26:幸せのありか
姿勢を低くとった一角兎が、次の瞬間、加速した。
風を巻いて突きこまれた尖角を、ファルクは間一髪、体を真横に傾けて捌いた。背後の石壁が少年の代わりに貫かれ、轟音とともに吹き飛んだ瓦礫が花壇を破壊する。
間を置かず、一角兎が首を振った。
「!」
壁を貫いたままの尖角が、石材を砕き散らしながら真横に走る。
豪快な薙ぎ払いに、ファルクはとっさに跳躍した。回避ついでに尖角を蹴り、さらに崩落しつつあった石壁も蹴りつけ、その反動を利用して一角兎の頭上に飛びあがる。
即座に一角兎が前肢を振りあげるも、狙いは甘い。先端の鋭い爪を空中で器用にやり過ごして、ファルクは芝生に降り立つ。
そこは一角兎の後肢のすぐそばだ。
「動きが速い……だったら、これならどうだ!」
ファルクの左右の刃が閃いた。
破捷斬――二条の斬光は一つに重なって、一角兎の右後肢に吸い込まれる。脚部、それも後肢はウサギの敏捷性の要だ。ここを潰せば敵は一気に失速するはず。
だが斬撃がヒットした瞬間、驚愕に呻いたのはファルクの方だった。
「っ……!」
刃は脚にわずかに食いこんだだけで、それ以上の侵入は阻まれてしまっていた。
本来、ウサギの皮膚は繊細で、あらゆる衝撃に傷つきやすい。だが、外見とは裏腹に、この魔物の表皮は信じがたい硬度を備えている。これでは脚を狙っての速度低下などとうてい見込めない。
とはいえ、同じ箇所に何度も叩きこめば――
瞬時に引き抜き、ファルクが再び得物を振りかぶる。
そのとき暗い影がさした。転回した一角兎が、前肢をファルクの頭上に振り下ろしたのだ。
「くっ!」
すかさず双剣を掲げたが、激突の余波に少年の全身が軋んだ。刃と爪が耳障りな音をたてて擦り合い、足下の芝生が激しく削れる。
ファルクを押しこんだまま一角兎は頭を低くし、角を構えた。
自らの腹に向けられた尖角を見て、ファルクの頬を冷たい汗がつたう。鎧を着込んでいても関係ない。あんなものをまともにくらえば串刺しにされる。
「ちっ、容赦のない……ん?」
死そのもののように鈍く輝く尖角に毒づいたとき、ファルクの視線が真上に転じた。押しこんでくる前肢の裏、体毛に覆われた部分のうちある一点を注視する。その直後――
『――――!』
突撃を正面から浴びて、ファルクは後方に吹き飛ばされた。数メートルほど飛翔し、背中で芝生を削りながらようやく止まる。
だがそのときには、巨大兎の方にも異変が起こっていた。
『――――――――!!』
これまでの咆哮とは異なる、高い絶叫をあげる。掲げた前肢の足裏から迸っているのは、鮮やかな赤い血――突撃をくらう寸前に、ファルクが切り裂いたのだ。
足裏の体毛から、ほんのわずかに露出していた皮膚。そこも硬ければ一巻の終わりだったが、皮膚はやすやすと刃を通した。負傷で押さえこみが緩み、その隙にファルクは後ろに跳んで、ダメージをかぎりなく低く抑えたのだ。
「皮膚の硬さは、完璧じゃないようだな……」
騎士鎧には大きく亀裂が走っている。ファルクはよろめきながら立ち上がった。
もう同じ箇所へは攻撃をさせてくれまい。では、どこを狙う? ほかに皮膚が柔らかい、奴の弱点は……。
思考をめぐらせるファルクの目に、一角兎の額が映った。
そこには血が固まっている。ファルクがここに転移してきたときに斬りつけてできた傷だ。
あの場所なら斬れる。
だが額を狙うということは、尖角に立ち向かうことを意味していた。
「…………」
ファルクと一角兎の視線が交わった。
一角兎の眼光は嚇怒に燃えている。だがその下地として存在しているのは、執念すら感じさせる意志の光だ。
「何がお前を駆り立てているのかは知らないが――」
少年の両手の中で刃が回転し、陽光を散らした。
「俺は、こんなところで負けるわけにはいかない」
次の瞬間、ファルクは芝生を蹴った。
まっすぐに斬りこむ少年を迎え撃つのは、一角兎の疾走だ。だが足の負傷が響くのか、動きは先ほどより鈍い。
それでも、相手に届くのは尖角の方が早かった。
低い姿勢から突き出された角の尖端は、正確にファルクの胴体を捉えた。
穿たれた鎧が砕け散る高音に、肉を貫く湿った音が重なる。
しかしファルクは止まらない。
『……!?』
人間ならば驚愕と言うべき感情が魔物の瞳に揺れた。そのときには、ファルクは脇腹を抉られながらも、一角兎の眼前にまで迫っている。
破砕の斬光が、魔物の額に躍った。
交錯の瞬間、鮮血が噴き上がり、金属が割れるような甲高い音が響き渡った。
ファルクと一角兎、すれ違った両者がともに前のめりに倒れこむ。その直後、両者から少し離れた芝生に突き立ったのは、先ほどまで一角兎の額から伸びていた尖角だ。
ファルクの斬撃は一角兎の額を斬ったのみならず、その尖角をも根元から叩き折ったのだ。
「俺の勝ち……だな……っ」
戦果を確認していたファルクの横顔が苦痛に歪む。
鎧を砕かれた刹那、脱ぎ捨てることで本来の身軽さを取り戻したファルクは、瞬時に体を逸らして致命傷をまぬがれていた。だが完全には躱しきれず、深く抉られた脇腹からは血が溢れ出ている。一刻も早く治療を受けねばならない。
傷口を押さえるファルクを、巨大な影が覆った。
「まだ、か……」
立ち上がった巨影――一角兎の額は真っ赤に染まっていた。脅威の象徴とも言えた尖角を失い、敗残の気配を濃く纏っているが、その全身からは無視できぬ気迫が放たれている。
事実、一角兎は尖角がなくとも、ただ体当たりするだけでファルクを簡単に殺せるだろう。
激痛に歯を食いしばって、ファルクが立ち上がる。
「はいファルク、ストーーーーップ!」
騎士と魔物の睨み合いに明るい声が割り込んだのは、そのときだった。
「アリス、来るな!」
戦場へ走り来る姫――アリスの姿に、激痛を忘れてファルクが叫んだ。一角兎の意識がアリスに向いてしまったら終わりだ。今のファルクに、アリスを守る余力はない。
そして最悪の予想をなぞるように、一角兎が動いた。姫を視界に捉えるや、地を蹴って駆けだす。巨体は小柄な姫をあっさりと跳ね飛ばす、そう思われたが――
巨体の猛進はすぐに止まった。
それは、アリスが抱いていた仔ウサギを芝生に降ろしたのと同時だった。
「さっ、行っておいで」
促された仔ウサギは、少しの間、その場でアリスをじっと見返していた。やがて、笑顔に押されるように踵を返す。軽やかに跳ねていく先は、あろうことか一角兎のもとだ。
『――――』
一角兎が身を屈めた。もう、先ほどまで放出していた怒気は霧散したかのように消え失せている。そのまま仔ウサギに咬みつきそうなほどの距離まで顔を近付けると、頬で仔ウサギを撫でた。
仔ウサギも目を細め、全身を押しつけるように一角兎の頬に身をすり寄せている。
「……どういうことだ?」
緩慢な歩みでアリスの元までやって来て、ファルクはウサギたちに目を戻した。
さっきまでの戦いが嘘のように、一角兎の目は穏やかな光を灯している。侵しがたい雰囲気すらまとって身を寄せ合う二匹は、まるで――
「まさか……親子、なのか?」
「それは違うのです。姿形は似てるけど、どこからどこまで共通点なっしん!」
アリスは首を横に振った。
「あの大きなウサギさんは角も付いてて紛れもなく魔物。だけど仔ウサギさんの方は前にも言ったように魔物じゃない森の獣。毛の色を比べるまでもなく、血縁関係はないと言えるのです」
「だったら、なんであんなに親密そうなんだ」
「親子だからじゃないかな?」
「……はあ?」
『親子だから』? その直前で『親子じゃない』と否定していたのに、何を言ってるんだ?
「実の親子じゃなくて、義理の親子なんじゃないかな、ってこと」
不得要領といった顔のファルクにくすりと笑って、アリスは説明を補足した。
「義理というより、擬似的、かな? これはアリスの想像だけど、一角兎さんは、親のいなかった仔ウサギさんを拾って大事にしてたんじゃないかな」
動物が、まったく違う種の動物を拾い育てる事例はある。魔物でもそれがないとはかぎらない。ましてや、自分とよく似た姿の仔ウサギだ。
「でもある日、何らかの理由で二匹ははぐれちゃった。仔ウサギは必死に親を捜すし、一角兎も子どもを捜した。そこまでは良かったけど、子どもを捜す手段がまずかった」
手段――蜘蛛や狼など他の魔物たちを洗脳し、捜索にあたらせたこと。
「親の心子知らずって言うけれど、しょうがないよね。自分を狙う他の魔物たちが、まさか親が自分を見つけるために差し向けたなんて、思わないもん。そうして逃げるうちに小鹿の森から遠い多彩の森まで来てしまった、というわけなのです」
「それが……この事件の真相か?」
「ううん、あくまでアリスの推測。本当のところは直接教えてもらわなきゃわからない。だけど……だいたい合ってるんじゃないかなって思うよ」
そう言うと、アリスは眩しそうに目を細め、寄り添う二匹を見やった。その視線をたどりながら、ファルクは一角兎の行動を思い返す。
仔ウサギの臭いが残っていたエインセールが蜘蛛たちに献上されたとき、違うとばかりに怒りを見せていた。
洗脳した妖精からノンノピルツの情報を聞き出すと、すぐに都市に乗りこんできた。
仔ウサギが目的だと知ったときは、なぜそこまでつけ狙うのかと思っていたが……
「親が、子どもを助けるためだった……」
ふと、ファルクの目が一点に止まった。
一角兎との交錯の際に砕けた騎士鎧は、芝生の上で鈍く陽を跳ね返している。
「さあ、これで一件落着だね」
アリスがぽんと手を叩いた。
いつしか、遠くの喧騒も聞こえなくっている。市街地の戦闘も収まったのだろう。
「シンデレデレたちが力を貸してくれたおかげで、戦いも無事に終わったね。みんなにはたくさんお世話になっちゃったな~。すぐにお礼しなくちゃ」
「――あいにくだけど、まだ終わってはいないわ」
アリスの背にかかった冷たい声――そして、あたかもその声が合図だったかのようだった。
一角兎が両耳をピンと立てるや、仔ウサギに覆いかぶさる。その背に轟音とともに咲いたのは火魔法の火炎だ。
『――――――――!!』
「待って、アンネロネロ! 攻撃はもうストップだよ!」
一瞬にして、焼け焦げる臭気と一角兎の苦鳴が場に満ちた。驚きながらも振り返ったアリスが、鋭く制止の声を飛ばす。
「もうあの魔物にこっちと戦う意思はないの!」
「戦う意思はない? だからなんだって言うのかしら?」
対するアンネローゼは平時と変わらぬ口調で問い返した。彼女を守るように付き従っているのは合流したシュネーケンの騎士たちだ。
「ここまでされて、アナタはあれを見逃すと言うの? まあ、アナタの都市のことだからそれは勝手にすればいいわ……でも、私は違う。シュネーケンはあれのせいで何度も被害に遭った。それを忘れて危険な魔物を見逃すなんて、ありえない」
魔杖を携えた騎士たちが詠唱を紡いだ。杖の先端に魔法の光が灯り、それは赤々と輝く炎となってこの世に現れる。
「やりなさい」
主君の短い命令に、騎士は即応した。
杖が閃き、そこから火炎が矢のように迸る。山なりの軌道を描いた火魔法は狙い過たず一角兎の顔面に向かい――着弾の直前、双剣に叩き落とされた。
いつの間に移動していたのか、一角兎を背にかばうようにファルクが立ちはだかっていた。
「……何のつもりかしら、アイトツァーン?」
「白雪姫、頼む……退いてくれ……」
ファルクの声はいつになく弱々しいものだったが、アンネローゼたちのもとまで明瞭に届いた。
ふと、アンネローゼの美貌が悲しげに揺らいだように見えたのは、錯覚だったろうか。一瞬後には、彼女は冷徹な視線でファルクの頼みを斬り捨てている。
「バカバカしい……殺し合ってた魔物をかばうなんてどうかしてるわ。アナタもろとも焼き払ったっていいのよ?」
アンネローゼが騎士たちに目配せした。さすがに人に向けて撃つのは抵抗があったのか、杖の騎士たちは困惑したように眉をひそめたが、ほどなく詠唱を開始する。
「死にたくなければ、どきなさい」
勧告は聞こえているはずだ。だが、ファルクに動く気配はない。指示を下すべく、アンネローゼは息を吸う。
その彼女の視界を塞ぐように、アリスがアンネローゼの前に立った。
「ねえアンネロネロ。ここはひとつ、ファルクに免じて見逃してくれない?」
「あの騎士に免じて?」
いきなり何を言いだすのか――馬鹿げた提案を一笑に付そうとしたアンネローゼだったが、
「そしたら、シュネーケンでファルクを捕まえようとしたのを、なかったことにしてあげちゃうけどな~」
「……なんですって?」
続く発言に思わず訊き返していた。
いつの間にか隣に妖精を伴って、アリスはアンネローゼに笑みを向けた。
「事件を追ってたファルクを、シャイトが捕まえようとしたんだってね。アリスの命令で動いてた騎士を、どうして妨害したのかな?」
「……知らないわ」
一語一語を強調するような追及に、アンネローゼは目を背けた。
「アナタも聞いていたでしょう? 私はシャイトに『がんばって』と言っただけよ。妨害だなんて、命じてもないことで責められるのは心外ね」
「そうかなぁ? ノンノピルツに負けないように、とも言ってたよね?」
アリスは追及の手を休めなかった。笑顔がアンネローゼの目を追いかける。
「シャイトは、アンネロネロのためならすごくがんばる騎士だよ。アンネロネロなら、そんな彼にああ言えば、何かしてくれるとわかってたんじゃない? それこそ、対立する相手を邪魔しちゃうとか」
「…………」
否定も肯定もなく、アンネローゼは唇を閉ざした。黙ったまま、きつくアリスを見据える。アリスもまたその視線を受け止める。
睨み合いにも似た無言の応酬を切り上げたのはアンネローゼの方だった。短く息をついて、手振りで騎士たちの構えを解かせる。
「いいでしょう。この程度のことを都市間の問題にしたくもないし、ここは譲るわ」
「それじゃあ……」
「ええ、あの魔物は好きになさい……でもこれだけは言っておくわ」
すっ、とアンネローゼはアリスの耳元に唇を寄せた。
「やっぱり私、アナタのことが嫌いよ」
「アリスは、好きだよ」
紡がれた毒々しい拒絶にも、アリスは変わらず微笑んだままだった。
不愉快げに鼻を鳴らして、アンネローゼは背を向けた。艶やかな黒髪を揺らし、騎士たちを引き連れて去っていく。
アリスの顔の隣で、エインセールが盛大なため息をついた。
「まだ胸がばくばく言ってます……丸く収まってよかった……。アリス様、ありがとうございます!」
「お礼を言うのはアリスの方だよ。エインセルセルが妨害のことを教えてくれたから交渉できたんだし、それにファルクがウサギさんたちを守ってくれたから」
「えへへ、ファルクさんにはびっくりしましたね」
どこか誇らしげにエインセールは頷いた。
あのまま攻撃が当たっていれば、一角兎との戦いが再発していたかもしれない。そうなれば仔ウサギもどうなっていたか。
ファルクがそれを防いだのだ。
「ファルクは本日のMVPハッピーメーカーなのです! 何か褒賞をあげないとね」
アリスが足取り軽く、ファルクとウサギたちのもとへ歩きだした。
事件は解決した。しかし、一角兎を治療してから森へ帰したり、姫のみんなにお礼をしたり、戦いで壊れた街を復旧したり……やらなくてはいけないことが山積みだ。
でもその前に一言、がんばってくれた騎士を労う暇くらい――
――重い音が、姫の思考を遮った。
「ファルクさん!?」
エインセールが悲鳴をあげて少年の元に飛んでいく。
アリスの目に映ったのは、両手に剣を握りしめたままうつぶせに倒れた少年。
そして彼の腹部から広がる血だまりだった。




