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第三章 些細なこと

暴力・流血シーンが多々あります。お好きな方はお楽しみに(ぇ)、苦手な方はご注意ください。

第三章 - 些細なこと


 真っ暗な夜の山、カーブの多い道を、二台の車が猛烈な速さで走り抜けていく。道の両側はいつでもみっちりと木々が覆い尽くしていて、枝から伸び放題の葉は、満天の星空を黒く塗りつぶしていた。

「そしたらさ……」

 ギャギャアァァッ、とタイヤのこすれる音がして、前を行く車が派手なドリフトをやって見せた。ヘアピンカーブを最短距離で曲がりきり、そのまま更に加速。次のカーブでは道路端の溝にわざとタイヤを落として、遠心力を最大限に使ったパワフルな曲がり方をする。ずっと後ろにつけていた車との距離が、ぐんぐんと広がっていく。

「……でね……」

 運転手の顔は見えない。助手席にも誰か座っているようだが、その顔も見えない。ただ、彼らのしていること、それはとてつもなく派手で洒落た、足をつけている世界の違いを感じさせるようなものだった。

「っていう夢!」

「へえ」

 今の今まで興奮状態にあり、昨晩みたらしい夢について舌を噛むほどの巻き舌で喋り続けていた啓作が、翔のそっけない返答にがくりと肩を落とした。

「相変わらず冷めてんのねー、お前! 何かもっとさ、すっげー! とか、かっこいいー! とか、無いのかい?」

「んー……? じゃあ、強いて言うなら“不思議”」

「不思議ィ?」

 二年の春から同じクラスになった二人は、学年の違う最後の冬休みを、一足早く寮の一室で過ごしていた。正月までに自宅をリフォームするのだとかで、家にいると邪魔になるかも、と気を使った翔は、その年の残りを寮で過ごすことにしたのである――一人じゃなんだから、と誘われて、啓作の部屋で。

 そんな一日、先刻と大してレベルの変わらない翔の返答に、半目の啓作はぼやく。

「わかんない奴」

「うん……ちょっと、物理でつまずいててさ……」

 シャーペンの先を額に当てて、翔はその大人しそうな目を、朝から何度も問題文に走らせていた。聞いた啓作が、羽織っているパーカーのポケットから取り出して口に放り込んだ金平糖――彼の好物であり、何か考え事をするときなどは特に大量に食べている――を、がりがりと噛み砕きながら目を丸くする。

「学年トップが物理つまずくってどういうことさ」

「どういうも何も、何度やっても数値が一致しないんだよ――それに君だって学年トップでしょ?」

 あぁ、そうだったっけ、と啓作は笑った。

 いつかの宣言通り、一年後期の物理で翔は満点を取ったが、啓作もまた、バツの無い綺麗なテスト用紙を持って帰ってきた。こればっかりはどうしようもなく、結局引き分けである。

「じゃ、学年トップに見してみな」

 啓作がプリントを覘いてみると、問題用紙の余白には計算式とその検算が細かく書き込まれていた。問題を睨んだまま、先刻からちっともページをめくっていなかった翔だが、どうやらつまらない計算ミスの類ではない。啓作が目で一通り解いてみたが、やはり数値が合わない。どうやら間違っているのは問題の方らしい。啓作が尋ねる。

「これ、作ったの誰センセ?」

「上沼先生。三年の」

 じゃあだめだ、と啓作は頭の後ろで腕を組んだ。

「彼、十問に一問はミスってるから。おかしいと思ったら、すぐ止めた方がいいよ」

 四年間ここで過ごしてきた彼だからこそ言える、悲しい事実であった。

 ふうん、と翔はその問題を飛ばし、次へと移る。問題文に一通り目を通して、よし、今度は大丈夫そうだ。再びいつもどおりのリズムで問題を解き始めた肩に手を置いた啓作が、あのさぁ、とこぼす。

「勉強中断して構ってくれてもいいんじゃないの、たまには?」

「池たちと同じこと言うんだね。……そんな寂しがり屋だったっけ、君?」

 にやりと意地悪い笑みを浮かべた翔の頭を軽く小突いて、

「ハイパー寂しがりよ、俺」

 半分冗談、半分本心の台詞と同時に、問題分しか見ない翔の両目を、頭ごと腕で抱えるようにして塞いだ。

「!?」

 すると、さっと顔を強張らせた翔が、啓作の肩を強く突き飛ばした。

「うわっと!」

 思わず声を上げる啓作。そんなことなどまるで構わないかのように、翔は乱暴に椅子から立ち上がり、ドアに向かう。

「お、おい、翔!」

 驚いた啓作が、彼の肩に手を伸ばす。すると翔はきつく目を閉じたまま、後ろ手で素早くそれを振り払った。

「ごめん、頭冷やしてくる」

 やり場のない混乱を滲ませた目を見て、啓作は何も言えなかった。

 乱暴に開けられたドアから冬場の乾いた冷たい空気が吹き込み、翔の体を包んでそのまま連れ去っていく。

 二人の間に、初めてすれ違いが生じた瞬間だった。



「ふぅ……」

 机の上に広がった勉強道具を端へよけて、頬杖を突く。出てきたものの行き場を失って、寮を閉め出されてしまう翔のために唯一開いている保健室へと、仕方なく戻ってきたのだ。


――何で、こんなに腹立たしいんだろう。


 翔は自問して、ため息をついた。

 いつものように彼がふざけていることなど、ちゃんと分かっている。それなのに何で、今日だけ。――そうやって疑問を疑問で覆いながらも、彼の胸中に心当たりが全く無いわけではないのだった。



 中学三年、丁度今から二年前の春に、ことは起こった。

 その日最後の授業が体育だった翔は、放課後、倉庫の片づけの手伝いをすることになっていた。クラス委員を務めていた翔が、クラスメイトの体育委員、安藤から頼まれたのだった。

「じゃーな、黒崎!」

「また明日」

 最後に着替えを終えた生徒を見送り、更衣室の施錠をすると、彼は鍵を持って体育倉庫に向かった。倉庫は体育館の脇に併設されている小さなもので、今日まで使っていたバスケットボールや得点ボードを奥にしまい、次回から使うバレーボールのネットやポールを出すのが今日の仕事だった。

 倉庫のドアを軽くノックして、声をかける。

「安藤?」

 中から返事は聞こえてこなかった。

 不審に思いながらも、翔はドアを開けた。いつものことながら、中は真っ暗で何も見えない。とりあえず明かりをつけようと、入って右奥のスイッチに手を伸ばしたとき、その手を何かが掴んだ。

「っ!?」

 突然の出来事に目を見開いた翔だが、もう何をするにも遅すぎた。後ろから突き飛ばされて倉庫の中に倒れ込むと、乱暴にドアが閉められた。

「あ、ぐ!」

 突如、苦しそうな悲鳴を上げた翔。暗闇の中、何者かにものすごい力で腹を蹴られたのだ。

「ごぼ、げほっ――がっ!!」

 あらゆる方向から、暴力は次々と襲いかかってきた。どうやらそこにいるのは一人ではない。

「い……っ」

 足を蹴られて転んだ拍子に、手元に何か硬い棒のようなものを見つけた翔は、反動をつけて思いきりそれを振り回した。

「ぎゃっ!!」

「う!」

 手が痺れそうなほどの酷い反動が返ってきた。そしてそれは誰かのどこかに当たったらしく、声が聞こえた。聞き間違いでなければ、安藤の声だった。暗い中に目を凝らして見ると、体格のいい影が見える。やはり、そうだ。

「安藤!?」

「あ……っ」

 翔が声を上げると、ぱっ、と突然辺りがまぶしくなった。電気がついたのだ。

「大宮先生!」

「ばれちゃ、しょうがない」

 目を細める翔は、まぶしい中で、自分の周りに三人の人間がいることを知った。一人は安藤。もう一人は、どんな難題を投げかけても最後には解いてしまう翔を、目の敵にしている数学教師、大宮。そしてもう一人は、

「うっ……うーっ……!」

「三条さん……!?」

 誰かのネクタイを猿轡として噛まされ、両手を得点ボードに縛り付けられて座らされている、クラスメイトの女子生徒、三条だった。唾液を含んで緩んだのだろうか、彼女がうめき声を上げた時に、猿轡が顎の下まで落ちた。気がついた坂本が猿轡に伸ばした手に、思い切り噛みついた三条は、咳を切ったように、

「助けて!!」

「!」

 翔にすがりつくように、そう叫んだ。目に涙を浮かべる彼女を見て怒りがわき上がって来て、翔は二人を睨みつけた。

「どういうこと、安藤?」

「……ご、めん……」

 つい先刻まで楽しそうにバスケットボールをしていた安藤は、三条の喉元にカッターナイフを突き付けていた。その口が小さく謝罪の言葉を漏らしたのを聞いて、翔は大宮を睨みつけた。

「あぁ、彼は関係ないよ? 私が手伝わせているだけなんだから。ちゃんと手伝えたら成績を上げる約束で、ね」

「……ごめんなさい……! 俺、ちゃんとした高校行かなきゃ……父さんに、殴られ……っ!」

 家に帰れば、父親が参考書を片手に待っている。何だこの点数は、早く直して、理解するまで解け――そんな台詞も、もうこの一年間で何百回聞いただろう。そんな父親がいる前で、もし、成績にA評価がついていなかったら。考えただけでも寒気がする。

 安藤はそれを恐れて教師に頼み込み、じゃあ、と彼が口にしたこの計画の手助けを、引き受けてしまったらしい。


――くだらない。


 翔はため息を飲み込んで、大宮に問う。

「どうして三条さんを?」

「人質がいるんでね。お前をここから逃がさないために」

 嫌味っぽくそう答えた。レベルの低い答えに翔が尚更呆れていると、

「……何するの!?」

 喉元の刃物を安藤の手ごとどけた大宮が、三条に顔を近づけた。

「嫌!! 来ないで!! 嫌だ!!」

 三条の声を無視して、

「止めろ!!」

 思わず上げた翔の怒鳴り声にちらりと目を向けながら、彼女の唇にキスをした。ぞく、と鳥肌が立って、翔は拳を握り締めた。

「おっと」

 大宮がバランスを崩して、床に手をついた。喉元にナイフがなかったため、三条が足で大宮の膝を蹴ったのだった。

「最低!! 何でっ……最低!!」

 涙をぼろぼろとこぼしながら叫ぶ三条から離れ、安藤に再び刃物を見せておくように言うと、大宮は翔に向かって、にやりと笑ってみせた。


――何で。


「私がイラついてるのは、三条じゃない。安藤に頼んでここへ呼んでもらった……お前だよ、黒崎」

 しゃくりあげながら三条が泣く横で、大宮は続ける。

「私が出す問題なんかやってられるか、って顔をして、いつも何か別の問題集を解いているね、お前は?」

 難関私立の高校受験には、学校の授業だけではとても足りないような学力が必要だった。翔はそれを目指して、自分で参考書を買って、休み時間に少しずつ解いていたのだ。

「……それが何か?」

 怒りのあまり乱れる呼吸を整えながら、冷淡にそう聞き返した翔の胸倉を、大宮が突然掴みあげた。

「気に入らないんだよ、その態度が」

「っ!」

 そう言って、大宮は翔の耳のすぐ下の所を拳骨で殴った。同時に胸元から手を放し、翔の体は三条が縛り付けられている得点ボードに頭からぶつかって、その場に倒れた。

「黒崎くん!!」


――何で?


「く……!」

 三条の高い声が強打した頭にキンキンと響く中、翔は頭の芯がぐらぐらと揺れるような、変な感覚に襲われていた。歯を食いしばり、それでも必死に立ち上がろうと床についたその手を、大宮が靴で踏みつけた。ぎりぎりとかかとに体重をかけて、そのまま骨を折らんばかりの勢いで彼は言う。

「優等生ぶるのも大概にしろ」


――なん、で?


 悲痛に満ちた嗚咽を漏らす翔の姿に、安藤も三条も、ただただおびえていた。いつもの“委員長”としての冷静な姿しか、彼らは見たことがなかったからだ。

 翔を蹴ろうとしたのだろうか、振り上げかけた足を、大宮がぴたりと止めた。そして、楽しそうに言う。

「目隠し、しようか」

「……え……?」

 言っている意味がよく分からなかった。目隠しをして、それで何になるというのか。

 意味を考えている間に、翔がつけていたネクタイをするりと解いた大宮は、それを目の上から、翔の頭にきつく結び付けた。そのきつさに痛みを覚えた翔が外そうと手をかけた瞬間、

「いっ!」

 手首を思いきり蹴られて、翔はうめき声を上げた。そして初めて、結ばれたネクタイの意味を理解した。暴力が加わるその瞬間が、全く分からないのである。これには酷い恐怖があった。

「う……あっ!!」

 とにかく逃げようと床に手を這わせるが、それこそ何の意味もない。腕を掴まれて引きずられ、壁に叩きつけられるだけだ。

 そのうち体中が痣だらけになって、翔は抵抗する術を無くしていた。

「げほっ……ごほ、ごほっ」

「やだ、黒崎く……やだぁ……!!」

 自分の喉元に刃物があるという恐怖よりも、目の前でクラスメイトが一方的に殴られている、その光景が恐ろしくて、三条はぎゅっと目を閉じた。

「ちょっとは堪えたか、あ!?」

「っ……か、は」

 鳩尾を蹴られて、ついに込み上げたものを吐いた。ただの吐瀉物と思ったそれは、真っ赤な血だった。口の中に錆びた鉄の味が広がって、目隠しをしている翔にもそれが分かった。

「きゃあぁ!!」

「黒崎っ!!」

 生徒二人が大声を出したせいもあってか、大宮が血相を変えて、発狂したようなめちゃくちゃな悲鳴を上げた。

 事故だ、殺すつもりなんてなかった、私は知らない、と散々叫んで、大宮は倉庫を飛び出した。



 その後教師は解雇され、教員免許もはく奪されて今は刑務所にいるらしい。三条はそれまで通り、それよりも少しだけ翔を気遣うようになって、安藤は両親揃って黒崎家に頭を下げに来て以来、どうなったのか知らない。

 そして翔がそれを思い出すときには決まって、何も見えない中での激痛の恐怖が、錆びた鉄の味と共に蘇ってくるのだ。


――あのときの、か……。


 くだらない。翔は頬杖を額に持っていって、前髪をぐしゃりと上げた。

「くだらない……」

 ふっ切るように立ち上がり、私服に着替える。制服で外に出たりなどしたら、休み中に学校にいることが人に知れてしまう。そうなっては困るからだ。

 コートを羽織り、マフラーをし、スニーカーをひっかけて、翔は正門の脇からそっと外へ出た。

「うわ」

 風に舞う砂埃が目に入って、思わず目を瞑る。指で軽くこすると、マフラーを鼻まで上げて、海へ向かった。

 静かな海沿いの通りを歩いていると、一台の車が横を通った。ひゅう、と口笛を吹かれて顔を上げる。車は数メートル先で道路の端に寄せられ、止まった。


――怖い。


 嫌な感じがして近づきたくなかったが、踵を返すわけにもいかず、車の横を、出来るだけ何も気づかなかったふりをして通り過ぎようとする。が、無駄だった。

「こんな所で会うなんて奇遇だなぁ?」

 運転席、左ハンドルの外車の窓が開いて、見覚えのある男が顔を出した。いつか翔に無理矢理焼酎を飲ませた、菊川と大友の先輩、遊佐だった。

「……何か、僕に用ですか」

「あんだけ世話になっといて、そりゃないだろう?」

 呂律の回っていない喋り方、切れ長の目、赤いメッシュの入った髪、ジャラジャラと沢山ついたアクセサリー。健全な高校生には見えない。

「あんときは邪魔が入ったからな。今度こそ白黒つけようじゃねぇの」

 啓作に初めて憤りを感じた今だからこそ、まざまざと蘇ってくる目の前の男への怒りに、翔は無意識のうちに乱れてくる息を押し殺していた。

「酒の味はもう覚えたか? あ?」

 言いながら遊佐が翔の顎先に手をやった、次の瞬間。

 がん、と鋭い衝撃が右手に走った。気づいたら、遊佐を殴っていた。彼自身、信じられないくらいの力が出て、男はいくつものアクセサリーをガチャガチャ言わせながら道に倒れた。

「遊佐さん!」

 後ろのドアが開いて、もう一人青年が出てきた。はっと我に帰った時にはもう、出てきた男にものすごい力で腹を蹴られて、ガードレールにぶつかっていた。

「がは、かはっ!!」

 意識が急にはっきりとしてきた。そして同時に気づく。啓作もいない。誰にも頼れない。がちゃがちゃとにぎやかだった周囲の連中が今は、いない。


――今、孤独なんだ――。


 ぞくぞくと体を襲う恐怖にむせ返るその胸倉を、青年が力づくで掴み上げる。身長差もあって、翔は軽々持ち上がってしまった。

「あんまし調子乗ってんじゃねぇぞ、あ?」

「……っ」

 息苦しさに翔が顔を歪めると、遊佐がのっそりと起き上がってきた。唇の端が切れて、少し血がにじんでいる。

「潰すから」

「へ?」

 素っ頓狂な声を上げた青年に、遊佐はにやりと笑う。

「そいつ、潰すっつってんだよ。手足折れ、両方だ」

「!」

 聞いて、翔はぎくりとした。ぐ、と左腕が背中に回される。まさか、と翔は見開いた目を遊佐に向けた。

「いいんですかぁ? 今度こそ退学になっちゃいますよぉ、俺たち?」

 ひひ、と楽しそうに笑いながらそう言った青年に、躊躇の色は感じられなかった。遊佐も当たり前のように言う。

「腹立つんだよ……さっさとやれ」

「ひゃははは! いいですねぇ!」


――やられ、る。


 青年の笑い声と共に、徐々に腕が締め上げられる。翔は夢中で振り解こうともがいた。しかし、青年の力は強く、びくともしない。

「いっ!」

 痛みを増してくる肩に、焦りが思考回路を次々に閉ざす。とにかくここから逃げなければ、と左腕をつかむ腕に手をかけると、遊佐の膝が鋭く腹を突き上げた。

「――は……!」

 一瞬、息が止まったような気がした。がくりとひざを折って崩れそうになったところを、両腕をそれぞれに抱えられて無理矢理立たされる。吐き気がした。

「動くんじゃねぇよ!」

 喉の奥が膨れ上がるような苦しさに、抵抗はおろか、自力で立つことすら出来なくなって、翔はきつく目を閉じた。

「困ったときには誰かが助けてくれるなんて、てめぇはいつでも信じてんのかもしんねぇけどな! 俺はそういうのが大嫌いなんだよ!!」

 突然、遊佐が声を張り上げた。

「そうやって時間稼いでりゃ誰か来る、ってか!? そんな素敵な友情の映画みたいな関係なんざ、あると思ってたら大間違いだぜ! 誰も助けになんて来ねぇんだよ、てめぇのためになんかよ!!」


――そうだよ。


 分かってるじゃん、と翔は小さく笑った。その頬に、力任せに拳骨が入る。あまりに大きな衝撃は、痛みを通り越して、まるで麻酔でも打ったかのような、ぼんやりとした感覚麻痺を引き起こした。

 耳元で遊佐の怒鳴り声が響く。

「笑ってんじゃねぇよ! 自分の立場分かってんのか!?」


――分かってるよ。


 翔はまた、今度は胸中で笑った。

 いざと言う時に助けてくれるような間柄など、作った覚えはさらさらない。そんなことは彼自身、重々承知していた。

「っ……つ……!!」

 本格的に意識が朦朧としてきたとき、遠くに車のクラクションが聞こえた。遊佐が即座に目線を上げ、目を細めて顔をしかめる。

「何だ、あの車……?」

「俺たちに鳴らしてんですかね?」

 彼らの声に、翔はゆっくりと顔を上げた。そして目を丸くする。

「啓作……!?」

 派手な赤い車だった。啓作が車に乗り出したのが五年前で、十六歳で免許を取るまでの二年間、無免許運転で見事捕まらなかったという変な自慢話を聞かされたのを覚えている。そしてこちらへ向かってくる車は確かに、その車だった。

 対向車線にも自転車一台通っていない静かな道路で急ターンをし、ややスピン気味に車を停止させて降りてきたのは、紛れもなく啓作だった。ばん、と後ろ手でドアを閉め、二人を睨みつける。

「またてめぇらか」

「……っ」

 翔は思わず息をのんだ。啓作の口調が、目つきが、表情が、いつもよりも鋭く、きつい。酷く怒っているとすぐに分かった。

「こいつと関わんなっつーのが分かねぇみてぇだな、あ?」

「え、“こいつ”って、このガキのことだったんですかぁ? 俺、あっちの眼鏡の奴のことかと思ってましたぁ!」

 わざとらしく敬語を使う遊佐に、啓作は怒りを通り越して呆れていた。ちゃんと名前を言ってくれないと、と嘲笑している遊佐に便乗してか、青年も言う。

「言っとくけどな。こいつが先に殴ったんだぜ、遊佐さんの顔」

 翔の髪を後ろから強く掴み、強く下を向かせる。その拍子に走った鋭い痛みに嗚咽を漏らした翔を見て、それでも啓作の怒りに満ちた表情に、動揺の色は浮かばない。

「馬鹿言え。そいつがそんな真似するはず――」

「……したよ」

 啓作が言葉を切った。ぐっと俯むかされたまま、切れた口の中で滲む血の味を噛み締めながら、翔は続ける。

「かっときて、殴った」

「は……?」

 驚いたように目を丸くして、

「…………」

 言い終わった翔が不様な自分の現状をさげすむようにほんの少し笑ったのを彼は見た。


――本当に、もう。


 ため息交じりでがしがしと頭を掻いた拍子に、啓作は彼と同じだけ笑った。それまで彼の心を埋め尽くしていたがむしゃらな怒りが、しっかりと晴らすべき対象に変わっていく。

 横から青年がダメ押しをした。

「だからそう言ってんじゃねぇか。だいたい何だぁ? 勝手に首突っ込んできやがって」

「……呆れた」

 ぽつりと呟くと、啓作は遊佐の鳩尾に素早く一度、それは鋭い蹴りを食らわせた。その足を地面に着くと同時に、反対の足で同じくもう一人の青年にも蹴りを入れた。見事だった。

「ぐえっ!?」

「ごふっ!?」

 変な声を出した二人の間に手を伸ばし、支えを失って崩れそうになった翔の体を支えると、ひょい、と軽々担いで自分の車の助手席に座らせた。ぐったりとシートにもたれかかった翔が、薄く目を開ける。

 これを機に、もう啓作との間柄などどうでもよくなったらしい遊佐は、敬語を止め、これまでとは打って変わって啓作に牙をむき出した。男と二人で車に乗り込む。

「げほげほっ……畜生、待ちやがれ!!」

「待てって言われて待ってやるほど甘かないのよ、俺は!」

 運転席に飛び乗り、そのまま急発進させて二秒後、

「シートベルト。ちゃんとしてね」

 バックミラー越しに追いかけてくる車を見ながら、啓作は笑った。



 もう十分ほど走っただろうか。遊佐たちの乗った車は、まだ後をついてきていた。十分に違反で捕まれるスピードを出し、バックミラーを時々見上げて、その度に啓作は適当な道を乱暴に曲がる。それも今度で六度目となった。

「まーだ、いる」

 それまで続いていた不自然な沈黙を、頃合いを見た彼はすんなりと破ってみせた。それで少し軽くなった空気の下を、またすんなりと彼はくぐってくる。

「珍しいじゃん、お前があんなの本気にするなんて」

「……そう、だね」

 喋るとまだ少し痛む腹に組んだ両手を乗せて、翔はうなだれるように言った。するとすかさず啓作が、

「ガキ」

「…………」

 ――言われるまでもない。

 翔は数秒の間を開けて、咳を切ったように過去の出来事を全て打ち明けた。別に特別隠す理由もない、そう考えたらなんだか随分口が軽くなって、気づけば涙がこぼれ落ちていた。

「気がついたら……殴ってた」

 背もたれに体を預け、下を向いたまま、彼は話を終えた。

 ハンドルを切って道を曲がりながら、啓作は黙ってそれを聞いていた。翔がわずかな涙声になったときに一度だけ彼に目をやったが、それきりまた、正面とバックミラー、時々サイドミラーに目線を行き来させるだけだ。

 震えるようなため息をついて、翔は小さく呟く。

「迷惑、かけた……」

「あっは、別にそんなん迷惑でもなんでもないさ」

 明るい声に目をやると、正面を向いたままだったが、へら、と笑った啓作の口調はいつもどおり、和やかだった。

「悪かったね、ふざけて」

「……啓作」

 翔の落ち着きを取り戻した声に安心しながら、赤信号で停車させる。すると、後ろにぴったりとへばりついてきていた遊佐の車がクラクションを鳴らした。いつまでも人通りの少ない道で、やはり近くに車は走っていない。うっとうしそうに後ろを振り返った啓作。

「赤だろーが。信号見ろ、馬鹿」

 吐いて捨てるように呟いた啓作。翔がふとバックミラーを見ると、遊佐の鋭い目と合った。目線を外して、言う。

「僕らが死ぬまでついてきそうだね」

「何それ……ハイパーうざいんだけど」

 納得のいかない苛立った顔をしながら、それでも若干おどけたようにうなる啓作。――よかった、いつもの彼だ。

 翔は、峠へと向かうカーブが近づいてくるのをゆっくりと目で追いながら言う。

「僕は車酔いしないから、あとは啓作の好きなようにやって」

「……おー……」

 彼とは思えない発言に驚いて、とっさに言葉が出なかった啓作だが、何を思いきったのか、スピードをぐんと跳ね上げた。道の険しい峠へと迫るカーブを翔と同じように見ながら、

「ちょっと怖いぜ? それでもいい?」

 わくわくした心境を隠しきれない子供のするように、白い歯を見せて笑った。無邪気な彼の姿に思わず翔も微笑んで、

「いいよ」

 彼の返答とほぼ同時に青に変わった信号機を見て車を発進させ、急なカーブを曲がりきった。

 あぁ、あれは正夢だったのかもしれない、と二人は思った。



 登り坂をぐんぐんと登り、道の両側を木々が鬱蒼と生い茂ってくるにつれて、啓作の表情が確実に緊張してきていた。どんなにゆったりとした心持ちの彼にもやはり、緊張感はあるらしい。

「意気込んでる?」

「え? あぁ、別になんてことないさ、こんなん……たかだかお遊びのカーチェイスさ」

 言いながら、やはり目が本気である。翔はそれきり、喋るのをやめた。

 しばらく登りつめて、車は山頂に到達した。バックミラーには、やはりぴたりと後ろにつけた遊佐の車がある。

「うぜぇ……絶対振り切るし。なーんか、今日は負けたくない」

 翔に小声で言って、ぎゅっとハンドルを握り直した。窓をしっかりと閉めて一つ深呼吸をすると、

「行くよ」

「っ!」

 改めて、思いきりアクセルを開けた。

 普段は出さないエンジンのうなり声を大きく響かせながら、短い直線を二秒で走り抜けた。五十キロ制限の看板が目の端を一瞬通り過ぎ、すぐに一本目の右カーブ。ギャアッ、とタイヤのこすれる音がして、車が大きく左へ流れていく。

「……啓、作!」

 迫りくる山肌。恐怖のあまり彼を呼ぶが、返事は返ってこない。ばしっ、と窓ガラスを木の枝が叩き、衝突を覚悟してこぶしを握り、身を固くすること数秒。

「ひゅうっ」

 啓作の口笛に、いつの間にか固く閉じていた目をそっと開けた。衝撃はない。道幅ぎりぎりに綺麗な弧を描き、車はカーブを曲がりきって直線に入っていた。見事なまでのドリフトである。

「大丈夫? まだきっと沢山あるよ、カーブ」

「…………」

 景色がものすごい速さで流れていく。ちらりと見たスピードメーターの針は百二十キロを回っていた。高速道路でもなかなかここまでは出さないだろう初めての猛スピードに、翔は息を呑んだ。

「ちぇ、まだついてきやがる……相当やり手だな、あいつ」

 バックミラーに目をやって、少し冷や汗をかいた啓作は、わずかに楽しそうな舌打ちをした。



 遊佐の運転する車内は、酷い寒気に満ちていた。前の車のドリフトが事故とあまりにも紙一重だったのを見て、こちらまで恐ろしくなっていたのである。

「な、何だ、あいつ……今の突っ込み普通じゃないですよ……!?」

「玄人だったら出来ねぇよ、あんなの……ド素人か?」

 そう言いながらもなお赤い車を見失わずに着いていく遊佐は、実は普段からこんな風にカーチェイスをやっていた。今日は突然追いかけることになったため、車のメンテナンスや微調整こそしていなかったが、運転技術は確かなのである。

 慣れた手つきで小刻みにサイドブレーキを調節しながら、徐々に前の車との距離を詰めていく。直線の馬力は、こちらの方が上らしい。

 そして二本目の左カーブ。前の車はふらふらと後ろを振りながらも、やはりスピードを落とすことなく大惨事の際を滑って行く。――ふらふらと後ろを振りながら? 遊佐は一瞬考えて、血相を変えて叫んだ。

「ド素人だ!」

「嘘だろ!? ……くそ、負けてたまるかよ!」

 助手席の青年も、敬語を忘れて大声を出す。舌打ちをしつつ、ぐん、とスピードを上げる遊佐だが、やはり前の車ほど潔く突っ込んでいく勇気はない。経験を積んで持ち合わせた本能が危険を感じて、どうしても身じろぎしてしまう。

「くそ……!」

 恐怖を憤りで覆い隠すように限界までスピードを出してわずか数秒、

「ゆ、遊佐さん、突っ込みすぎ!!」

「えっ」

 助手席から叫ばれて我に返った。目の前に、ほぼ直角な山肌が迫っている。目を見開いてブレーキを踏み、ハンドルをいっぱいまで切る。

「うわあぁぁ!!」

 耳を覆いたくなるようなブレーキ音。ごつごつとした山肌に大きく乗り上げるようにして、なんとかカーブを曲がりきった。勢いのままにコースへ戻り、加速。心臓が縮みあがった。

「じっ……冗談じゃねぇ……」

「ちょっ、アクセル緩めんじゃね……っ、緩めないで下さい、置いてかれますよ!」

 息を乱しながら、徐々に小さくなりつつある前の車を凝視した。



 そして、

「絶対、次で振り切って……」

「え、もう終わらせちゃうの?」

 “ド素人”の車では、翔が疲れた顔をしてシートにもたれかかっていた。カーブ二本の衝撃が辛かったらしい。強いことを言う啓作の額にも、じわりと冷や汗が浮いている。それを見た翔は、小さく呟く。

「かっこつけ……」

「ばっ、そんなんじゃないって!」

 少し赤くなった啓作にちらりと目をやって、いつ茂みに突っ込むかという恐怖の中、ほんのわずか楽しそうに見えなくもない翔。ハンドルを握りながら長いため息をついた啓作は、

「……次で振り切る」

「そうして」

 更に車のスピードを上げた。

 啓作の車が五つ目のヘアピンカーブを無謀運転で越えたとき、勝負はついた。



「あー、寿命が三年は縮まった」

「……ほんとにね」

 二人は峠を無事に下りきり、学校近くの海沿いの道まで戻って来て、車を止めた。啓作が車から降りて、自動販売機でコーラを買う。“勝利の杯”である。

 真っ赤なボディに座り、喉の奥に一気に中身を流し込むと、助手席の翔が笑った。

「でもパンクなんてついてなかったね、向こうも」

 実はつい十分ほど前、まだ最後のヘアピンカーブが残っていた直線の道の上で、遊佐たちの乗った車のタイヤがおそらくパンクをした。尖った石でも踏んだらしく、ふらふらと情けなく後ろを振りながらスピードを落としていくのが見えたのだ。

 ごくりと飲み込んで、ピリピリとした刺激を喉に感じながら海へと目をやる啓作。

「んー……あれが無かったら負けてたかもね、俺」

「負けるどころか死んでたよ」

 翔がしっかりと言いきって、続ける。

「それにわざわざくっついてきてまで挑んだ自信、きっと向こうはアマチュアか何かだ。慣れてるんだよ、ああいうのには」

「何、ド素人だからこそ、怖いもの知らずにカーブ突っ込めたってわけ?」

 厳しいなぁ、と笑いながら、実際そうなのだろうと啓作も思っていた。あそこを走っていたすべての時間が、一瞬間違えたら大事故になりかねないものの連続だったことは、運転していた彼が一番よく知っている。

 かかとでタイヤを二、三度蹴り、うなだれる。

「あーあ、滑りやすくなっちゃった。……あんなもんで熱くなってんじゃねぇってのな、俺」

「うん、僕も」

 缶を口元で傾けながら、啓作はちらりと翔を見やった。俯いた彼の顔が少し笑っている。――よかった。

 最後の一口を飲みほして、

「っし! 帰るか!」

「もう?」

 そんな彼の一言に耳を疑った。目を丸くして、凝視する。そんなに早く帰りたかった? と翔が真顔で尋ねるものだから、余計に言葉が出てこない。

「だってまだ一時じゃない」

「いや、だって……お前がそんなこと言うなんて思ってなかったから」

「言うよ」

 本音を漏らしたら、軽く跳ね返されてしまった。品行方正、真面目で完璧主義の彼も、本当はただの十七歳なのかもしれない。いや、そうなのだろう。そう思うと、三歳年下の彼がなんだかとても可愛く見えてくる。

「……ふうん!」

 潮風を肌に感じながら、啓作はとても楽しそうにボディから腰を浮かし、運転席に乗り込んだ。普段と何ら変わらない翔の頭を、わしゃわしゃと乱すように撫ぜる。

「っ、わ」

「やっぱりまだガキだね、お前も!」

 もう楽しくて仕方がないといった様子の啓作。乱された前髪の間から無邪気な笑みを見上げた翔は、小さなため息ととともに少し笑って見せた。

「さ、どこ行きたい? どこでも連れてってやるさ!」

「じゃ、とりあえず、お昼食べよう。コーヒーが美味しいとこで」

 それなら最高の店を知っているだとか、今日は俺の奢りだとか、その他諸々を楽しそうに口走りながら、啓作はシートベルトを締め、車を発進させた。

「久しぶりに高いワインでも飲んじゃおっかなー、俺」

 そう笑った数秒後、

「そういえば、もう法律的にも飲めるんだ」

「……あぁ……そうだったね」

 ぽつりとそうこぼした。今年の一月に成人式が行われたのだが、両親がいないやらスーツ代が馬鹿にならないやらで面倒になり、啓作は式へ出席しなかったのだ。

 車は細い路地に入っていく。昼間なのに少し薄暗いところがまた、粋な感じがしていいのだ、と運転手は語る。そしてテンションも最高潮に達したとき、ついに決意。

「っし! 決めた! じゃんじゃん飲むからね、今日は!」

「あ、そう? ――じゃあ」

 翔はおもむろにシートベルトを外し、リアシートに腕を伸ばすと、その座席カバーの下から小さな紙袋を取り出した。

「ボクからのお祝い。用意しておいてよかったよ」

 え、と啓作は目を丸くした。正面と紙袋とを交互に見ている様子からすると、それがいつから車内にあったのかも、全く知らなかったようだ。

「用意ってお前……どうやって俺の車開けたのよ?」

「おととい乗ったじゃない、君がドライブするって言い出して」

「じゃ、あのときからずっとあったの!? ……驚いたね、こりゃ」

 赤信号で一時停止して紙袋を覗くと、ざらざらと音を立てる金平糖が大袋いっぱいに個別包装されて入っていた。

「冬だから、二、三日置いといても大丈夫だと思って」

「絶対平気!」

 そう言って目を輝かせた彼に、翔もどこか幸せそうに微笑んだ。

「おめでとう、啓作」

「さーんきゅーっ!」


 ――それが、些細なこと。


 そして帰り道、

「飲酒運転はだめだからね。寮まで歩くよ」

「えーっ!!」


 ――それも、些細なこと。

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