#01 喧騒の中に消えたその名前
「……ついに俺も高校生かぁ」
真正面に見える校門へ続くなだらかな坂道は今、舞い散る桜色の花びらで覆われていた。
麗らかな春の日差しが、道行く学生たちを祝うかのように、その場をあたたかく包みこんでいる。
少し緊張の面持ちで校門をくぐり、俺——八代悠斗はつい数時間前に袖を通したばかりの真新しい制服を見た。
中学在学中に着倒したといってもいいほどに着崩れた学ランから、ストライプのタイにブレザーのジャケットとオシャレ度が増したものに変わっている。
胸元にはエンブレム、袖にはしっかりと取り付けられた金色に輝くボタン。どちらにも『聖城』の証が刻印されている。
私立 聖城高等学校。
今年、俺はここに入学した。
創立百年にも届こうかという聖城は、難関大学への輩出も多い県内でも有数の進学校である。そればかりか部活動も盛んで、バスケ部やサッカー部はインターハイの常連だ。
聖城の学校方針は『文武両道』。身体も精神も屈強な男たちがたくさんいるに違いない。
——俺、よく入れたな。ガラにもなく受験勉強頑張ったもんな……。
俺は感無量の面持ちで、ほんの少し前の、過ぎ去った日々を思い返した。
といっても、たった一年足らずのことだ。
中学に入ってから始めた部活にのめり込んでいたせいで、勉強は平均点を確保できればいい程度に思っていた俺は、三年進級後の最初の進路指導で厳しい現実にぶち当たった。
「八代。お前……『聖城』希望だったのか?」
当時の担任の心底驚いた顔は今でも忘れない。
向き合って座る俺と、机の上に置かれた進路希望調査のプリントの間を、戸惑いと驚愕に彩られた視線が何度も行き来した。
第一希望の欄に書かれた『聖城高校』の文字に間違いはないかと聞かれたほどだ。
「いや、すまん……。八代がまさか進学校希望とは思わなかったから、今までテストの点も厳しく言ってこなかったが……」
動揺が収まった担任は、前置きをしてから切り出した。
「『聖城』は、八代の今の学力だとかなり難しいぞ?」
「えっ、そうなんですか!?」
今度は俺が驚く番だった。
『聖城』は確かに、頭のいい生徒が行く高校だと何となく理解していた。
だが、俺と同じように部活に明け暮れていた先輩たちの中から『聖城』に行った人も多い。なにより、俺が尊敬する先輩も『聖城』に行ったのだ。
俺だって行こうと思えば行ける、そう楽観的に見ていた。
が、なんのことはない。先輩たちは勉強もよくできていたらしい。
俺は到底足りない学力を一年で埋めるべく、勉強に邁進する羽目になった。これまで勉強を真面目にせずサボっていたツケが回ってきたのだから、仕方がない。
『聖城』に行った先輩の叱咤激励を受けて迎えた入試当日は、とてつもなく緊張した。
試験中、わからない問題が出てきた時の焦り。もうダメかと思ったが、時間まで諦めずに粘ったおかげか、合格発表の日に自分の名前を見つけた時の喜びといったら、今でもうまく言い表せないくらいだ。母親に合格を伝えるために電話した時、手も声も震えたっけ……。
文字通り、サクラサク、だ。今、目の前に広がっている光景と同じ。
俺は感慨深くひとり頷くと、あたりを見渡した。
左手の校舎の昇降口の前に、掲示板があった。
おそらく、新入生の名前やクラスが書かれているのだろう。それと思しき生徒たちがエサを見つけた蟻の如く一様に群がっている。
そしてその周りでは、俺よりも幾分体格の良い男子生徒が数名、喧騒を鎮めようと声を張り上げていた。
彼らは白い腕章をつけている。ただ、ここからは遠くて文字は読めない。
「どれどれ、俺は何組かな……」
その生徒たちの集団へ足を向け、近づいていくうちにふと気付いた。
男子の群れに混じって、悲壮な顔をした数人の女子が一カ所にかたまっていた。どう見ても怯えている。
掲示板を見ているうちに身動きが取れなくなったのかもしれない。囲まれた彼女たちは肩身が狭そうに、お互いに身を寄せ合っていた。
だが、男子もなにも意図的に囲んだわけでもないようで、なんだかぎくしゃくした変な雰囲気になっている。
——ああ、やっぱりこうなってるのかな、この高校。
噂では聞いたことがあったが、実際目の当たりにすると、どうしていいかわからなかった。
聖城高校のここ数年の学校改革によって生み出された、とある問題——。
暫く立ち止まり、俺はその光景を人ごとのように眺めていた。
「ねぇ、いつまでそこに立ってる気?前が見えないでしょ」
ふいに苛立ったような声がかけられ、俺は反射的に振り返った。
明らかに不機嫌な口調にもかかわらず、よく通る涼やかな声音の持ち主が、こちらを見上げていた。俺と同じ聖城の制服を着た、女子生徒だ。
身長差はほとんどなかった。俺は高くも低くもない平均だから、この女子生徒が普通の女子に比べて背が高いということになる。
そんな彼女が、至近距離から俺をまっすぐに見つめている。その強い視線に絡め取られた瞬間、俺の心臓は跳ね上がり、思わず言葉を失った。
彼女は、あまりにも綺麗な——そんな表現しかできない俺の貧弱な語彙力を恨むしかないが——女の子だったのだ。
「……なに?」
堂々とした仁王立ちを披露していた彼女は、俺に無遠慮に見つめられた事に気付いて、眉をピクリと動かした。
「あ、いや。悪い」
俺は神々しいオーラに気圧され、呆気にとられたまま後ずさった。
きっちりと組まれた腕、凛々しい立ち姿。
華奢な身体つきだが、こちらを見上げている態度は驚くほど偉そうだ。
けれど、それもサマになるくらい、彼女は女王然としている。
「だ、誰だあの子?」
「めちゃくちゃ可愛い……」
俺の周りから、男子生徒のそんな囁きが聞こえてきた。
それはさざ波のようにあたり一面に広がっていく。
彼女は好奇な視線に晒され、少し顔を顰めた。
ふっくらとした色づきのいい唇が、きゅっと引き結ばれる。
長い睫毛に縁取られた形のよい目に、外からの関心を撥ね退けるような強い意思が籠り、眉間に軽くシワが寄った。
可愛い顔がもったいない、とは思わなかった。
怒ったような表情でも、卵型の小さな輪郭の中に品よく収まっているパーツはさほども崩れることなく、また別の魅力を醸し出している。人を惹きつける何かが、全く失われていないのだ。
彼女は、俺が譲った道の先を歩いていった。
ブレザーの第二ボタンのあたりまで伸びた真っ直ぐな髪が風にさらわれて、俺の周りに僅かなフローラルの香りを残していく。
モーゼの十戒のように、彼女の進む道は面白いように人波が割れていき、彼女はたやすく掲示板まで辿り着いた。
それでも、彼女の表情は憮然としている。
それもそうだろう、彼女を見ている男子はみな、ぽかんと口を開けて間抜けな顔をしていた。そんな顔をいくつも見せられたら、たまったもんじゃない。
たぶん、俺も同じ顔をしていたはずだ。ああ、あれはなかったことにしたい。
俺は羞恥に内心身悶えた。
その間にも、彼女は掲示板から自分の名前を探していた。
女子の名前は少ない。おかげであっさりと見つかったようで、確認が終わるとさっと囲みから抜けていく。
「えーと、君。こっちきて。それとこの花付けてね」
昇降口のそばに立って一部始終を面白そうに見ていた男子生徒が、彼女を呼び止めた。
「おーい、千葉君。アレ持ってきて」
それから、近くに設置されている受付にいた男子生徒を手招きする。
慌ただしく新入生を捌いていたらしいその生徒は、名前を呼ばれて初めてその存在に気付いたらしい。びっくりして駆け寄ってきた。
「会長!なんでここにいるんですか、持ち場が違うでしょ」
「だって祝辞の練習飽きたんだもん」
「飽きるとかそういうモノじゃないんです!まさかまた今回も……」
「大丈夫だって」
「霧生先生に怒られても知りませんからね」
千葉先輩は会長を叱りながら、胸章と書かれた袋から赤い花とリボンを取り出した。
彼らも白い腕章を付けている。ここからなら文字が読めた。えーと——『聖城高校生徒会執行部』。
さっきからところどころで見かけるのは生徒会だったらしい。
「ひどいな、これでもちょっと心配してきてあげたのに」
「いや絶対楽しんでるでしょ……」
会長は、怒られつつも反省した様子はなく、彼女に胸章を手渡した。
その仕草からは、彼女の存在に対する動揺を見てとることは出来ない。むしろ、余裕のある態度だ。
多少離れているから初めは気付かなかったが、よくよく見るとその先輩もまた、人を惹き付ける顔立ちをしていた。
普通の高校なら間違いなく、女子たちが黄色い声援をあげてファンクラブを結成している類の美形だ。
「君は何組?出席番号か名前を言って」
「1-C、33番です」
「そう、じゃあこの廊下をまっすぐ行って、一つ目の階段をあがってすぐだから」
「ありがとうございます」
俺たちの時とはうって変わって、彼女は丁寧にお礼を言うと手渡された胸章とともに校舎の中へと消えていった。
千葉先輩が胸章の入った袋を小脇に抱え、持っていた名簿にさっと目を通しチェックを入れる。
その様子を確かめて顔をこちらへ向けた会長は、俺たちの視線に気付くと、苦笑しながらパンパンと掌を打ち鳴らした。
「はいはい、お前ら正気に戻れ。これから三年間、彼女とは同じ生活をするんだから、今からそんなんじゃ身が持たないぞ」
周りの新入生たちはハッと我に返った。
なんだったのだろう、今のは。この世のものとは思えない生き物を見た——そんな不思議な気持ちが溢れ出ている。
可愛い、綺麗な女子生徒は、これまでの人生でも見てきた。
だが彼女ほど神に愛されたような完璧な造形の、簡単には侵しがたいほどの可憐さを持ち合わせた女の子を、この目にしたことがあっただろうか。
それが、どういう奇跡か、俺たちと同じ聖城にいる。
それどころか同じ新入生で、もしかしたら同じクラスかもしれない。
そんな気持ちを共有した俺たちは、次にさっきのやり取りを思い返していた。
確か彼女はこう言った——『1-C、33番です』と。
「うおおおおお俺は何組だあぁぁぁ」
魂の叫びが木霊した。
掲示板の前は、自分の名前とクラスを確認した男子生徒たちによって、悲喜交々の様相を呈していく。
その騒ぎを聞きつけて集まってきたのは、腕章をつけた男女の先輩たちだ。
「……ただでさえ女子は、ここでの生活は大変なのに。大丈夫かしら」
「すごいのが入ってきたもんだねー」
「なんか男子も大変なことになりそうだけど」
「俺たちがしっかり見ててやらなきゃなぁ……」
新入生たちが織り成す珍風景を目にして、先輩たちは呆れたように呟く。
彼らにとっては新学期早々頭を悩ます事態なのかもしれない。
「あった……俺の名前」
俺はというと、図らずしも、自分の名前をそこに見つけてしまい、喜びのような戸惑いのような、複雑な心境になっていた。
1-C。俺の名前と、その下に並ぶ彼女の名前。
32 八代悠斗
33 絢瀬沙希
——絢瀬沙希。
小さく呟いたせいか喧騒の中に消えたその名前は、それでも俺の心の中に確かに刻まれる。
嵐の予感がする。
俺の高校生活は、良くも悪くも、きっとそういう風になる気がする。
それはとても正しかったと確信するのは、そう遠い未来の話じゃない。