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第3話 穴

 そんなことだから、電車に乗ってもどことなく気分が落ち着かない。いつものようにその空間に溶け込むことができずに、やたらと人の視線を気にし、そして周囲の状況に敏感になってしまう。地下鉄の窓に映る自分の姿がやたらと気になる。

 目の前のシートに座っているOL風の女性は、ずっと下を向いてスマフォになにやら入力している。右どなりのくたびれたサラリーマンは腕を組んですっかり寝入っている。その隣の小柄なサラリーマンは新聞をきれいにたたみ、なにやら小難しそうな顔をしながら新聞を読んでいる。OLの左隣には小太りのメガネをかけた男が携帯ゲーム機で遊んでいる。


 他人を気にする余裕など誰もないのだ。それを確認して少し安堵した。が、そう思ったのもつかの間、正面に視線を移したとき、私は私が列車の窓に映りこんでいる姿とその隣……私の左隣に映りこんだ女性の姿にはっとした。


 彼女はおそらくOLか、或いは女子大生かもしれない。目がパッチリして、鼻筋もすっと伸びている。黒い髪の毛は肩のあたりまで伸びている。重たい感じはしない。毛先がきれいに整い、さらさらとしている。

 色白でやや小柄ながら、体の線はしっかりとしている。

 白いパンプスは行動的で、膝丈ほどの花柄のスカートはふわっとしていてかわいらしい。

 白いブラウスは清潔感があり、袖から伸びた白い腕は、美しいきめの細かい肌をしている。


 左手で吊り革を掴み、その指先は細長く、指輪もなければ派手なマニキュアも見当たらない。白いハンドバッグを右の肩から下げている。


 ここまでは、そうごく普通の女性、いや、「きれいな」と付け加えることに誰もためらわないだろう。問題は彼女の左手である。いや、もっと局所的に言えば人差し指である。


 彼女の右の人差し指は彼女の右の鼻の穴に突っ込まれている。


 いや、たしかにそういうこともあるだろう。彼女も普通の人間だ。それがアイドルだろうがモデルだろうが鼻の穴に指を突っ込みたくなることはあるだろう。しかし……それは普通人前ではやらないし、やらなければならない時は人に見えないように、こっそりとやるものである。少なくとも私はこれまでの人生の中で女性が大勢の前で鼻の穴に指を突っ込んでいる姿を見たことはない。いや、一瞬ならそういうこともある。そう、瞬間的についうっかり、或いは確信犯的にこっそりということならあるだろう。


 しかし、彼女は、鼻の穴に指を突っ込むのをやめない。ずっとそのままでいる。


 いや、これは私の目の錯覚なのか?


 目の前に映りこんでいるそのありえない姿は、何か間違ったものが映りこんでいるのか?


 恐る恐る、彼女の本体がある方、視線を正面から左に移す。


 しかし、確かにそれはそこにあった。


 彼女の細く白い指先は、見事に彼女のすっと伸びた鼻先の終着点。鼻の穴に第一関節まで突っ込まれている。


 視線を再び正面に戻す。そこで私は私が犯した失敗に気付く。


 私の挙動は明らかに不自然であり、彼女にそれを気取られてしまった。電車の窓に映る彼女の視線と私の視線がぴったりと合ってしまった。私は気まずくなり、視線を外そうとしたが、それも情けなく思え、結果的に見つめ合う格好になってしまった。


 どうする……、どうすればいい。


 迷っているうちに彼女の視線が右側、つまり私の実態に向けられる。私は無視するわけにもいかず、左に向き直る。


「穴に指を突っ込むと、落ち着くの」


 そういった。彼女の実態と目があった瞬間、私にしか聞こえないような声で彼女はそう言い放った。そして再び正面を向く。私も、正面を向く。


 穴に……指?


 穴と言ったか? 彼女は……。


 私の中で何かがざわめきたち、体温が上昇するのを、血流が激しくなるのを、心臓の音が大きく、早くなるのを感じた。


 私のそれまですっかり萎えてしまっていた何か、或いはさび付いてしまっていた何かがギィギィと音を立てながら動きだした。


 私は、妄想をした。


「穴に指を突っ込むと、落ち着くの」という言葉から連想することができるありとあらゆる卑猥なことを想像した。そして自分の身体がそれに反応するのを感じ、慌てて意識をそこからそらそうとした。しかし彼女の視線がそれを許さなかった。


 なんて、いやらしい、なんておぞましい、なんて不埒な視線なのだ。


 私はそれに耐えきれずに視線を下に落とした。目の前のOLは相変わらずスマフォを覗き込み、さえないサラリーマンは眠りこけ、小柄なサラリーマンは経済面に並んだ数字を眺め、小太りの男は激しく携帯ゲームのボタンを連打している。


 誰も気づいていない。


 私にも、彼女にも。


 私はどうにかして自分の中で暴走し始めた欲情を抑えようと必死になったが、それがどうしようもなく無意味なことに感じ、始めていた。


 誰も気づいていない。

 私にも、彼女にも。


 私はすっかりまいってしまい、彼女に抗うことを諦めようと思った。そう思った瞬間、私はなんだか急におかしくなってしまった。私は私を笑い、指を鼻の穴に突っ込んだ彼女を笑い、ネクタイにコーヒーのシミを付けた私にも、鼻の穴に指を突っ込んでいる彼女にも気づいていない周りの人間を笑った。


 電車のスピードが落ちる。もうすぐ停車駅だ。会社まではまだ6駅ほどある。前に座っていたOLが立ち上がる。私のまわりがざわつきだす。この駅で降りる人は多い。私は空いた席に座り、上を見上げた。しかしそこには彼女の姿はもうなかった。


 私は安心したような、残念なような複雑な気持ちのまま、新聞を広げ、紙面に目をやったが、まるで頭の中に入ってこない。


 新聞をたたみ、カバンにしまうと私は目を閉じて、彼女のことを考えた。いや、彼女のことだけではない。スマフォをいじっていたOLやくたびれたサラリーマン、相変わらず目を皿のようにして新聞を眺めている小柄の男とゲームに夢中の小太りの男、それぞれの日常を想像し、妄想した。



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