10:賢者の導き
エインセールがハッと顔を上げたときには、ファルクは地図を引ったくり、椅子を引いて立ち上がっていた。オズヴァルトを見下ろす顔には失望、侮蔑、嘲り……いくつもの負の感情が渦巻いている。
「最後に質問だ、賢者」
真顔で見返すオズヴァルトに、叩きつけるようにファルクが言った。
「アリスを治す方法はなんだ。どうやれば、あいつを元に戻せる?」
「……申し訳ないが、それは僕にも〝視えて〟いない」
「だろうな。お前だって万能じゃないことくらい、百も承知だ」
苦い返答に、ファルクは嘲笑するように口元を歪ませた。
「だが俺たちが欲しいのは、お前のその〝視えて〟いないことだ。地図の目的がどうとかなんざ手掛かりに過ぎない。これが解決に繋がってるのかすら不確かだってのに、期待はずれもいいところだ」
「あ、謝ってください、ファルクさん!」
席を立った少年は、吐き捨てながら扉へと向かっている。退室しかけたその背中に、エインセールは震える声をぶつけた。
「ファルクさんも言ってたじゃないですか。このままじゃ行き詰まるって。でも、オズヴァルト様のおかげで前に進めるようになったんです。それなのに、そんな言い方ってないじゃないですか!」
「いいんだ、エインセール」
妖精の非難を諫めたのは、罵られていた賢者その人だ。オズヴァルトは背筋を伸ばして少年を見据えた。
「君の言う通り、僕は万能じゃない。賢者だなんて呼ばれていても、普通の人間と同じだ。〝視えて〟いたところで助けになれるかもわからない、そんな役立たずだ」
「オズヴァルト様、そんなことは……!」
「でも、君がアリスを助けたい気持ちと同じくらい、僕も君たちを助けたい。その証として、最後に賢者らしく導きを贈るよ」
気持ち――その言葉にファルクの嘲笑がさらに深まった。顔を背け、そのまま何も聞かぬとばかりに部屋を出ようとして――
「君が調査の過程で壁にぶつかったら、アイトツァーン邸を訪ねるといい」
少年の足が止まった。
弾かれたようにオズヴァルトに向いたファルクの顔に、もう嘲りの色はない。代わりにそこに湧き上がっているのは怒りにも似た激情だ。
「お前……」
その声はまるで痛みに耐える呻きのようだった。何か言いたげにファルクは口を開いたが、結局、何も言わぬまま応接室を足早に後にする。少しして玄関口の開く音が聞こえた。
「オズヴァルト様、ごめんなさい!」
口のつけられなかったカップから漂う芳香に、胸が締め付けられるものを感じながら、エインセールは賢者に頭を下げた。
「ファルクさんは、本当は優しい人なんです。でも今はアリス様のことで頭がいっぱいで、それで……」
「大丈夫。わかっているよ」
オズヴァルトが微笑んで、詫びる妖精に頭を上げるよう促す。
「それに、彼がああなってしまったのは僕のせいでもあるんだ。僕には、彼の言葉を受け止める責任がある」
「……え?」
先ほどの会話のことではないだろう。自分の知らない事情があるのを感じて、エインセールは小首を傾げたが、
「エインセール。これからも彼を支えてあげてくれるかい?」
「はい……もちろんです!」
言われるまでもなかった。大きく頷いて、エインセールはもう一度頭を下げた。羽をきらめかせて、テーブルから飛び立つ。
応接室から廊下に出て、開いたままのドアから外へ出る。左右を見回すと、シュネーケン方面へと歩くファルクの背中が見えた。
アルトグレンツェと城塞都市シュネーケンは、隣接しているかと思うほどに近い。村から小鹿の森に行くには都市を経由するのが最短ルートとなっている。
「やっぱり時間の無駄だったな」
エインセールが近づくと、後ろも見ないでファルクが呟いた。
「あの程度の情報、シュネーケンで聞き込みすればすぐに集められただろ。それを長々と」
「労せずして情報を得られたとも言えますよ。そう言わないで、なんとかお茶会が始まるまでに調査を……え、なんです?」
前に回り込んだ妖精に、ファルクは懐から丸い物を取り出して見せた。掲げたそれ――懐中時計は十二時五十九分を指している。
エインセールが秒針の動きを目で追っていると、長針がカチリと進んだ……午後一時。
「……えっと、お茶会って何時に始まるんでしたっけ?」
「俺に聞くな。だがたぶん、お前の想像通りだ」
「はうぅぅ……」
イザベラはどうでもいいと言っていたが、それでもお茶会までに解決したかった。無情な時の流れにエインセールが肩を落とす。
「で、でもでも、他にも情報はありましたもんね。アイトツァーン邸って、なんですか?」
「知るか」
言い捨てたファルクが、村の境である石門をくぐった。そこからさらに歩いて、ほどなくシュネーケンの堅牢な門が見えてくる。
そこを通過した途端、まるで世界が変わったかのようだった。噴水広場へと続く道は石で規則的に舗装され、どこまでも広がる波のような美しい模様を描いている。歩道を挟むように家々が建ち並び、店先は人々の往来で賑わっていた。
「魔物の襲撃にさらされているだなんて、到底思えないですね」
「市民を不安にさせたら騎士団のメンツは丸潰れだからな」
遥かそびえるシュネーケン城を振り仰いでいたエインセールだったが、人混みに構わず進むファルクを慌てて追った。はぐれないように真上に滞空する。
「この人通り、さすが大都市シュネーケンです。ファルクさん、転ばないように気を付けてくださいね」
「はっ、お前、誰に物言って――」
鐘の音が鳴り響いたのはファルクが鼻で笑ったのと同時だった。
直後、やにわに群衆の動きが加速した。散策をしていた老人も、店先で談笑していた婦人たちも、血相を変えて我先とばかりに駆け出す――どう見てもただ事ではない。
「おい、どうした!」
衝突しないようとっさにバランスを整えて、ファルクは近くを走る男性の肩をつかんだ。
「なんの騒ぎだ!」
「なんだよ、半鐘が聞こえてるだろ!?」
唾を飛ばして男性がわめいた。連続して響いている鐘の音に負けぬ声音で、ファルクに叫び返す。
「魔物が襲って来てんだよ! あんたも早く逃げろ!」




