6:異常の元凶
「おい、それは、おかしくなった原因に心当たりがあるってことか?」
「はい。私の机に資料があります。それを――」
「あ、私が取って来ます!」
アリスが指差した方へ、すかさずエインセールが飛んでいく。その先にあるのは反円状の作業スペースを有するアリス専用の机だ。実験器具が並ぶその上を妖精が資料を求めて行ったり来たりするのを、ファルクは「取って来れるのか?」という目で追っていたが、
「あの、ファルクさん」
アリスの呼びかけに視線を戻した。
「自分ではわからないのですが、私ってそんなにおかしくなってるんですか?」
「ああ、おかしい。いや、おかしくはないが、それがおかしい」
即答したものの、だんだん何を答えてるかわからなくなってきた。普段が変わり者すぎるだけに、今の肯定しかできない以外はまともな状態をおかしいと言っていいものか。
そんな少年の悩みが伝わったかのように、アリスの顔が曇った。いや、伝わったのではなく、純粋に不安になっているのだろう。思案してるようでいて、今にも泣き崩れそうな表情。普段の、無邪気で人をからかって遊ぶ少女からは想像もつかない姿だ。
(俺が知らないだけかもしれないけどな……)
よくよく考えれば、ファルクもアリスとの付き合いは長くない。知らないことはたくさんある。
たとえばアリスの出自だ。今でこそノンノピルツの姫だが、そもそも彼女がどこから来て、いつからこの都市にいたのかは誰も知らないのだという。
いつだったか、「帰る場所がない」と漏らしていたときもあった。自分のルーツを想うとき、彼女は今みたいな表情を浮かべていたのだろうか……。
「……心配すんな」
我知らず、ファルクは声を掛けていた。アリスの伏せていた目が少年を見る。その視線と合わぬよう横を向きながら、ぶっきらぼうに続ける。
「あのヘンテコなので良けりゃ、必ず元に戻してやる。それまでおとなしく待ってろ」
「ファルクさん……」
「お待たせしました! これで合っていますか?」
妖精が帰着した。持ち帰った、彼女の体に比べて巨大な紙をベッドの上に広げる。全員がそれを覗き込んだ
「これは……地図かしら」
イザベラの言う通り、白地に手書きで描かれたそれは簡単な地図のようだった。東はゴルトロンゲル鉱山、西はロッシュパーダの森まで、主要な都市がすべて収まるように描かれている。
その中で魔法都市周辺と、城塞都市周辺を、複数の赤丸が囲っていた。
「この丸はどういう意味なんですか?」
「それは私にもわからないんです」
申し訳ないというより、どこか苦しげにアリスは答えた。
「調べたデータを、お茶会で発表するつもりだったのは覚えているのですが、それがなんだったのかが思い出せないんです。思い出そうとすると頭が痛んで……」
「わかりやすいくらい怪しいわね。話が早いわ」
笑みを浮かべて、イザベラが地図を摘み上げた。
「頭痛がするってことは、魔法で記憶が制限されてる可能性があるわね。でも裏を返せば、それこそが元凶ってことだわ。あんた、これが何かわかる?」
「さあな。けど……」
自室でアリスに言われたことをファルクは頭の中で反芻した。
「たぶん、俺と一緒に取り組むつもりだったものだ」
ファルクが手伝うはずだった仕事を、あのときアリスは「今回のお茶会に関わること」と言っていた。今の話と合わせて、この地図がそうと考えて間違いないだろう。
そして歯噛みする。もしも寝坊せずに手伝っていたら、これが何の資料なのかすぐにわかったはずだ。それどころかこの騒ぎすら起こってなかったかもしれない。
「……にしても、どう調べる?」
仮定の悔恨を切り上げて、ファルクは訊ねた。
「この大雑把な地図だけじゃ、調査しようにもすぐ行き詰まるだろ」
「そうね……。だったら、こんなときこそあいつを頼ればいいんじゃない?」
「あいつ?」
「ええ。世界の観察者にして傍観者、全てを見通す飄々とした智者」
イザベラの口ずさむようなヒントに、エインセールが手を叩いた。
「オズヴァルト様ですね! たしかにオズヴァルト様なら、良い知恵を授けてくださるかもしれません!」
傍らで賢者の名を聞いたファルクが嫌そうに眉をひそめたのに気付かず、妖精は少年の袖を引っ張った。
「そうと決まればさっそく出発です。さあ行きましょう、ファルクさん!」
「なるべく早く帰って来なさいよ。……ところであんた、その格好で行くの?」
なぜか渋々といった様子でドアへ向かいかけたファルクを、イザベラが呼び止めた。その視線は少年の衣服に向いている。
ファルクの黒コートはボロボロだった。裂かれたような綻びや虫食いのような穴がいくつも放置されている。下衣も穴だらけで、ダメージファッションにしては飾り気もなく、ありていに言えばみすぼらしい。ファルクのところどころ跳ねたヘアスタイルと合わさって、薄汚れた黒鳥のような印象を受ける。少なくとも騎士には見えない。
「そうだが、なんか文句でもあるのか?」
「……まあ、あんたがいいなら止めないわ」
ノンノピルツには変なセンスの者がごろごろいる。こいつもその一人ということだ――イザベラがそう結論付けて、ふと思い出す。
「そういえばアリスがあんたに服を用意してたけど――」
「失礼いたします。女王陛下はこちらにおいででしょうか?」
イザベラの発言に割り込んだのはこの場の誰でもなかった。ドアの向こうから聞こえる実直そうな声は、おそらく見張りの騎士かトランプ兵のものだろう。
ひとつ嘆息して、イザベラは腰に手をあてた。
「いるわ。何か用?」
「はっ。陛下に目通りを願う者が来たことを伝えに参りました」
「来客ぅ? もう、こんなときに!」
面倒事は重なるのが世の習いということだろうか。しかしアリスの欠席にあたり、会合の進行についてアリスと話を詰めておく必要がある。お茶会まであと一時間もない今、時間を無駄に割くことはできない。
「待たせなさい。こっちは立てこんでるから遅くなると伝えて」
「はっ、ですが」
外の伝令は慌てたようだった。早口に、主君へと情報を追加する。
「いらっしゃられたのはシュネーケンのアンネローゼ様です。いかがいたしましょうか」