2:魔法都市の小昼
「遅刻だ……」
朝日というにはだいぶ高く昇ってしまっている太陽に舌打ちし、ファルクは目頭を指で押さえた。まだ眠い。昨日遅くまでヘンテコ姫に雑用に付き合わされたせいだ。
今日はここフレノンノ城で、各地の姫を招いての会合が開かれるらしい。窓の外には出迎えの準備に奔走する侍女やトランプ兵がそこかしこにいるし、魔法都市領の騎士たちもいつもより多く闊歩している。
ファルクも何やら役割があるらしく、それにあたりアリスと十時に待ち合わせていたのだが、窓際の時計はもうじき正午を指そうとしていた。
「寝るか」
毛布をかぶり直す。今さら慌てて起きたところでしょうがない。同じ寝坊なら寝てなきゃ損というものだ。欠伸をしながら姿勢を変える。
「ほほう、そこで寝ちゃいますか」
寝返りを打った少年の視線の先で、大きな青い瞳が興味深げに瞬いていた。
「抗いがたい睡眠欲求に従うのは平凡だけど、アリスとの約束があったのに悪びれないのはかなり神経が太いと察せられるね」
「ア、アリス!? 何してんだよお前!」
驚愕のあまり思わず跳ね起きてしまった。窓と反対側、いつの間にか室内にいた声の主を凝視する。いつものフリルたっぷりの装いで少女――アリス姫はベッド脇の椅子に腰掛けていた。
「なんで俺の部屋にいるんだよ!」
「訊いているのはどうやって入ったかじゃなくて、どうして入ったかってこと?」
手にしたガラス皿から果実をぱくりと口に含みながら、アリスが微笑む。
「それは簡単簡単。約束の時間を過ぎてもキミが来ないから様子を見に来たのです。原因を百八十五通り想定してたけど、やっぱり寝坊だったね」
「……ああ、おかげさまでな」
苛立ちを込めた視線を返す。寝坊は図星なだけに半分八つ当たりだが、半分は本気の怒りだ。
「それはそうと今日は依頼があります」
しかしアリスは少年の怒気に気付かぬまま――あるいは相手にしなかっただけかもしれないが――ポケットからメモ帳を取り出した。果物の皿をサイドテーブルに置いて、ページを繰る。
「今日はなんと! お姫様たちがノンノピルツにやって来るのです!」
「知ってる」
「キミにはアリスの補佐と、お姫様たちのお世話をお願いするね」
「……は?」
ファルクが怪訝そうに顔をしかめた。それに気付くことなくアリスはメモに目を落とす。
「他のおもてなし担当者と協力してお姫様たちに楽しんでもらっちゃおう。いつもの格好じゃあまりにもあんまりだから、こっちで用意した服に着替えてね」
「俺の服装に文句でもあんのか!? あれめちゃくちゃ気に入って……って今はそれはどうでもいい」
毎日こつこつ貯めた輝晶石と引き換えにゲットした一張羅の弁護をそこそこに、より聞き捨てならない案件に話を戻す。
「姫の世話だと? なんで俺がそんなことしなきゃいけないんだ」
「あれあれ? できないの?」
「願い下げだってんだよ。それは使用人どもの仕事で、俺がやることじゃない。それに付焼刃の接待なんぞしても恥をさらすだけだ」
多方面に無礼な発言を吐き捨てて、ファルクはふんと鼻を鳴らした。
「姫どもはもうじき来るんだろうが。お前、こんなところで油を売ってていいのか?」
「お茶会は午後にするのがお約束。まだまだ余裕たっぷりなのです。だから優秀なキミなら大丈夫だと思うけどなぁ。お手伝いくらい軽々こなせると思うの。ねぇ、やってみてぇ~」
笑顔で「お願い」するアリスに、ファルクは思案気な表情をこしらえた。
こちらを持ち上げてその気にさせる巧妙な手口のようにも見えるが、アリスの場合はわりと本気の発言だ。とはいえ、ファルクに受諾するつもりは毛頭ない――もてなされるならともかく、たとえ姫でも他人の世話などまっぴらごめんだ。
少し考えるふりをしてから、少年は肩をすくめた。
「期待はありがたいが、さすがに急すぎる。悪いな。寝坊さえしてなきゃ十時からみっちり準備できたんだろうが」
「それは違うのです。十時の約束は、また別のお手伝いのためだったから、どちらにしても今くらいの時間になってたと思うよ」
「そ、そうなのか?」
会合の際の役割に関する約束だったはずだが、覚え違いをしてただろうか?
「じゃあ、そっちの仕事はお前一人にさせてしまったのか……悪いな。何の手伝いだったんだ?」
「んふふふふ。二つありましてですね~。まずはウサギのお世話!」
「ふざけんな! それかよ!」
ウサギとは、昨日、バラを荒らすマナガルムを退治したときに保護した仔ウサギのことだ。
まだアリス以外の者に馴れていないため、彼女の部屋で大事に飼われている。もっとも、研究作業に最適化された彼女の部屋はお世辞にも飼育に向いているとは言えず、多少の環境整備を余儀なくされたのだが。
「やれ素材がどうだの配置がああだのデザインがこうだの、たかがウサギ部屋のために深夜まで働かせやがって。何が『ウサギは寂しいと死ぬ』だ。こっちが睡眠不足で死ぬわ!」
「えー。アリスはぴんぴんしてるけど~?」
「お前と人類を一緒にするな、ヘンテコ姫が!」
しかもあれだけ骨を折ってやったというのに当のウサギはまったく懐かないというのも、ファルクの苛立ちの一因だった。出会いの第一印象を考えれば当然かもしれないが、それでも腑に落ちない。
「あれのせいで寝過ごすはめになったんだ。もう引き受けないからな……。で、もう一つは?」
「そちらは今回のお茶会にも関わることなのです。アリスの――」
少女の発言が唐突に止まった。目を丸くして、息が詰まったかのように喉を押さえる。驚いたようにも苦しんでいるようにも見える彼女のそんな表情を、ファルクは初めて見た気がした。
「おい、どうした?」
ただごとに思えず、ベッドから降りて、ファルクは少女の顔を覗き込んだ。
「待ってろ、医官を呼んでくる」
「――大丈夫です」
少年を呼び止める声は明瞭だった。
先ほど苦しげに見えたのが気のせいだったかのように、少女の顔色に異常はない。寝間着姿で立ちつくす少年に、アリスはにこりと笑いかけた。
「ありがとう。少しむせてしまったみたい。心配かけてごめんなさい」
「あ、ああ、ならいいが……」
歯切れ悪くファルクは頷いた――向けられた笑顔に、なぜか違和感を覚える。その正体に思考を巡らせていると、アリスが先程の続きですがと口を開いた。
「説明するより、実際に見ていただいた方がいいでしょう。着替えてから、部屋まで来ていただけますか?」
「……さっき言ってた、用意している服にか?」
「普段のもので構いませんよ」
おそらくは執事服か何かだったのだろう。着ろと言われても断るつもりだったが、そうでなくて良かった――ひと息ついて、ファルクはおもむろに上着を脱ぎ捨てた。細く引き締まった体躯があらわになる。
「ど、どうしていきなり脱ぐのですか!?」
音がしそうな勢いでアリスが少年から顔をそむけた。その頬は赤く染まっている。年頃の女の子らしいとも言える反応だが、逆にファルクは顔をしかめた。
「何を恥ずかしがってんだ。お前ってそんなキャラだったか?」
「よ、寄らないでください!」
「つーか、さっきからなんだよ、その喋り。ふざけてるにしちゃいつものキレがないぞ」
逃げようとする肩をつかみ、ファルクはアリスの正面に回り込んだ。アリスの紅潮した顔をまじまじと見つめる。潤んだ瞳に、声もなくぱくぱくと開閉する唇……普段の彼女からは想像できない姿だ。
「やっぱり具合が悪いんじゃないか? 無理せず医官に診てもら――」
「……きゅぅ」
ファルクを――正確には彼の胸板を――至近で直視していたアリスの目がぐるりと回った。か細い悲鳴を発すと、全身から力が抜け落ちたようにふらつく。しおれるように後ろへ傾いだ少女をファルクは慌てて抱きとめた。
「うおっと! おい、どうしたアリス! アリス!」
耳元で呼びかけるもアリスは深く眠ったかのように目を閉ざしたままだ。
「アリス! くっ……!」
胸を内側から焼かれるような焦燥に駆られるまま、ファルクは少女を抱える手に力を込めた。一刻も早く医務室に運ぶべく扉へ足を向ける。
「ファルクさーん、いらっしゃいますかー」
扉の外から間延びした声が聞こえてきたのはそのときだった。