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第一章 新しいこと

第一章 - 新しいこと


 ある年の春。

 今年も、友達作りに忙しないことこの上ない季節が始まった。

「数学大嫌い! 得意科目は保健です! よろしく!」

「保健ったってお前、分野決まってんだろ?」

「あっは、ばれた?」

「この“ド”スケベ!」

「変態!」


――うるさい。


 胸中の片隅で悪態をつく青年、黒崎翔。彼は今日、めでたく高校入学を果たした。彼の中学三年間の猛勉強は、単なる入学のためではなく、奨学金狙いの勉強だった。彼は入学金免除までも勝ち取ったのである。

「っていうか、お前、中等部いたよな? 俺、C組にいたんだぜ。今度から俺のことは“変態”じゃなくて、大ちゃん、て呼んで欲しいな」

「本当に? 俺、F組だったからわかんなかったよ。よろしくねー、大ちゃん! 俺は“きっくー”でいいよ」

「“きっくー”?」

「俺、菊川」

「あー、なるほど」

 変に浮き足立ってざわついているクラス内の、この時期特有な空気。その中で翔は、数人に囲まれた前席の青年が、楽しげに自己紹介をしている様子をぼんやりと眺めていた。どちらを見渡しても、男、男、男。ここは男子校である。



「黒崎くん?」

 何をするでもなく担当教師を待つその背に、声がかかった。振り返ると、そこには眼鏡越しに自分を見つめる頭の切れそうな青年が立っている。彼は何か変なものでも見るように目を細めて、じっとこちらを見ていたが、

「もしかして君が、黒崎翔くん?」

 念を押すような強い口ぶりでそう尋ねながら、怪訝な顔をする翔のすぐ隣まで歩いてきた。

 変な奴だ、と思いながら翔が無言で頷くと、彼は打って変わって目を輝かせて、机の上でおとなしく組まれていた翔の手を両手で握り締め、大声で言った。

「入学試験で満点取ったのって、君か!」

 翔は、思わず数センチ身を引いた。それまでざわつていた周りの青年たちが、しんとなってこちらを向いて、唖然としている。入学試験で満点、という真偽のはっきりしない話よりかは、むしろ眼鏡の青年の大声に驚いている様子である。――何なんだ、彼は。

 ただでさえ人と話すことを好まない翔が、あまりに早すぎる会話のきっかけに目を白黒させていると、大きな口で、さも楽しそうに青年は笑った。

「いやー、すごい! 尊敬するよ! なぁ、君!」

「え? あぁ、うん、そ、そうだね」

 突然話を振られた“きっくー”もだいぶ驚いている。その隣の“大ちゃん”も、目を丸くして翔を見ている。その一際強い視線に気付いた翔が、彼の方へ目を向けると、彼の口がぽつりと一言。

「本当にお前、満点取ったの?」

 もはや事態は彼の代表質問である。気付けばクラス中の視線は皆、翔に向けられていた。嫌な予感こそしたが、翔はやはりありのままを話す他ない。

 おそらくは、喋りたがりの翔の母の近所話が大元であろう情報。それに酷く興奮する眼鏡の青年に両手を握られたまま、クラス中の注目の的になりながら、

「そう、だけど」

 ぼそり、と呟いたその一瞬後を、大絶叫と大歓声が追うように湧き上がった。あっという間に翔の席の周りを青年たちが埋め尽くす。

「マジかよ!! すっげぇなぁ、お前!!」

「天才って、いるもんだなぁ」

 口々に感嘆の声を上げる少年たちの中心で、翔は一人何が起きたのかさっぱり、と言った様子で固まっている。度々求められる相槌を打っては、あちこちからの質問攻め。こうなると、彼に言わせてみれば交流を通り越して尋問である。ここには社交的な性格の持ち主が多く、また各々のプライドを守り抜くために、やたら褒め立て騒ぎ立てる連中も少なくないらしい。

 そのうち話題がそれて、ある青年が入学試験当日に翔を見かけたと言う話が出たり、翔の隣に座ったという青年が三人ほど出たり、挙句の果てには翔の話題からもそれ、試験中にテスト用紙を落としたのに気付いてもらえなかった話が始まった。

 それまで自分の席で静かに縮こまっていた者も、騒いでいる者に話を振られ、周りで徐々にエスカレートしていく笑い声につられ、なんとなしに打ち解けて会話に混ざるようになっていた。始まったばかりの高校生活、一般的にはいい兆しである――一般的には。

「何だ、何だ。入学早々騒がしいな、うちのクラスは」

 廊下にまで響いていた大声に怪訝そうな顔をして入ってきた若い担当教師が、生徒が一人の青年を囲んで大騒ぎをしている光景に目を見開いた。

「何やってるんだ!」

 呆れ半分のその声には、ベテラン教師の慣れた含み笑いが混じっていた。だからこそ、彼らの大騒ぎは治まらない。教師にまで翔の満点騒ぎをぶちまけて、

「このクラスやべぇ、絶対楽しいぜ!! なっ、センセ!!」

「いや、この調子だと絶対崩壊しそうに見えるけどな、俺は!!」

「俺もそうだと思いまーす! さっすが、先生!! 分かってるねぇ!!」

「ぎゃはははは!!」

 大騒ぎの中、大声で話さないと聞こえない会話を重ねに重ね、騒ぎはどんどん膨れ上がり、最終的に教頭が直々にやってくる始末となった。



 ――五分後。

 出席簿順にたった三人の名前を呼ぶ間、何度も爆弾のような笑い声が再発し、点呼がまったくに等しく進まない。

「ゴホン、えーと」

 変な咳払いをしながら出席簿に目をやる担当教師。その横では、顔を真っ赤にして息を整える、少し髪の薄い教頭が生徒たちをぎん、とにらみつけていた。

「池恭介」

「はい」

 眼鏡の少年は、池という名前だった。一番楽しそうに翔に接した彼は、その後散々翔に笑わせられた後――無論だが、翔本人は何も可笑しなことはしていない――、初体面のウケをきっちりと自分がもたらしたということに誇らしげな様子で席に戻っていった。

「大友康弘」

 クスリ、と誰かが笑う。

「はいっ」

 試験中にテスト用紙を落とした大友は、一番後ろの席で椅子の背ごと、体育会系の大きな体をロッカーにもたれかけて、なんとも偉そうな態度である。バスケットボール部に所属しているらしく、足元にはボールが置いてあった。

「菊川栄二」

 クスクス、と笑い声が大きくなる。

 一番前の席に座る茶髪の“きっくー”は、吹奏楽部でホルンという金管楽器を担当しているらしい。彼の机の上には早々と落書きがあって、その中には“ホルン”らしい楽器のイラストも描かれている。こんなの、と誰かに説明でもしたのだろうか。

「はーい」

 彼は返事をし終えるや否や翔を振り返り、意味深長な笑みを浮かべてみせた。翔はそれを見て、特別反応を示さずに――うるさい、と目は語っている――すっと目をそらす。そして点呼。

「黒崎翔」

「……はい」

 翔が疲れた返事をして間も無く、また爆発のような笑いの渦が巻き起こった。



 割り当てられた寮の部屋で、翔は早くも過ぎていった入学初日を、時折深く長いため息を交えながら振り返っていた。友人関係などどうでもよく、とにかく一人で静かにしていたかったのだ、彼は。しかしそれがまさかこんな騒ぎになるなんて、思ってもみない。

「やった、天才くんと一緒!」

「黒崎がいたら、毎日大笑いだよねぇ」

「俺たち最高についてるぜ! なぁ、黒崎?」


――最悪だよ、僕は。


 翔は胸中で悪態をついて、また大きくため息をついた。

 割り当ての出席番号制を恨むべきか、黒崎家に生まれたことを恨むべきか、はたまた責任を転嫁して、このクラスに“あ行”が少ないことに憤るべきか。廊下にびっちりと張り出された割り当てにミスがなければ翔は、池、大友、菊川の三人と、この先三年間の寮生活を共にすることとなった。

 部屋の左右端に置かれた二段ベッドにそれぞれが寝転びながら、翔の返答、無論、同意を目で催促している。ただ一人ベッドに片足を立てて座っている翔はそれを痛いほど感じて、

「……うん」

 変な声で、苦く同意した。

 それを聞いて一斉にガッツポーズをし、歓声を上げる三人。勢い余った大友が上のベッドとの境の板に拳をぶつけ、痛がっているその上から池に軽く叱られながらも大声で、

「今夜はオールだ! 飲むぞーっ!」

 聞いてずっこけそうになる。ただでさえ頭痛がしてくるというのに、なんだって、この十二分な未成年者は夜通し飲む、と?

 いや、ちょっと待て、と翔は思う。入学初日から爆笑の渦を巻き起こした男子校も、有数な上レベルの高校の中で翔がしっかりと吟味して選んだ上の上レベル。進学校ということもあり、若干ピンキリと言えるところはあるが、早い話がエリート校なのである。

「なあ黒崎、お前、飲めるよな?」

「……何を?」

 大友に呑気に尋ねられた翔は、だいたい分かってはいたものの、一応尋ねた。 冷静に考えれば、彼らもこの学校に入学してきたレベルの生徒だ。いくらんでもそんな軽はずみな発言などするわけが

「何って、酒に決まってんじゃん?」

 ――するか。

 信じられないといった顔をする翔。彼を見上げる大友が茶化す。

「あれ、もしかしてお酒知らなかった?」

「別にそういうわけじゃ」

「サワーにチューハイ、何でもあるぜ。何飲む? あ、翔くんはオレンジジュースが好きでちゅか?」

「いや、だから」

「あっは、馬鹿言わないでよね! そんなものまで用意してないよ、俺!」

「…………」

 あっという間にテーブルの上が酒瓶だらけになって、翔が一際苦い顔をする。これには池も驚いていた。精々缶ビールの二、三本だと、彼も思ったのだろう。

 そんなことにはまったく気付かない様子で、大友と菊川の二人は一本目のチューハイを開け、コップに注ぎながら楽しそうに笑っている。

「やっぱ、みんな考えてることは一緒だよね!」

「ここに来るのもガキってことだな!」

 大いに盛り上がる二人は、とても初対面の人間とは思えない。同じ中等部にいた人間とは、やはり打ち解けやすいのだろうか。とにかく彼ら、常識面では“キリ”の方で間違いなさそうだ。

 早くもコップを傾けようとする大友の手を、翔が軽く叩く。

「ねぇ」

「あ、黒崎も、はい!」

 なみなみと酒の注がれたコップを暢気に差し出そうとした大友の表情から、笑みが消える。翔の表情が、少し怒っているように見えたからだ。

「それ、法律違反」

 顔を見合わせて一瞬黙り込んだ二人だが、この場の空気を適当に和ませようとしたのだろうか、同時に吹き出して笑い始める。

「面白いねぇ、黒崎は!」

「法律って、そんな固いこと言わないでさ、今日くらい甘めに見ろって!」

「固いも何も、捕まるよ、君ら?」

 捕まるよ、という言葉に、ついに池が口を開く。

「そうだよ。やっぱ初日から騒ぎ起こすってのはまずいよ。……ほら、まだ俺ら一年だし、っていうのもあるし。お前らエスカレーターでここ来たんだろ? だったら先輩とか、沢山いるんじゃないの?」

 正面からの真面目な反論を避け、先輩の目を気にしているふりをする池。だが、それは確かにまっとうな意見だった。試験に合格して入学した翔や池と違って、確かに彼ら二人には顔馴染みの年上が大勢いる。

 かたん、とテーブルにコップを置いた菊川が、池の話などまったく無視して翔に歩み寄った。菊川はもう笑っていなかったが、翔の落ち着いた表情は変わらない。すう、と菊川が息を吸って、翔が怒鳴り声を予想する。しかし。

「何でそういうこと言うのっ」

「……は?」

 わざわざ目の前で何を反論されるかと思ったら。小綺麗なことを言うなとか、いい子ぶるなとか、そんなことを言われるだろうと思っていた翔は、拍子抜けして変な声を出した。そして、酒の入ったコップが口元に突き出されたのを見てようやく気づいた。お前も飲めと言っているのだ、おどけて頬を膨らます彼は。

「これ飲んで仲直り!」

「……分かんないね、君も」

 何が仲直り、だ。

 ここまでくると、もう苦笑するしかなくなってしまう。その横では、菊川が翔に向かって殴りかかる場面を頭によぎらせていた池が、ほっと胸を撫で下ろしていた。ねぇねぇ、と訴え口調の大友だったが、翔に向かって怒鳴るように言った。

「じゃあいいよ、もう!!」

「何がいいのさ」

 大声を、なんだか妙に不自然な大声を出した大友。さらりと受け流しながら、翔は心の片隅で不審に思っていた。――予想は当たる。

「おっ、酒じゃん! やるねぇ!」

「あらら、俺たちが入って来ないうちに打ち上げ?」

「最近の後輩は冷たいのが多いなぁ」

 部屋のドアが乱暴に開いて、知らない青年が三人、入ってきた。体格や制服の着崩し方からして、三年生。最初に酒に目をつけたスキンヘッドが、勝手に始めんなよ、とかなんとか言いながら、大友と菊川にじゃれている。翔はすぐにピンと来た。


――「じゃあいいよ、もう!!」


 いつからドアの前で待ち伏せしていたか知らないが、彼らは大友の声を聞きつけて入ってきたのだ。不自然に声が大きかったのは、酔っただとか、ただ単に声がよく通るだとか、そんな可愛いものではなかったのだ。

「大友……」

 彼の方へと目を向けると、彼は青年たちの隙間から恐る恐る翔を見て、申し訳なさそうな顔で首を振った。自分ではどうにもならなかった、とでも言うのだろうか。菊川に目を移しても、やはり同じような顔でこちらを見ている。

「あの!」

 緊張気味に声を上げたのは池だった。

「あのさ、どういうこと? 大友、菊川、この人たちは……?」

「だーかーら、俺ら先輩だって!」

 一番目立つ金髪の青年が、池の目前まで腰を折って言った。少し身を縮めた池だが、引き下がらない。ぎゅっと唇を引き結んで、目の前の顔をにらみつけている。

 金髪はからかうような目をして、ねっとりとした声で聞く。

「ねぇ、入試で満点取った黒崎って、お前のこと?」


――またか。


「……え」

 鼻先を指差され、完全な誤解をされたまま、池は固まっている。

「聞いてんだよ」

「僕です」

 もう額がくっつきそうなくらい間近に言い寄られている横から、翔が心底大儀そうに言った。金髪の目が、ぎょろりと翔をにらむ。池が、蚊の鳴くような声で翔の名をこぼしたのが聞こえた。翔は続ける。

「満点取ったの、僕です。彼は関係ありません」

「あぁ、そうだったの。悪かったねぇ、君、早トチっちゃって」

 池の頭をぽんぽん、と撫ぜると、青年は翔に向かってゆっくりと歩み寄った。近くに来ると、身長差は楽に二十センチはある。立ち止まって、池のときと同じように中腰になると、まじまじと翔を見詰め、驚いたように一言。

「へー、天才は顔も綺麗なのか!」

「…………」

 翔が何も言わずにじっと彼を睨んでいると、彼はそのままの体制で、もう一言。

「酒飲めんの?」

「……いえ」

 言いながら、翔は内心ぞっとしていた。青年の目が、まるで麻薬でもやっているかのようにうつろに据わっていたからだ。とにかく、池を連れて一刻も早く部屋を出ようと思って振り返ると、

「っ、わ! 放して下さい!」

 後ろにいた青年たちが即座に池の両手を掴んだ。恐怖のあまり情けない声を上げた池もろとも、この部屋の四人を断じて逃がさないつもりだ。


――読まれた……。


 ぎり、と唇を噛んで、どうしたらいいか何十通りもの策を考え、

「ねぇ」

 耳元での甘ったるい声に、ぴたりと思考回路が止まった。熱い息と唇が頬に触れて、ぞくりとする。肩が少し上がったのが分かった。

「こういう生意気なガキをさ、前々から一回思いっきり飲ましてみたかったんだけど」

「っ、ふざけるな!」

 反射的に言い放って、青年の頬を手の甲で叩いた。池を力ずくで男たちから引き離すと、他の二人を置いたまま、池の手を引いて部屋を飛び出した。

「おーおー、怖いねー、今のガキは!」

 後ろではやし立てる声がやたらと耳に障ったが、決して振り返らなかった。



「はっ、はぁ、はぁっ」

 いったいここがどこだかさっぱり分からない。とりあえず、寮の昇降口からは出ていないから、寮内のどこかだ。それも、彼らの部屋がある三階よりも上の一部屋。ドアの開いていた部屋に、夢中で飛び込んだのだ。丁度よく空き部屋だったのか、人のいる気配はなく、明かりもついていない。

「はぁっ――池?」

 眼鏡が少しずれている池は、床を見詰めたまま顔を強張らせて動かない。あの青年たちがよほど怖かったのだろうか。――まったく。

「もう心配しなくていい。満点取ってやっかまれてるのは、君じゃない」

「……ぇ」

 翔はそっと彼の顔を起こすと、自分と目線を合わせて言い聞かせた。つい先刻までほぼ言葉を話さなかった彼の、まるで母親が子供にしてやるような安心感のある仕草に、池は驚いたように目を丸くした。

「いいね」

 翔の声に、池は本当に小さくだが、やっと頷いた。同時に、彼にならこの後のことを任せ切ってもいいと思った。

「だぁれかな?」

「!」

 部屋の奥から声がかかって、翔と池は体を強張らせた。こちらに向けた椅子に座っておどけたように首を傾ける青年は、これもやはり金髪だったが、さっきの彼とは似ても似つかない、優しい垂れ目をしていた。その目が今、驚いて少し丸くなっている。

「あれぇ、お前ら新一年? 迷子かい?」

「あ……あの」

「いえ。勝手に入ってすみません、すぐ出ます」

 事情を説明しようとした池の言葉をすかさず遮り、翔が適切に謝って部屋を出ようとしたそのとき。ドア口からにゅっと手が伸びて、前へ出た翔の手を外へと引っ張った。

「っ!?」

「見つけたぜ、天才くん?」

 体制を崩しながらも目を向けると、先刻部屋に入ってきた青年だった。片手には一本の酒瓶が握られている。転びそうになる翔の前髪をわしづかみにした青年は、素早くその飲み口を、翔の口元で傾けた。

「んっ……ぐ……!」

 喉の奥に流れ込んでくる熱い刺激を必死に吐き出そうとして、パニックのあまりむせ返った。

「げほっ、けほ、ごほっ!!」

「あ! もーったいねぇな、高いんだぜ、これ?」

 こぼれた酒がじっとりと襟元を濡らす。どれくらい飲み込んでしまったか分からないが、体が酷く重たい。頭の芯がくらくらとして、体からぼんやりと力が抜けていく。最悪な気分がだんだんと快感に変わっていくような、アルコールならではの恐ろしい感覚だった。

「ほら、もっと飲めよ」

 ふらりとドア口に座り込んでしまった翔の口元で再び瓶を傾けて、酒を流し込んでいく青年。

「っ……」

 抵抗むなしく、されるがままに飲み込んでしまい、ぼんやりと床に目線を落とした翔の後ろで、池は嗚咽を漏らしながらただ固まっている。

「ごほっ!」

「!」

 翔がむせ返ったその苦しそうな声で、池ははっとした。誰か人を、先生を呼ばなければ、と思ったのだ。そんな彼がようやく一歩足を踏み出したとき、

「ゆーさ、ちゃん」

 部屋の奥から、ゆっくりと落ち着いた声が響いた。呼ばれた遊佐というらしい男は翔を押しのけるように壁に叩きつけ、部屋の奥をにらみつける。そして、

「夜学の子がこんなとこで何やってんの?」

「矢羽先輩……!」

 打って変わって酷く表情を焦らせた。

「あぁ、そっかぁ、始業式は夜学も合同だったかぁ。久しぶり」

 にこにこと挨拶をする啓作に、遊佐はさぞ鬱陶しそうな顔で言う。

「こいつら連れて、ここ出ますんで――おら、来いよ!」

 胸倉を掴まれた翔と池を見た啓作は、それでも少しも焦ることなく、

「昨日の夕方の話なんだけどさぁ」

「え?」

 少し顔色を変えた遊佐に、意味深長に目線を合わせて話を始めた。

「煙草の臭いがして体育館裏覗いたら、うちの制服来てる奴らが三人ぐらいでたむろして、真ん中に座ってる奴を、何か脅かしてたんだよね」

 啓作は目線を上に泳がせながら続ける。

「腕掴んで、煙草押し付けんばかりの勢いだったからさ、ちょーっと足音立ててやったわけ。そしたら、そいつらみぃーんな、走って逃げてったよ。情けないよねぇ」

「っ……!」

 遊佐が拳を握り締めたところを見ると、その“たむろしていた三人ぐらい”には彼が含まれていたようだ。

 あの時聞こえた足音はこいつのだったのか、と遊佐は“矢羽先輩”を睨んだ。ひるむことなく彼はこう言う。

「俺ね、そこで拾っちゃったんだよ。煙草の灰のついた、誰かのネックレス」

「は!?」

 遊佐が思わず声を出した。そう言えばその日からネックレスが一つ見当たらない。どこかで落としたのだろうとは思っていたものの、まさかそことは。

「誰のものかなんて、ちょーっと調べりゃ、すーぐ分かるからさ。今から上条校長に提出しようと思って。ほら、これ」

 ポケットを探った指先が持ち上げたのは、間違いなく遊佐の落としたネックレスだった。

「……いくら、ですか」

「金じゃない」

 ますます表情を険しくさせる遊佐に、“矢羽先輩”は首を振る。そしてちらりと二人を見やって、

「今後一切、関わるな」

「……はい……」

 ちゃら、という軽い音とともにネックレスが放られて、遊佐の手の平に大人しく収まった。

 ついに啓作にねじ伏せられた自分に腹が立って、ぎゅっと唇を噛む遊佐。

 再び頬杖をついた金髪の“矢羽先輩”が、にこりと微笑みながらとどめの一言。

「帰んな。ここ俺の部屋」

 悔しそうに踵を返し、覚えておけとでも言わんばかりに翔と池を睨みつけて、遊佐は立ち去ろうとする。

「あ、やっぱ、ちょい待ち」

「!」

 びくり、と体を強張らせた遊佐が憤りを滲ませた顔で振り返る。

「まだ何か……あるんすか?」

「んー」

 わざわざ引きとめた遊佐を横目に“矢羽先輩”は、その目を翔に向けた。帰していいか、と確認の意味合いだろうか。

 翔は、こんな所で殴りかかりに行かれたりでもしたらたまらない、と一人焦って、彼に力無く頷いた。そんな様子を見た“矢羽先輩”は一言。

「じゃ、右手の瓶、置いてって」


――目当ては酒か、どいつもこいつも。


 はあ、と翔が複雑なため息をつく。

「ちっ」

 軽く舌打ちをしながらも、とりあえずは言われた通りに酒瓶を置き、遊佐は走って出ていった。

「く、黒崎!?」

 壁に叩きつけられてからはぴくりとも動かなかった翔の肩を起こして、池がわめいた。翔は少し青い顔をしていたが、

「平気」

 打った頭を軽くさすりながら、小さく呟くように言ってみせた。

 しかし本心、彼はだいぶ参っていた。無理に酒を飲まされたことはこれが二度目。一度目は、中学で同じような満点騒動に巻き込まれたとき、これもまた先輩から。そのときは缶チューハイを少しだけだったせいもあって体に支障はなかったが、どうも今回は調子が悪い。それもそのはず、遊佐が置いていった瓶のラベルには堂々とした“焼酎”の文字があった。

「……ふうん」

 そんな様子を見て取ったのか、“矢羽先輩”は椅子から立ち上がって翔のところへ歩み寄り、変に中腰になったと思うと、

「よっこいしょ」

「う、わ!」

 軽々翔を持ち上げた。控え目だが思わず声を上げた翔。そんなものには全く構わず、“矢羽先輩”は池に告げる。

「何か平気じゃなさそうだから、しばらくこの子、ここで寝かすわ。夕食には戻るからって、同室の子に言っといてくれる?」

「は、はい!」

「ちょっと待っ」

「お前はおとなしくしてるの」

「僕、もう平気ですから」

「もう平気な奴が何でおとなしく俺に捕まってんの」

「本当に大丈――ぅ」

 翔が再び弁解しかけて、酷い頭痛に手の甲を押し付け、表情を歪めて黙り込んだ。クス、と笑った“矢羽先輩”は、池を見て言う。

「いーよ」

「あ、お、お願いします!」

 ひらひらと手を振る彼に、池は眼鏡が落ちるのではないかと思うほど深々と頭を下げ、来た廊下を走って帰っていった。

「……あの」

「あぁ、あれね、三年の遊佐ちゃん。頭いい奴には昔っからあぁなんだよ。あっちは夜学だし、この寮もセキュリティロックばっちりだから、普段は会わないはずだけど……気ぃつけなね、“頭いい奴”」

 確かに夜学生の寮からここへ来れる通路は無いし、彼がここへ来れたのも、始業式で寮が開いていたからだろう――と納得しながらも、翔は思う。


――別にそんなことを聞きたかったわけじゃないんだけどな。


 呆れ半分に見上げた彼は、相変わらず微笑んでいた。



 小さな明かりをつけると、中は新入生のそれよりもずっと広く、ずっと豪華だった。

 入って右奥にキッチン、中央にテーブルと四脚の椅子、左壁に小窓、そこまでは一緒だ。しかし、キッチンの奥に風呂とトイレ兼化粧室が個別にあって、入ってすぐ左には、一軒家と同等な小さい暖炉まである。暖炉の前の床にはチェックのワインレッドの絨毯がしいてあり、さっきまで金髪の彼が座っていたソファーが暖炉に向かって置いてあった。羨ましいことに、それでいて個室だという。

 テーブルで紅茶を啜りながら、その豪邸の主は笑う。

「俺は矢羽啓作。二年だよ。俺も金髪だけど、さっきのみたく遊び狂ってないから安心してね」


――分かる。


 分かるのだ、なんとなく。

 信じていい他人などいないと、いつか翔は甘えてきた他人に言い切ったことがあった。しかし、彼は違う。違うというか、根拠などどこにもないのだが、疑う必要がなさそうなのである。この張り合いのないへらへらした表情のせいだろうか。

 暖炉のちろちろと揺れる火を見つめながら、

「……すいません、面倒かけて」

「なんのこれしき」

 また彼は笑う。ついさっきまで彼が座っていたソファーに寝かされ、暖かい毛布までかけてもらって、翔は頭痛と眠気とが相殺しているような感覚を覚えていた。

「頭、ぼーっとするでしょ? 一気にあれだけ飲まされたら無理ないよ」

「二年生を……三年生が先輩呼ばわり、なんですか」

 なれなれしい同情が気に食わなくてそう呟いた翔に、啓作はあぁ、と忘れていたように声を漏らして、

「俺ね、毎年ダブってるだけで、一応今年で四年目なのよ」

「……どうしてそんなことするんですか?」

 頭痛のせいでそこまで深く考えることはできなかったが、翔は目の前の彼に心底呆れていた。このエリート校までわざわざ来て、それなのに留年していたのでは意味がないのに。そんな翔に、啓作は嫌に気持ちよく答える。

「んー、つまんないんだよね。ちゃーんとやって、ちゃーんと上がってくのが」

 天才派が言う台詞だった。秀才派の翔に言わせてみれば意味の分からない答えだったが、確かに天才肌の啓作に言わせればそうだ。何をやっても出来てしまう、何をやっても結果は同じ、完璧を見すぎてつまらない、というのも無理はない。

 カップをテーブルに置く、乾いた音が聞こえる。

「俺のこと馬鹿だって思う?」

 啓作は、壁に貼られた一枚の古い家族写真を見つめた。尋ねられた翔は張り合う気も起きず、視線の先をぼんやりと絨毯に落として、

「留年なんて時間が無駄なだけですよ――もっとも、あなたが本当に天才なら、そうも言いようがないですけど」

「っへへ、まーね」

 言われた啓作が、正直に照れ笑いをした。ここまで正直だと、いいとこ自慢もいっそすがすがしい。先刻からずっと目に入る笑顔につられたように、翔も少し笑って、

「じゃあ、天才は……退屈ですか?」

 ふざけたように尋ねていた。頭がぼんやりとして、何を言っているのか分からなくなっているのかもしれない。

「あぁ、大いに退屈だね」

 言われて、また少し笑った翔。答えをもらったところで彼の言い分を理解したわけではなかったが、人との会話が、今日は珍しくうるさくなかった。

 しばらく経って、啓作が丁度紅茶を飲み終えたとき、鐘が鳴った。立て続けに六回叩いて、最後に大きく一回。この学校は、鐘で時間を知らせる。この鐘は、六時を告げる鐘だ。

「夕食だね」

 啓作が立ち上がって、翔に呼びかける。しかし、返事がない。ソファーを覗くと、ソファーから片腕を落としたまま、翔は静かに眠っていた。やはり焼酎のアルコールが効いたのだろう。


――可愛い奴。


「黒崎、ね……」

 ふっ、と笑って、啓作は翔の柔らかい黒髪を撫ぜた。

「また遊びにおいで」

 啓作は部屋から出て行った。その言葉どおりというか、単に無用心というか、ドアに鍵はかけていかなかった。



「あ、黒崎!」

 歩いてくる翔の姿を見つけた池が、ぱたぱたと駆け寄ってきた。心配で、自分の部屋の前でずっと待っていたらしい。――まったく。

「もういいの? 夕食には行ける?」

「大丈夫」

 静かに笑った翔は、夕食に間に合わないといけないから、と小走りする池を追いかけるように足取りを速めた。

「池! 黒崎!」

 大声に振り返ると、大友と菊川がおそらく全速力で駆け寄ってきていた。二人の前で急ブレーキ、ぽかんとしている彼らの目を一瞬だけ見て、

「ご、ごめん!!」

 ややうつむき加減で、ほとんど叫ぶような感じで謝った。周囲の目もいささか気になるところで、翔も池も驚いて顔を見合わせる。

「俺たち、式の帰り道にうっかり話しちゃったんだ。入試で満点取った奴がいたらしいぜ、って……!」

「そしたら後ろで中等部からの先輩が聞いててね、それ誰だ、って話になって、それで話しちゃったんだよ!」

「さっきまで、俺たちも知らなかったんだよ。共通の先輩持ってたなんて……それも、目茶苦茶ヤンキーの……」

「浮かれててちょっと気を抜いちゃった、っていうか……とにかく、ごめん!」

 鉄砲玉のように飛ぶ二人の話を最後まで黙って聞いていた翔は、小さなため息を飲み込んだ。

 これだから面倒なのだ、人間と言うのは。特に面倒なのが、“他人”。赤の他人ならまだしも、少し知ってしまった他人は特別面倒だ。気を使い、同情をし、愛想笑いをしなければいけないから。

「顔上げてよ」

 翔は、わずかだが表情を柔らかくして言った。恐る恐る顔を上げた二人は、気まずそうに顔を見合わせて目を伏せる。

「何言ったって、事実だし」

「そうそう! さ、早く飯食いに行こうぜ、あんまり遅くなると食堂閉まっちゃう!」

 仲直りのおいしいところをきっちりと取った池が、ゆっくり走り出す。それを見た菊川が思わず、

「食堂そっちじゃないよ!」

 聞いた池が、ぴたりと動きを止めた。ゆっくりと振り返ったその顔は、眼鏡が曇るのではないかと思うほど、真っ赤。それを見た三人から自然と笑みがこぼれ、

「あははは、お前どこ行くつもりだよ?」

「ははっ、ばーか!」

「だって、校内見学のときに先生からこっちだって言われたんだよ!」

「それ図書室じゃないの、池?」

「……あ」

「と、図書っ、図書室だって、あっはははは!! だってお前、どうやったら図書室と食堂間違えるんだよ……ははははは!!」

「笑いすぎだよ、大ちゃん!」

「おめーもだ、きっくー! だって、図書室だぜ!? 池、お前、今まで本食って生きてきただろ!!」

「お前ら寄ってたかって人の上げ足とって最低だ、あはははっ!!」

 やがてかの“大爆発”が沸き起こった。

 耳に障る、と普段なら一括していた翔だが、このときばかりは黙ってそれを見過ごした。疲れているだけだ、と彼は思って、今度こそ、食堂へ向かった。


 ――それが、新しいこと。

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