第二章 始まったこと
第二章 - 始まったこと
「もしもし?」
職員室で鳴り響いた電子音を聞きつけて、一人の教師が電話を取った。一足早く教室から出てきて、校長と雑談を交わしていた啓作がちらりと目をやる。
「ええ、ええ……え? あの、もう一度……あ、はい……はい」
どうやら電話の相手が相当なパニック、あるいは癇癪を起こしているようで、教師は時折言っていることが聞こえていないらしく、度々聞き返している。
しばらくして電話を保留させた教師が振り返ると、丁度啓作と目が合った。少し考えるように彼を目に留め、
「悪いんだけどさ」
「そう思うなら止めていただきたいけど」
苦い顔をする啓作に苦笑しながら、教師は彼に頼みごとをした。
高校に入って最初のテストが、今日ようやく、
「終わったぁー!」
「それ、どっちの意味だよ」
「もちろん“あっち”の!」
「あっははは、だよね!」
周囲の会話を聞きながら筆記用具を片付け、翔は小さく息をついた。とは言っても、特に気分が重くてため息をついた様子はない――その証拠に、今日一番の話題となった数学の三角比の難問は、彼が軽々と説明を板書して見事に解決した――。
「お疲れ、黒崎!」
「お疲れ様」
筆記用具と参考書を何冊も持った池が、翔の席で立ち止まって声をかけた。
入学から、早いものでもう三か月が過ぎた。内心では毛嫌いしていた同室の三人始め、にぎやかなクラスメイトにもだいぶ慣れ、最近ではさほど気苦労を感じることもなく、時々うるさくて寝付けないことこそあったが、翔としてはそこそこ順調な学校生活を送っていた。
「あのさぁ」
よく話しかけてくるようになった池が、なにやら一冊のノートを机の上に広げ、眼鏡越しに気持ちの悪そうな顔で言う。
「やっぱり俺、納得いかないんだけど、ここ」
「……あぁ、だからこのXは正弦、余弦定理を使って――」
池のためにもう一度説明をし直してやる翔の周りを、
「あ、俺ももう一回聞きたい!」
「待って、僕も!」
「俺も!」
すぐに数人の生徒たちが囲んだ。あまり頭のいい方ではないらしいこのクラスでの翔は、こういう役回りが非常に多い。
もう一度始まった丁寧な説明に聞き入って、ああでもないこうでもない、とクラスメイトが翔への質疑を重ねていると、
「ちょっと待った! 俺も聞きたい!」
教室の引き戸が勢いよく開いて、明るい金髪の青年が顔を出した。他のクラスにも自分を頼る者がいたのかと驚いて振り返った翔が、更に目を丸くした。そこに立っていたのは、二年生、実質四年生の啓作だった。
「なんてね」
「矢羽先輩!」
声高に叫んだのは池だった。彼はあのとき、遊佐という三年生に翔と二人で絡まれたときに救ってくれた青年だ。翔を囲む輪の中にいた大友と菊川が、気まずそうに顔を見合わせる。
「何やってんの? 楽しそうじゃん」
「あ、さっきのテストの超難問の解説をしてもらってて」
「どれ」
問題用紙と翔が書いたノートの上の説明書きを見て、啓作は顔色一つ変えずにほんの少し考えて、
「cosθが135度、求めるXは√7」
「え?」
突然彼の口から跳び出た正答に、思わず翔は聞き返していた。
「すっごい、合ってる!」
「知ってたんですか、問題?」
驚きを全面に出す生徒たちに、啓作は面白そうにけらけらと笑って、
「分かるでしょ、“お前なら”」
「……え」
ぽん、と翔の肩に問題用紙を乗せると、後の説明を任せた。そして、
「あ、そうそう、俺は別にお前らのテスト解きに来たわけじゃないんだよ」
立てた親指を後ろに向け、怪訝な顔をする翔に向かって彼は言う。
「電話。お前の親御さんから」
「あぁ、し、翔?」
「そうだよ。どうしたの?」
電話越しの何やら焦っているような声は、翔の母、千草のものだった。
「あのね、に、入院で、肺炎することになったの」
「……え?」
翔は突然の知らせに驚かされながら、混乱状態の千草の変な台詞に苦笑した。そんなに自然に笑っている彼を初めて見た啓作は、手ごろな椅子に腰かけ、じっと彼に見入っていた。
金曜日、全校生徒は休日を家で過ごすために帰宅していく中、教師もほぼ全員が帰った後の職員室で電話を取る翔。千草の台詞を言い直してやる。
「肺炎で、入院?」
「ありゃま」
言葉と比べて大して心配していない様子で、啓作はこぼす。それから何度か会話を交わして、電話を切った翔の顔は、なるほど、大して心配そうな顔ではない。
「……だそうです」
「そう。お母さん、何かものすごいテンパってたから、誰か危篤なのかと思ったよ」
聞いた翔は、ぎこちないながらも思わず笑っていた。どうやら、この啓作という青年とは会話の波長が合わなくもないらしい。“ちょこっと”難問然り、きっと彼も本当に頭がいい。
「じゃ、家帰っても誰もいないんだ?」
「そういうことでしょうね」
つまりは、明日、明後日の帰宅の話である。母の退院日は確かではないが、おそらく来週辺りまで、家の中は空っぽになるだろう。
「……ふうん」
翔の返答を聞いた啓作が、彼の顔を覗き込んで提案した。
「じゃ、寮に残れば? 俺、帰んないし」
「え?」
予想もしなかった言葉に、翔はおもわず聞き返す。
「俺ね、家族いないの」
「いない?」
啓作はうなずいて、おどけたように軽い声で笑う。
「そ。だぁーれも、いないの。俺一人。両親、電車に撥ねられて死んじゃった」
驚いた翔が絶句して何も言えずにいると、啓作はなおも話し続ける。
「俺の居場所は常にここなのよ。んで、休み中はずーっと一人。誰かいたってガキばっかだから、いないとセーセーするけど、やっぱつまんないかな、うん」
――だからこの人、違うんだ。
翔が面倒だと思う他人とは少し違った空気を、今思えば、出会ったときから彼はまとっていたように思える。同じ年のクラスメイトなんかよりもずっと大人びていて、安定している空気。傍にいてもさほど気分の悪くならない、他から独立した綺麗な空気だ。
「ね、泊まってきなよ。お前、馬鹿じゃなさそうだからいいよ」
翔は胸中で苦笑して、職員室の扉に手をかけた。そして言う。
「あなたが“セーセー”出来る日、今日でしばらくお別れになってもいいんですか?」
「……ん?」
啓作が目を丸くして、期待と驚きとが入り混じったような顔をした。ドアが開いて、少し風が入ってくる。そこで振り返った翔の顔は、自然に笑っていた。
「泊めてもらいます」
翔はそう言って、引き戸を閉めた。一人残された啓作は、ぱっちりと目を開いたまま立ち尽くす。久しぶりに感じる大人びた新鮮な空気に、心が晴れていくのが分かる。
「……楽しみ」
一人呟いた啓作は、手ごろな椅子に腰を下ろし、頭の後ろで楽しそうに腕を組んだ。
“大富豪”が決まろうとしていた。
「勝負!」
“貧民”候補の大友がそろりそろりと加えたのは、“スペードのキング”。これに勝つには、未だ出されていない“ダイヤのエース”しかない。大富豪では最強の“二”で上がれば反則負けだし、“ダイヤ”以外の“エース”は全て出され終わっている。オールマイティの“ジョーカー”はついさっき、菊川が起こそうとした革命の革命返しに大友自身が使ったのだから、もう手札の中にはない。
――あいつはエースをもう二枚も出してるんだ。三枚目の確率は低いはず!
どうだ、どうだ、と菊川の目の色を窺いながら予測を立てる、池と大友。やや俯き気味の菊川の手に握られた一枚のカードが、ゆっくりと裏返される。白いカードに印刷された絵柄は、たった一つのひし形。二人の表情が、一気に厳しくなる。“ダイヤのエース”だった。
「あーがり!」
「うっそだろー!?」
ひらひらとカードを見せつけるようにしながら笑う菊川が、お茶を飲み干し、後ろの壁にもたれた。運がいいのか、先刻から勝ち続けているトランプゲーム“大富豪”も、もう今ので五戦目だった。
「あーあ、ったく、ついてねぇなー」
「イカサマしてんじゃないの、きっくー」
「してないってば!」
調子がいい菊川は六戦目に持ち込んでもよかったが、きっと二人にはそろそろ飽きが来る頃だ。気を利かせて、こう提案する。
「ねぇ、カフェ行かない?」
「あ、それいい! そう言えば最近話してねぇな、あの茶髪の子と」
「あ、そうだった! って、そもそも俺らなんか相手にされてないって」
口々に冗談を言ってけらけらと笑う三人の奥では、青く細いフレームの眼鏡をかけ、耳にイヤホンをして机に向かう翔が、何やらとても分厚くて難しそうな薬学の本の論文を書いていた。
その後ろ姿に、菊川と大友がそろって声をかける。
「ね、黒崎も来たら?」
「勉強ばっかりしてると、鉛筆みたいになっちゃうぜ」
「どういう意味、それは」
「来いってことだよ」
苦笑しながら言った翔に、たった一人正面から突っかかった者がいた。池だ。翔の態度が気に食わないらしく、しきりに貧乏ゆすりをしている。
「お前にとっては俺らなんかなんでもないんだろうけどさ、一応同室の連中だぜ。遊びに行ったっていいだろ、たまには?」
やけに刺々しい口調の池。菊川も大友もうっすらとそれを感じ取っているようで、彼らもまた気まずそうな顔で翔の返事を待っていた。
翔はため息をついてイヤホンを取ると、机に向かったまま、普段となんら変わらない返事をする。
「せっかくだけど、遠慮するよ。書き上げないといけない論文があるから」
「なあ……ちょっと変だよ、お前」
ついに池が言った。
「少しは誘ってやってる奴の気持ちも考えたらどうだ、勉強ばっかりしやがって。成績さえよければ、後はどうでもいいのかよ?」
「…………」
池の怒りに満ちた声を聞きながら、翔はぼんやりと考える。
――面倒なんだよ、そういうの。
いっそそう言ってしまってもよかったが、同室の人間といざこざを生んだらもっと面倒なことになると予想して、翔は言わなかった。その代わり、
「誘ってくれるように頼んだ覚えはないよ。それに池、君も少し変だ。僕がどうしようと、君には関係ない話だろ?」
池の怒りの塊を、隙一つ見せない口調であっさりと跳ね返した。言われた池は唇を震わせながら大きく息を吸うと、
「友達じゃないのかよ、俺ら!!」
「――え?」
怒鳴った池の声に、翔は思わず聞き返した。
「俺はお前のこと友達だと思ってたよ! 友達だったら、お互い何でも言い合えるようにだんだんなれるもんだろうなって、思ってたよ! だから……!」
「――だから?」
興奮しすぎたのか、主張が続かなくなった池が口ごもった。翔はその先が純粋に聞きたくて聞いたのだが、いつもの癖で、言い方が酷く冷淡になった。言い終わった後でようやくそれに気づいたが、遅かった。
「……もういいよ」
「あっ」
足元の荷物を持ち、乱暴な足音を立てながらドアの向こうへと消えていった。池、と翔は小さく呼んだが、足音にかき消されたのだろうか、彼は振り返らなかった。
「あ、池っ!」
「待てよ!」
すぐにリュックを背負い、追いかけていった大友の後を菊川が追い、ドア口で足を止めた。そして、それまで通り机に向かった翔の背中に、小さな声で言う。
「黒崎……今のは、ちょっと酷かったんじゃない?」
「…………」
何も言わない翔に、菊川は小さなため息を呑みこんで部屋を出た。
宿題をきっちりと終え、来年やるらしい科学の実験内容に興味を持って発展学習にまで手を伸ばし、それら全てを終わらせて時計を見上げると、七時を過ぎていた。生徒たちの門限は六時。七時には寮が閉められ、夜学生たちの講義が始まるため外へ出られなくなる。
――遅刻、じゃないよな?
翔は真っ赤な顔をした池を思い出して、ふと心配になったが、
「あ」
たまたま目についたカレンダーを見て、初めて今日が金曜日だということに気がついた。月曜日まで学校は休み、寮に泊まるのは啓作と翔だけである。そういえば彼らは大きな荷物を持っていたし、帰ってくるはずがないのだ。
「……はぁ」
珍しく、翔は自分の口にした言葉に後悔を覚えていた。小さくため息をつくつもりだったのに、声まで漏れた。
――「鉛筆みたいになっちゃうぜ」
大友のあの顔。
――「もういいよ」
池のあの目。
――「ちょっと酷かったんじゃない?」
菊川のあの声。
酷かった、だろうか。
「…………」
いや、他人との関係など所詮こんなものだ。そう割り切ってしまおうと、翔は無理矢理目を閉じた。
机上の明かりを消して部屋を出ると、
「よぉ、遅かったじゃん」
薄暗くなってきた廊下に、啓作から声がかかった。どうやら翔が出てくるのを待っていたようで、彼の姿を見るや否や、ほっとしたように微笑む彼。
「寝てたの?」
「あ、いえ……すいません、遅れて」
早足で歩み寄ると、彼の服からなんだかいい匂いがした。翔の周りの常に張りつめた空気が、そのとき少し緩んだのを感じ取ってか、啓作は微笑みながら言った。
「作る量が増えたんで、味がどうなってるか怖いけど。夕飯にしよう」
階段を降りてすぐのところにある調理室へ入ると、いい匂いが立ち込めていた。一番手前のガスコンロに小さな鍋が乗っていて、テーブルにはサラダが二人分、綺麗に取り分けて盛り付けられていた。
「結構ちゃんとしてるでしょ?」
ひひ、と得意げに笑った啓作。自分のためにしか作ったことのなかった彼の、初めての振る舞い料理だった。
食事を済ませ、風呂を済ませると、二人はこっそりと寮へ入り、鍵を内側から閉めて、啓作のあの豪華な個室でゆったりとしたひと時を過ごしていた。本来なら休日の寮への出入りは禁止なのだが、啓作の鍵があればどこへでも好きな時に行ける。
「はー、お腹いっぱい!」
啓作が満足そうに言った。椅子に座る彼の手元には一杯の紅茶が入れてあり、仮眠を取ろうとソファーに寝転がる翔は、カップを皿に乗せて絨毯の上に置いている。角砂糖を一つ入れ、銀のスプーンで混ぜながら、啓作がいるその生活音に、家族のそれと似た安心感を覚えていた。
「美味かったでしょ」
「ええ」
半分念を押すような形で尋ねられて、それでも翔は会釈と共に頷いた。事実、啓作の手料理は絶品だった。メニューは簡単なミルクリゾットとサラダで、味付けはどうやらイタリア料理のそれらしかった。過剰に褒めたりお世辞を言ったりをするのが嫌いな翔が、啓作の料理の腕前には心底感服していた。
「すごく」
付け足された褒め言葉に会釈を返した啓作に、珍しく翔から、話を切り出した。
「あの、テスト後に僕を呼びに来てくれたときの話なんですけど」
「うん?」
何かあったっけ、と啓作はソファーの背もたれ――翔の姿を見たかったのだが、今の彼の寝転んだ体制では、髪の毛しか見えない――に目をやった。
翔が少し間を置いて、
「……あなたが一瞬で解いた問題の答え、始めから知ってたか何かですか?」
「はあ?」
変な声を出しながらも、そう言った翔の声がなんだかつまらなさそうに聞こえて、啓作はくすりと含み笑いをした。
「解くの速すぎる、って?」
「……いえ……ただ」
もぞ、とソファーの上で少し動きながら口ごもった翔に、啓作はまた少し笑ったような声を出しながら、
「天才だからだよ」
「……え?」
今度は翔が聞き返した。啓作は頭の後ろで腕を組んで、背もたれに体を預けて繰り返す。
「天才だから。前にも言ったじゃん、何でもできるからつまんない、って」
相槌に困った翔が黙っていると、啓作は立ち上がって、一度も開かれていないような綺麗な教科書の並ぶ本棚に目をやって、一枚の紙を取り出し、
「ほら」
ぴら、と広げたそれを翔に向けた。何かと思った翔が体を起こし、
「!」
その紙、内申書の、評価の羅列に目を見張った。
「オール……A」
「中学からずーっとこう。ここ二、三年はもう見飽きたね、正直」
驚いた。翔にも中学時代にオールA評価を取ったことがあったが、そのときは相当の努力をした。毎日“予習・復習”を欠かさず、日頃からレポートは真面目に提出、忘れたことはない。そうしてやっと得られる評価が、それなのだ。
「“関心・意欲・態度”だけCだけど、テストの点数が主だから、総合評価はどうしてもAになっちゃうんだよね。だから一回わざと、回答全部、逆から書いたこともあるよ。でもバレた」
ひひ、と啓作は一人笑う。翔は信じられないと言った顔で彼を凝視し、彼の“天才説”に、ほぼ確信に近いものを持った。
「だから、頭いい奴もすぐ分かるよ。お前がそうだってことも、初めて見た時から分かってた。だから、泊めた」
「…………」
自信たっぷりで、聞き方によっては傲慢にもなりえるような台詞の連続だったが、翔は何故か、彼に対して腹立たしさを感じなかった。
遠すぎたのかもしれない、彼が。
「……じゃあ」
それなら、と翔は開き直って、唇の端を少し上げる。
「次の物理であなたを抜きます」
「へ?」
意表を突かれたような顔をする啓作に、翔は床に置かれた紅茶のカップを取って背もたれに乗せ、頷いた。
ふうん、と腰に手を当てた啓作は、
「ふふ、なるほどね。秀才が天才を超える、ってか」
「ええ」
あっさりと頷いてみせた彼の宣言に、期待交じりの笑顔を見せて、それならいっそ対等勝負で、と彼はこう言う。
「ねぇ、その“ええ”ってのさ、止めない?」
「はい?」
突然すぎる話の展開に、思わず聞き返す翔。啓作はそんな彼の様子を察知することもなく、
「そうやって敬語に直すの、いちいち面倒でしょ、お前も?」
いいこと言ってるでしょ、とでも言わんばかりの顔で翔を見ている。
――すごい、性格。
天才ならもう少し空気読んでよ、と翔はふざけたように胸中で思う。思って、しかし悪い気はしなかった。
「そう……だね。じゃあ、」
無意識のうちに微笑を浮かべながら、素直に頷く。そしてなんとなく楽しそうに繰り返す。
「次の物理は君を抜く」
「うん、そうそう」
彼の微笑につられるように、啓作が特別楽しそうに笑った。
「う……ん」
寒さに目を開けると、翔はまたもや暖炉の前のソファーを占領して眠っていた。そうか、帰らなかったのか。
「……翔」
ふいに聞こえてきた声に驚いて起き上がると、ベッドに寝る啓作がかすれた声を出した。
「起きてる……?」
「……どうしたの?」
咳き込んでそれ以上喋ることのできない啓作に近寄ると、どうにも顔色が悪い。呼吸も少し乱れている。窓から差し込む薄い月明かりに、潤んだ目が薄く光った。
仰向けが辛いのだろうか、彼はうずくまるように横を向き、ベッドに手をついて起き上がった。
「けほっ、げほ」
「……何か飲む?」
啓作が頷いたので、棚に置いてあったインスタントの粉でレモネードを作り始めた。かちゃかちゃ、とコップにスプーンがぶつかる音が響く。苦しそうな息使いがやたら心配になって、翔は何度も宙に目を泳がせた。
「翔……」
初めて呼ばれた名前に過敏なほど反応して、思わず振り返る。しかし今思い返せば、最初に起こされた時から名前で呼ばれていたような覚えもある。
何と言えばいいのか分からずに、
「……うん」
翔はとりあえず返事をした。
とにかく、こんなに寂しそうな彼の声は初めて聞いた。彼という男は必ず余裕の場所に立っていて、こんなにも不利な彼の姿はこのとき初めて見たのだ。調子が狂ってせつなさすら覚えながら、翔はコップを持ってベッドへ歩いた。
誰かのために眠い体を起こしてやるのも久しぶりだな、と翔は思う。前にも一度、母が病気で寝込んだことがあったが、その時に病院に泊まり込んで夜通し看病をしたきりだ。
「風邪……引いたのかもね」
ぎこちない心配を口調ににじませる翔に、啓作は咳き込むのを堪えて笑う。
「これ……けほ、喘息」
「……あぁ……そうだったの」
少し驚いたような顔をする翔。喘息を患っている人には今までも出会ったことがあったが、こんなに間近に発作の症状を見たことはなかった。分からないながらも、とりあえず彼は呟く。
「じゃ、大変だったね、今まで」
――「大変だったね」
そんな言葉、今までに飽きるほど聞いてきた。しかしこのとき、啓作は今までのそれとは違った暖かさのようなものを感じていた。不思議と情に触れてきて、熱いものが込み上げる。
差し出されたレモネードを見つめ、
「うん」
言いながら、思わず顔を歪めて泣いた。頬を涙が滑り落ちていったのを見た翔の目が、いつもよりほんのわずか丸くなる。
「ありがと……」
啓作は、組んだ両手を額に押し付けるように俯いた。
自分が発作を起こしたときに心配してくれる人間がいることに、彼は言い知れぬ安堵と幸せを感じていたのだった。
「…………」
――面倒な人。
優しすぎる彼の内を知った翔は小さく息を吐くと、彼が寝るベッドの端に小さく腰かけた。レモネードを手渡し、咳き込む彼の背に手をやって、いつからこんなに他人の世話を焼くようになったのだろう、と自分に少し呆れた。しかし、そこで夕方の池を思い出した節には、月曜日は少し話を聞いてやってもいいかな、とも思ったりして、やはりなんとも調子が狂う。
コップを受け取った啓作は、ゆっくりとだが、一気に半分ほどまで飲んだ。酷く喉が渇いていたらしい。コップを返しながら微笑む。
「こんな美味かったんだね、これ」
「…………」
コップを受け取った翔は、何も言わずにキッチンへ行ってしまった。部屋が薄暗いのもあったせいで、啓作の単なる気のせいかもしれないが、彼には翔が少し赤くなっていたように見えた。
戻ってきた翔は再びベッドに腰かけて、足を組む。どうやらしばらく傍にいてやるつもりらしい。
「少し眠った方がいいよ」
感情の抜けたような、いつもどおりの口調だった。――それでも嬉しい。
啓作は素直に横になり、薄明るい窓の外を眺めている翔を見上げた。
「…………」
そして何を思ったのか、翔の腕に手をかけると、啓作はそれを引っ張った。
「え」
バランスを崩した体が、啓作の手前に倒れる。小さく声を上げた翔の首に腕を回して、そっと頭を抱え込む啓作。受け身さえ取れず、翔は目を見開く。視界が定まった数秒後、ようやく声が出た。
「何、してんの」
「お前、何か弟みたいでさ……。しばらくこうしてて……」
こつん、と啓作の額が頭にぶつかって、それきり彼は体から力を抜いた。弟みたい、それはつまり体の大きさが、ということだろうか。何にせよ、翔はいつになく焦っていた。
「あ……の」
こうなると、もはやどうしようもない展開である。傍から見れば変な勘違いをされてしまうだろう光景だったが、この状況下、彼の頭は逃れる術を編み出せなかった。
「――――」
――ええと。
「――――」
――その……ええと。
「――――」
頭の中が混乱して、そのまま一分ほど身を固くしていた翔。彼にしては随分長期戦となった脳内口論の末、状況の変動は諦めようという結果にたどりついた。そして、とにかく眠ってしまおう、そう思った。
一つ震えた息をして、ゆっくりと目を閉じる。そしてその場の寒さに皮膚がだんだんと気付き、掛け布団の端を引き寄せて中に入った。当然ながら暖かい。何をやっているんだ、と頭の片隅で問いかけられたが、それももうどうしようもない。
「…………」
髪を触っている手の感覚と、後ろから伝わってくる熱をまざまざと感じる。抱かれて寝るなんて、物心ついてからはしてもらった覚えがない。それにしても彼、こんなに大きかっただろうか。
うとうとと眠ってはいるものの、呼吸が少し苦しそうな啓作。黒崎敬作――幼い頃に母と離婚して家を出た、大好きだった父親の名前と、同じ音だった。
「ケーサク……」
言いながら、その頬がわずかながら綻んでしまっていることには、翔自身も気づかなかった。
目を開けると、自分の目の前にいたはずの翔がいなくなっていた。
「翔……?」
返事はない。まだ少しだるい体を起こして、部屋を見渡してみる。机の上の紙に、ふと目が止まった。近寄ってみると、どうやら彼の置手紙らしい。
“母の病院へ行ってきます”
滑るような細い字で、そう書いてあった。
“何か食べられるようなら、小さい鍋にスープを作っておきました。後はパンでも焼いて食べて下さい。今日はゆっくり寝てて下さいね、食事の支度は帰ったら僕がやりますから”
気の利いた文章の後には、何かあったら、と携帯番号がメモしてあり、右下には“翔”とサインが残されていた。
「……ふうん」
前髪に指を通してかき上げながら、啓作は小さく笑った。
「スープねぇ、俺コンソメ嫌なんだよねぇ……何スープだろ」
コンロの上に置かれた鍋の蓋を開けると、白い湯気の奥には、
「おー、いいねぇ」
コンソメのそれとは違う、クリームのいい匂いが立ち込めていた。野菜がたっぷり入ったポタージュである。さては勝手に調理室を開けたな、と含み笑いをしながら、鍋に指を入れて味を見た啓作は、
「うま。あいつ料理もできるんだぁ」
その綺麗な優しい味に、目を丸くして驚いた。
――「次の物理は君を抜く」
昨夜の翔は、そんなことを言って笑っていた。言ったからには絶対に抜いてきそうだな、と啓作は思う。
ふと、勉強している翔の姿を思い浮かべる。自分の能力に関してはプライドの高そうな彼のことだ、おそらく宿題という名の独学勉強を延々続けているのだろう。もしかしたら、今日行っているという見舞いにも、参考書を持ち込んでいるんじゃないだろうか?
そんな秀才の姿に、想像だけで大義さを覚えた啓作は、ベッドに戻って仰向けに倒れ込む。
「あと二年、ね……」
退学させられないようにギリギリ頑張ってみるか、と本気で留年を考えている啓作が、自分への嘲笑を交えて一人、笑った。
“黒崎千草”。そう書かれた病室のプレートを見つけて、翔は軽くノックをして部屋に入った。二人部屋らしく、ベッドは二つ並んでいる。
「あら、翔」
手前のベッドから、長い黒髪を後ろで一つに束ねた千草が顔を出した。彼女の体は強くない方で、入院は初めてではないため、双方ともになんとなく慣れた感じがある。翔は後ろ手で扉を閉めて、見舞いに持ってきた柿を手渡した。
「えー、買ってきてくれたの? やっさしーい!」
「うるさいな」
翔は苦笑しながら隣のベッドの患者を窺うと、柿と一緒に持ってきた果物ナイフを取り出した。
「食べるなら、剥くけど」
「食べるー!」
無邪気な子供のように千草は言って、洗面台で柿を洗い始める息子の姿に微笑んだ。そしてとてもいいことを思いついたように嬉しそうな顔をして、隣のベッドに声をかけた。
「村松さん、息子が柿を持って来たんですけど、よかったら召し上がりません?」
びく、と翔は目線を上げて、千草を凝視した。カーテンが開いて、本を片手に持った老婆が顔を出す。
「あら、よろしいんですか、私なんかがいただいてしまって?」
「ええ、私と息子じゃとても食べ切れませんから。きっと美味しいですよ」
千草は満足そうな顔で答える――どうしてこう、僕が嫌なのを分かっていて、常に他人と関わらせたがるのだろう、母は。翔はそんなことを考えながら、出来るだけその老婆を視界に入れないように柿を剥いた。
「もう、秋ですもんねぇ」
「そうですね、早いもので」
微笑みながら談笑を交わす二人を背に、翔は何とか柿を剥き、まな板も無いので柿を手に持ったまま器用に切り分けた。動揺していたせいか、豊漁を深く入れすぎて、小さく指を切った。――まったく。
「どうぞ」
皿に盛り、ぶっきらぼうに二人へ、やや千草寄りに差し出すと、
「あら、上手ねぇ、お兄さん」
皿の上の柿を見て、老婆がにこりと微笑んだ。そして、それを剥いた翔の指先に小さな切り傷を見つけて翔の手を取った。
「少し指を切ったんじゃない?」
うわっ、と思わず声が出そうになるのを何とか堪えた翔は、
「平気です、ずっと前の傷ですから」
「でも、血が」
大丈夫です、と再び言って、変に不自然な会釈を返すとそっぽを向いてしまった。指先を銜えている様子を見た老婆が、小声で――耳のいい翔には丸聞こえなのだが――千草に尋ねる。
「私、息子さんに何か悪いことを言っちゃったかしら?」
「いえ、気になさらないで下さい。誰にでもあぁなんです、あの子は」
困ったように笑う千草をちらりと振り返って、老婆と目が合いそうになった翔は、再び顔を背けた。
「いただきましょ」
「あぁ、それじゃあ……」
千草が老婆に勧めて、二人はやっと、柿を食べた。これで自分に関わってくることもないだろう、とほっとする翔。
「まあ、甘くて美味しいわ」
「本当ですね。ありがとね、翔」
「うん……」
ぼんやりと見下ろす三階の窓からの景色には、オレンジ色の夕日が差し込んで綺麗だった。
――「俺ね、家族いないの」
ふと、啓作が言った言葉が頭に浮かんだ。聞いたその時は、その事実に驚いたこともあってよく考えられなかったのだが。
彼は寂しくないのだろうか。両親をいっぺんに無くして、一人になって。家にすらいられず、他と比べて少し大きいとは言え、あんな寮の一部屋で、毎日たった一人で暮らして。
「翔!」
「あ……、え?」
千草の声にはっとして振り返ると、柿を一切れ持った千草がすぐ後ろに立っていた。彼女と話をしていた老婆は、もうとっくに自分のベッドに帰っていた。
「ふふ、何考えてたの?」
「へ?」
「好きな人のこと?」
「違うって……男子校だよ、僕は」
「冗談よ! 柿、食べたら?」
口の前に差し出された翔は少し困って、顎を引くようにして柿に手を伸ばす。
「何、照れてんの?」
「別に照れてなんか」
「だったら食べなさいよー、ほら」
こうなると決して引かない千草。もう若干唇に触れてしまっている柿に、彼は素直に口を開けた。みずみずしくて甘い果汁が口の中にたっぷりと広がっていく。
「美味しいでしょ?」
言われて、翔は微笑んだ。紛れもない正真正銘の家族、母がいてよかったと、改めて思った。
外は木枯らしが吹きだしていた。
校長室の前に、結局その日を丸々眠って過ごした矢羽啓作が立っていた。制服とワイシャツのボタンをだいぶ開けて、ズボンから裾を出して、堂々と耳にピアスまでつけて立っていた。
通いなれた部屋だが、一応ノックをする。
こんこん。
「――――」
こんこんこん。
「――――」
ごんごんごんごん。
「おっ邪魔、しまーす」
半ば呆れながらドアノブを回す啓作。いないはずがないのだ。土日も昼間はここが住み家と化しているあの校長は、よほどのことがない限りはここを出たりしないのだから。
中へ入るとやはり彼は、開いたままの本を顔にかぶりながら仮眠、いや爆睡していた。
「外は昼通り越して夕方ですよ、上条サン」
「むぅ……?」
本を浮かせて寝ぼけ眼でこちらを見る校長、上条俊彦。
「起きてちょーだいな。今日は話があってきたんですからね」
「お前が私に折り入って話だって? そりゃ珍しいこともあるもんだな」
入ってきた人間が啓作だと分かるや否や、引き出そうとした緊張感を全くゼロにした校長は、それでもゆっくりとソファーから起き上がった。
彼の正面のソファーに腰を下ろし、啓作はすぐさま口を開く。
「一年の、黒崎翔って奴を知ってる?」
校長の目が、すっと啓作を捉える。
「あいつ、ちょっと頭いいんだ――」
にやりと笑った啓作の目を見ながら、校長は内心とても驚いていた。普段彼がする友人の話など、呆れ半分のものばかりだったからだ。それが今回の彼の話だと、黒崎翔という人間は、少なくとも啓作と同じくらい、頭のいい人間らしい。
「一緒にいたい」
さっぱりと啓作が言いきったのを聞いて、校長が微笑んだ。
つまりは、だ。来年また留年するからクラスと部屋を一緒にしてくれと、彼はその短い一言の下にそれだけの要望を詰め込んでいたのだ。もちろん校長は、それをしっかりと理解している。その上での微笑なのだから、まあおそらくは了解、だろう。
手を組みながら、啓作は校長を見上げた――余談だが、姿勢の悪い啓作は、誰と座っても目線が低くなる――。
「ふうん……そうか」
校長は、啓作がよくするのと同じように鼻で相槌を打つと、遠い目をして言った。
「いい子が入ってきてくれて、よかったな」
ふふ、と小さく鼻で笑いながら、まったくだ、と思った。あの日、突然翔が部屋に飛び込んできて、第一声――すぐ出ます、だっただろうか。なんて出来た奴だと、啓作は感心さえした。
「さ、もう夕刻だ。寮へ戻りなさい」
実はこの校長、苗字こそ違うが啓作の叔父である。両親を失った啓作がこの学校に入学し、毎日寝泊まりできるのも、全ては彼の権限のおかげなのだ。
聞くだけで安心できる声。それに一度だけ頷いて、啓作は校長室を後にした。
「おやすみ、上条サン」
「あぁ、おやすみ」
早い就寝の挨拶をして、校長室のドアを開けると、
「うわっ!」
正面衝突するギリギリのところでドアを避け、その拍子に上靴を床に滑らして尻もちをついた者がいた。頬を少し赤くし、息を荒げていたのは池だった。休日だというのにわざわざ出向いての補習を終えて、これから家に帰るところらしい。
「あ……君か。大丈夫?」
「あはは、大丈夫で――あ、すいません」
池は続けて礼を言った。転んだときに落とした一枚の紙切れを、啓作が拾い上げたのである。見ると、最近新しく開かれた美術館の招待チケットで、よほど強く握りしめていたのだろう、真ん中のあたりがしわくちゃになっていた。
「ふふ、よっぽど大事なチケット? 彼女とデート、とかかな?」
「いやいや、まさか! もらったんですよ、翔に」
翔に、と思わず聞き返した啓作に、池が嬉しそうな顔をした。
――「今度聞かせてよ、カフェの女の子の話」
――「……うん!」
先刻突然かかってきた電話越しの翔の声を思い出しながら、池は言う。
「信じられませんよね。期限が週末までで、偶然四枚手に入ったって、翔が」
「あの……翔が?」
――あんな愛想嫌いの子が、自らつるんで美術館、ねぇ。
ふうん、と楽しそうに相槌を打った啓作。
「たまにはあの子、たっぷり引っぱり回しといで」
「そうですね!」
池は軽く頭を下げて、チケットを再び握りしめると、ぱたぱたと長廊下を駆けて行った。
「翔とデートか……妬けるなぁー」
ぽつりとふざけたように言って、啓作は部屋へ向かった。
――それが、始まったこと。
主人公二人が一緒に寝るシーンがありましたが、BL要素としては扱っておりません。また、今後もBLジャンルへ進む展開は一切ございませんので、三章以降もどうぞ安心してお読みください。