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彼女の罪

作者: 神崎みこ

 こんなことには耐えられない。

そんな弱音を吐くことも、本当は許されないのかもしれない。




今の時代にと言われるかもしれないけれど、所謂名家のお嬢様として育てられた私には許婚と言われるものが存在した。思えば、財産関係の都合上やら、仲のよい親戚関係からの口約束でしかなかった。親ですら、そうなればいい、と思った程度のものだった気もする。

もっとも、幼い頃はその意味がわからずただの仲の良い遠縁のお兄ちゃんとしか思わなかった。

その意味が変わったのは思春期を越えてからのことになる。

急に逞しくなった彼の存在に、突然優しいお兄ちゃんは「異性」であり私とは違う存在なのだと気がついてしまった。その時からずっと私はお兄ちゃんのことを追いかけては、振り払われない彼の手にどこか安心していたのだ。

だから、彼が急に結婚をすると言い出したときには世界が終わったかのような気分を味わった。


「嘘でしょ?」


それ以外の言葉など出るはずもなく、私はただ呆然とお兄ちゃんの顔を見つめていた。


「お前には最初に言っておかないと、と思って」


照れたような笑顔を浮かべるお兄ちゃんは、今まで見たこともない程"男"を感じさせ、私ではこんな顔をさせることはできないのだと、その存在を遠くに感じてしまった。

頷く事とも出来ず、否定することもできず、突っ立ったままの私には気がつきもせず、彼女の事を嬉しそうに語るその顔を今でも忘れることができない。

私はその人には勝てない、そう思ったからこそ卑怯な手を使ったのだ。

彼が根回しをする前に恋人の存在を触れ回り、気が狂ったように泣きつづけてやったのだ。裏切られた許婚として。

遠い日に親同士が決めた縁談など、古臭くてカビが生えたも同然だ。何が何でも私が彼と結婚しなくてはいけない、などということはないし、他の人間と結婚したからといって彼が跡取から外れるはずもない。彼女が有能だと認められれば別に結婚することに誰が口を挟む問題でもない。焦りが私の気持ちを後押しし、唯一の女孫だという立場を利用しておばあさまを焚きつけたのだ、この私が。

孫には甘い祖母は、案の定彼の一族へと働きかけてくれた。最初は戸惑っていた相手の家族も、あの年齢の女性なら当然とも言うべき男性遍歴をまとめた報告書を渡されるにつれ、徐々に彼女への態度を頑ななものへと変化させていった。

私と結婚しなければ、会社も継がせないし、親子の縁を切る。

最終的には彼の両親はそれほどまでに態度を硬化させていった。

その間、私はただ泣き伏せているのみ。事態は思いも寄らぬ方向へと転がり落ちていく。

彼女を捨てる事も出来ず、かといって、親子の縁を切ることもできないお兄ちゃんはよく言えば優しく、悪く言えば優柔不断だ。無理やり結婚して、彼女がどんな目に会うのかを躊躇していたのかもしれない。

結局のところ、何も言わずに彼女が彼のもとを去ることで、決着がついた。

抜け殻のようなお兄ちゃんを残して。




 今目の前にいるのは私が好きだったお兄ちゃんなのだろうか。

頬が削り取られ、明らかに顔色が悪いおにいちゃんは、飲めもしないお酒をあおっている。

いくら飲んでも酔いが訪れないのか、明らかに度数の高いお酒を水のように飲み干している。


「お兄ちゃん、もうこれぐらいで……」


私が酒瓶を取り上げようとするものの、彼は引っ手繰るようにしてそれを奪い返す。

据わった目でこちらを見上げ、聞いたこともない程冷たい声音で話し掛けてくる。


「これで満足か?」

「満足って」

「俺と結婚できて満足かって言ってるんだよ」


乱暴に酒瓶がテーブルの上に置かれ、その音に驚いた私は僅かに飛び上がる。


「おまえの画策だろ」


部屋に閉じこもって泣いたふりをして、裏で色々していたことを指しているのか、彼は似つかわしくない薄笑いを浮かべる。


「結婚してやったんだから、これで満足だろ?」


確かに、今日は式と披露宴が行なわれた。始終無表情の花婿と、それを窺うようにしてビクビクしている花嫁。周囲もその雰囲気を感じ取っていたのか、お祝いムードとは程遠い微妙な空気が流れていた。

しかも、先月退社した彼の元職場の同僚達からは明らかに私に対する悪意が感じられた。

いなくなった彼女が同僚だと言う事を考えればあたりまえかもしれないけれど。

私は一生で一番幸せだといわれる瞬間を、こんな状態で過ごしてしまったのだと思い、愕然とする。

お兄ちゃんの口は止まらない、吐き出すたびに私はどんどん心を凍らせていく。


「いっとくが、お前にはこれっぽっちも愛情を持つつもりはないから」

「ないって、だって、結婚したのに」


イヤイヤだとはいえ、みんなの前で誓ったじゃないか、とは、とてもじゃないけれど言えない雰囲気だ。


「それに、顔をみるのもむかつくのにセックスなんて気持ち悪くてできるわけない。悪いけどほかをあたってくれ」

「お兄ちゃん以外の人なんて考えられないのに!」

「お前だけは考えられないんだよ、俺は。そうそう、ほかをあたるのはいいがばれたら容赦なく離婚するつもりだから」

「じゃあ、じゃあ、後継ぎはどうするのよ」


家同士の結婚をする、というのは、そういうおまけもついてくる。いや、血族で経営している会社を存続させるには結婚の意味はほぼそれと同義語なのかもしれない。私は全てを捨てて、家という囲いで彼を追い込んでいったのだから。


「適当にどっかで仕込んでこい。止めはせん、もっとも離婚が早まるだけだが」

「私にどうしろっていうのよ!!!」


あまりに理不尽な彼の言葉に、思わず言葉をぶつける。今まで大人しくしていた私に少しだけ驚いている。


「ふん、お前が望んだのはこういうことだ」

「違う」

「両親を煽って、彼女に罪悪感を埋め込み、そうまでして結婚したかったんだろ?望み通りじゃないか」


いくら家同士が決めた許婚とはいえ、私はこの人のことが好きだから。


「おまえは俺からなにもかも奪ったじゃないか」


彼の目が暗く揺れている。

何も言えなくて、せめて彼の前では泣かないようにする他はできなかった。

彼はそのまま二人のために用意されたホテルの一室を出て行った。

新婚の二人へと用意されたフラワーアレンジメントが所々に置かれ、華やかな部屋とは対照的に取り残された惨めな女が一人。

一人では広すぎるベッドに顔を埋め、もう枯れたと思った涙が再び流れ出す。

すれ違った二人は永遠に交わらないまま。

私はこのまま耐えていく。

これは、私の罪だから。






 この海が見える別荘が一番大好きだった。

浜辺まですぐ近くのこの別荘に来るのは久しぶりだった。

子供の頃から何度となく訪れたこの場所は、私にとっては思い出がつまりすぎて、不本意な結婚をした今となっては来るのが辛すぎた。 だからこうやって、バルコニーからこの景色を眺めるのも本当に久しぶりだ。

不本意な結婚。

それを私の方から口にするのは卑怯な気もする。

たぶん、夫の方こそ声を大にして主張したいことだとも思う。

だけど、一度も私の本心すら知ろうともせず、すれ違いどころか同じ生活圏にもいない暮らしを強いられている我が身にとっては、最初の頃にもっていた罪悪感すら擦り切れてしまった。

初めの頃は、そのうちなんとかなるだろうと高をくくっていた両親も、一向に夫婦らしくならない私達を見て、口には出さないまでもあからさまに心配した顔を向けられるようになった。たぶん、私達の実態が知られるのも時間の問題だと思う。いや、本当は知っているのかもしれない、知っていて、それでもあまりに娘が惨めで言い出せないのかもしれない。

子供でもいれば違ったのかも、と思わないでもない。

だけど、指一本すら私に触れようともしない彼との間に、そんなものは出来るはずもなく、よく知りもしない親戚達からはまだかまだかと一方的に責められている。そんなことにも疲れているのかもしれない。

突然この波打ち際を眺めたいと思うだなんて。

海の色は幼い頃記憶していたものとは異なり、濃いグレーを呈している。空の色はその灰色と交じり合って、空と海との境界が曖昧だ。

そのうち雨でも降るのかもしれない。

私の気分を反映したような空色に、気分が一層どんよりとする。

限界、なのかもしれない。

仮面夫婦ですらない夫婦生活に。

彼と口を聞いたのはいつだったのか。

公式行事では夫婦として出席することもあるものの、それでも通り一遍の表面的な挨拶しか交わさない。

それでもその最中はそれなりに扱ってくれるから、勘違いしてしまうのだ。

昔の優しかったこの人に戻ってくれたのではないかと。

そんな誤解は、パーティーや会食が終了した時点で泡と消えるほどはかないものなのに。


「俺と結婚できて満足かって言ってるんだよ」


そういい捨てた夫の問いに、答えることはできなかった。

結婚するために、モトカノを追い落とし、彼を家という名の囲いで追い込んだのは私だ。

だけど、ただ結婚をしたかったわけじゃない。

彼が好きだったから、だから、独占したかっただけだ。

そんな叫びも彼には届かない。

いや、一度でも彼は私の本心を聞こうとはしなかった。昨日偶然出会った夫に吐き出すまでは。




「珍しいわね、ここにいるなんて」

「モノを取りにきただけだ」


相変わらず表情のない顔で、確かに彼はボストンバックやら荷物を抱えている。

私の両親が用意した新居には、住民票は置くものの、彼が帰ってきたためしは一度もなかった。

それでもお互いの両親や親戚、友人などが新居へ訪れることも少なくはなく、その度に彼はココの家へと泊りにきたのだ、他のゲストと同じように。

だから、わずかだけれども彼の私物が置いてはある。

だけど、それはほんの僅かな量で、生活感を与えるには不十分だ。目端が利く人ならば、ここは女の一人暮らしだとあっさり看破するだろう。

その僅かに残っていた荷物を彼は運び出そうとしていた。


「もうここに来るつもりはないから」

「別れないから」


咄嗟に言い返す言葉は、どこからどう聞いても末期状態の夫婦のもので、一瞬にしてお互いの雰囲気が険悪となる。


「おまえは俺と結婚できて満足だろ?いいかげん解放してくれ」

「本当に籍を入れただけじゃない!それらしいことを一つもしないでよく言うわね」

「おまえは俺と結婚したかったんだけだろ、もう十分じゃないか、いいかげんにしてくれ」

「いやよ、今更どうする気?」


接触する機会は少ないものの、それなりに落ち着いていた生活に波紋が一つ。彼からもたらされたそれは、覚悟はしていたものの実際にぶつけられると思った以上に痛いことがわかった。私はこんな目にあってもまだこの人が好きなのだと実感もしてしまった。


「あの人?あの人のところへ行く気!!!あんな男にだらしなくって、ホイホイ逃げ出しちゃうような女どこがいいわけ?」


頭に血が上ってしまった私は、言うべきではない言葉をあっさりと叩きつける。

彼の顔はすうっと無表情となり、引き結んだ唇はよりいっそう私を排除する雰囲気を強く醸し出している。


「やっぱり、おまえだったんだな」


その一言で、私はすべてを了解してしまった。

私がばあさまを焚きつけていたことも、彼女の印象を悪くするような身元調査をさせたことも、なにもかもこのヒトにはばれてしまっているのだと。


「最低だな、おまえ」


それだけを言い残して、さっさと背中を向けた彼に縋りつく。

たぶん顔は涙でぐちゃぐちゃだ、化粧なんか溶け出してみっともない顔をしているに違いない。だけど今はそんなことにはかまっていられない。


「うっとうしい」

「いや!どうして!どうして私じゃだめなの?」


纏わりつく私を汚い物でも見るかのような一瞥をよこし、振り払う。

それでも私は縋りつくのをやめられない。


「好きなのに!愛してるのに!どうして!!!」


初めて出た本音。

だけど、もうそれすら届かない。


「好きだったら、愛していたら何をしてもいいのか?」

「ちがっ!!」

「最低だな。さっきのが本音なら今からお前は五年前の俺と同じになるんだよ。もっともお前は一時的には我を通したんだからおまえの方が遥かにましだよな」

「いや!」


短い絶叫とともに、床に振り払われる。

彼の足音が遠ざかっていく。

玄関のドアが乱暴に閉まる音がする。

もう終わりだ。

誰もいない廊下に一人きり、現実感が伴わない喪失感は、それでも唯一感じることのできる床の冷たさと共にジクジクと私を痛めつける。 こんなところにはいたくない。

私はただその思いだけで、泣きはらした後、この別荘にやってきたのだ。




 思い出の風景とは異なるけれど、それでも波は繰り返し繰り返し、波打ち際の砂を奪い去っていく。

小さな貝殻も海草もなにもかも、灰色の波にさらわれる。

どうして、幼馴染の夫との思い出が詰まったこの場所に来たかったのかはわからない。

幼い頃のキラキラした思い出など、今の私にとっては辛いだけなのに。

あの波にさらわれる貝殻のように、私の思いも、記憶もなにもかもさらわれてしまえばいいのに。

言葉をぶつけても、波は全てを吸収してくれるのに、この想いだけは海もさらってはくれない。

海は一晩中波を作り出しては消していき、彼への思いは何一つ消えずに燻ったまま。

叫んでも何も答えてはくれない。 

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[良い点] 思惑がズレまくって結局誰も幸せにならず、でも所謂「ざまあ」でもなければ、実はよく分からないけれど溺愛移行とか擦れ違い物でさえなくて錯綜して意固地になって終わりなこと。 ここから良いように…
[一言] 主人公は自覚があるからまだマシじゃないかな 男の方は自身の犯した罪を自覚していない、と思う どんな事にも、辿るべき手順順序というものがある 事務仕事なんかでその手順を省略すると、後から省略…
[一言] 主人公が自業自得ですよね。 そもそも女として愛されてもなかったのに、結婚すれば勝ちという 浅はかさ。 自分を好きになるよう仕向けるぐらいの頭の良さがあれば 物語として面白かったと思うのですが…
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