18:追憶の邸(二)
「……どうだっていいだろ」
自身をファルケインと呼ぶ男を、ファルクは睨み返した。動揺が抜け切ってないのか声はやや震えていたが、向ける視線は射殺すかのように苛烈だ。
その鋭い目つきは、見下ろしている男のそれと、どこか似ていた。
「俺がここで何をしようが、あんたには関係ない」
「おおいにある。そいつは俺の鎧だ。どういうつもりかは知らんが、見過ごすわけにはいかん」
ふと、男の厳めしくも精悍な顔が、口元だけ緩んだ。それが嘲笑だとわかったのはその口から侮蔑のような笑いが吐き出されてからのことだ。
「それとも強盗の真似事でもするか? 俺を倒せば、お前に文句を言う奴はいなくなる。まあ、お前には無理だろうが」
「だ、ダメです! ファルクさん、いけません!」
スッと腰の双剣に伸びた少年の手を、エインセールが鋭く諫めた。
騎士が守るべき民を襲うなどあってはならない。ましてや、エインセールの想像が正しければ、目の前の男性は――
「恐いのか? 震えているぞ、ファルケイン」
妖精の制止を打ち壊すように男が呼び掛けた。低く笑って挑発を重ねる。
「逃げ腰は相変わらずか。所詮、よその都市でしか騎士になれない情けない小者だな。お前を登用した姫はずいぶん人を見る目がないようだ」
今度はエインセールの声は間に合わなかった。
鞘から解き放たれた一対の剣は薄闇に白光を散らしながらファルクの両手で回転している。次の瞬間、踊り場を蹴立てた少年は飛翔する凶鳥のように階段を駆け上がっていた。這うように低い姿勢で距離を詰め、男の足元へと二つの白い軌跡を描く。
そのとき、縫い止められたかのようにファルクの動きが止まった。
男はまだ双剣の間合いの外だ。あともう一歩踏みこめば捉えられる。
だが、喉元に突き付けられたステッキの先端がそれを許さなかった。
「なるほど。少しは腕を上げたようだな」
男が淡々と評価する間も、まるで剣の切っ先をあてがわれたかのように少年は動けないでいる。
男はただステッキを持ち上げただけだ。たったそれだけの動きでファルクを封殺してのけたのだ。
「だが、勝負ありだ。剣を収めろ、ファルケイン。あの鎧から手を引け……それとも、死ぬまで続けるか?」
冷然と告げられ、ファルクがうつむいた。
力が抜けたかのようにその右手から得物がこぼれ落ちる。
「望むところだ」
落下した剣が階段に跳ねたときには、ファルクは空いた右手で眼前のステッキを掴んでいた。先端をかわしながら掴んだそれを引き寄せ、同時に大きく踏み出して、左手の刃を掬い上げるように振り抜く。
白刃は、しかし空を切るに終わった。斬撃を放った瞬間、ファルクの視界はぐるりと一周している。
男がステッキを瞬時に捻って自分ごと回転させたのだとファルクが悟ったときには、少年の体は背中から階段に叩きつけられていた。
「ファルクさん!」
「受け身を取る余裕はやった。大事はないだろう」
慌てて飛んできたエインセールに男が告げた。
軽々とあしらったことを誇るでもなく、男は仰向けに倒れた少年を冷やかに見下ろした。
「覚悟は見上げたものだが、そこまで付き合うのも面倒だ。諦めてさっさと帰れ」
言い捨てて、男がステッキを引き寄せようとし――眉をひそめた。ファルクの手がいまだステッキを強く握りしめ、離れない。
「……お断り、だ」
受け身を取れたところで痛みは少なくないはずだ。
だが、呻いたファルクに引き下がる意思がないのは明白だった。
「あいつを、待たせてる……。目の前に、切り抜ける手があるってのに……諦めてたまるか……!」
「……」
少年の喘鳴のような拒否を男は黙って聞いていたが、何か思い当たったように眉間の皺を深めた。
「何がお前を駆り立てているのか知らんが……。まさかお前、まだ偉くなりたいなどという夢を持ってるんじゃないだろうな?」
「……だったらなんだ」
「お前には無理だ」
「だったらなんだ」
即応に、男は気を悪くしたように鼻を鳴らした。眼下の少年をひと際強く睨むや、その手から強引にステッキを引き剥がし、取り戻す。
「そんなに鎧が欲しいなら、自分のを使ったらどうだ」
今度はファルクが眉をひそめる番だった。
「何のことだ? 俺は鎧なんて……」
「ついて来い」
顎をしゃくって、男が二階の廊下へと踵を返した。
ステッキをついてこそいるが、その足取りはしっかりとしている。あの杖は歩行補助というよりは、先ほどの立ち合いで見せたような護身の側面の方が強いのだろう。
「ファルクさん、大丈夫ですか?」
男の背中を目で追いながらエインセールは、起き上がるファルクの肩に手を置いた。
階段であんなふうに叩きつけられたら普通は大怪我をしそうなものだが、男の言うとおり、手心は加えられていたようだ。双剣を鞘に収めたファルクの顔にそれほど苦痛の様子はない。
「あの人が当主さんですか? まさか、ファルクさんをあんなにあっさり……」
「あっさり倒されて悪かったな」
階段を一足飛びに駆け上がる。カーペットの敷かれた廊下の先では、男が右の角を曲がるところだった。見えなくなったその姿を特に急ぐでもなく、むしろいつもより遅めの歩調でファルクが追う。
「ロルフ・アイトツァーン。今は引退の身だが、現役の頃はそれなりに名を馳せた騎士だ……癪に障るが、俺より強いのは否定できないな」
「引退って、それほどお年を召しているようには見えませんでしたが……お怪我でもされたのですか? ステッキを使っていらっしゃいますし」
「それもあるが……」
ファルクが言いよどんだ。
黙りこんだまま、角を曲がる。その通路の突き当たりにはドアがあり、そこに男――ロルフが待ち構えていた。
「ここだ。さっさと来い」
ファルクたちを一瞥し、ロルフがドアを開けて中に入った。遅れて少年と妖精も入室する。
そこは物置部屋のようだった。
採光窓からの淡い光に室内の棚やら木箱やらが浮かび上がっている。
その中でファルクたちの目を引いたのは、正面奥に安置された、幌布をかぶった何かだった。布をロルフが取り払う。
「なんだ、これ……」
現れたそれ――真新しいシュネーケン騎士鎧に、ファルクが声を震わせた。
「こんな物は知らない。俺はこの鎧を持っていなかったはずだ!」
「だろうな。見習いを卒業する前にお前は都市を出たのだから、知る由もない。こいつは、お前が正式にシュネーケンの騎士になったときに着るはずだった物だ」
瞠目する少年にロルフが答えた。
「今となってはガラクタにすぎん。処分するのも面倒だったところだ。好きに使え」
埃っぽい室内で、まるでその周囲だけが守られているかのように甲冑が輝いている。
ファルクが冑に手を伸ばした。ひんやりした金属が固く少年の指先を受け止めた。
「訳がわからない。処分が面倒なんて……嘘を言うなよ。俺を追い出したときみたいに捨てればよかっただろ」
その声は怒っているようでもあったし、泣いているようでもあった。いくつもの感情が混ざったようで判然としない、そんな声。
目をきつく閉ざし、うつむいたままファルクは声を振り立てた。
「あんたが騎士じゃなくなったのは俺のせいだろ! それをどうして……!」
「そんなことは知らん」
対照的な静けさで、突き放すようにロルフは言った。
「俺が騎士をやめたのは俺自身の問題だ。お前には関係ない。どうした? さっさと装着しろ。それともいらないのか?」
「……」
ぞんざいな催促に、ファルクは戸惑うようにしばし黙りこんでいたが、やがて目を開いた。甲冑と一緒に置いてあった鎧下に目を留めた後、コートを脱ぎ捨てる。
「ふ……」
上着をすべて脱いだところで、ロルフが小さく笑声をこぼした。耳ざとく聞きつけ、ファルクがじろりと睨む。
「なんだよ」
「なに、ずいぶん細い体だと思ってな。ちゃんと食ってるのか?」
「……引き締めてるだけだ。見ればわかるだろ」
今日は何も食べてないことには触れずファルクが返す。
二人から目を離して、エインセールはそっと半開きのドアから倉庫を後にした。ファルクが着替える間、目のやり場に困るというのもあったが、なんとなく彼らを二人きりにしたかったからだ。
過去に彼らに何があって、どんな溝ができたのかエインセールは知らない。だが知らずとも、今、あの二人がその溝を越えて話しているのはわかる。そんな時を邪魔するのは悪い。
「あっ、でもロルフさんとファルクさんの関係はちゃんと確認しておきたいですね」
ファルクが坊ちゃんと呼ばれていたり、基本的にオーダーメイドである甲冑がファルクのために用意されていたことから、答えは自ずと一つしかない。とはいえ、はっきりと聞いておかないとモヤモヤが残る。
「そういえばファルケインって呼ばれてましたけど、それってオズヴァルト様も呼んでいらっしゃったような……むむむ……」
「エインセールさん。こちらにいらっしゃいましたか」
頭を抱えて唸っていると、廊下の向こうからデフォン老が現れた。捧げ持つ盆には掌大の握り飯が皿に盛られている。その横に並ぶ小粒サイズはもしかしなくてもエインセールのための物だろう。
「書斎に誰もいないので探しておりました。よろしければどうぞお召し上がりください。旦那様と坊ちゃんはそちらですか?」
「わぁ、ありがとうございます。はい、そこの部屋で鎧を――」
その会話に応じるかのように、倉庫から騎士が出てきた。
鎧はファルクの体にぴったりで、一分の隙もなく彼の全身を覆っていた。脇に抱えているフルフェイスの冑を装着してしまえば、それがファルクだと簡単にはバレるまい。
「おお……なんと、なんと勇ましき佇まい……!」
デフォンが真っ直ぐ少年騎士へと駆け寄った。
「坊ちゃんの凛々しい晴れ姿、もう二度と見れぬ夢と諦めておりましたが、まさか叶う日が来ようとは……!」
「お前はいつも大仰だな。そんな立派なものじゃないぞ」
涙をにじませて称賛してくる老使用人に苦笑しながら、ファルクはデフォンの持つ皿から握り飯を一つ取り上げた。
「それと、もう坊ちゃんって呼ぶな。俺はこの家を没落させた張本人だぞ。アイトツァーンを名乗る資格はない。ただのファルクだ」
「な、何をおっしゃいますか……!」
呟くなり黙々と塩味のきいた握り飯を頬張り出したファルクを、デフォンは愕然と見返した。潤んだ目を拭うことなく毅然と反論する。
「おそれながら坊ちゃん、それは違います。何があろうともあなたは当家の嫡子。旦那様と同じく、私が仕える大切な方にございます。いくら名を改めようとあなたがあなたであることは変わりません」
両手が塞がっていなければ、老爺はきっと少年を強く抱きしめていただろう。慈愛と哀切のこもった目で少年に訴える。
「どうか自分をお責めになるのはおやめください。それに、この家にも帰って来てくだされば、奥方様もお喜びになります」
「爺、それは――」
「それはならん」
握り飯を咀嚼するファルクよりも早く、倉庫からの一喝がデフォンを打った。部屋から出てきたロルフが後ろ手にドアを閉めた。
「ファルケインがここを出たのは不敬に対するけじめだ。安易に取り消していいものではない。それは、こいつ自身もよくわかっている」
隣に並んで目で問うてきたロルフに、ファルクは無言で頷いた。
少年の背にロルフが手を添える。
「これで用は済んだな? 急いでいるのだろう。それを食ったらさっさと出て行け」
「……ありがとな、爺。美味かった」
皿からもう一つ握り飯をつかむと、悲しげに目を伏せるデフォンに囁いてから、ファルクは歩き出した。妖精を伴い、慣れぬ鎧での挙動を確かめるようにゆっくりと、徐々に速く廊下を渡る。
「ファルケイン」
呼び止められ、廊下の角を曲がる直前で振り向いた。
ロルフが変わらぬ険しい目で少年たちを見ていた。
「お前のそれは、人の助けになる仕事か?」
「……ああ」
「ならば、いい」
ロルフが追い払うように手を振り、ファルクが曲がり角に消える。エインセールがお辞儀をして、その後に続いた。
「……酌んでやれ」
やがて階段を降りる靴音が聞こえてきた頃、ロルフが悲嘆に暮れる使用人に告げた。
「他都市の騎士に扮するのだ。目的がなんであれ、成りすましが露見すればただでは済むまい。素性が割れれば俺たちにも累が及ぶだろう」
「では坊ちゃんは、そうならぬためにあのようなことを!? なんとお優しいことか……」
「そうだな……」
少年の発言にこめられた想いにデフォンが目に涙を溜める。その隣でロルフは眉間に皺を寄せ、ステッキを強く握りしめた。
「だから、偉くなるなど、あいつには無理なのだ」
「だいぶ時間を取られた。急ぐぞ」
屋敷の外に出て、ファルクは冑をかぶった。あとは不審がられないよう自然に振る舞えばいい。
「あのぅ、ファルクさん、いいですか?」
エインセールが思案気な顔のまま少年の背中に声を掛けた。
アイトツァーン家の嫡子。不敬。没落……つい最近にも聞いたいくつかの単語を頭の中で巡らせる。
「ひょっとして、アンネローゼ様に告白した見習い騎士って……」
思い切って訊ねたが、少年から答えは返って来ない。
沈黙を保ったまま二人はアイトツァーンの敷地を後にした。




