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第四章 馬鹿馬鹿しいこと

第四章 - 馬鹿馬鹿しいこと


「こんにちは、今年からめでたくお酒が飲めるようになった矢羽くんです。今年度から、多分今から決めるクラスの委員長と二人部屋です。近未来の委員長サン、俺のことしっかり見張って下さい。好きな科目はありません、強いて言うなら――保健。苦手な科目もありません。何か困ったらなんでも俺に聞いて下さい、大抵のことは教えます。そんなもんかな。多分もう留年しないんで、これから卒業までよろしくお願いしまーす」

 彼にとっては新しいクラスでのなあなあな自己紹介が功を奏したのか、啓作は一日で皆になつかれた。学年が変わって二日目、

「それじゃ、係を決め直しまーす」

 教師が言ってすぐさま手を上げて立ち上がった青年がいた。黒髪をワックスでラフに整え、真っ黒で淵の太かった眼鏡を茶色に変えた、池だった。

「委員長に、黒崎を推薦します!」

「へ?」

 突然言われた翔が変な声を出して、真顔で推薦する、隣の席の池を見上げる。そして一番後ろの席の啓作に目をやると、

「よろしくー」

 ひらひらと彼は手を振った。

 そんな様子を見た教師が、微笑ましい様子で頷き、

「そういうことでいいか、黒崎?」

「いいか、黒崎?」

「いいか、黒崎っ?」

 言わずもがな、大友と菊川である。同室の三人を手なずけた啓作の裏工作だろうか、と翔は一人考えて、

「よっ、委員長!」

「満点パワーで頑張れよ!」

「だっはははは、出たぁー!」

 懐かしい大爆発の中、断るに断れず――断る理由も特に思いつかなかったので――翔は苦笑しながら頷いた。

「よし、じゃあ黒崎は部屋移動だ。今日にでも荷物を移しておいてくれ」

「分かりました」

 その後も様々な係があり、啓作は一番活動時期の短い体育祭実行委員に、池は副委員長に、大友と菊川は冬のストーブの灯油を運ぶストーブ委員に収まった。

「では、早速だが次の時間から授業だ。君たちが初めて受ける化学だね。記念すべき第一回は実験から入るようなので、筆記用具を持って科学室に行きなさい」

 教師が言って、終業の礼をすると、生徒たちはぞろぞろと列を成して科学室へと向かった。



「初めまして。科学担当の大山です。今日は指定された実験を進めて下さい。私は何も助言しません」

 初対面の生徒たちにこれだけ言って、担当教師は実験室を後にし、準備室にこもってしまった。

「はぁ……なるほど」

 委員長として挨拶に行こうとした翔は、それを聞いてとりあえず生徒を出席番号順に席につかせ、二人組のグループを決めると、まずは現状を理解しにかかった。

 各班の番号の書かれたトレーに用意された十個のビーカーには、それぞれ液体が入っていた。その周りには、様々な試薬が用意されている。


――“用意された試薬で検証しなさい”


 試薬実験室のホワイトボードには、たったそれだけ書かれていた。なるほど、と頷いた翔は、皆に体を向けて話し始める。

「先生からは何もおっしゃらないということなので、代わって僕が説明します。ここに、一から十の番号を持った液体が十種類と、それが何なのか調べるための試薬が数種類、あります。劇物が混じっているかもしれないので、液体には絶対に触らないで下さい」

「はいはーい、委員長! もし触ったらどうなるんですかー?」

「そうだね、最悪、溶けるかな」

 ふざけて聞いた質問に間髪入れずに帰ってきた答えに、驚愕の表情を浮かべる大友。それを見た周りの生徒が笑う。

「みんなには、試薬を使って、どれが何という液体なのかを調べてもらいます。さっき二人一組の班を割り振ったので、各班一セットずつ、液体と試薬を取りに来て下さい。あぁ、菊川は僕が持っていくからいいよ」

「いーな、菊川!」

「絶対出来るじゃん!」

 そうじゃん、と今更気がついたように目を丸くした菊川が、へへへ、と自慢げに笑った。

「まずは自分たちで実験して、何かに結果を残しておいて下さい。方法がどうしても分からなければ、僕か啓……矢羽、君も分かるよね?」

 目をやると、啓作は頭の後ろで腕を組みながらおどけたように目を瞑って、

「俺様に不可能はなーい!」

 大きな声で言ってみせた。ぶっ、と準備室の中から噴き出したような音が聞こえて、生徒たちは顔を見合わせた。

 くすくすと色々な笑い声が聞こえる中、翔は開始の合図をした。

「そういうことらしいので、僕か矢羽に聞いて下さい。繰り返しますが、先生にはお尋ねしないように。あ、窓側の人、悪いけど窓開けて」

「はーい」

「めんどくせー」

「はーい」

 ぱらぱらと返事が返ってきて、翔は自分の班のセットを手に、菊川の隣に腰かけた。彼は座るや否や、わくわくと楽しそうな菊川に適切な指示を出し、早速実験が始まった。

「矢羽さーん」

「分かんないことがあるんだけど」

 頬杖をついてあくびをしている啓作に、早速質問が来た。

「何で留年したの?」

「すっげぇ金髪! ヤクザの息子?」

「刺青も入ってんの? 蛇とか?」

「何だ、そーいう質問か」

 最初こそ苦笑したが、何をどう聞かれても、へらへらと笑って受け答えをしている啓作。

「フツーのおにーさんだよ」

「いや、そうは見えないですぜ、兄貴?」

 ははは、と笑い声が上がる中に、今度は本当に実験についての質問がかかる。

「すいません、この透明なのって、何の試薬でしたっけ?」

「ん? ……あぁ、それはフェノールフタレイン液って言って、アルカリ性だと真っ赤になるやつ」

「あぁ、そうだった! 中学のときやった! ありがとうございます!」

 頑張ってねー、と手を振る啓作。彼は尋ねられた質問には必ず答えたが、自分自身は何もしなかった。相方もいないため、全く進んでいない。クラス人数が奇数のため、前から二人一組を作ると最後の彼はあぶれてしまうのだ。

「彼女いるんすか?」

「あ、メッチャいっぱいいそう!」

「何だそりゃ」

 啓作は言いながら苦笑して、彼女というテーマで過去を振り返ってみる。――いるわ、いるわ。

「ゼロってことはないですよね?」

「それはないだろー」

 いちいち名前など覚えていないが、一時期は相当な人数と遊んでいた。寝ずに朝まで飲み明かして校長に怒られた、苦い記憶も蘇ってまた苦笑する。

「ねぇ、いるの? いないの?」

 べらべらと勝手に妄想を膨らましながら喋っていた生徒たちが、今一度、彼に聞き寄った。

「彼女ねー……」

 啓作は少し考えるような素振りを見せて、おもむろに立ち上がった。逃げた、逃げた、と後ろからかかった声に、啓作はぺろりと舌を見せる。彼の向かう先にいたのは、実験を進める翔だった。

「――違う、それはコバルト紙。リトマス紙は赤と青の二種類ある方……そう、それ。一番と三番と七、八番に、それぞれ両方の色を浸してみて」

 十番のビーカーから発生している気体を採取する翔は、菊川と二人でスムーズに実験を進めていた。

 歩いてきた啓作が結果をまとめたノートを取り上げて、

「二番が炭酸ナトリウム、四番が水酸化バリウム、五番、九番が水で、六番がアンモニア……へー」

 驚異的な速さで解明していく実験結果を読み上げ、感嘆の声を漏らす啓作。

「よくやるねぇ」

「どうしてやらないの」

 完全にすれ違う二人の意見を互いに苦笑しているそこへ、一人の生徒がやってきた。

「ねぇ、これって何が分かる試薬?」

「あぁ、phの判別紙だ。酸性・アルカリ性の度合いが分かる。変色の例が資料集に載ってるから、見ながらやるといいよ」

 ありがとう、と戻っていく生徒を見送って、翔が再び自分の実験に戻ろうとした瞬間。す、と肩に腕が回った。

「え?」

 振り返ると、啓作が意味深長な笑みを浮かべて立っている。その口がゆっくりと開いて何を言い出すかと思った次の瞬間、

「これ、俺の彼女」

「……え」

 ぎゅっ、と啓作に体を引き寄せられてバランスを崩しながらも、椅子の上でなんとか視界を定め、翔は驚いた。

 自分たちの正面には、ぽかんと口を開けてこちらを凝視しているクラスメイトの姿があった。現状、啓作に肩を組まれた上に、その手の平は翔の頭の上。抱えられている、と言った方が適切かもしれない。――それより彼、今何て?

「俺、こいつしかキョーミないから」

 さあっ、と翔の顔色が青くなる。絶句とドン引きと寒気の嵐を覚悟した翔の耳に入ってきたのは、

「あっははははは!!」

「さっすが矢羽ちゃん!!」

「言うことなしだもんね、その彼女!」

 例によって“大爆発”だった。その中心で、反応の大きさにちょっと驚いたような顔をする啓作だが、

「だろ? 実験結果も写させてもらうんだ、手ぇ出すんじゃねえよ?」

 そう言いながらすぐにテンションを乗せ、ふざけたように――本気でふざけていて欲しい限りだが――笑いながら、ぼすぼすと翔の頭を叩いた。

「……啓作」

「なーに、マイハニー?」

 満面の笑みの上から、ごしゃん、と鈍い音がして、ひっくり返った啓作の体が派手に壁にぶつかった。

「矢羽ちゃん!!」

「うっわ、夫婦喧嘩だ!」

「逆DV!」

「痛そー!」

 冷やかす野次馬の中心に立っていた翔の手には、長いビーカー立てが握られていた。あろうことか翔が、委員長が、啓作の頭をそれで叩いたのである。

「たは……あっはは……いったい」

「馬鹿言うなよ、真っ赤な他人の癖に」

 頬を若干赤くしながら厳しく言い放った翔は、一番近くで“彼女騒動”を目撃して絶句している菊川の肩を叩いて実験の続きを促した。

「あぁ、えっと……、あ」

 どこまでやったんだっけ、と焦っている菊川の手から、啓作が赤いリトマス紙を引き抜いた。それを翔の目の前に持ってきて、

「これだとまだ“赤の他人”」

「……は?」

 突然言い出した言葉に怪訝な顔をする翔に、これまた意味深長に目線を合わせた啓作は、これまでの翔の班の実験結果の控えから判断して、一番の薬品を手に取った。そしてそこにリトマス紙をつける。薬品に使った部分が、綺麗な青に染まった。

「こうすれば……ほら、“青の親友”。これすなわち俺ら! だろ?」

 親友、確かに今そう言った啓作が持っているリトマス紙を、じっと見つめる翔。赤かった紙が、確かにそこだけくっきりと青い。しばらくして啓作に目を向けてみると、啓作もじっと、翔を見ていた。

 もう一度青色を見つめながら、ぼんやりと考えてみる。


――親友……。


「……え?」

 笑いを押し堪えたような空気に、翔は思わず声を漏らした。完璧な冷やかしムードの中で、気がつけばクラス中から注目を浴びていた数秒の後、

「うわー……信じられない。翔が、俺の言葉にときめいてくれちゃった」

「!!」

 ぼそりと啓作が呟いたものだから、翔ははっとして、再びビーカー立てで彼の頭を引っ叩いた。

「いった! ぃいった!!」

「リトマス紙の変色なんて――どこの詩人だよ、馬鹿」

 うずくまって悶える啓作を尻目に、ますます赤くなった顔を背け、それが悟られないよう、やや俯き気味に尋ねる。

「菊川、八番の結果は?」

「あ、今、今やる! 待って、待って」

 夫婦漫才に釘付けになっていた菊川が、言われて若干にやつきながら、八番の液体にリトマス紙を浸し始める。菊川が結果を言う前に目で見た翔が、結果をノートにすらすらと書き足しながら、ほぼ棒読みで結果を読み上げる。

「赤も青もそのままだね。八番は炭酸水だ。十番は硫化水素が出ていて通電性の液体だから硫酸銅、実験は終わりだ」

「ちょ、ちょ、翔、翔ってば」

「何!」

 翔が、大声を出していた。こんなに取り乱した彼の姿は、一年間ともに過ごしてきたクラスメイトも、寮の元同室の三人でさえも初めて見る。

 両手を合わせた啓作は、ウインク越しに翔を見上げて、

「青の親友、どーか、お慈悲を」

「…………!」

 また言った――親友。

 翔は彼から目をそらし、結果をまとめたノートを乱暴に投げつけた。何メートルもない短距離で、片手で器用にそれを受け取った啓作は笑いながら席に戻って行く。

「さんきゅ、恩に着る!」

「着なくていい、気色悪い」

 ひゅうひゅう、と沸き起こる冷やかしに頭を押さえながら座り込んだ翔の耳元で、

「矢羽さん、格好良くていいじゃん」

 菊川がなんとも楽しそうに言ったので、翔は再びビーカー立てを握った。高く、終業の鐘が鳴った。



「いやぁ、科学は有意義だったね! あんなに真面目に授業に出てたの初めてだよ、俺」

「馬鹿なこと言ってただけの君の、一体どの辺が真面目なのさ」

 二年生を迎えて初めての授業をすべて終えた翔は、今までいた寮で荷物をまとめ、啓作の部屋への移動もすっかり終えて、ソファーに寝転んでいた。

「だいたいね、男の君が僕を彼女だなんて意味が分からない。僕にしか興味がないって、一体どういうことだよ」

 怒ったように言いながら、途中で苦笑が混ざってしまった。啓作も、声を上げて苦笑しながら翔を見やる。

「ほんのジョークだって。常識で考えれば、彼女と親友の違いくらい分かるだろ? それがあんな騒ぎになるなんて、思わなかったんだよ……相手がガキだとこうなるから嫌だ」

 がしがしと頭を掻きながら弁解する啓作にため息を一つついて、

「……とにかく、今日から僕はここで寝泊まりさせてもらうことになったから。ソファーで寝ればいい?」

 どうせこれも君の陰謀だろ、と言いかけたが、これ以上啓作が調子に乗ったらとんでもないと思って止めた。が、それでも彼は言ってみせるので、

「え、ベッドで一緒に寝」

「遠慮する」

 ざっくりと一線を引いた。呆れ返った翔は啓作の顔を見て、小さく笑った。

「……何だよ?」

「いや……馬鹿みたいだから」

「馬鹿みたいって……そう言えばお前、今日だけでも“馬鹿”って相当言ったよなぁ」

 そうだっけ、と翔はまた笑う。こんなに笑って話が出来る他人なんて、唯一の家族である母だけだと思っていたのに。

 こんこん、と扉がノックされて、開けようと啓作がソファーから立ちあがる前に、勢い良く開いた。

「配達です!」

「池!」

 驚いた顔をする翔の目の前に、

「じゃーん!」

 楽しげな効果音と同時に池が両手で広げて見せたのは、

「レストランの無料券……?」

 一枚の小さなチケットだった。

「何、タダで食い放題?」

 座ったままの体を思いきり反り返らせて、啓作は逆さまになった池を見つけて尋ねた。ビュッフェじゃないから食べ放題ではないんですけど、と池は笑って、

「近所にオープンしたんで是非、って店長が。それがさ、五名様までなの」

 池、大友、菊川に加えてこの部屋の二人、と言う訳か、なるほど。

「いいの、僕らが行っちゃって?」

「だって去年、翔だって美術館のチケットくれたじゃん」

 懐かしそうに微笑んだ池は、何度も頷いた。まだ逆さま状態の啓作が一言、

「美味いの、一杯飲んでくか?」

「え?」

「高校生に変なこと進めないで」

 親指と人差指で作った御猪口をくい、と口元で傾けた啓作に、翔がすぐさま一喝して、そう言えば、と尋ねる。

「いつ行くの?」

「それがさぁ……」

 尋ねられた池が一転して困ったような顔をする。指先でかりかりと頬を掻きながら、

「今日までなんだよ、期限」



 そして五人は午後六時半、予約した時間きっかりにレストランに着いた。

「そーいう大事な情報は最初に言うもんだぜ。おかげで、見ろよ、何の集まりだか分かったもんじゃない」

 おどけたように口をとがらせる啓作に、池が苦笑した。

 啓作の言う通り、突然の招待だったため、その場で着ていた服を、それぞれがそのまま着てきていた。

「すいません、予約した池ですけど」

 ウェイトレスに無料券を見せながら話しかけた池は、カーキ色のワイシャツの上に、英語のプリントの入った白いタンクトップシャツを着、更に黒いベストの前を開け、肩にかけるように羽織る。一人、しっかりと彼なりのお洒落をしてきた彼は、眼鏡が似合っていい感じだ。

「なぁ、“飲む”よな?」

「酒? もちろん!」

 一方の彼らは部活を終えて直行してきたため、バスケットボール部の大友はジャージ姿にエナメルバッグ、吹奏楽部の菊川は制服姿に学生カバンだ。

 二人で盛り上がっているところへ、池が横から水を差した。

「二人とも、さっきから飲む、飲む、って言ってるけどさ、公共のレストランだぜ? 未成年に酒なんて出すはずないじゃん」

「あー!」

「飲めない!」

 ショックに満ち溢れたような顔をする二人に、啓作が一言。

「俺が頼む分にはいいんでしょ?」

「え、本当ですか!?」

「矢羽さん最高!」

 すっかりなついた二人と、笑いながら肩を組む啓作。彼はグレーのパーカー姿で、大きなフードをすっぽりとかぶっている。所々擦り切れた仕様の、ユーズドブルーの緩めのジーンズは、皆と比べて完全にラフだ。

 酒が飲める、と二人がはしゃいでいると、ウェイトレスから声がかかった。ばれたか、と口を噤んで目をやると、彼女は微笑みながら一言、

「池様、五名様ご案内します」

「あ……はーい」

「何だ、ビビったー」

 見事なフェイントに苦笑しながら、頼んでおいた窓辺の席に向かう。

 白黒のボーダーの長そでシャツに、銀のネックレスを下げ、黒のカラージーンズを合わせる翔は、酒が飲めると舞い上がっている連中に忠告する。

「飲むのはいいけど、ちゃんと自分で寮まで帰ってよ、特にその大きい人」

「俺ぇ? 俺、酔わないもん!」

 黙示された啓作が弁解して、

「いざとなったら頼れるシラフが二人いるじゃん、ねぇ?」

「やだ」

「無理です」

 酒は飲まない池と翔が、先頭切って歩きながらきっぱりと断った。



「こちらでございます」

「すっげ、綺麗!」

「池、ナイス!」

「だろ?」

 さすが、ビルの五階の展望レストランだけあって、景色は見応えがあった。正面では町明かりや遠い繁華街のネオンがキラキラと光り、右手には観光船の走る海が広がっている。学校から近く、毎日見られる海も、夜になるとだいぶ雰囲気が変わるものだ。

 ご注文が決まり次第お呼び下さい、と頭を下げて戻っていったウェイトレスの背中を眺めながら、

「やっぱさ、いいところは可愛いよ」

「あぁ、まったくだ」

「な? 今日、来てよかったろ?」

 調子よく話を合わせる池と、心底頷く大友と菊川が腕を組んで座った向かい側に、翔と啓作が座る。

 彼らが早速メニューを開いたとき、


――ピンポーン


 明らかにここで、呼び鈴が鳴った。翔が啓作に尋ねる。

「押した?」

「押してない。池、押した?」

「押してません。大友?」

「俺じゃねぇよ。きっくー?」

「正解!」

 えぇ、と皆が焦る中、菊川は目を閉じ、落ち着いた口調で言う。

「せっかく可愛いウェイトレスさんが担当なんだからさ、ここのお勧め何ですか、とか聞きながら決めよーよ」

 あどけない菊川の妙案に、大友と啓作の目にはハートが浮かんだ。池は一人、店員への失礼と迷惑を考えてうなり、翔は長いため息をつく。

「いい! それいい!」

「うるさい、大友。……でも、ご飯時に悪いんじゃない?」

「いいんだよ、こっちは客なんだから! 黒崎みたいなこと言うなよ」

「僕みたいって、それはどういうこと?」

 池に怒られた大友がしゅんとなって、その向かいの翔が、余計なことを言った池に目を向ける。

 その隣の啓作は楽しそうに笑って、

「やるなぁ、このマセガキ! 酒飲めないくせに!」

「それとこれとは別ですよ!」

 そう言って、調子に乗ったように胸を張る菊川と意気投合する。

 そんな、けらけらと笑い声が絶えないテーブルに、先刻のウェイトレスがやってきた。

「お待たせしました。お決まりでしょうか?」

 ごほん、とわざとらしい咳払いを一つした菊川が、大人ぶった口調で尋ねる。

「すいません、ここのお勧めを教えてほしくて」

「はい、只今の当店のお勧めは、季節限定の栗おこわの定食となっております」

 菊川の豹変ぶりにくすくすと笑いを堪えている大友と啓作。そんな妙な雰囲気の中で、“限定”に弱い池が、じゃあそれ、と注文する。

 大友が調子に乗って、更に尋ねる。

「ウェイトレスさんのお勧めは?」

「えっ、私のお勧めですか?」

 若干戸惑ったような顔を見せたウェイトレスに、啓作まで声色を変えて言う。

「あなたのお勧めなら何でもいただきますよ」

「まあ……ふふ、本当ですか?」

 唇に手を当てて笑ったウェイトレス。ずきゅん、と音が聞こえそうなほどに男三人が興奮して、翔と池が顔を見合せて苦笑する。

 それにしても、今の啓作の一言が効いたのだろうか、彼女まで少し顔が赤い。メニューの中の一ページを開いて、彼女は啓作にメニューを向け直して言った。

「じゃあ……こちらの秋刀魚のおろし定食はいかがですか?」

 見るからに美味しそうな定食だ。

「旬のお魚、いいですね。いただきます。あとグレープフルーツサワーを一つ」

「あの、かき揚げか天ぷらか何かの定食ってありませんか?」

「俺もそういうのがいいなぁー」

 楽しげな大友と菊川に、ございますよ、とウェイトレス。メニューを自分に向けてもらうのをやって欲しくて、定食の存在を知っていながら、彼らはわざわざ尋ねたのだった。

「こちらです。旬の野菜のかき揚げ定食になります」

「旬の野菜、いいですね。いただきます」

「お前ら、そろって矢羽さんの受け売りかよ」

 池の冷静な突っ込みには皆が笑った。そんな“ウェイトレスさんに構って欲しいムード”の中、彼女が、まだ注文していない翔に、自らメニューを向けた。

「お決まりですか?」

「……あぁ、それじゃあ、彼と同じものを」

 声をかけてもらった翔に四人全員が羨ましそうな、びっくりしたような目をして注目する。

「かしこまりました」

 注文されたものを複唱して、小さく頭を下げて去っていくウェイトレスを見送りながら、大友がため息をつく。

「あーあ、俺ときっくーは終わったな」

「“アウトオブ眼中”寂しいねぇ」

 菊川も同じような顔でそう言って、

「ねぇ、どっちかな?」

 しょんぼりしている二人に、横から池が声をかけた。

「ウェイトレスさんが気に入った男。矢羽さんと、翔と、どっちかな?」

 賭けごとの好きな大友が即、頬杖をつきながら返事を返す。

「俺は矢羽さんに賭けたな。やっぱ女の人って年上のがいいんじゃない?」

「俺は翔に賭けた! 目が違ったもん、何か意識してる目だったよ!」

 ノリノリの大友に菊川が答えると、丁度、そのウェイトレスがやってきた。啓作ににこりと微笑んで、

「お待たせ致しました。グレープフルーツサワーでございます」

「はい、どーも」

 グラスを受け取った啓作が微笑み返し、ウェイトレスが帰って行くと、大友がにやり、と笑って池の肩を小突いた。

「きてる」

「きてるね」

 二人は視線をウェイトレスの背中に釘付けにしたまま頷く。見かねた菊川が、翔を理不尽に急かした。

「おい黒崎、お前もうちょっとアピールしろよ……ほらほら、料理来たぜ」

「何をアピールするのさ? しかもあれは別の客のかき揚げ」

 いくらなんでも来るの早すぎるでしょ、と翔が冷静に返す。

 すると、先刻から何やら池とこそこそやっていた啓作が、テーブルの陰から、何やら怪しげな色の液体の入ったコップを出した。

「何それ、何混ぜたの?」

「サワーにタバスコとコショウと醤油入れて、みりんで割ったの」

 してやったりと言わんばかりに楽しそうな顔をする啓作と、それを自信たっぷりに説明した池に、大友と菊川がそろって、

「うえぇ!?」

「気持ち悪りぃ!」

 これでもかと言うほど表情を歪めた。

「そんなもの誰が飲むの?」

 翔も一際渋い顔をして尋ねると、啓作が一言。

「負けた方」

「えっ、それって、もしかして俺らの話っすか!?」

「矢羽さんだったら俺、飲むの!?」

 ええぇ、と更に二人が変な顔をして、

「頼んだからね、翔!」

「頼みましたよ、矢羽さん!」

 それぞれ賭けた方の手をがっしりと握り締めた。審判は俺ね、と一人言った池の声など、二人にはおそらく聞こえていない。

「お待たせ致しました」

「うわっ!」

 運命の瞬間が訪れるのがあまりに早くて、思わず菊川は悲鳴を上げた。

 二段の配膳台に、五つの定食が乗っていた。まず始めに誰の定食を出すか、と目を見張る彼らに、

「かき揚げ定食でございます」

「お」

「えっ」

「うそ」

「まじで?」

 定食を差し出された翔以外の四人が、それぞれ思い思いの顔をした。

「失礼します」

「どうも」

 翔が会釈すると、ウェイトレスは翔に向かって微笑んだ。菊川がさも嬉しそうな顔をする横で、大友は下唇に手を添えて泣きそうになっている。

「秋刀魚のおろし定食でございます」

「はい、どーも」

 そしてウェイトレスの微笑みは啓作へ。後三人は順々、と言った具合で、彼らとさほど変わらない会釈が続いただけだった。

 翔への方が可愛かっただとか、啓作への方が丁寧な置き方だっただとか、そんなつまらない言い合いは池が却下し、軍配は菊川に上がった。この男、どうも賭け事には強いらしい。

 面白がった池が、定食を全て配り終えたウェイトレスにダメ押しで尋ねる。

「あの、そこの二人、どっちが格好良く見えますか?」

「はい?」

 突然の質問に目を丸くしたウェイトレスに、大友と菊川が必死の形相で言い寄る。

「こっちですよね! 明らかこっちのが精悍な顔してますし、しっかりしてそうですし、現にそうですから!」

「いやいや、こっちですよね! 明らか優しそうだし、年上だからほら、何か安心するって言うか、ほら!」

「え、っと、どちらも素敵な方だと思いますけど……」

 明らかな戸惑いを全面に出すウェイトレス。楽しそうな啓作はともかく、翔に至ってはめまいでも起こしたように、額に手を当てて黙り込んでいる。

 そこにいる誰よりも焦る二人を押しのけるようにして、池が彼女に苦笑交じりの会釈をし、

「あの、こいつら本当に気にしないでいいんで、どっちかって言ったら、っていう方を、ウェイトレスさんの本音でお願いします」

「ど、どちらか、ですか……?」

 ウェイトレスは頬を赤く染めながら、二人を見比べるように交互に見る。奥の席の翔は照れたように目線を外し、手前の席の啓作もまた、照れて頭を掻きながら笑っている。そんな様子にウェイトレスはますます赤くなって、

「あ、あくまでも私が、ですけど……」

「ええ、それでいいんです!」

 祈るように目を瞑る二人の奥で、池が頷く。ウェイトレスの口が開いた。



 帰り道、サワーを飲みすぎて眠ってしまった菊川と、サワーに色々と混じった液体を飲まされてふらふらになった大友を片腕ずつ支えて歩く啓作が、

「面白かったね、賭け」

 コップ一杯飲んだだけで酔い、散々愚痴を言って眠ってしまった池に肩を貸す翔に、そう笑いかけた。

 とんでもない、とでも言った顔で、翔はひたすら前を見つめる。

「馬鹿馬鹿しいよ……」

「でもよかったじゃん、あんな美人に素敵だ、なんて。だって、俺がそーいうので負けたのなんてメチャメチャ久しぶりだぜ?」

 名誉だよ名誉、と笑い声を上げる啓作。

「ま、お前のことだし、勉強三昧の毎日なんだろうけど……悪くないだろ、こーいう“馬鹿馬鹿しい“のも?」


――うん。


 心の片隅で、翔はそっと思っていた。しかしそれがどうにも口に出せなくて、無言のまま、彼は俯いた。

「付き合ってやれよ、たまには」

 暗い夜道、よいしょ、と二人の肩を背負い直した啓作の声に、くす、と翔が笑い声をもらした。


 ――それが、馬鹿馬鹿しいこと。

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