8:教会の賢者
深刻な案件に心が曇っていても、空は変わらず青く澄んでいる。
陽光に目を細めつつ、エインセールはワープ屋の少女に礼を言った。魔物の増加によって街道交通事情が悪化した昨今、転送魔法を扱うワープ屋は以前にも増して重用されている。彼女たちのおかげで戦う力のない市民たちが安全に都市や村を訪問できるし、ファルクとエインセールも、ノンノピルツから遠く離れたアルトグレンツェへと瞬時に移動できたのだ。
「それにしても、アンネローゼ様はお美しかったですね」
教会の村の名が示す通り、ここは村唯一の教会がランドマークとなっている。その高い屋根を見上げながら、エインセールは同行者に話しかけた。
「宝石のような瞳に、雪のように白い肌……話すときはちょっと恐かったりもしますけど、あの美しさには憧れてしまいます」
「そうだな」
「あぁ、将来、どんな幸運な方がアンネローゼ様のハートを射止めるのでしょうか」
気のない返事をする少年を気にかけつつも、エインセールは先ほどフレノンノ城でちらりと見た姫の艶姿を脳裏に浮かべた。
聖女なき現状で民の導き手たらんと改革派を率いるアンネローゼも、十六歳。かけらほどの噂もないが、意中の男性がいてもおかしくない年ごろだ。それに、彼女の美貌に心奪われる若者は数多く、シュネーケンの騎士団に加わる者の大半はそういった手合いだという話もある。若手騎士と美姫が結ばれる、英雄譚みたいな展開もおおいにありえる。
「〝幸運〟か……運がいいかはさておき、そいつが度胸のある奴なのは間違いないな」
妖精とは反対に冷めた口調でファルクは呟いた。
「聞いた話だと、かつてアンネローゼに求婚した見習い騎士がいたそうだが、そいつは振られるどころか相手にもされなかったそうだ」
「それは……なんというか、お気の毒ですね」
「かもな。ちなみにそいつは由緒正しい騎士の家の嫡子で、将来を有望視されてたらしい。だがその一件を境に騎士たちの間で笑い者になったうえ、家は姫に対する不敬で立場を悪くし、没落にまで追い込まれたとかどうとか」
「うわぁ……」
笑えないストーリーに妖精の顔が引きつる。
アンネローゼは若くして優れた統治者だが、高慢で厳しい性格でもある。その見習い騎士の悲惨な姿が容易に想像できてしまうのが恐ろしかった。
「美人だが、触れれば切れる類の女だ」
「そ、その表現は失礼だと思いますけど、たしかに度胸がいりそうですね。例えるなら戦場に向かうくらいの……あれ?」
そこでエインセールは、後ろのファルクがいつまで経っても追いついて来ないことに気がついた。振り向けば、ファルクがどう控えめに見ても楽しくなさそうな顔でたらたらと歩を進めている。
「なんだか不機嫌そうですけど、どうかしましたか? お腹でも痛いんですか?」
「違ぇよ。むしろ何も食ってなくて辛いくらいだ」
ぶっきらぼうに少年が返すが、空腹が不機嫌の理由というわけでもないらしい。しばらく無言でいたファルクだったが、やがて溜め息をついて道端の小石を蹴った。
「なあ妖精、お前、一人で会ってきてくれないか? 俺、あいつ嫌いなんだ」
「へ? あいつって、ひょっとしてオズヴァルト様のことですか?」
「他に誰がいるんだよ」
当然のようにファルクは返したが、エインセールにしてみればとんでもない暴言だった。
賢者オズヴァルトといえば『居ながらにして全てを見通す』と謳われる存在であり、その知名度は聖女や姫たちと並んで、知らぬ者はいないほどだ。そして派閥に分かれた姫たちと異なって完全な中立に位置するオズヴァルトは、どちらの派閥にも分け隔てなく相談に乗り、知恵を与えている。
そんな、この世界の誰からも尊敬される賢者を嫌っているとはどういうことだろう。
「あいつ、肝心なことはいつも教えないだろ。訪ねたところで時間の無駄だ」
「そ、そんなことありません!」
自分の悪口を言われてもここまでムッとしなかったかもしれない。頬を膨らませて妖精は反駁した。
「オズヴァルト様は、親身に話を聴いてくださります。たしかに、あの方は立場上話せないことだってあります。けど、それでも私たちをいつも想ってくださってます! 無駄なんて言わないでください!」
「いくら想われようが、解決に繋がらなきゃ意味がないだろ」
ファルクが立ち止まる。いつの間にか教会の前にまで来ていた。木造りの扉を一瞥して、少年は言葉を続けた。
「想いなんか、役に立つか。最後に物を言うのは行動と、それを成すだけの力だろうが。だから賢者は役立たずだって言ってんだよ。話してる時間で飯でも食ってる方がよほど有意義だ」
「ファルクさん、どうして……どうしてそんなことを言うんですか?」
突き放すような物言いの少年に、エインセールは弱々しく呟いた。うなだれた彼女の顔に暗い影が落ちる。
「ファルクさんはいつも偉そうな態度で、誰にでも失礼なことばかり言いますけど、アリス様に対しては少し違います。言葉は乱暴でも、思いやりが含まれてるように私には聞こえていました。それにさっきだって、倒れられたアリス様をすごく心配してたじゃないですか。今だって、時間の無駄とまで言うのは、アリス様を早く助けたいからなんでしょう? それは、アリス様のことを大事に想ってるからじゃないんですか? それなのに想いが役に立たないなんて、どうしてそんなこと……?」
震える声で問い掛ける妖精に、ファルクは何も返さなかった。押し黙ったまま、じっと何かをこらえるような表情で地面に視線を落としている。ふと吹いた暖かな風が少年のぼろぼろのコートをなびかせてる間、吹き溜まりのようにその場に沈黙がよどんだが、衣服の揺れが収まったとき、意を決したようにファルクは口を開いた。
「俺は、べつに――」
「賢者殿、このたびは貴重なお言葉、深く感謝いたします」
少年の発言を止めたのは教会の扉が開く音と、太くもよく通る男の声だった。
頭から足先まで鎧で武装した二人の騎士が、玄関まで見送りに来た人物に敬礼している。振り返りからの歩み去る姿はきびきびとしていて、規律に厳しいシュネーケン領の改革派騎士であると容易に判断できた。
「おや、そこにいるのは……」
立ち去る騎士たちを見ていたファルクが、掛けられた声に舌打ちした。その目が教会に向いたときには、先ほど騎士を見送っていた男性が、ロングコートの裾を揺らして歩み寄ってきている。
端整な顔立ちの青年だった。ファルクより頭一つ分高い位置で、眼鏡の奥の瞳が理知的な光を灯している。口元にたたえられているのはすべてを癒すかのように優しげな微笑だ。
「オズヴァルト様!」
「やあ。久しぶりだね、エインセール。元気そうで何よりだ」
妖精と微笑を交わして、青年――賢者オズヴァルトは自身を睨むように見る少年にも笑いかけた。
「それと君は……たしかファルケインくん、だったかな?」
「ファルクだ」
「おっと、そうだったね。失礼」
訂正は棘のように鋭かったが、オズヴァルトは微笑みを崩さぬまま頷いた。
「たしか君はノンノピルツの所属だったね。今日はこの辺りで任務かい?」
「そ、そのことですけどオズヴァルト様、実は相談したいことがあるんです!」
エインセールが慌てたように羽をはためかせた。
「急に押しかけて申し訳ないのですが、時間も押してしまっていて……」
「ふむ。何やら事情があるようだね」
オズヴァルトの顔から微笑が消えた。切迫した様子の妖精に真剣な眼差しを向ける。
「立ち話もなんだろう。中で詳しく聞こうか」
歓迎するように、オズヴァルトは教会の入り口を腕で指し示した。