[第2回]雨。
皆さん、お久しぶりです。
どうも作者です。また会いましたね。
2週間ぶりくらいとなった投稿になってしまいました。
楽しみにしていた人にはお待たせしました。
こんな感じでゆるくやっていきたいと思います。
…………あっ、本編をご覧のコーヒー好きの人たちには失礼にあたるかもしれないことを書いているので、どうか怒らないでください。
雨が好きか嫌いかを問われれば、私はどちらでもないと答えてしまうだろう。
日に日に雨の多い季節に近づくため、随分と嫌なことなのだが雨が降ることに関しては嫌いではない。「じゃあ、洗濯物が干せなくても?」と問われたら「それは嫌いだ」と首を大きく振って頷いてしまうけれど。
雨が嫌いになる理由なんてものはほんの些細なことで、その些細なことにさえ目をつぶればどうでもいいのである。人間の好き嫌いの始まり方もそうだろう。
幼い頃、飲める人を見て「いいな。かっこいい」とある種、大人である象徴といった憧れを抱いていたコーヒー。私はその憧れに突き動かされ、齢6歳にてコーヒー牛乳をマスターする。少々の苦みは口に広がるが、砂糖と牛乳を大量に混ぜ合わせ甘さでごまかしたような味が好きだった。
ある日、「コーヒー牛乳がいけるならば、あの複雑な漢字が書かれた缶コーヒーもいけるのではないか」と、親に「一口」とねだった。親には悪いが、苦さのあまり顔が歪んだ。そして、その苦々しい経験から砂糖とミルクさえあれば自分で甘さを調節できるインスタントコーヒーに手を出した。「あと角砂糖をいくつ入れれば飲めるだろう」と、そんな高揚感に包まれながら甘ったるいコーヒーを啜った。
月日は流れ、順調に角砂糖を6個入れれば飲めることが判明したある時。
夏のうだるような暑さに耐えかねた私はリビングの冷たい床に抱擁を求めるように寝そべっていると、母親が私に「早く宿題をしなさい」と言うのだ。いつものことのように適当に返事を返し、床を転がる私。見かねた母親は再び宿題の催促をする。私は体を起こし机に向かう。そして目に見えて機嫌を良くした母親の前を通ると、不意に異様な匂いが鼻腔をくすぐった。
(おかしい。さっきまではこんな匂いはしなかったはず)
と、首をかしげながら私は机についた。
その時からである。“この変な、いや、不愉快な匂いはどうやら自分の母親からするぞ。ただし、一定の期間で”と母を怪しく思い観察を始めた。中学生なら定番の思春期が来る前なので、当然母親のことは慕っていたし疑いたくはないのだが、その匂いは車に乗っていた時に確証を得た。
スーパーの帰り道、母と一緒に購入したコーヒー牛乳を啜り終わった時である。母親が赤信号で止まり、とりとめのない会話でこちらを振り向いて話しかけたまさにその瞬間。
(あれ、お母さん。コーヒー飲んだ後、口臭くね?)
解決することは時に大きな代償を得ることもあるのだろう。
不愉快な匂いの原因がわかり対策法が練られるという喜びと、母親に対する不思議な失望感により、その日は自分の口臭チェックをして悲しみに浸った。
このような出来事から、十数年が経ち。私はほんの些細な。鼻に引っかかる程度の事柄に気づき、その気づきを助長させてしまった結果、コーヒー店を入ることはおろか前を通る行為すら躊躇うほど、コーヒーの匂いそのものが嫌いになってしまったのだ。
悲しいことに雨に至ってもそのような気づきが増えてしまったのだ。
雨粒がアスファルトに染みて蒸発する匂い。雨でびしょびしょに濡れてしまった靴の匂い。巻き添えを食らった靴下の匂い。そして、生乾きになった哀れな靴の匂い。
これらすべてが不愉快であり嫌いである。
何も知らなかったあの頃は、雨にぬれても家の敷地で遊び回るほどどうでもよかったのに。強風が吹いた雨の日には、進まない自転車を漕ぎ、その容赦のなさに楽しくなってバカみたいに笑っていたのに。
今では、少し嫌い寄りのどうでもいいである。好感が持てる部分もあるにもかかわらず、このような雨に対する心情は本当に悔やまれる。
先ほど挙げた、コーヒーの件にしても雨の件にしても、対人関係に当てはまることはあるだろう。
最初はお互いの好感が持てるポイントがあったはずなのに、“座敷に座るときに足が臭い”とか“ツイッターを見たら挑発的なことばっかり言ってる”とか“音源を無料ダウンロードしてる”などといったことに注目してしまい、結果的に「ご縁がなかったということで」という就活生にはつらい印象になってしまうことも有り得る。
身体的な部分の悪印象でない限りは、どれも気を付けさえすれば抑えることや防止することはできるはずだ。人に完全な悪人や完全な善人は存在しえないので、接し方や話しかけ方でいくらでも自分好みにできる可能性を秘めている。
個人差は当然あるが、人は群れの中でお互いを影響し合って生きている。口調がマネできたり思想がすり合わさるのもそのおかげだ。
最後に、この言葉を書き記すのは無責任で怠慢なことかもしれないが、最初に好感が持ったのは間違いではない。だから、その人の本性がちらちらと見えてきたならば注意するのもよし。見過ごして去るのもよし。もし自分が許容できるなら、ぜひ自分の指針に従い対応をして欲しい。だから当然無理をする必要はない。
私はこのような関係性が多く実ってほしいと望む。この作文のスパートは隣人同士が自分の持つ倫理観を議論し合えるような世界になって欲しいという希望的観測の表れである。そして、二回目となるこの作文中にもまた脱線をし、その際に思いついた言いたいことを書けたので大変満足していることをここに反省しよう。
以上のことを踏まえて本題を回収すると、私はすでに嫌いになってしまったコーヒーはもう遅いが、なんとか雨をどうでもいいラインに留めたいと思う。
最後までご覧していただきありがとうございます。
道中のことはほぼノープランで書いていますから、自分で後で読み返しても不思議な気持ちになります。
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