をぼんやりと聞きながら、互いの存在には気づいていない。ふと耳を傾けると、また別の声が、遠くで必死に弁解していた。
「玄関まで覚えてたんだって! でもさ、玄関出たら忘れちゃって!」
その話を聞いていると、なにやら誰かに返すべきはずのものを家に忘れてきたらしい。
「そういうの記憶喪失って言うんだぜ」
「あー、それかも。うん、それだな」
「何お前、どっか打ったの?」
「家の犬のペロがこの前死んだから、そのショックがでかすぎたかな?」
「ショックで記憶が飛ぶかよ?」
けらけらと笑い出す彼会話の相手。青年はとりあえず苦笑交じりに謝って、
「でも、実際あるらしいぜ? 近所のばあさん、じいさんが死んだせいで記憶喪失になっちゃって、今じゃ病院で一言も話さなくなったんだって、母ちゃんが言ってたの聞いた」
「……何か朝から大変な話だな」
青年が呟いた。――そう。大変だったのだ、朝から。
翔は、そのときこそさっぱり聞き流した救急車のサイレンの音を思い出しながら、深くため息をついた。
――何があったっていうんだ……。
色々なことがおもちゃ箱をひっくり返したように混ざり合い、頭の中でもやもやとした塊になっていた。それを“どうして”という感情が雁字搦めに縛り付けていて、一向に解けない。
「ん?」
足元の小さな石を蹴ったその音で翔の存在に気づいた啓作が、おどけたように悲しみを交えた声で、とうとう呟いた。
「どした?」
思いもしなかった啓作の声に少し驚いたように、翔は頭を垂れて小さく笑う。そして、
「母さんが……死んじゃう、かも」
「え?」
啓作が、だらしなく壁に寄りかかっていた背中を浮かした。あまりに突然、しかも内容が内容だったので、最初は聞き間違いでもしたのかと思った。――死んじゃうかも?
「“かも”って、どーいうこと?」
「今朝、僕を送り出した後、母さんが倒れたらしくて、近所の人が救急車呼んでくれて……病院に、いるんだ」
重いであろう口を開く翔の横に歩み寄る。啓作はただ一心に驚いて、目を丸くして尋ねる。
「行かなくていいの、病院?」
「病院から連絡があるまで待てって、その近所の人が……もう、訳分かんない」
雨の向こうの地平線を眺めるのをやめて、翔は足元のタイルを軽く蹴り、
「学校が終わったら、連絡無くても行くつもり」
そう言って黙り込んだ。
啓作はいたたまれない気持ちになって、自分よりも少し背の低い翔の頭を、不器用に片手で包み込むように引き寄せた。
「疲れた……」
混乱しているのだろうか、翔は吐いて捨てるようにそう呟いたきり、動こうとしない。そんな彼に啓作は何も言えずに、言ったらいけないような気がしたせいもあって黙っていると、翔はそれをなんとなく察して、
「……うん」
小さく呟いた。安心したのか、していないのか、おそらくは双方の入り混じった気分で、薄く涙の浮かんだ目をゆっくりと閉じた。
今時珍しい本物の釣り鐘の音が、校舎の屋上から響いた。
「行こう、始業の鐘だ」
「受けられんの?」
受けるな、とは言えなかった。今の翔に、何かを強制させるようなことはタブーだと直感したからだ。翔は少し笑って、頷く。
「平気。先に行ってる」
雨のなるべく届かないところを縫うように走り、翔は教室へと続く廊下に消えていった。啓作もその後を追い、同時にポケットからたばこを一本取り出す。ライターを出して火をつけようとし、考え直してやめた。
「?」
目の端を一瞬だけ通り過ぎたものが気になって、啓作は少し廊下を戻った。見やった科学室の窓辺には、小さく上品な音を立てながらだんだんと水かさを増していく、いくつもの実験用ビーカーがあった。誰かが干したまま、片付け忘れたのだろう。
「……まったく」
火のついていない煙草を銜え、雨空を仰いだ頭の後ろで、啓作はそっと腕を組んだ。
雨で締め切られた窓が、外と教室内との温度差で白くくもっている。近くの煙突も、遠くの景色も、全てがにじみ、混ざり合った世界。
「はい、それじゃ、始めましょうか」
会議が長引き、五分ほど遅刻してきた教師の気の抜けるような声で、今日の最初の授業が始まった。教科書も開かず、啓作は猫背気味に頬杖をついて、なんだかつまらなそうである。
「えーと、教科書百十三ページ。昨日の続きねー」
入学当初は分厚く感じた一年分の教科書も、もうほとんどに細かいメモや書き込みがされ、だいぶ年季が入ってきた。五、六ページ目でやった基礎が懐かしく思える。
「“The woman who cooks in a kitchen while listening to a radio is his mother.”……それじゃ、矢羽、訳して」
隣に座っている生徒の教科書をなんとなしに見ていた啓作は、教師が教科書の文法例文をそのまま読んでいるだけだということに気づいた。おかげで考える手間が省ける。ますますつまらない。
「ラジオ聞きながらキッチンで料理をしているその女性は、彼のママです」
「うん、まあ、いいでしょう。次、じゃ、関係代名詞の文法を前へ出て説明して。えーと、黒崎」
「はい」
ノートを持って立ち上がると、翔は黒板の前へ歩いた。同時に、生徒たちがせかせかとペンを持ち始める。彼が前に立つときだけ、今こそ理解のチャンスだと、皆の勉強に対する思いが一変するのだ。
「この文の場合、“the woman”に“cooks”以降の文章が後置修飾されているので――」
――よくもつな……。
暇つぶしにシャーペンを指で回しながら、啓作は感心した。説明を終えた翔が当然のように合格をもらって席に戻り、座り終える、その一部始終を細々とチェックを入れながら見ていたが、少しの違和感もない。
「……ふぅ」
啓作には、翔の精神の強さにほとほと感服する他なかった。
結局、午前授業を終えて先生が教室を出て行くまで、彼は全くの“普通”を決め込んでいた。それでもやはり気が抜けたのだろう、休み時間に入ると、椅子に座ってぼんやりと窓の外を眺めている。おそらくは全くの無心だ。そんな翔に、啓作が後ろから声をかける。
「食堂行こーよ」
「え――あぁ、うん」
翔が啓作のもとへ歩み寄ると、啓作は彼を一歩通り過ぎて少しかがんだ。耳元に口を近づけ、誰にも聞こえないように小さな声で囁く。
「朝は悪かったよ、知らなかったんだ……。病院で一通り済んだら、“俺んち”そのまま来いよ」
彼が過去に対して謝るということが意外で、少し驚いた翔は目を伏して、彼と同じだけ笑った。
「その代わり、夜は俺の部屋から出るなよ。見つかったら大事だから」
わざわざ出向いて誰が見つけに来るんだよ、と笑いかけて、せっかくのチャンスを無駄にしては大変だと思い直し、翔は軽く頷いた。
「It’s secret for everyone(秘密だよ)」
「あぁ……sure」
内緒話には決まって耳をそばだてる池に気づかれないように、英語で会話を交わす。啓作が突然英語を使い出したので、翔もすぐに気づき、早速英語を使う。池は英語が大の苦手なのだ。
「Can you return to here by the end of today(今日中には帰れそう)?」
「Though I do not yet understand it, sleep earlier if my return becomes late(まだ分かんないけど、遅くなったら先に寝てて). If you keep on having opened a key of here, I enter the room without permission(鍵だけ開けておいてくれたら、勝手に入るから)」
啓作が頷いた。それを見て、翔はこう続ける。
「Because it is 8:00 that I go to the hospital, I am in the health room till then(病院へ行くのがきっと五時頃だから、それまで保健室にいるよ). If I am found by somebody, you are troubled(“見つかったら大事”でしょ)」
「If you do so it, I am good(そうしてくれると助かるよ). よろしく」
「うん」
二人は言葉を日本語に戻して、同時に軽く伸びをする。英語に払われたというか、盗聴を諦めたらしい池の姿はもう、教室には無かった。
「今日は久しぶりにチャーハンでも食べようかなー」
「俺、めんどくさいから普通にカレーでいいや」
廊下に出て、昼休みのゆるりとした時間だけはせめて気楽に過ごそうと、翔は無理にでもといった具合に笑い、啓作もまた、それを酌み取って笑った。
週末の病院はとても混んでいた。受付で名前と要件を言い、担当医を呼ぶから待てと言われてからもう五分が経つ。
落ち着かずに立っていた翔だが、ついに待合室の椅子へ座り込んだ。組んだ手に額を押し付けるように床を睨み、
「誰が仕組んだんだ、こんなこと……」
そう呟いて強く唇を噛むと、じわりと血が滲んだ。常に真面目な顔をしてクラス委員を務める普段の彼とは思えない、酷い荒れようだった。
「黒崎さん」
やっと呼ばれた。待ちかねて顔を上げると、何枚もの書類が挟まったカルテを持った看護婦が一人、気の毒そうな“医師の顔”をして立っていた。
「ご家族の方は、他にいらっしゃいますか?」
「いえ、僕だけです。父がいますが、だいぶ前に離婚して」
そうですか、と看護婦はカルテにその旨を書き加えた。翔にはそれが、この先の自分の行く宛てを聞かれたような気がしてならなかった。ボールペンをしまって、看護婦が顔を上げる。
「一つ、お部屋を用意しました。お母様もそちらにいらっしゃいます。そちらでお話をしてもよろしいですか?」
看護婦の自分を見る寂しい目。変な言い回し。わざわざ設けられた個室。
「……はい」
もう無事ではないのだろう、と翔はなんとなく確信した。
「よーっし、終わり」
最後に一階の音楽室を施錠して、これで啓作は全ての教室の扉にマスターキーで鍵をかけた。学校で暮らしている同然の啓作には、全ての部屋を好きなときに開け閉めすることができるのだ。
「疲れたー」
廊下を歩き、階段を下りて、保健室へと続く廊下へ足を踏み入れる。
窓から見える保健室内の時計をちらりと見て、もうすでに六時を回っていたことに気づいた。靴の裏でわざと大きな音を立てながら歩き、乱暴にドアを開ける。
「いつまで喋ってんだ! 席つけ、席!」
言ってみたかった、らしい。完璧な独り言体質である。
本来なら保健関係の書類が積まれている机の上に、参考書や要点を書きとめてあるノート、教科書などの山が出来ていた。
「こんな日まで勉強、ってか」
開かれたままの数学のノートにふと目をやって、
「あれ……うわ、珍しい」
彼の計算ミスに気がついた。よく見ると、その一つ前の問題にもミスがある。間違いがあるのは全て今日の日付のノート。きっと啓作がここに来るまで勉強していたときに間違えたのだろう。どれもこれも、彼らしくない初歩的なミスばかりだ。
――まったく。
啓作は何秒もかからない間に間違いを全て正すと、ノートを閉じて元の位置に置いた。腰から落ちるように椅子に座り、本日何度目かのため息をつく。
静かな室内、聞こえるのは暖房の風音だけ。
「どうぞ」
看護婦に連れられて、翔は部屋へ入った。いくつもの機械に囲まれたベッドの上には、今朝がた明るく見送ってくれた母が、呼吸器に口を覆われ、鼻に細いチューブを取り付けられた姿で目を閉じていた。
「母さん……」
看護婦が扉を閉めて、カルテを見ながら言った。
「黒崎さんは現場に居合わせていなくて、連絡は救急車を呼んだご近所の方からお電話で、ということですね」
「あの、母はどうしたんですか?」
居ても立ってもいられないと言った様子で、翔は看護師に尋ねた。
「……おかけ下さい」
とりあえず、と看護婦は翔に椅子を勧める。翔がそこへ座ると、彼女は言った。
「お母様は持病に肺炎をお持ちで、その発作が今回、とても悪い形で起きてしまったんです」
「持病?」
まず、翔はその言葉に酷い抵抗を覚えた。そんな話、聞いたこともない。看護婦はそんな翔に、言い辛そうに話す。
「前回、一年と少し前に入院なさった時も、実はその発作が原因なんです。でもお母様本人が、持病だということは息子には話さないで欲しい、と強くおっしゃっていまして……」
翔はぐっと唇を噛んだ。母のことだ、自分のことで気を遣わせまいとしたのだろう。
「前回は発作のみだったので、お薬と点滴を繰り返して回復なさったんですが……今回は、体の中にあったウイルスが肺に入ってしまっている中、発作がで起きてしまったんです。ですから先程、緊急手術で出来る限りのことはしたんですが……それ以上手術を続けるとお体が持たないと、執刀医が判断致しました」
――何だよ、それ。
翔は、目の前の看護婦に殴りかかってやろうかと思った。執刀医って誰だ。どういう人間なんだ。一体どういう根拠があって、体が持たないなんて判断したんだよ――。
拳を握って、怒鳴りたい気持ちを必死に堪える。翔は震える唇をそっと開いて、
「じゃあ、母はどうなるんですか」
怒ったような声で、そう尋ねた。看護婦は気の毒そうな顔をして、
「現在は、心肺機能を助ける“延命処置”を施してありますので持ちこたえていらっしゃいます。ですが、処置を止めたら、もう自力で命をつなぐことはできないと思います」
それを聞いて、翔はまさかと思った。そしてその“まさか”を、看護師は無情にも言う。
「このまま延命を続けるか、あるいは……延命を止めるか、どちらかを、黒崎さんに決めていただきたいんです」
「…………」
翔は咄嗟に何か言おうとして、結局何も言えなかった。
“延命を続ける”と、その瞬間の彼は言おうとしていた。しかし、それで母は幸せだろうか。動けず、意志の疎通も出来ずに、ただ生きている。それでいつか生き返るのならそれに越したことはないが、そうならなかったら、母はただ辛いだけではないか。
――でも。
翔は、膝の上で強く組んでいた手で両目を覆うように俯いた。
“延命を止める”、それはつまり、母をそのまま殺すということだ。母の命を、どうして息子の自分が左右できる――?
「……母さん」
――母さん、どうしたい?
そう聞いたら、母は何と答えるだろう。私は生きたい、と言うだろうか。それとも、翔に迷惑がかからないように殺して、と言うのだろうか。いや、どちらも聞きたくないと、翔は結局頭を振って、話を振り出しに戻す。
「母さん……」
「今すぐ、決断なさらなくても大丈夫ですよ。少しお時間がいるようでしたら、私は外におりますので」
看護婦はドア口でそう言って、翔が何も言わないのを見て取って、静かに外へと出て行った。
翔は、もう一度母の顔を見た。その表情に苦しみは無く、眠っているような安らかな顔だった。
――生きる、っていうのはさ。
翔は心の中で、母に話しかけるように呟く。
――生かされる、とは違うよね。
震える指先で、そっと母の腕に触れる。暖かい。翔はその瞬間、ぼろりと頬を涙が滑っていったのを感じた。
「母さんは、“生き”たい……?」
ほんの少し、母の唇が動いたような気がして、翔は少し笑った。
濡れた頬を手の甲で拭って立ち上がり、部屋のドアを開ける。先刻の看護婦の他に、そこには二人の医師がいた。執刀医なのか、そうでないのかは分からない。
すう、と息を吸って、
「母を……楽にしてあげて下さい」
翔はこくりと頷いて、確認するように翔の目を見た男の医師に、迷うことなく頷いた。
「お願いします」
――さよなら、母さん。ありがとう。
様々な延命器具を取り除かれた母は、安らかな顔をしていた。
どこをどう帰ってきたのか覚えていないが、時刻は十一時を回っていた。
何やら書類のようなものを書かされ、遺体の火葬など、これからしなければならないことの説明をするから後日また病院へ来るように言われ、それで今日は帰ってきたのだ。
学校に着く寸前の道で、赤信号に気がつかずに横断歩道を渡ろうとした翔にトラックが急ブレーキをかけ、
「赤だろ! 気をつけろ!」
運転手に怒鳴られて、翔はその先の道を走って帰った。
「はぁ……はぁ……」
ふらふらとおぼつかない足取りで寮へ入り、啓作の部屋へと歩くその途中、自分の下の方が嫌に明るい気がして目をやると、ズボンのポケットの中に携帯が光っていた。昼間は携帯を意識している余裕なんてなかったからな、と翔はぼんやりと思う。
おもむろに取り出して履歴を見て、思わず立ち止まった。
――“8:02 不在着信1件 黒崎千草”
八時二分。母が病院に運ばれたらしい時刻も、確かその辺りだ。発作が起きる直前だろうか。あるいは苦しみながら。それとも――。
履歴をよく見ると、短い伝言が残されていた。翔は震える指で再生ボタンを押し、マイクを恐る恐る耳に当てる。無意識のうちに、彼は息まで殺していた。
「…………」
ざーっ、というノイズの奥で、がやがやと大勢の人の声が聞こえる。
――「あ、もしもし、翔?」
母の声だ。翔は思わず目を見開いた。母の携帯からの伝言メッセージを再生したら母の声がした、そんな当たり前のことのはずなのに、今の彼にはそれだけで、喉の奥がぎゅっと詰まったような感じがする。
――「今日、ちょっと遅くなるかも。夜は何か取るから、何がいいかメールしといてね。なるべく早く帰るから。じゃ」
メッセージは以上です、と電子アナウンスが告げ、再生が終わった。発作を起こす前のようだった。
今日は金曜日、一度自宅へ帰る日だ。残業が入って遅くなることが多い千草は、金曜日によくこうして伝言を残す。
翔はもう一度再生ボタンを押した。マイクを強く耳に押し当て、なぞるように声を聞く。メッセージが終わると、また再生する。何度も、何度も。
「……翔?」
軽いドアノブが回って、奥でドアが開いた。ふわりとラベンダーのアロマのいい匂いがして、それまで無に凍りついていた心が溶かされるような感覚を覚える。中から出てきた人影に、翔はぼんやりと目をやった。
「……だいじょぶ?」
啓作の手が左の頬に触れたのではっとした翔は、びくり、と肩を上げた。気づけば、彼はすぐ目の前に立っていた。心配そうな顔をしている彼を、見開かれた目でじっと見つめる。そして、かすかに口が動いた。
「帰る、から、って……」
「え?」
心の中で張りつめていたものが緩んで、
「翔!」
声を上げた啓作の腕の中に、翔は気を失って倒れた。
どのくらいたっただろう。気がついたら、ベッドに眠っていた。
「う……」
何もかもが滲んだ世界の真ん中に、顔が見える。啓作だ。瞬きをすると、冷たい涙が一筋こぼれ落ちて頬を伝った。
「目、覚めた? 今ね、三時半。随分酷くうなされてたけど、大丈夫かい?」
ベッドに腰かけた啓作の目を捉えて安堵したのか、大きなため息をつく。目の上に腕を乗せて、浮かぶ涙を拭った。なんだか酷く疲れたような気がする。
「起こして悪かった」
「いーや」
気を回したのか、啓作は頭の後ろで腕を組むと、立ち上がってソファーへと戻った。その狭間、翔は言う。
「母さん、死んじゃった」
「…………」
咄嗟に言葉が出ず、戸惑いを隠せない啓作に、疲れた顔でほんの少しの笑みを浮かべた翔は、目を閉じた。
「…………」
すると、黙ったままの啓作が、どこからか小瓶を取り出してきた。中には何か透明な液体が入っている。ふたを取ると、酒の匂いがした。翔は本能的に自分の口に手の甲を当てたが、啓作はあっさりとその手をどけた。
――あぁ、飲まされる。
「寝な、ゆっくり」
「…………」
言われるままにぼんやりと力を抜いた翔の肩を抱き起こし、彼の口元で小瓶を傾けた。口の中に入ってきたそれは、必然的に喉の奥へ流れ込んでいく。嫌に懐かしい焼酎の水割りの味に、翔はなぜか抵抗を覚えなかった。
瓶の中身が一気に半分ほどにまで減ると、さすがに啓作は傾けた瓶を戻した。ふたをしながら、楽しそうに笑う。
「案外強いんだ? “焼酎”だからすぐ吐き出すかと思って心配したけど」
「吐き出そうかとも思ったよ」
少し微笑んで、翔は枕に頭を沈めた。シーツがひやりとする。皮肉っぽい言葉にけらけらと笑い声を上げた啓作は、予想よりも思考回路のはっきりしている翔にいくらか安堵した。
「したたかな悪だな、委員長」
「ふふ、一気に飲んだからもう気分が悪いけど……」
翔が小さく笑う様子を見て、彼が気を使っているのが手に取るように分かり、寝かせてやろうと彼は思った。
「……ふうん」
ベッドのふちに座って、無意識にそう呟いていた。彼が考え事をしているときには、必ずに等しくその相槌を打ってしまう。彼の癖だ。
「そのふうん、ての……あんまり好きじゃ、ない……」
「……じゃ、言わせるな」
ふざけて拗ねたような啓作に、だいぶ目がうつろになってきた翔は、大人しく掛け布団に顔をうずめた。
――ベッド、取っちゃったな。
こんなにも自分を思っている、迷惑で、面倒で、しつこい他人。だから他人には本気で笑わないし、本気で泣かないし、本気で怒らない。――が、そんな“他人”に、このとき翔は間違いなく感謝していた。
「おやすみ」
ソファーに寝転んだ啓作が囁いた。
暖房のせいで乾燥した空気は、程よくぬるい。
うっすらと開いた翔の目に、まず始めに移ったのは、つきっぱなしの蛍光灯の光だった。まぶしさに目を細め、手をかざす。
「啓作?」
何か声が聞こえたような気がして、小さな声で呼んでみるが、ソファーの上に彼の姿は無く、そして当たり前のように返事は返ってこなかった。
仕方なく明かりを消そうとしてゆっくり起き上がると、どうにも頭が痛む。翔はゆっくりと毛布をはいで、そして空気がとても冷たいことに気づいた。思わず身震いをして辺りを見回すと、啓作が“裏口”と呼ぶ、校庭に続く非常用のドアが開いていた。彼が開けたのだろうか。
――寒い。
カーディガンを肩にかけて、ドアを閉めようとドアノブを引き寄せ、
「…………?」
夜中の校庭の隅に、薄ら明るい光を見た。目を細め、光の中心を見て、翔は目を見開く。
「母さん……!?」
翔は再びドアを開けると、ふらついた足で革靴を引っ掛け、光のもとへ走った。そこにあったのは、先日延命を止めて死んだはずの、しかし紛れもなく、母、黒崎千草の姿であった。
目の前にやってきた翔に、彼女は微笑みかける。
「翔」
少し響くような彼女の声に、翔は再び喉が詰まるような気がした。混乱した状況にようやく助けが来たような喜びと、今度はもう二度とそれを失いたくないという強い願いが、彼の心に湧き起こる。
目に涙を浮かべながら、翔は彼女に手を伸ばした。しかし触れようとした千草の腕を、手は無常にも通り抜ける。翔はそれを見て表情を強張らせた。
「ごめんね、翔。忙しいのに心配かけて、お母さん最低だね」
「……ッ……!」
出来ないと分かっていながら、それでもがむしゃらに手を伸ばす。手は当たり前のように千草の体をすり抜け、空を掴んだ。胸が潰れるような思いがする。
「翔に、母親らしいこと何もしてあげられなかったね。ごめんね」
千草はそう言って、寂しそうに笑った。何も出来ない自分の無力さに、翔はぎゅっと歯を食いしばった。
――あなたが母親でなければ、いったい誰が母親なんだ。
翔はきつく目を瞑り、歯を食いしばって何度も首を振った。まぶたに熱いものが込み上げて来て、千草の姿がはっきり見えない。――見たいのに。
「翔、母さんの息子で幸せだった?」
「え……?」
見上げた母親は、複雑な顔で微笑んでいた。
「母さんね、今すごくそれが心配なの。幸せだったら、母さん、もっと頑張りたいし、もし幸せじゃなかったら、もっともっと、頑張りたいから――」
翔は唇を震わせながら、溢れて止まない涙を必死に堪えた。
――僕が幸せでなければ、いったい誰が幸せなんだ……!
「幸せだった?」
再びそう言った声に、ノイズのようなものが混ざったように聞こえた。気づけば、千草を模っていた白い光が所々消えてなくなっていた。
「待っ……母さん!」
いつからかぼんやりと消え始めていた千草に、翔は必死で叫ぶ。母である彼女でさえ初めて見る、息子の混乱状態だった。そこまで追い詰めてしまった辛さが、もうほぼ消えてしまった彼女の胸を、最後に締め付けた。
「ごめ、ね……しょ……」
途切れ途切れになっていく千草の声。彼女の目から、光の粒のように綺麗な涙が零れた。永遠の別れの象徴のようで、翔はありったけの声で否定する。
「嫌だよ!! 何で、嫌だよっ!!」
もう彼女の声はほとんど聞き取れない。しかし千草の口は、ありがとう、と確かに動いていた。そのとき翔ははっとして、伝えなければ、と思った。千草が、母が最後に確かめたかったことを、しっかりとこの口で伝えなければ。
「――幸せだった!」
声は聞こえているのだろうか。思いは届いているのだろうか。千草はただただ頷いて、泣きながら笑っている。
「幸せだったよ! 母さんがいて! 幸せだった!」
こんなものではない。伝えたい思いはまだまだ沢山あるのに、どう表現していいのか分からない。だから、とにかく翔は叫んでいた。
「ありがとう!!」
こんな大声は自分だってほとんど聞いたことがなかったが、抵抗は無かった。
「生んでくれてありがとう!!」
言った、瞬間。
ふっと光が消えて、そこにあった暖かさが一気に冬の冷たさへと変わった。大事なものが滑り落ちていくことが、最後の瞬間がやって来ることが、はっきりと分かる。他人が一人いなくなることが、このときばかりはやけに悲しく、怖かった。
「あ……ぁ……!!」
すっかり暗くなった校庭。暖かい光が確かにあったその場所を、翔は抱きしめた。空を切った腕が自分の胸に当たっても、強く、強く、抱きしめた。
「ふぇ?」
土曜日の夜明け、寒さにすっきりと目を覚ました啓作は、嫌に背の高くなった家具たちを見て、しつこく瞬きをした。寝ている間にソファーから落ちたらしい。
「俺……なァんでまたこんな所で寝てるわけ?」
自分に少し呆れる半面、いつもここで大人しく寝ている翔に尊敬を覚えながら、少し冷えた体を暖めようと、擦る。立ち上がって、まだ翔は寝ているだろうベッドに目をやった。
「……はれ?」
乱れたシーツと掛け布団が乗ったベッドに、彼はいなかった。勉強に使う机にもいない。
――寝てろって言ったのに、どこ行ったんだ? トイレかな。
電気ストーブの消えた寒々しい室内には、そう言えば風があった。嫌な予感がして、ぱっと“裏口”を見る。予想通り、ドアが開きっ放しになっていた。そしてドアの向こうの校庭の真ん中で、うつ伏せに倒れている翔を見つけた。
「翔!」
啓作は思わず大声を出して、彼を見下ろしている遊佐の姿を見つけて更にぎょっとした。その上、彼は金属らしい黒いバットまで持っている。
「うっぜぇな、くそ!」
スニーカーを引っ掛けて、啓作は“裏口”を飛び出した。
「げほ、ごほっ!!」
込み上げてくる吐き気と痛みで、翔は目を覚ました。ぼんやりと滲んだ視界に映るのは、晴れた空の手前に立っている青年の姿。――遊佐、だ。
この吐き気と痛みが彼に腹を蹴られたためのものであることに気づくのに、何秒もかからなかった。
「お目覚めか、委員長さんよぉ?」
履いている靴のつま先で翔の顎先を持ち上げ、遊佐が嘲笑を交えた声で尋ねる。
「朝っぱらから校庭のど真ん中で居眠りなんて、呑気なもんだな、ぁあ?」
「……あ……」
息を荒げ、酷く怯えたような顔をして身動き一つ出来ない翔。
「……母さん、は?」
「はあ?」
――母さんが。
先刻まで見ていた母の姿。悲しみの中、消えていった姿。あれは何だったのだろう、ただの夢だろうか。
現状よりもそっちの方が気になって、翔はとにかく焦っていた。もしかしたら母は生きているのではないかと、またひょっこり目の前に顔を出すのではないかと、家に帰ったら玄関を開けて出てくるのではないかと、そう思った。
「寝ぼけてんのか?」
いつもと明らかに違う彼の様子に怪訝な顔をした遊佐だが、彼にしてみれば翔を“潰す”絶好の機会だ。
先刻、校庭の隅に落ちていたのを拾ってきた野球部の金属バットを片手に、ほくそ笑む。
「これな、金属バット、ってんだよ。これでてめぇの頭ぶっ叩いて、今度こそ潰してや――」
「遊佐ぁ!!」
怒りに満ちた大声が、朝の校庭に響き渡った。血相を変えた啓作が、こめかみに青筋を立てて遊佐に殴りかかろうとしていたのだ。走ってくる啓作の姿に呆れたような顔をして、金属バットを握る遊佐は言う。
「こいつのピンチってぇと、絶対出て来るな……夫婦かよ、てめぇらは?」
「黙れ!」
ぎゅっと拳を握り締めた啓作が、振り下ろされた金属バットを肩で受け止め、反対の手でこめかみを殴った。
「ぎゃあっ!?」
信じられない、とでも言いたげな顔をしながら、あっけなく遊佐は倒れた。それもそのはず、確かに彼には手ごたえがあったのだ。がきっ、と骨が砕けるような音も聞こえたのだ。それなのに、何故彼は殴ってくる――?
――ぶっ殺してやる。
啓作の脳内では、とんでもない怒りの塊が渦を巻いていた。どんどん大きくなっていくそれに脳内が占領されて、もはや肩を走る痛みなどどうでも良くなっていたのだ。
「ちょ……啓作……!?」
恐ろしくなって、翔が呼びかける。しかしそんなものなどまるで無視して、倒れた遊佐の胸倉を掴んで無理矢理引き起こすと、今度は頬を殴りつけた。ぱっ、と飛び散った血が、啓作の頬にもかかったが、彼の手は止まらない。
――ぶっ殺して、やる。
「うぎっ……ぎゃあ!!」
瞳孔を半開きにしてひたすら遊佐を殴り続ける啓作の腕を、必死に立ち上がった翔が掴んだ。その拍子に翔自身の目尻を啓作の爪が引っ掻いて、ぴ、と短い切り傷が出来る。
「あ!」
翔に怪我をさせたことに思わず声を上げて振り返ると、悲痛に満ちて表情を歪めた彼の目に、涙が少し浮かんでいた。驚いて目を見開く啓作。
「……しょ」
「駄目、殺しちゃ……!」
翔の言葉に、啓作は我に帰った。気がつけば、殴ったせいで熱を持った手が、翔の手に掴まれて血に染まっている。気絶したらしく、最後に肩を突き飛ばされてから起き上がってこない遊佐の頬は真っ赤に腫れ、唇や鼻からは血が流れていた。
「はぁ……はあっ……」
いつの間にか上がっていた呼吸に喘息の予兆を感じて、啓作はワイシャツの襟元を掴んで肩を上下させた。
「けほっ」
殴られた肩を反対の手で抱えるようにしながら俯いた啓作。痛みを思い出したのか、翔が恐る恐る見上げると、啓作の頬を伝った冷や汗が、ぱたりと地面に落ちた。
「啓作……?」
「あぁ、だいじょ――げほっ!」
まだ少しおびえたような顔をする翔に向かって、咳き込みながらも啓作は手を広げてみせた。翔の表情は変わらない。どうしたらいいものかと焦り、珍しく翔の判断が鈍っている。とにかく病院、と震える手で携帯電話を握る。ボタンを押そうとした次の瞬間、
「もう呼んだぜ、救急車」
翔の背後で声がした。振り向くと、そこには以前、遊佐とカーチェイスをやったときに彼と一緒にいた青年が立っていた。
「あ!」
どん、と突き飛ばして転ばせた翔の首をわしづかみにし、地面に押しつけるように締め上げる。精神的な部分もあって、彼はすぐに過呼吸に陥った。
「はっ……ぁ、はっ……」
「安心しろ、黙って見てりゃ、殺さねぇよ。お前は遊佐さんが直々に――殺すから」
にやり、と気味悪く笑った青年は、首から手を離して立ち上がった。
そんな声などほとんど耳に入らない翔は、胸元を掴んでうずくまったまま時々震えるように痙攣し、苦しそうな嗚咽を漏らしている。
その横で、必死にそれを止めようとしていた啓作が、がくりと膝をついた。
「ごほ、げほっ!」
「風邪か? だっせぇの」
青年はそう啓作を嘲笑して、遊佐が落とした金属バットを片手で拾い上げると、その先端を啓作の頭に向けた。バットを捉えた啓作の目が、苦しさの中に緊張を持つ。
「てめぇはここで死ね」
「――っ!」
バットが振り上げられて視界から消えた瞬間、ごっ、と頭に鈍い音が響いた。何もかもが真っ黒に染まった。
「黒崎!」
名前を呼ぶ声で、翔はようやく“意識”を取り戻した。気絶などはなからしていないのだが、今までは、はっきりと物事が考えられる状態ではなかったのだ。
名前を呼んだ誰かに支えられて、椅子に座る。どうやってここまで来たのか、翔自身もよく覚えていない。
「大丈夫か!?」
そう言って翔の顔を覗き込んだのは、校長の上条だった。翔は彼の目を見て何度か瞬きをし、目線をゆっくりと上げた。
目の前には“緊急治療室”との札がかかった扉と、往来を繰り返す白衣の人間たちの姿。――ここは病院らしい。
「啓……?」
苦しい息の下で最後に見たのは、こめかみから大量の血を流して倒れた彼の姿だった。金属バットであの青年に殴られたのだ、彼は。
「……はぁっ……」
がくがくと震えてきた手をなんとか組み、額に押しつけるようにして震えを止める。
そんな彼の背をさすって、
「君は無事でよかった」
そう言って彼の隣に腰を下ろした校長は、彼と同じような格好で目を瞑った。
「…………」
少し経つと、日頃冷静なせいか、翔はだいぶ落ち着いた。
自分が首を絞められて過呼吸を起こし、今は首に包帯を巻かれて生きていること。また、意識の片隅で頭を殴られていた啓作が現在、目の前の扉の向こうで生死の境目にいることも、追って理解した。
校長が呟く。
「きっと助かる。君も助かったんだから」
「……ええ……」
適当な言葉で答えたが、内心は不安でいっぱいだった。目の端の傷に触れた小さな痛みで、啓作のあの恐ろしい形相を思い出す。
――怖い。
とにかく、もうこれ以上何も消えないでくれと、翔はがむしゃらにそれだけを繰り返した。
「…………」
もう何度目になるか、校長が足を組み直したとき、集中治療室のドアが大きく開いた。びくん、と体を震わせた翔が、恐る恐るドア口を見る。真っ白な白衣を着た女性医師が一人、立っていた。啓作の搬送時にはおらず、初めて目にした校長にまずは声をかける。
「ご家族の方ですか?」
立ち上がった校長が、医師に挨拶をした。翔の手前、この子たちの通う高校の校長だ、とだけ。軽く頭を下げた医師は翔にも目を向けて、
「どうぞ」
それだけ言った。
「…………」
妙に静まり返り、深く溜まったような空気の中に、翔は色々な物を見た。
丸いガラスがいくつもついた、虫の目のような蛍光灯。一定の波形を示しながら規則的に音を出す、箱形の機械。細い銀色のスタンドにつるされた、何やら透明な液体の入ったビニールパック。そのパックから伸びる細い管と、その先端についた針と、その針を固定するテープ。テープの貼ってある腕をたどると、
「啓作……」
頭に包帯が巻かれ、呼吸器で口を覆われた彼が、目を閉じて横になっていた。
立ち尽くす二人に、女性医師は告げる。
「運ばれて来たときには危機的な状況でしたが、一生懸命、持ちこたえてくれました。現在は、心肺機能、脳波ともに正常です。頭を打ったせいで軽い脳震盪を起こしていたようですが、頭蓋骨に損傷は見られませんでした。肩の脱臼も、その場で治せたのでひとまずは心配いりません」
校長がほっと胸をなでおろしたのもつかの間、
「ですが、」
と医師が言葉を続けた。
「打ち所が良くなかったようで……覚えていないようなんです、何も」
「え?」
絶句する校長の横で思わず聞き返して、聞き返すんじゃなかった、と翔は一瞬のうちに後悔した。しっかり聞くのが、恐ろしく怖い。
そんな彼の葛藤などには構う余地もなく、医師は無情にも告げる。
「記憶喪失の可能性が非常に高いです」
――記憶喪失。
翔は頭の芯がぐらりと揺れたのが分かった。ベッドに手をついて、倒れようとする体を必死に支える。
「大丈夫ですか!」
医師が二人ほど駆け寄ってきて、ゆっくりと彼を立たせた。翔は彼らに小さく礼を言って、自分の後ろに丸椅子が用意されたのには気づく余地もないまま、
「……何で」
ただそれだけをこぼした。
その横で、校長は何も言わない。息をする音さえ聞こえてこないほどに、押し黙っている。翔はゆっくりと彼を見上げ、力無く戻した。――記憶、喪失。
「啓作くん」
医師が名を呼んだ。
「うん……?」
呼吸器越しのくぐもった声とともにゆっくりと目を開けた彼は、丁度自分の頭の横に立っている校長を見上げた。表情に大きな変化はない。
「啓、作……?」
恐る恐る呼びかけた校長――このとき啓作を名前で呼んだことにも、翔は全く気づけなかった――。
――“や、上条サン!”
そうやって笑いながら自分を呼ぶ、無邪気な彼の姿が欲しかった。しかし。
「誰?」
困ったような啓作の声。校長には、時が全て止まったように思えた。絶望に目を見開く力さえ、ない。啓作は申し訳なさそうに小さく笑いながら、校長の手をそっと握った。
「俺を知ってる? だとしたらごめんね。俺、今何も分かってないらしいんだ」
「……そんな」
「あ!」
がたん、と椅子を倒しながら、小さく呟いた校長は倒れた。慌てて医師が駆け寄って、また別の医師が簡易ベッドを出しに走っていく。ショックで気を失ったらしい。
「大丈夫かなぁ……」
目の前の啓作は悲しげな表情で、ベッドの上に寝かされて運ばれていく校長を見ている。声をかけるのも怖くなって、翔はただそこに突っ立っていた。
「それじゃ、啓作くん。この人が誰だか覚えてる? 友達じゃない?」
「!」
翔は固まった。
――そんなこと聞かないで。彼の答えが聞きたくない……。
医師に優しく尋ねられた啓作はしばらくうなって、翔に尋ねた。
「友達……名前は?」
啓作の手がゆっくりと持ち上がった。あらぬ場所を見つめていた翔の柔らかい髪を、くしゃりと撫ぜる。翔の体が、びくっ、と跳ねるように震えた。
「……翔」
「ショウ、ごめん」
彼の声に、翔は目を見開いた。
「そんな寂しい顔しないで」
「…………!」
啓作が辛そうに言う。信じられない。
握り締めた両手に、ぐっと力を入れた。そして同時に、唇が薄く開いた。声がこぼれる。
「君、と」
「?」
震える声を必死に絞り出して、伝える。伝えられなくなる前に。
「君といて、幸せだった……」
言いながら、涙が出そうになった。啓作をこれ以上悲しませてはいけないと、それをぐっと堪えて笑みで埋める。作り笑いとしては最高の、本音の気分としては最低の顔だった。
「幸せ?」
驚いたように目を丸くした啓作は、自分の手で呼吸器を顎まで下ろした。医師は何か言いかけたが、結局彼をとめることはしなかった。
啓作は、改めて目の前の青年を見上げた。おそらくは世界中の誰よりも信頼していただろう、この青年を。
「じゃあ俺ね……今、幸せ」
両手を伸ばして翔に触れ、確かにそう言った。翔の肩が少し震える。
「ショウがそう言ってくれて、幸せ」
どこにも影のない笑顔だった。
彼の記憶がそこへ戻ってくることは、二度となかった。
夜。何も知らない啓作は、静かにベッドの上に眠っていた。
「…………」
先刻目を覚ました校長は、彼に別れを告げると、医師に説得されて自宅へ帰って行った。これ以上自らの寿命を縮めてしまっては大変だからだ。
翔だけが一人、椅子に座って啓作を見つめている。
――「君といて、幸せだった……」
今までそんな言葉は、翔とはほぼ無縁であった。他人を他人としか見ない彼は、いちいちその場限りの愛情を育むことなどしなかったのだから。しかし彼は今、その言葉の本当の意味が分かる。だから、悲しい。
「君が生きててくれてよかった。でも、さぁ……」
小さく言いかけて、堪え切れずに啓作の胸に顔をうずめる。膝から床に座り込んだ拍子に、それまで座っていた椅子を倒したが、そんなものどうでもよかった。
「…………」
薄れてきた意識が、今となってはどうにもならないせつない記憶とともに、静かに遠のいていく。何かがどこかへ抜け落ちていく感覚に、翔はゆっくりと、確かめるように呼吸をした。
――これが、記憶喪失っていうのかなぁ……。
そんな想像など、どうせちっとも理屈に合っていないのだろうということは重々分かっている。けれど翔は、根拠もなしに、どことなく確信に近いものを覚えていた。きっと、このまま全て忘れてしまえる、と――。
酷く朦朧としてきた意識の下で、翔は最後に付け足した。今の啓作には届かないように今度は、英語で。
「I wanted “you” to……live……(“君”にも生きてて欲しかったんだよ)」
春一番の強い風の中、スーツ姿の見慣れない男性が、ばたばたと暴れるネクタイを押さえながら、学校の正面玄関の前で立ち往生していた。
「えーっと……」
いくつもの棟が立ち並ぶこの学校の校内案内図とにらめっこをすること数分、
「あった」
ようやく彼が見つけたのは校長室だった。
「失礼します」
約束が入っているためにしっかりと起きていた校長は、入ってきた男性に目をやって、
「お待ちしてましたよ、黒崎さん」
柔らかく会釈をした。
黒崎と呼ばれた彼は、母を亡くし、行き所を失った翔の、本当の父親だった。千草と離婚してからは翔には一切関わりを持っていなかった彼が、今日はその翔の転校の手続きに来ていた。
「初めまして、黒崎翔の――父です」
戸籍を改めて父子関係を持った彼がまず考えたことが、記憶を失ってしまった翔の転校だった。
いくらエリート校の生徒といえども、記憶喪失になった友人と過ごせるほど気丈ではないだろうと、彼なりに配慮をしたのである。
「こちらこそ初めまして。本校校長の上条です、それから」
挨拶に続きの余韻を残した校長。次の言葉を男性が待ってくれているのを感じて、さらりと彼は打ち明けた。
「実は私、翔さんと同室だった矢羽啓作の、叔父なんです」
「え?」
突然の告白に驚きを隠しきれない男性に、校長は苦笑いをしながら続ける。
「生徒たちはもちろん知りません。まあ、啓作が一番信頼していただろう翔さんには、知られてしまっていたかもしれませんが」
「そうだったんですか……」
男性は話を飲み込むように何度か頷いて、そして校長と同じように苦笑する。
「そう、啓作さんという方を信頼しているみたいだと、私も妻から聞いていました。驚いたんです。私たちが離婚して以来、あの子はすっかり人間不信になってしまっていたものですから……」
言いながら、男性は申し訳なさそうな、どこか寂しそうな顔をした。
校長はいつも彼が腰かけているソファーに座ると、彼にも、自分の座る場所の向かい側のソファーを勧めた。礼を言って腰を下ろした男性に、
「今日は、翔さんの転校の手続きですね」
「ええ。翔と仲良くしてくれた皆さんにせめてもの配慮のつもりで」
そうですね、と校長は笑って、手続きの用紙を出した。こちらにご記入下さい、と差し出された用紙には、沢山の記入欄があった。一番上の生徒氏名の記入欄にペンを向けながら、
「……こんなものを書く日が来るなんて思ってもみませんでした」
男性はそう言って、慣れない様子で一つ一つ、翔についての情報を書き込んでいった。
彼が転校先の学校を記入したとき、校長の顔色が変わった。そして校長は驚き交じりの顔で少し笑って、しかしそれについては何も言わなかった。その代わりに、もう一つ打ち明ける。
「私は、この冬を最後に校長の職を辞任することにしました」
え、と男性が驚いた顔をするのに校長は清々しい笑顔でこう続ける。
「あいつは素行が悪すぎて退学ということにして、二人で暮らすことにしたんです。記憶喪失ということは、生徒たちには口外しません……いっぺんに二人も、なんて余計に混乱させてしまいますからね」
神妙な顔つきをする男性に、少しでも和ませようとしたのだろうか、校長は微笑みながら言う。
「私の辞任を生徒に発表するときに、啓作のおじであることも一緒に、公表しようと思います。そうすれば、こそこそ隠れて生活する必要も無くなりますから」
「……そうですね」
男性が頷くと、校長は啓作の姿を思い浮かべながらぼんやりと言った。
「あんなに仲がよかったんですから、お互いのことだけでも思い出したらいいんですがねぇ……」
――「一緒にいたい」
彼の口からそんな言葉を聞いたのは、両親が事故に遭った直後に彼と出会ったとき以来、初めてのことだった。それを言わせるほどの彼の記憶まで、本当に啓作の脳からは抹消されてしまったのだろうか――?
「きっと思い出しますよ」
聞こえてきた声に校長が目を向けると、男性は微笑みながらこう続けた。
「よく言うじゃないですか、切っても切れない縁がある、って」
ふふ、と笑いながら、校長は遠い目をした。
「そうですね」
「そうですよ」
男性は念を押すように返して、用紙に目を戻した。用紙記入者欄に自分の名を書き、とうとう最後の記入欄、用紙記入者と生徒との関係の欄に、彼はペンを置いた。
「…………」
手が止まったので校長が心配そうに男性を見上げたとき、
「……あの」
きい、と校長室のドアが開いて、生徒が一人、顔を覗かせた。
「お客様がいらしてるんだぞ」
「すみません……、でも」
「聞こえちゃったんです、黒崎が……記憶喪失だ、って」
口々に事情を言ったのは、大友と菊川。あの三人だった。
「もしかして黒崎さんですか?」
ぽかんとした表情で三人を見る男性に、池が抑えきれなくなった感情を爆発させたかのように言う。
「お、俺たち黒崎の、クラスメイトで……! あいつ、記憶喪失って……本当なんですか……!?」
「池……」
ぽつりと彼の名を呼び、すみません、と困ったような顔をする校長に、いいですよ、と男性は微笑んだ。嗚咽を漏らしながら涙をこぼす池に、男性は立ち上がって近づいた。
「翔の、クラスメイトの方ですか?」
「友達ですっ……!」
泣きじゃくる池。そんな彼を必死になだめる二人も、彼の言葉に合わせて、同時に頷いた。
「そうでしたか……」
男性はとても嬉しそうな顔をして、三人に正面から話す。
「あの子の頭の中には今、私の記憶も、啓作さんの記憶もありません。自分がこの学校の生徒だということも覚えていなかったし、あなた方の記憶も、残っていないかもしれない」
そんな、と二人まで泣きだしそうになる中、男性はでも、と続ける。
「君たちに友達になってもらえて、あの子もさぞ嬉しかったと思います。その気持ちは、きっとどこかに残っていると思いますよ」
涙を堪えるのに精一杯で、静かに話に聞き入る三人。男性も少し涙声になりながら、
「本当に、翔は色々な方に沢山お世話になりました。その記憶こそ失ってしまいましたが、彼はきっと幸せ者です」
校長にもそれがしっかりと伝わるように、そう言った。
鼻水をすする音と、時々響く嗚咽しか聞こえなくなった校長室で、
「ありがとうございました」
男性は深く頭を下げた。目を擦りながら帰って行った三人を校長と共に見送って、ソファーに戻る。書きかけで止めてしまった記入を、今こそする。
――これからよろしく、翔。
彼を守って育てていくのだという決意をしっかりと胸に刻みつけるように、ペンを握った力強い手先は“父”を書いた。
――春、新しく通うことになった共学の高校。
バイブに呼ばれてポケットから取り出した携帯電話の画面にチカチカと表示された名前――黒崎敬作。
「もしもし?」
またか、とため息交じりに電話に出た翔は、電話越しの心配そうな声に小さく微笑んだ。窓枠に肘をついて少し乗り出し、
「うん、平気……わかってるって。式が終わったらお墓の前でしょ」
編入の知らせをしに、父と共に千草に会いに行く予定なのだ。わざわざ確認のために朝から電話をしてくる父の姿が、ここから遠目に見える。ベランダで受話器を片手に、先刻からずっと手を振っている男が、そうだ。
翔は軽く手を振り返して、
「じゃあね、父さん」
物心ついたころにはもう呼ばないのを当たり前としていた名前を、当たり前のように呼んで電話を切った。それとほぼ同時に、
「じゃあね、父さん」
同じような顔で、同じセリフを言いながら電話を切った青年がいた。翔はその声にふと目を下ろし、建物の脇に建っている桜の枝の向こうに、こちらへ歩いてきている彼を見つけた。事前に聞いていた“もう一人の転入生”だろうか、と思う。
自身が二年への転入生である翔は、一足早く寮につき、割り当てられた部屋で始業までの時間を過ごしていたのである。
――転入生同士が同じ部屋、ってことはありえないのかな。
寮の案内をしてもらった教師に聞いた“同室の人の名前”を思い浮かべ、歩いてくる彼はそんな名前の顔だろうかと、翔はぼんやり考えていた。
青年は、学生かばんの持ち手の片方だけを肩にかけ、制服のボタンをいくつも開けていた。深緑色の緩めのセーターを上手く着込んでいて、髪は綺麗な金髪。格好に似合わない優しい垂れ目で、単に頭の悪い不良には見えない。
「?」
ふと桜の木を見上げた彼が、翔に気づいた。その変に頭を上げた微妙な体制のまま、彼の方が一歩左にずれる。目が、合った。
「…………」
「…………」
そのたった何秒かの間で、彼らは何かに気づいたように、目を丸くした。
「――あんた」
第一声、あんた。つまらないその声に、翔は不気味なほどの安心感を覚え、同時に絶対にその声を知っているような、不思議な感覚に襲われた。
ざあっ、とひときわ強い風が、真っ青な空へピンク色の花びらを流していく。青年はその向こうで、ぽかんと口を開けたまま言った。
「どっかで見たことあるね」
「奇遇だね、ボクも君をどこかで見たことある」
少し微笑みながら、翔がすかさず言った。自分の口からまさかそんな“ジョーク”が出てくるなんて、彼自身考えてもみなかったのだから、少し驚いている。
「僕を知ってる?」
「いや、知らない。俺を知ってる?」
「ううん、知らない」
知らない。そうだ。まさか知っているはずがない。しかしお互い、全く知らないこともない――早い話が、ほんのわずかな切れ端だけ知っている。
ぎゃあぎゃあと大声で騒ぎながら校舎へと向かう生徒たちに肩をすくめたような格好をする青年の姿に、翔はなんとも不思議な感覚を覚えていた。
自分がとても安心できる何かと、どこか似ている。何かが何なのかは思い出せない。その何かの存在さえ、一度リセットされてしまった彼の脳内では定かではないのだから。
それでも翔は笑って、また“ジョーク”をこぼす。
「きっと僕ら、同室になるよ」
――うん、きっと彼が“矢羽”だ。
彼らしくない変な確信を持って、翔は青年に笑いかけていた。聞いた青年は目を丸くして、面白そうに唇の端を上げる。
「……ふうん」
あの笑み。よく知っているような、大好きな笑み。
「よろしく」
青年が笑った。
「よろしく――」
――それが、儚いこと。
最も面倒で長かった、他人の話。
(完結)
最後までお読みいただき、心より感謝致します。本当にありがとうございます。差し支えありませんでしたら、下記の簡易質問を感想欄にコピーするなどしていただいて、番号でご回答いただけたら幸いです。
≪情景描写について(1つ)≫
1.かなり不足 2.やや不足 3.丁度良い 4.多い
≪心理描写について(1つ)≫
1.かなり不足 2.やや不足 3.丁度良い 4.多い
≪展開について(1〜3、4〜6よりそれぞれ1つ)≫
1.全体的に不自然 2.部分的に不自然 3.自然
4.早い 5.遅い 6.丁度良い
もちろん、文章でのご感想も首を長くしてお待ちしておりますので、よかったらお願いします。