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走馬燈

作者: 龍威 啓人

 最近では益々星が見えなくなった。子供の頃に見た星空は光の洪水のようで、自分の小さな体が押しつぶされそうになるぐらいに圧倒されたものだ。

 天を二分する天の川。そこに何かの『流れ』を感じたのもやぶさかではない。

 それが今や、夜空に瞬くは遠慮がちな光芒。灯りをおとした書斎のガラス天井を透かして椅子 に腰掛け眺める度に、宮下隆也(みやしたたかや)は意気消沈した者を叱咤する如くに心の中で叫ぶのだった。

――お前らはそんなに弱い奴らじゃなかったはずだ!もっと叫べ!もっと怒れ!

 隆也は星が好きであった。星座がどうのこうのというのではない。ただ、その一つの一つの星が好きなのだ。己の存在を強烈なまでの輝きで自己主張する星々。

 憧れは望みとなり野心となって、隆也の生き様を確固とするものにした。己こそ一番輝く存在であり、またそうならねばならぬ存在であると。己を輝かすためになら、可能な限りの手段を尽くす。

 ところが現在の星々の輝きはどうだろう。例え地上の明かりのせいだとはいえ、強靭な意志を忘れてしまったように。だから隆也は憤るのである。激昂するのである。理想としていた憧れの対象の、思わぬ姿に裏切りを見た少年のように。

――さぁ、輝いてくれ!昔のように、俺を奮い立たせる力を!

 隆也は重大な決断を迫られる度に、こうして椅子に座って星々を叱責した。それはそのまま、決断に揺れる己の心を鎮め、勇気を奮い立たせる効果があるのを承知している故に。

――俺は負けない!俺は輝き続ける!

 怒りの昂りが勇気の高揚と相俟って、踏み切れないでいた決断に隆也を推し進める。

――俺は!

 鼓舞の効果が最高潮に達したその時――

 隆也は背後に人の気配を感じた。

 背中から腹にかけて熱いものを感じた。

 胸を突き上げる異物を感じた。

 吐いた。

 高揚によるアドレナリン分泌のためか、感覚は鈍かった。それと突然のことに脳が反応しきれていなかったのだろう。

 徐々に熱が痛みと変わっていくのに時間はかからなかった。

 痛みを感じた時、初めて隆也は自分の身に起こった危機について知った。いや、絶望を。

 咄嗟に後ろに立つ人間を確認しようとするが、震える体に力が入らず、また背後の人間の抵抗により叶わなかった。

 一度抜かれた熱いものが、再び体を突き通す。また、突き通す。その度に隆也は痙攣して、霞む視界に星空を見上げた。

 三度刺された後、隆也は後ろから押されてフローリングに突っ伏した。膝を打ち、顔を打ち。腹を押さえた手に液体が溢れるのがわかる。視界ばかりか意識が霞みだす。

 うつ伏せに倒れた隆也に犯人の姿は捉えられない。ただ犯人の所業が音としてだけ伝わる。

 扉の方に足音が向う。部屋を出るのかと思えばそうではなく、何かを引き出す音。それはおそらく本棚。本棚の何か。

 犯人が次に向ったのは、隆也の机。微かな金属音。引き出される引き出し。乾いた紙を握る音。

 それは淀みなく、迷いなく行われた行動。鍵のかかった机の中には数百万の現金があり、鍵の隠し場所は本棚のとある細工を施した本の中。

 犯人は全ての位置を把握していた。そうとしか思えない犯行。

 それと知って、隆也は苦しみの中で精一杯の怒声をあげた。

善秋(よしあき)か!?利美(としみ)か!?健司(けんじ)か!?」

 それは隆也の子供達の名前であった。隆也が現金を机の中にしまう癖を知っており、またその鍵がどこにあるかを知っているのは、隆也以外には三人の子供だけだったのだ。つまり闇の中の犯人は、三人のいずれかということになる。

 隆也のうめき声に犯人は一瞬の間動きを止めたが、今度は部屋の中を滅茶苦茶に荒らしだした。引き出しを開けて中のものを掻き出す音。本棚から本を引きずり出しばら撒く音。壁の額縁を投げ捨て、木製のオブジェを蹴り飛ばす。

 一通り荒らし終えたのか、犯人はもう一度だけ静かに佇み、そして扉を開けたまま部屋を後にした。

 隆也は立ち上がろうとするが体はいうことを利いてくれず、助けを呼ぼうと声をあげるが、息が漏れるばかりで声にはならなかった。

 絶望の、焦りと諦めの複雑な中で、隆也は思いを巡らした。子供達のことを。一体誰が自分を刺したのだと。

――走馬燈(そうまとう)に例えられる現象が隆也にも訪れた。

 少しして、侵入者を知らせる警報機がようやく鳴り出した。

 星は、静かに瞬いていた。


                   ※


 走馬燈とは、回り灯篭(とうろう)のこと。明かりに照らし出された絵柄が回る。

 隆也はその走馬燈のように、己の人生を足早に駆け抜ける。

 吉野(よしの)隆也が生まれたのは、昭和二十年の半ば。日本が戦後、復興の道を辿っていた頃である。

 隆也の父は小さな金属部品工場を開いていた。その長男として隆也は生を受けたのである。兄弟には二つ離れた弟がいた。

 生活は苦しくもなかったが、裕福だったともいえず、当時の日本にしてみれば一般的な家庭だった。

 幼い頃から隆也は人を率いる意思が強く、近所ではガキ大将として名を売ったものだ。

 学校に入ってからも学級委員長、生徒会長などを歴任し、大学に入ってからは学園紛争の機とも相俟って、率先して身を投じ、当局にマークされるまでになった。

 その後、学園紛争鎮静後は一変して行動を慎み、卒業後高度成長経済の波に乗って大きく事業を広げていた宮下不動産会社に就職した。

 会社でも頭角を現し始めた隆也は出世街道を進むと共に、社長の娘である早苗(さなえ)と結婚することによって更に地位を高めていった。早苗は出戻りの、二人の子連れであったが、隆也に迷いはなかった。

 社長にはもう一人、(しょう)という息子があった。跡取り息子である。ところがこの翔が、隆也と早苗が結婚した一年後に、子を生さないまま癌のために死去してしまったのである。

 災難か僥倖か、跡取り息子を失ってしまった社長は、隆也に対して婿養子として宮下家に入ることを願ったのである。隆也はこれを承諾した。長男であったが吉野家のことは弟に託し、宮下家の人間となったのだ。

 こうして跡取りとなった隆也は確固とした足場を会社内に築き上げ、社長の死去と共に宮下不動産の社長にまで登りつめたのだ。この時四十歳。

 バブル崩壊と共に苦しい時期も歩んだが、その後どうにか持ち直し、現在も不況の日本経済の中にありながら、揺るがぬ経営を続けていた。

 思えば、運の良かった人生かもしれない。けれど、節目々々では隆也の貪欲な野望が見え隠れする。中でも早苗との結婚は、感情以上のなにかの計算が仕掛けられていたに違いない。

 そんな人生をおくってきた隆也には、三人の子供がいる。二人は結婚相手である早苗と前夫との間にできた善秋と利美。善秋は二十六歳で現在は地方銀行に勤めている。一方の利美は二十三歳で大学生であった。

 そしてもう一人。健司も、実は隆也の実の息子ではなく、弟とその妻の息子を隆也が養子として引き取ったのである。隆也の弟である隆伸(たかのぶ)と妻の菜穂(なほ)が、相次いで亡くなってしまったからだ。健司も今年で二十三歳。大学を卒業して現在は宮下不動産で働いていた。

――奴ら三人の中に、犯人がいる。


 秋も深まった深夜、隆也は自宅書斎のスタンドランプに明かりを灯し、書類の整理に追われていた。どん底の不景気の日本の中で、ましてや値下がりする一方の土地建物を扱っている不動産業は苦しい経営を迫られている。その中で比較的順調に宮下不動産が事業を展開できているのは隆也の担う部分が大きい。細かな案件まで目を通さなければならず、家に帰ってもこの有様だった。

 書斎は八畳のフローリングで、壁際には本棚が並ぶ。調度品は机にソファー、テーブル、それと骨董品などが。注目すべきは北の空を見渡せる強化ガラスの天井で、その下には木製のシンプルな椅子が置かれていた。隆也はこの椅子に座って星空を眺めるのを楽しみとしていた。

 今夜は、星も雲に隠れてしまっている。

 コンコン、と扉をノックする乾いた音が部屋に響いた。

「うん」

 隆也は書類から目を離さずに、無愛想な返答で応じた。

 入ってきたのは五十代の女性。コーヒーカップの乗ったお盆を手に捧げ、ゆったりとした足取りで隆也の正面に立った。

「まだお仕事ですか?」

「うん」

 相変わらず隆也は無愛想のままで、女性は苦笑いのような表情を浮かべると、静かにコーヒーカップを置いた。

「今日はこれで帰らせていただきます」

「うん、ありがとう」

「それでは、失礼します」

「うん」

 女性は宮下家で雇っている家政婦であった。

 実は妻である早苗は、昨年乳癌で亡くなっていた。どうも宮下家の家系は病気にかかりやすいらしい。それにこの家には、隆也の年老いた母親を引き取っていた。半分寝たきりのような状態で、どうしても看護する手が欲しかったのだ。

 家政婦は、またゆっくりとした足取りで扉に向った。扉を開け出て行こうとした時、

「あら」

 と声を上げて軽く会釈をした。

「旦那様とお話ですか?」

「まぁね。田代(たしろ)さんは、もうそろそろ帰るの?」

「ええ、これで今日は帰らせていただきます」

「そうか。いつもありがとう」

「いえいえ。ではこれで」

「おやすみなさい」

「おやすみなさいませ」

 田代と呼ばれた家政婦の声が遠ざかっていった。それと入れ違いに書斎に入ってきたのは、ジーンズにカジュアルシャツ姿の善秋だった。

「お義父さん、ちょっといいですか?」

「善秋か。入れ」

 善秋は後ろ手に扉を閉めると、机の側に置いてあるソファーに腰掛けた。

「まだお仕事ですか?」

 時計の針を見れば、十一時になろうとしていた。

「ああ」

 隆也は湯気の上がるコーヒーを口元に持ってきて、熱さに慎重になりながら音を立て啜った。

 隆也と善秋。改めて言うことではないのだが、親子とはとても思えなかった。隆也も容姿は醜くはないのだが、善秋は隆也にない美しさを持っていた。色白な肌で鼻梁が高く、美男子である。母親の早苗に似たというよりも前夫に似たのだろう。前夫は、それは容姿の良い男であり、早苗の一目惚れであった。親の反対を押し切って早苗が前夫の所に押しかけたのだ。ところが結婚してみれば酒癖が悪く、度々早苗にあたっては暴力を振るった。結果、耐え切れなくなった早苗が親に泣き付き、離婚となったのだ。

 そのボンクラ亭主の血を引いた息子、と実は隆也は善秋を見ていた。

「お前の方は、仕事が片付いたのか?」

「ええ、もちろん」

「例の件もか?」

「そっ、それは……」

 途端に善秋の表情が苦しいものになった。真ん中で分けた黒髪を右手で掻き揚げ、縁無しの眼鏡をその右手で直す。

 隆也はその様子を、資料を左手に持ったまま上目遣いに眺めていた。コーヒーカップを置いた右手で広がった額を拭う。少し暖房を強くしすぎか、汗を帯びていた。

「まだ、承認がおりないのか?」

「だってお義父さん、今の状況じゃ難しいですよ」

「難しいのは承知している。だからこそ、お前に頼むんだ?」

「頼んだといわれても……」

「できないのか?」

「いや、そうは言ってないですよ」

 引きつった苦笑いを浮かべて、善秋は隆也から視線を外した。どう言ったらよいものかと、答えを探して部屋中に視線を漂わす。

「じゃあ、なんだ?」

「ですから、追加融資といわれても、とても僕の力じゃ……」

「駄目なのか?これは、うちにとったら重要な問題なのだが?」

「わかってますよ。難しいと言っているだけで」

「……なにが言いたい?」

 隆也は書類を置いて背伸びをすると、改めて両手を組んで善秋を覗き見た。

 善秋もなにかの決意を固めるように、ソファーに座り直る。

「なんだ?」

「お義父さん、前々から訊きたかったんですが、いつになったら僕を会社に呼んでくれるんですか?約束では三年だったはずじゃ?」

「三年?」

「そうですよ。銀行で三年間経験を積んだら、呼び戻してくれると」

 必死の形相の善秋は、前かがみに身を乗り出した。

「お前、銀行の仕事が嫌になったのか?」

「違いますよ!そんな話じゃない!約束の話をしているんですよ!」

 隆也は無言で言葉を返さない。ただ善秋の目を直視し揺るがない。

 善秋も必死に堪えている。根性なしにしては、よく我慢しているなと隆也は微笑を覚えた。

「約束か。……そうか、約束か」

 深々と椅子に腰掛けた。

 これに合わせて、堪りかねたように善秋が立ち上がり、机の前までやってきた。

「そうです、約束です。ただし、手ぶらで呼び戻してくれとはいいません」

「……そこで、追加融資の件か?」

「そうです。正直言って難しいものですが、もしこの融資の件を纏めた暁には、僕を呼び戻してもらえませんか?」

 また隆也は無言で善秋を試す。善秋の目は今にも泣き出しそうに潤んでいた。相当無理をして、おそらく心臓は激しく鳴っていることだろう。笑いを覚えた。

 けれど隆也は表情には出さず、少し困ったような表情を見せて額を拭った。

「ならば、こちらも正直に話そう。お前には今後も銀行で働いてもらいたいと思っている」

 善秋の表情が、一変に悲壮なものになった。

「なぜです!どうして僕がこれ以上銀行に勤めなければならないんですか!」

「お前もわかるだろう、今の状況を。銀行になにかと融通が利いたほうが、うちとしてもありがたい」

「そんなのはわかっていますが、なぜ僕なんです。いつまであんなところで働かせるつもりですか?お義父さんの跡取りは僕ですよ!」

 長男なのだから当然だ、と善秋は食ってかかった。

 だが隆也は冷静のまま、静かに、

「ああ、そうだ」

 と頷いて見せる。

「確かに、私の後を任せるのはお前だ。だが、今は状況が状況だ。後を託すにも、託すものがなくなってしまったら話しにならないだろう」

「なら、なぜ健司を銀行にやらなかったんですか?僕じゃなく、あいつを銀行に回せばよかったのに」

「あれは駄目だ。お前みたいに優秀じゃない。とても銀行になどやれんよ。拾ってやるしかなかったんだ」

「ほんとですか?……まさか、健司に会社を継がせるつもりじゃないでしょうね」

 善秋の声音のトーンが落ちる。本音が漏れ出た音だ。机に身を乗り出し、悠然と構える隆也を見下ろす。

 隆也は無表情の仮面の下、哄笑を覚えた。ついに本音が出たかと手を叩き、善秋の肩を叩いてやりたい気分だった。

 隆也が善秋を銀行に入れさせたのは、銀行との伝手を作ることももちろんであったが、本心は追放である。善秋に会社を継がせる気は更々なかった。

 早苗と結婚し、善秋を引き取ったのは隆也が三十一歳の時。善秋は四歳だ。その後、自分なりに教育を施してはみたのだが、その大半を仕事の忙しさのままに早苗に託してしまったために、なんとも甘えん坊な情けない男に成長してしまったのだ。その姿に隆也は早苗の前夫の姿を見たのである。血は争えないものだとつくづく思ったものだ。

 それからというもの、善秋に会社を譲る気はもうとうなくなってしまった。会社のためというよりも、生理的な嫌悪感からであった。

 そこで新たな後継者として隆也が選んだのが、弟の息子である健司である。確かに学歴は善秋に劣るが、社会人、経営者としては善秋の比ではないと見ていた。だからこそ、大学卒業後に会社に入れた。また吉野家を継ぐ者がいなくなっても、健司を宮下家の養子としたのである。

 けれど、ここでは本心は漏らさない。まだまだ善秋にも利用価値がある。

「心配するな。この不況を越えて経営が安定すれば、お前を呼び戻す」

「本当ですか?」

「ああ、本当だ」

「そうですか……」

 まだ釈然としない部分があるように顔にはありありと不満げな表情が浮かんでいたが、渋々といった感じで身を引いた。

「約束してくれますか?」

「ああ、約束だ」

 隆也は右手を差し出し、二人は握手を交わした。

 まったく、約束に頼るなどは愚の骨頂。それほど会社を譲り受けたいならば、譲るざるを得ないほどの実績を積み上げ、実力で掴んでみろと思う。隆也はそうしてきた。だから、そうしない、できない者を嘲るのだ。

 善秋は膨れっ面のまま書斎を後にした。扉を閉める乱暴さが、心の不満を表していた。


 その日も隆也は仕事上の会食後、十時過ぎに家に帰ってきた。

「お帰りなさいませ」

 家政婦が玄関まで出迎えてくれる。コートを渡してコーヒーを入れるように頼んだ。

 廊下を歩いて書斎にそのまま入ると、すでに暖房がついていて暖かくなっていた。帰宅後の常として、隆也はまず書斎に入ることとしていた。仕事の書類を整理するためだ。鞄を机に置き、上着をソファーにかけ、シャツのボタンを緩め椅子に座る。鞄を開き、早速書類に目を通す。

 その時だ、ドタドタと廊下を走る足音が聞こえてきたと思うと、ノックもなしに扉を勢いよく開けて利美が入ってきた。

「お義父さん!どういうこと!」

 茶髪のロングの髪を振り乱し、目を真っ赤に腫れさせていた。黒のハイネックに、クリーム色のパンツ姿。

 入ってくるなり両手で机を叩きつけ、隆也を睨み付けた。

「ねぇ、なんであんなことしたの!」

 隆也に言葉を挟ませずに捲くし立てる。

「卑怯な真似しないで!私はお義父さんの道具じゃないの!私の、私の自由にさせてよ!」

「おいおい、どうした?」

 隆也は奇妙なものを見るように渋面を作って一人娘を見上げた。

「どうした?どうしたじゃないでしょ!とぼけないでよ!」

 利美の目から涙が溢れ出した。目が腫れていたのは、今までずっと泣いていたものだからのようだ。ただし、心当たりは……と隆也は自分の記憶を辿る。

「わからないなぁ?」

「嘘つかないでよ!寛之のことよ!」

「寛之?誰だそれは?」

「私の彼よ!」

「ああ」

 利美の彼と聞いて、ようやく納得がいった。とぼけたり、嘘など言っていない。本当に忘れていた。

「お前の友達のことか」

「友達じゃない!彼氏よ!」

「忘れなさい」

 隆也は冷たく言い放した。そういえば、そんなことを命じたこともあったなと。

 利美が言っているのは、その寛之とかいう男に金を握らせたことだろう。金を握らせ、利美に近付くなと迫った。なぜなら、今利美に変な虫が付いたら困るからだ。利美の相手は、もう決まっている。

「忘れられるわけないじゃない!私は愛していたのよ!」

「そんなのは一瞬の迷いだ」

「違う!私は一生あの人を愛する!」

「利美……。そこまで言うのはいいが、相手の方はどうなんだ?その寛之君というのも、お前を愛してくれているのか?」

「それはお義父さんが!」

「私がなんだ?」

「汚いことをしたからでしょう……」

 突然、利美は泣き出して突っ伏してしまった。そのまま力なく崩れ、机の向こう側に座り込んでしまう。

 仕方がないので隆也は立ち上がり、机を迂回して利美の元に歩み寄った。腕を組んで見下ろす。

「捨てられたか?」

「違う!お義父さんが……」

「それだけの男だったんだ。一生とまでお前のことなんか考えていなかっただろう。さっさと忘れてしまえ」

「お義父さんが……お義父さんが……」

「泣くな。お前には私がいい相手を紹介してやる」

 隆也が利美の肩に手を触れようとすると、利美は隆也の手を振り払って更にきつく睨み付けた。

「どうせ、あの豚のこと言ってるんでしょ!」

「ふっ、豚か。豚は豚でも真珠の価値のわかる豚だぞ。それにお前に入れ込んでいる。寛之とかいう男よりも大切にしてくれるだろう」

「嫌よ!いやいや!」

 利美は激しく首を振った。

 隆也には利美のこの抵抗が、実は理解できる。頭の中身の質は悪いが、外見だけならば美しい娘である。あの豚にやるには勿体無いほどだ。しかし、豚、豚と言っているが、相手はとある銀行のお偉いの息子で、本人も銀行のエリートコースを進んでいる青年である。もし、この豚の青年をこちら側に取り込むことができれば、会社にとってどれほどのプラスになるだろう。たいした能力もない大学入試に一浪するような、我侭な外見だけの娘を有効に生かすためには、この方法しかあるまい。例え就職させても、嫌気が差して辞めてしまうのがおちだ。

「利美、お前のような奴は広政君のような男に嫁いだほうがいい。彼ならお前の言うことを色々と聞いてくれるだろう。きっとお前のためになるさ」

「嫌だ!嫌だよ……」

「お母さんもそれを望んでいた」

「嘘だよぉ」

 嘘だ。確かに心配はしていたが望んでなどいなかった。けれど、ここを収め思い通りに進めるには早苗の名前がどうしても必要だった。隆也に懐いてはいなくても、早苗の影響は大きかったからだ。

 隆也は利美と同じ視線にしゃがみこみ、言い聞かせるように語る。

「正直に言おう。利美、確かにお前のためというのもあるが、会社のためでもある。お前が道具というのも当然だ。けれど、お前のお母さんやお祖父さん、お祖母さんから受け継いだこの会社を潰すわけにはいかないんだ。お前も現在の日本の経済状況はわかっているだろう?お前は会社が倒産した方がいいと思うか?」

 利美は首を振る。

「そうだろ?お母さんだって望んでいないはずだ。お母さんのためだと思って、そして自分のためだと思って承諾してくれないか?」

 利美は俯いたまま、なにも反応を示さなかった。

 隆也は利美の肩を抱く。けれどすぐに振り解き、利美は無言のままで書斎を出ていってしまった。

「きゃ」

 という声が廊下に響く。家政婦が突然利美の出てきたのに驚いたのだろう。偶然か。それとも立ち聞きでもしていたか。

「失礼します」

 廊下の方を振り返りながら、家政婦は入ってきた。

 隆也は椅子に戻る。

「どうかなさったのですか?」

「なに、色々とな」

 隆也はわざわざ詳細を語らなかった。

 コーヒーが机に軽い音を立てて置かれる。隆也はすぐにそれを手にして口に運んだ。いつもより温い。

「そうですかぁ」

 とぼけた家政婦の顔は、迫真の演技に凝っていた。


 その日は、隆也は疲れた体をソファーに埋め、仕事の小休止をとっていた。時間は午前零時近く。家政婦も帰ってしまっていた。

 目を閉じて静かに耳を済ませていると、玄関の扉が開く音が微かに響いてきた。足音が書斎に近付いてきて扉をノックする。隆也が応えるまでもなく扉は開いて。

「まだこちらでしたか?」

 健司が疲れた笑みを湛えて顔を覘かせた。

 隆也はソファーから体を起き上がらせると、

「うん」

 とだけ無愛想に応えて、軽く目頭を右手の指で押さえた。

 扉を閉めて、紺の背広姿の健司が近付いてくる。隆也は向かいのソファーを指差して、座るようにと促した。テーブルを挟んで二人は向かい合う。

「今帰ったのか?」

「はい。着替えがなくなってしまったもので、どうしても今日ぐらいはと」

「そうか」

「お義父さんも今まで?」

「うん」

「余り無理をなさらないように」

「うん」

 健司は今年の四月に宮下不動産に就職したばかり。にも拘らず、家に帰ってこれないほどの忙しい日々を過ごしていた。それもこれも、隆也の指示であった。期待、というよりは、これぐらいこなしてもらわなければ困るという試練だ。

 本人には、未だに後継者と考えているなどと一言も言ったことがない。そんなことを知れば自惚れるだけだ。それよりも今は、地力を鍛え上げさせるつもりだった。そのためにはなによりも経験を積ませることであり、多少無理をしても困難に立ち向かわせるべきだと隆也は考えていた。

 しかし、果たして隆也の気持ちが健司に届いているかといえば疑問である。隆也と健司には、仕事に関して大きなわだかまりがあった。

「少し瘠せたか?」

 隆也は健司の顔色を伺って質した。元々ふっくらとしていた頬がこけてしまい、短髪の容貌は剽悍でもあったが、疲れが前面に出ていた。おそらく、寝る時間も惜しんでいるのだろう。

「ええ、少し」

「大丈夫か?」

「はい」

「少しは休むか?」

「というと?」

「仕事を減らすか?と言っているんだ」

 もとよりそんな気持ちはない。これで「はい、お願いします」とでも言うようなら、怒りよりも失望を覚えるだろう。隆也は健司に、自分に近いものを感じていたからだ。己を輝かせることのできる強い意志を。

「いいえ、結構です」

 案の定、健司は疲れの中にも鋭い眼光を隆也に向けて断言した。

「けれど……」

 と健司は大きく息を吸い込むようにしてから、

「その言葉は、父の方に欲しかったですね」

 健司の視線は隆也の目を捉えて離さなかった。隆也も視線を逸らせたりはしない。

「まだ恨んでいるのか?」

「ええ、一生」

「そうか」

 隆也は軽く口の端を引きつらせ、冷徹な笑みを浮かべた。そんなことは承知の上だと。

 健司の父であり、隆也の弟である隆伸が死去したのは、今から七年前のことである。隆伸は享年四十三歳。

 当時隆伸は、宮下不動産の社長となった隆也の下で働いていた。しかし、おりしもバブル経済が崩壊し、宮下不動産も窮地に陥った。その中で隆也は経営の先頭に立つと共に、弟である隆伸に不採算事業の対処を任せた。隆伸は身を粉にして働いた。元々は兄弟の誼で会社に拾ってもらった身であり、また兄の期待に応えようと励んだ。ところが、いつしかその頑張りが限界を超えてしまったのだ。病名は心筋梗塞。その実態は過労死であった。

 健司はそれを隆也の責任としたに違いない。当時健司は十六歳の高校一年生だ。更に追い討ちをかけたのが、健司の母、菜穂の自殺である。詳しい動機は定かになってはいないが、隆伸の死が最大の要因と思われた。一度に両親を失ってしまった健司の悲しみ、やるせなさが、怒り、恨みとなって隆也に向けられたとてなんらおかしくない。

 隆也は今でも覚えている。健司を引き取った時の、あの決意に満ちた目を。養子に入ることを承諾した時の、あの野心に満ちた笑みを。きっと健司の胸には隆也への復讐が凝り固まって沈んでいるであろう。その地底に響く声に導かれるままに、健司は隆也を恨み、その機会を耽々と狙っているのだろう。

 隆也は、そんな健司の意志が好きだった。その意志に健司が従うのであれば、音を上げるはずがない。

「恨むのは構わん。仕事さえきっちりとしてくれればな」

「もちろんです」

 健司の言葉に、隆也は小刻みに頷いて見せた。満足な答えだ。

「で、仕事のほうはどうなっている?」

「それですが」

 仕事の話になると緊張した空気は微妙に一変して、シンプルな仕事の緊張へと変わった。

 健司は自分の鞄から資料を取り出して広げて見せた。

「やはり、これからはITを活用した最先端のものを」

 健司には、入社早々に新規事業の開発に当たらせていた。不況の中、企業が生き残るためには、新たな事業展開が必要なのである。

「またITと共に――」

 仕事の話となってからは議論が止まらず、書斎の明かりは遅くまで灯っていた。


                    ※


 刺された部分から流れ出す血は、いくら押さえようと止まらない。ドクドクと流れ出るのでさえ、手に、体全体に感じることができた。

 痛みが更に増し、顔をしかめる。

 息が荒い。

 体は痙攣するようには動くが、思うようには動かせない。

 目が霞み、今や星は見えない。

 死が迫ってくる。確実に。けれど足音を忍ばせて。

 絶望。後悔。

 恐怖と諦め。

 手に感じる血の熱さと、顔に感じるフローリングの冷たさが、生と死の二極論を叫ぶ。

 けれど隆也は、薄れゆく意識の中、苦しみの中で犯人を捜していた。

 三人の子供達には、それぞれ動機となるようなものはある。ただし、それが殺人を犯すほどのものであるかといえば断定はできない。例えどんな小さな理由だとて犯行に走る者はいるだろうし、どんなに苦しくても、耐える者は耐え得るだろう。動機で犯人を推測するには限界がある。

 となれば、どう推理するべきか?そもそも、子供達にその前兆は見られなかったか?

 時間がない。

 隆也の脳は、再び走馬燈のように回りだす。


 隆也が善秋と最後に会ったのは、前日の朝だった。

 朝日が差し込むリビングで隆也が朝食を取っていると、善秋が大きな荷物を肩に担いで入ってきた。

「おはようございます、お義父さん」

「うん。出張か?」

「そうなんですよ。三泊四日でT県まで行ってくるんですよ」

「そうか。気をつけて行きなさい」

「はい」

 荷物を壁際に置いて、善秋も自分の席に着いた。

 朝食も、いつも家政婦が早くにやってきて用意してくれている。今日はご飯に味噌汁。アジの開きに牛蒡の煮物だ。

「いただぎます」

 善秋は急ぐように箸を動かした。

 朝食の席に、家族が全員揃うことは余りない。健司は昨日も帰ってこず、利美はまだ寝ているのだろう。

 隆也は細かいところの家族への強制はしないが、自分のペースは決して崩すことはなかった。どんなに遅くに就寝しても決まった時刻に起き、決まった時刻に朝食。新聞に目を通して、決まった時刻に出社した。例え社長といえども、隆也は他の社員と同じ時刻に出社するのを常としていた。

「そういえば、お義父さん」

 善秋が箸を止めて話しかけてきた。隆也も箸を止める。

「例の件なんですが」

「うん」

「なんとかなりそうですよ」

「おお、そうか」

 例の件とは、追加融資の話である。さすがにこれには隆也も嬉しそうに表情を和らげた。

 新規事業を展開したくても、それには金が必要だ。しかしこの不景気の中、銀行は不良債権を恐れて貸し渋りに転じている。なかなか融資を得ることも難しくなっているのだ。そこに追加融資の話である。どんな事業主だとて喜ばないはずはない。

 正直、余り善秋に期待はしていなかったのだが、隆也は少しだけ見直す想いであった。

「よくやってくれたな、善秋」

「いいえ、お義父さんの経営が認められたからですよ」

 善秋も笑顔になって応じた。

「いや、とにかくありがとう。これで新規事業の目安が立つというものだ」

「健司が進めているってやつですか?」

「ああ。あいつばかりじゃない。会社全体で進めていこうとする事業だ。やはりお前を銀行にやっていて正解だったな」

「そうですか?」

 この時ばかりは本心だった。隆也は上機嫌である。もしこの時に跡継ぎ問題を出されたとしたならば、考えを変えるまではなくても、再考を検討していたかもしれない。それほど嬉しかった。

 しかし、この好機に善秋は後継問題を口にしなかった。隆也の喜びを嬉しそうに眺めていたばかりである。諦めたのか?と隆也は首を捻りたくもなったが、喜びの表情に疑問は微塵も表さなかった。

 その後、善秋は隆也よりも先に家を出た。それが最後である。


 利美と最後に顔を合わせたのは、その日の朝だった。

 朝食を終えて、リビングで新聞に目を通しているところに利美はパジャマ姿で顔を出した。まだ髪は寝癖に崩れ、スッピンの顔に眉はなかった。普段ならば、きちんと着替えて降りてくるのだが。

「おはようございます」

「なんだ、その格好は?」

「あっ、これは気にしないで」

 利美は目を擦りながら椅子に座った。

「あのね、今日と明日って、友達と温泉に行ってきます」

「温泉?大学は?」

「学園祭なんだけど、面白くないから」

「……そうか。で、友達は?」

「安心して、みんな女だよ」

「そうか」

 特に反対する要因はない。学園祭は好きにしろと思う。それに例の寛之という男とは、最近会っていないことを探偵の報告で承知している。あれ以来、隆也にも文句を言わなくなっていた。メールなどでのやり取りの可能性も考えられるが、それもまずないだろう。どんなに馬鹿な女だとて、金を握らせられて身を引くような男に未練は残らないだろう。

 それに、今週末には例の豚とのお見合いがある。

「今週の日曜のことはわかっているな?」

「……はい」

 これも運命と諦めたのか、随分と素直になったものだ。

「それなら、気をつけていってきなさい」

「はい」

 そう言うと、利美は椅子から立ち上がってリビングを出ていった。が、ひょっこりと顔だけを戻して、

「あっ、いってらっしゃい」

 と中途半端な見送りの挨拶をして、階段を登っていってしまった。

 隆也は時間がくると、いつも通りに家を出た。それが最後である。


 健司と最後に会ったのは、その日のお昼頃であった。健司が隆也のいる社長室にやってきたのである。

 コンコンと扉を叩いて、健司は入ってきた。

「失礼します」

 礼儀正しくお辞儀をして入ってきた健司は、隆也が座っている机の前までやってくると、改めて軽く会釈した。

 隆也は目を通していた書類を机の上に置くと、深々と椅子に寄りかかった。

 それほど広くない部屋であるが、社長室らしく高級感が漂っている。窓からはビル群が望める。

「社長、これからS県の現場に行ってきます。帰りはおそらく明日になりそうです」

「そうか、気をつけてな」

 現場とは、これから宮下不動産が新展開しようとしている当地である。そこに最新ITを活かした高級住宅街を造ろうというのだ。一個の家ではなく、小規模なIT住宅街を。住宅街の周辺にはセンサーの網を張り巡らす。防犯面も万全な街だ。大変大きな仕事になる。

「兄さんが上手いこと融資を引き出したそうですね」

「ああ。ただ、まだまだ資金は必要だ。これからが重要だ」

「と、なると、いよいよGOですか?」

「決断は、下す」

「まさに、社運を賭けた」

「ああ」

「勝たなければならないですね」

「ああ」

「俺もがんばりますよ」

 見れば健司はまた瘠せたであろうか?さすがに隆也も少し気になった。

「また瘠せたか?」

「そうですか?」

「大丈夫か?」

「ご心配はありがたいですが、俺はこんなことじゃ潰れませんよ」

 その目だけは、相変わらず死んでいなかった。例えどんな感情が含まれた輝きであろうとも、頼もしい瞳の輝きであった。これぞ自分が見込んだ男だと、隆也は満足だった。

「それでは」

「ああ」

 健司は一礼すると、扉に近付いてノブを取った。だが、そこで振り返り、

「速やかな決断を期待していますよ、義父さん」

 まるで隆也に挑戦するような笑みを浮かべて、健司は社長室を後にした。

 隆也も笑みを浮かべる。当たり前だ、という心境だ。

 隆也は手元の書類に視線を戻した。それが最後だ。


                    ※


 侵入者を知らせる警報機が鳴っている。けれども、家の中で驚き走る者もいない。隆也は重傷。母は寝たきりだろう。

 血は相変わらず流れ出ている。意識が段々遠のく。

 それでも隆也は犯人を求めた。不当なるこの裁きへの怒りのために。真実を求める探究心のために。

 三人の子供達の最後の印象。隆也にしては、これといった兆候を感じ取ることはできなかった。気づくことといえば、今日は三人とも外出しているという程度である。

 どうもいけない。もしかしたら子供達が犯人ではないのか?本当に物取りの仕業なのか?いや、やはりあれだけ確実な動きが取れるのは子供達しかいない。家政婦ということも考えられるが、隆也が机に現金を入れる癖までは知らない。もちろん、鍵の存在も。

 そもそも、なぜこうなってしまったのか?抵抗する暇もなく刺され、犯人の顔を見ることさえ叶わなかったのはなぜか?それは、星と向かい合っていたからに違いない。星と向かい合う時、隆也は一種の催眠状態にあるのだ。自己暗示の。だからこそ、犯人が侵入してくるのにも気付くことができなかったのだ。

 では、どうして今夜、星と向かい合うことになったのか?それは……健司の、あの一言だった。

「速やかな決断を期待していますよ、義父さん」

 そして、あの挑戦的な笑みだった。

 決断に迫られた時、星と向かい合うのを隆也は常としている。癖というよりも儀式のようなものだ。時間もほぼ一定している。それは子供達全てが知っている。もちろん、健司も……

――健司が?

 初めて一人に絞られた。となると、あの言葉は単なる挑発ではなく、隆也を今夜の内に星と向かい合わせるための挑発であったのだろうか?しかし、健司はS県にいるはず。だが、そんなことを言い出したら善秋も利美も同じである。

 ならばなぜ、健司が?復讐か?まさか、こんな形の復讐を望んでいたのか?

「速やかな決断を期待していますよ、義父さん」

 再び、あの言葉が隆也の脳裏に蘇る。と、ある言葉が引っかかった。本当に僅かな、普段との違い。

「――義父さん」

 普段とは『お』が抜けているだけだが、かつて健司がその『お』を抜いて隆也を呼んだことはなかった。健司が、

「父さん」

 と呼んでいたのは、隆也の弟、隆伸のことだけである。

――まさか!

 隆也は走馬燈を三度見る。


 あれは今から二十四年前。隆也が唯一犯した計算のない本能の行動だった。

 夏の一日、隆也は会社帰りに弟の家に寄った。この頃、隆伸はすでに菜穂と結婚していて、古びた一軒家を借りて住んでいた。仕事も隆也とは別の会社に勤めていて、仕事が終わった後に一緒に酒を飲むことを楽しみにしていたのだ。この日も約束していた。

 ところが、この日隆伸は突然の残業となってしまい、遅くまで帰ることができないという。仕方がないので隆也は帰ろうとするが、せっかくきたのだからと菜穂に引き止められるままに夕食をご馳走になった。隆也はこの頃、まだ早苗とも付き合っていない一人身であったから。菜穂にお酌をしてもらいながら、隆也は酒を飲んだ。料理も上手く、気分も良かった。

 菜穂という女性は、美人というほどではなかった。だが笑顔に華があり、そこらの美人よりもよっぽど人目を引いた。隆也にとっては弟の嫁ながら羨ましい限りであり、密かに恋心も抱いていた。けれど、隆也は計算の人である。計算の中に、菜穂は含まれていなかったのだ。

 だが、全てが狂ってしまったのは、隆也の一言からであった。酔っていたのだ。

「しかし、菜穂さん、お子さんはまだかい?」

 二人は結婚して五年にもなるが、未だに子宝に恵まれていなかった。

「ええ、残念ながら。こればっかりは天の授かりものですからね」

「俺がこんな有様だから、親も隆伸に期待しているんだ。しっかりと頼むよ」

「そうですね、私もそう望んでいるんですが……」

「それは、隆伸が……駄目なのか?」

「いいえ、そういうわけじゃ……。もう、なにを言わせるんですか、お兄さん!」

 菜穂は恥ずかしそうに頬染めたものだ。

 が、この仕草が計算の人を狂わせてしまったのだ。菜穂にその気がなくても、その仕草には色があった。酒のせいもあったろう。けれどそれ以上に、この時隆也を支配したのは本能的な欲望に他ならなかった。

 隆也は菜穂を押し倒したのだ。嫌がり抵抗する菜穂を力で封じて、事を成し遂げたのだ。

 その数ヵ月後、菜穂は妊娠した。隆伸は、それは喜んだものだ。

 隆也は複雑だった。

 菜穂は……嬉しそうだった。

 が、その喜びは仮面だったのだ。と、隆也は菜穂が自殺した時に悟った。不義を行い、子まで生してしまった菜穂を支えていたのは、隆伸の喜びだったのである。この人がこれほど喜んでくれるならと。その隆伸が死んでしまった時、菜穂は生きる支えを失ってしまったのだ。贖罪に身を焼いたのだ。

 そう、健司は隆伸の子供ではなく、隆也の子供であったのだ。その決定的証拠が三年前に知れた。密かに自分と健司のDNA鑑定を行ったのである。その結果、二人は親子と判定されたのだ。


 事実を知っているのは、隆也の他には、隆也の母、安子だけである。もしかしたら、なにかの弾みで安子の口から健司に伝えられたのかもしれない。そうとしか、思えなかった。健司は、隆也が実の父親であると知ったのだ。

 となると動機はどうなるか?今まで嘘を付いてきた隆也に対する復讐か?それとも更に複雑な心理か?が、犯人が絞れてしまえば動機など隆也にとってはどうでも良かった。絞れてみれば、なるほど健司が犯人だと思い当たる節が様々ある。歩き方、手の触れた感じ、力の強さ、行動の素早さ。要は父親を刃にかけたという事実である。

 もしかしたならば、実行犯は健司であっても善秋と利美が共犯ということも考えられる。健司が協力を要請したならば、充分に協力しかねないからだ。隆也は、二人にとっても目の上のたんこぶなのだ。

 疑問が解けていくと同時に、隆也は血に塗れた苦笑いを浮かべた。こうなることは計算していなかったのである。思わぬ形で計算が狂ったものだ。それと同時に沸々と怒りがこみ上げてくる。この、輝くべき俺の人生を狂わせやがって!と。

 隆也の怒りの矛先は健司に向けられる。元はといえば隆也が原因。けれど、最早自己批判する余裕などはなかった。

――なんて情けない奴だ!こそこそとしやがって!殺しにくるなら正面からこい!

――お前は俺の期待を裏切った!あの星々のように!

 隆也は目を見開き、最後の力を振り絞る。こうなったら健司が犯人だという証拠を残してやる。幸い墨となる血はたくさんあるのだ。それまで動かなかったはずの手が震えながらも動き、血に濡れていないフローリングに伸びる。

――健司。

 そう書く気で、隆也は人差し指をフローリングに付けた。ところがその瞬間、隆也の霞む脳裏に別の考えが浮かび上がった。

――豚箱に入れてもつまらない。どうせなら、死ぬまで後悔させてやる!

 隆也の指が動いた。一文字目は『走』。

――ははっ、これが親心だ!!

 二文字目に『馬』と書いていたところで、ついに隆也は最後の血を吐き、事切れた。

 瞳は虚空を睨み、口元には笑みが浮かんでいた。

 フローリングには完成しなかった『走馬燈』の文字が。



――苦しめっ!!


                    ※


 隆也の遺体は、警報で駆けつけたガードマンによって発見され、警察に通報された。

 すぐさま所轄の警察がやってきて、現場検証が行われた。

「これゃぁ、酷い」

 駆けつけた刑事は、第一声を上げた。

「物取りの仕業ですかね」

 同僚の刑事が推測する。

「見た目はな。まぁ、鑑識の結果見るまではわからねぇや」

「ここの住人は?」

「えーと、被害者の宮下隆也の他には、息子の善秋と健司、娘の利美、それと母親の安子の五人暮らしですね」

「で、他の連中はどこに?」

「善秋と健司は仕事の出張、利美は旅行で外出中でした。それぞれ現在、連絡がついてこちらに向っています。安子については、ほとんど寝たきりでベットの中に」

「うーん、なるほど。ん?なんだ、これゃ?」

 刑事は、隆也の右手の指先に注目した。

「あっ、それが先程お話した、ダイイングメッセージで」

「ダイイングメッセージだぁ?ミステリー小説じゃあるまいし」

「いや、そういわれても現実にこうして残されているんですから」

「じゃあ、なんて書いてあるんだよ、これ?」

「いやぁ、それが『走』は読み取れるんですが、その後は……」

「冗談で書いたんじゃないのか?」

「それはないでしょう。これから死のうって人が冗談を書くんですか?」

「だって、この仏さん、笑ってるよ?」

「あっ、本当だ。いやいやいや、それでもないでしょう。被害者は会社社長さんですよ、コメディアンじゃあるまいし」

「コメディアンな社長さんかもしれないぞ」

「その冗談は、ちょっとまずいんじゃぁ……」

「まずいか?」

「まずいでしょう」

「そうだな、うん」

 刑事は立ち上がると、隆也の遺体に手を合わせた。

「あんたが最後の力を振り絞って残してくれたメッセージは、必ず事件解決の手がかりとして役立たせていただきますよ」

 隆也の表情は、笑みを浮かべたままだった。


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