第4話 この指とまれ!
次の日、私はもう一度彼女に会いたくて、昨日と同じ時間の電車に乗った。しかし、彼女と会うことはできなかった。考えてみれば当たり前である。私の目の前には、昨日と別の男女が座っている。昨日とまったく同じ顔触れであるはずもない。
私はそれからしばらく、少し時間や車両を変えて彼女の姿を探すことにした。一週間たち二週間になろうとした木曜日、ついに私は彼女を見つけることができた。私は車両の真ん中のシートに腰かけていたのだが、入り口の近くの手すりに彼女は掴まっていた。
いた!
正直、あれは幽霊か何か、特別なものではないかと思い始めていたところだったが、彼女は相変わらず、右の人差し指を右の鼻の穴に突っ込んでいた。しかし、だれもそのことに気付いていないようだった。私は会社に遅れようがなんだろうが、彼女を追いかける心づもりでいた。もし、前回と同じ駅ならば、次の駅で降りるはずだ。
私は、彼女を見失わないようにと身構えた。電車のスピードが落ちる。私は席を立ち、彼女のいるドアめがけて動き出す。彼女の姿が人影に隠れる。彼女は小柄で、おそらく機敏な動きをする。私は彼女のことを何度も想像し、このシチュエーションをシミュレートしていた。
ドアが開く。一斉に人が動き出す。人波をかきわけ、我先にと彼女のいた場所に移動する。思った通りそこに彼女の姿はない。ドアからおり、人の流れに抗いながらあたりを見渡す。
大丈夫。必ず見つかる。
人の流れは電車のドアから駅の階段へと流れていく。その中にあれば階段の下から彼女を見つけることができるはずだ。ところがいくら探しても彼女の姿は見えない。エスカレーターの右側を歩いて上れば数十秒で階を登りきってしまう。エスカレーターの右側、左側、そして階段の左側ののぼりの列を注意深く探すがとうとう見つけることはできなかった。
人の流れに逆らい、階段を見上げる私は他の人の眼にどう写ったのだろうか?
いや、恐らくは誰も気づいていない。彼女が誰にも気づかれなかったように、私も彼らの視界には入っていないだろう。
私はどうにもおかしくなってしまい、思わず声に出してしまった。
「何がそんなにおかしいの? 変なおじ様」
不意に真横から声がした。聞き覚えのある声。
はっとして、声のする方向を見るが、そこにあるべきものはない。彼女の姿はどこにも見当たらない。
あたりを見渡しても、声の主を見つけることはできなかった。しかし、あきらめることはできなかった。なぜかはわからないが、あきらめてはいけないという奇妙な衝動が私を突き動かした。私はあわただしく電車と人が行き来するホームをうろうろと歩き始めた。時々、彼女の視線、或いは気配といったものを感じた。
通勤客には私の姿が見えないのだろう。そして私にも彼らの姿はもはや見えないに等しかった。互いに同じ場所に居合わせながら、同じ時間軸にいながら、まったく違う世界に身をおいている。見知らぬ土地、外国に来たときのような感覚よりも、それはもっとはっきりとした違和感であり、同時にもと居た場所にもどってきたような、郷愁にも似た奇妙な感覚でもあった。
通勤で降りることはないが、仕事を含め、この駅は何度も降りたことがある。しかし、駅のホームのすべてを知っているわけではないということに初めて気が付いた。いや、初めてではない。私は駅のホームの奥の方――改修工事中の傷んだ壁を見たとき、ふと何かを思い出したような気がした。
私は知っている。
これだけ混雑した時間でも、その場所はどこかひっそりとしていた。いつぐらいから改修工事をしていたのだろうか?
そこに一本の円形の柱を見つけた。その柱の周りは金網のようなもので囲まれている。ところどころひびが入り、コンクリがめくれている。その大きな柱をぐるりと回ってみると、そこに一枚の古いポスターが貼ってあるのが見えた。
嗚呼!
私は思わず大きな声を上げた。
そこの彼女はいたのだ。
『この指とまれ!』
と右手の細く白い人差し指を小さな顔の前に立てているかわいらしい女の子。彼女の笑顔は見る者の心を和ませる何とも素敵な表情をしていた。
「嗚呼、すっかりと忘れていた! 君だったのか!」
それは今から5年、いやそれ以上、前のことだった。
私が今務めている広告代理店で受注したあるイベントのキャンペーンのポスターの製作に私は関わったことがある。それがこのポスターである。
「そうか。確か当時彼女の人気が沸騰して、ポスターがあちこちで盗まれて……、それでこのポスターは簡単に盗まれないようにこの柱に……」
当時現場を任されていた私は、心血を注いでこの仕事に打ち込んでいた。それを盗まれてたまるかと、このポスターをこの柱に簡単にはがせないように張り付けたのだった。おそらくそのあと、この柱の補修をしなければならなくなり、このような状態のまま、年月が過ぎたのだろう。理由は解らないが、いまだに手がついていないらしい。
「お客さん? どうかされましたか?」
「あっ、いやぁ、ちょっとこのポスター懐かしと思って」
ヘルメットを被り、見るからに工事関係者の男が私に話しかけてきた。
「実はようやくここの柱の工事ができるようになったんですよ。いや~、長くかかりましたが、この柱で最後なんです」
「この柱で最後?」
「ええ。今日の午後から、工事が始まります。そしたら、このポスターも……」
「そうなんですか」
「しかし、よくもまぁ、べったりと貼ったものです。はがそうとしてもきれいにはがれなくて、どうも、びりびりと破るのも気が引けてねぇ。まぁ、今日までそのままになっていたわけです」
金網越しにみる彼女の表情は、あの日あの時のまま、かわいらしく、いじらしく、どこかいたずらっぽく、私に微笑みかけている。あれほど情熱をかけてやり遂げた仕事はほかに覚えがなかった。あの仕事が認められ、私は今務めている大手の代理店に引き抜かれたのだ。しかし、それからの私は……。
「当時、人気があったそうですね。このポスター。それで盗難が相次いだそうですが、これだけべったりと貼られると誰もはがせなかったのでしょうね」
ヘルメットの男は、何やら書類を眺めては、そこに数字を書き込んでいる。どうやら工事に関する書類のようである。
「お邪魔しました。このポスター、きれいにははがれませんよね」
「そうね。それは無理だね」
「できる限りでいいんです。もし、きれいにはがれたら、それを私に譲ってはくれませんか?」
「あんたも物好きだね、悪いがそういうことには……」
ヘルメットの男が首を振りながら断ろうとしたとき、それは起きた。
ぺりっ
柱に張り付いていたポスターの右の隅が自然とはがれ、こちら側にお辞儀をしたのである。
「あ、あれ? おかしなこともあるもんだなぁ。接着剤がダメになったのか?」
「で、できたらで、いいんです。お願いします。私はこれから会社に行かなければなりませんが、今日の夜、必ず取りにきますから……。ですからお願いです。はがせた部位だけでいいので、取っておいてはもらいませんか?」
「ふむぅ……。ずいぶんとこだわるね。あんた彼女のファンかなにかなの?」
「いえ、そういうことでは……」
「物好きもいたものだねぇ」
「こ、これを……これ、私の名刺です。連絡先はここに」
私は自分の名刺に携帯の番号を書いてその男に渡した。
「じゃぁ、あとで連絡するから、今夜取に来なかったら、処分しちまうからね」
「よろしくお願いします」
夕方、携帯に連絡が入った。不思議なくらい、あっさりとポスターははがれ、表面的な損傷はほとんどないという。全体的に変色はしてしまっているが、私にとってそんなことはどうでもいいことだった。夜、駅の指定された場所にいき、そのポスターを手にしたとき、どういうわけか、私の目から涙がこぼれた。
家に帰り、家族とろくに話もせず、自室にこもり、私はそのポスターを眺めていた。
『この指とまれ!』
そう、なんどかつぶやき、彼女の笑顔を眺め、そして忘れていたあの頃の日々を思い出していた。
「このままじゃ、いけないのかもしれないなぁ」
それから、3か月後、私は会社を辞めることを決意した。実際にそれが叶ったのはそれからさらに半年後のことである。独立し、会社を設立した。決して順風満帆とはいえないが、それでも私の見る世界は、以前のそれとは違っている。
相対的な感覚に支配されず、絶対的な価値や存在を見つめながら、あるべき姿、戻るべき場所を見失うことなく過ごしている。私はそう思って疑わない。以前見えていたものが見えなくなっていたことにも気づかずに、以前聞こえていたものが聴こえなくなったことも気づかずに、私は時を重ねていた。それは決して間違いではないのだと思う。
しかし、私はまた、飛びついてしまったのだ。わくわくするような感覚を得るのに必要なこと、それは好奇心という無邪気な衝動なのだろうと思う。
『この指とまれ!』