22:ウーアシュルトの蜘蛛
闇に赤眼が瞬いた。
それを至近で目の当たりにしてもファルクは動じなかった。ただ低く、鋭く呟く。
「騒ぐな。止まれ」
すると、蜘蛛が縫い止められたようにぴたりと全身を硬直させた。
隙だらけの魔物を容赦なく叩き斬って、ファルクは洞窟のさらに奥へと進んでいく。
洞窟内はところどころ淡く発光していた。壁に埋めこまれた鉱石が弱い照明となっているのである。この洞窟を採石場として利用した者たちの、昔から続く知恵だ。
当然、明るい分、魔物から見つかりやすくはなる。もう何度、赤眼の蜘蛛を切り捨てているかわからない。
しかし少年に疲れや焦りはまったくなかった。
「タネがわかれば他愛ないな」
戦闘を重ねているにも拘らず他の魔物に気取られていないのは、赤眼蜘蛛どもの特性をファルクが完全に見切っていたからだ。
特性――それは、他者の命令に必ず応じる、というものだ。
蜘蛛どもは一種の洗脳状態にあったのだ。しかもその洗脳を施した者からだけでなく、それ以外の者からも影響を受けてしまうような状態に。ファルクやエインセールが止まれと言うたびに止まっていたのは、そのためだ。
もっとも、こちらの命令が効くのはわずかな時間。そのあたりはおそらく、施した張本人――すなわちあの一角兎に最適化されているがゆえだろう。
だがたった数秒でも、戦闘のアドバンテージを掴むには充分な時間だった。
「…………」
崖近くに目的の魔物集団を発見し、ファルクは岩場に伏せた。岩の隙間から観察する。
薄明かりの中で親蜘蛛は緩やかに糸を吐き出している。いや、正確には糸ではない。先ほど森で放出していた水飴のような物質だ。それを、まだまだ多く残っている赤眼の子蜘蛛たちに与えている。
今となってはダーチュラがどうして洞窟から出て来ていたのかわかる。奴は、洗脳された子蜘蛛を取り戻すために森に現れたのだ。そして、それを成し遂げた。
「魔物ながら、たいした奴だな」
自嘲して、少年はダーチュラから蜘蛛の群れに視線を移した。青眼と赤眼がどちらもそれなりの数で混在している。親蜘蛛による洗脳解除を待つこの中に、エインセールを抱えている個体がいるはずだ。
最悪の事態は今は考えず、ひたすら群れに目を走らせる。闇の中、目立つのは青と赤の点滅ばかりで、妖精をくるむ白糸を捉えるのは絶望的にも思われたが――
「……そこか」
一箇所だけほのかに灯る橙色の光を認めるや、ファルクは岩場を飛び出した。
助走から固い足場を蹴りつけ、甲冑を装備しているとは思えぬ身軽さで蜘蛛の群れを跳び越える。高みから一気に橙光の元まで急降下し、着地と同時に双剣を一閃。脚と顔面を断ち割られ、蜘蛛が崩れ落ちた。
傾いた脚からこぼれた妖精をすかさず受け止めると、ファルクは素早く、しかし慎重に手で妖精を縛める糸を裂いた。さほど抵抗なく綻んだ糸は妖精の体からするりと落ち、抑えられていた橙色の光が明度を増す。
「無事か、妖精?」
「はい……」
導きのランタンに照らされたエインセールは、怪我こそないが、虚ろな目をしていた。応答こそしたが、何もない場所を見つめている。
とりあえず生きていることを確認すると、ファルクは再び走り出した。ようやく少年に気付いて騒ぎ出した蜘蛛どもの間を突っ切る。その先にいるのはあのダーチュラだ。
疾走する人間にダーチュラも気付き、返り討ちにせんと鋭利な脚を振り上げる。
「悪いな……もらっていくぞ」
轟音をあげてダーチュラの脚が岩盤を抉ったときには、ファルクはそれより早く親蜘蛛の顎下まで走破していた。そして間を置かず剣を真上に突きこむ。
蜘蛛の絶叫が洞窟に反響した。吐血する代わりに透明液を吐き散らしながらダーチュラがのけぞる。
一方ファルクは、激痛にひっくり返る大蜘蛛を無視していた。淡い光を反射しながら落下してくる粘液の塊に、鷲掴みにしたエインセールを突っこむ。
「――~~っ!?」
顔面キャッチさせられたあげく全身を粘液に覆われた妖精が、ぶるりと震えた。次いで顔に付着したねばねばを払い落とす。見開かれた彼女の目はもう虚ろではない。そこには生ある者の光が宿っている。
ついでに困惑と憤慨と嫌悪感も多分に混ざっていた。
「ななな、なんですかこれ、ベトベトじゃないですか! あ、でも甘いですね」
「ダーチュラの糸」
「キャー!?」
血相を変えて吐き出そうとするエインセールを、ファルクが素早く押し止める。
「捨てるな。そいつはアリスを元に戻す薬だ」
「え……ほ、本当ですか?」
妖精の震える声にファルクは首肯した。
「お前は蜘蛛と同じ洗脳にかかり、操られていた。何を言われても『はい』と答える洗脳にな……つまりアリスと同じ症状だ。この糸はそれを解除した。それなら、アリスにも効くだろ」
「なるほど……でも、それだとアリス様も洗脳されてたことになりますけど、いつの間に……」
「さあな。だが試す価値はある。どうせこれからノンノピルツに帰るんだからな」
エインセールは粘液まみれでうまく飛べないでいる。仕方なく彼女を掴んだまま、少年は元来た道に足を向けた。
「〝強欲〟とも約束したからな。さっさと行って、あのでかいウサギを迎え撃つぞ」
「でかいウサギ……そ、そうですファルクさん、思い出しました!」
蜘蛛どもはと言えば、親蜘蛛を打ち倒したファルクを恐れたか、刃向かってくる様子もない。奇妙な静寂の中、エインセールがファルクの手を叩く。
「私、あの大きなウサギと話したんですよ。それでわかったんです、あのウサギの目的が!」
「目的だと?」
たしかに、一角兎は妖精からノンノピルツという答えを引き出した。それはノンノピルツに一角兎が欲する何かがなければ起こり得ないことだ。
その何かがわかれば一角兎の対処がしやすくなる。
「なんだ、それは?」
「私に匂いが付いてたみたいで、それは――」
早口に答えるエインセールが、その瞬間、息を呑んだ。
妖精が瞠目した意味に気付いて、ファルクが振り返りながら地を蹴って後ろに跳ぶ。もしそれが少しでも遅ければ、静かに起き上がった大蜘蛛の一撃によって、ファルクは殴り殺されていたかもしれない。
だがその反応をもってしても完全な回避は不可能だった。太い前脚が少年の胸を横殴りに打ち、吹き飛ばす。
エインセールが叫び、それに岩場をバウンドする固い響きが混ざる。弾き飛ばされた先に地面はない――そこにあるのは深く巨大な縦穴だ。
少年と妖精は暗い崖の下に滑り落ちていった。




