第2話 ネクタイのシミ
五月、新しい制服、新しい勤め先、新しい生活。三月から四月にかけて人の移動が行われ五月のゴールデンウイークを過ぎた頃にやっと落ち着く。それが五月。
うまくやれたもの、やれないもの、やられたもの……、人それぞれだが私には関係がない。
ただ、少しばかりうらやましいと思うこともあり、疎ましいと思うこともある。
良いにせよ、悪いにせよ、変化があるということは刺激があるということだ。
しかし、ただ変化があれば良いというものではない。
この世の中には予定された変化というものがほとんどで、本当に刺激のある変化というものは、40年も生きていればそう多くはない。人の死ですら、予定されているのではないかと、最近は思うようになっている私には、その程度のことで一喜一憂する人をうらやましいと思い、そしてどちらかといえば疎ましいと思うのだ。
幸いにも私の父も母も健在である。この幸いというのは今、生きていいることがという意味においてよりも、人の死について、ある一定の経験とそれに伴う覚悟ができたこの時期まで両親が健在でいてくれたことへの思いであり、昨年、母にガンが見つかったときも、驚くほどに冷静でいられた。
家族の誰一人取り乱すことなく、また、幸運なことに早期の発見であり、手術後の経過も良好である。これはそのままの意味で幸運なことであり、しかしそれ以上のものではない。
あるいは自分は人と比べて情に薄く、またはそのように振舞うことに、ひとつの矜持を感じているのかもしれない。そうであろうと、なかろうと、今は五月である。
いつもの車両にいつもの時間に乗り込めば、そこにはやはりいつもの顔がある。いつもではないのかもしれないが、私にとっては大差のないことである。
そのとき私はうっかりしていた。コンビニでいつものように新聞を買い、そして缶コーヒーをついでに買った。どうということはない。ちょっとしたおまけに惹かれて私はそれを買った。ちょっとしたおまけというのは携帯のストラップであり、つい数日前、カバンの金具に引っ掛けて、今まで使っていたストラップのアクセサリーが壊れてしまったのだ。
これといって思い入れがあったわけでもなんでもない。ただ、これまでそこに何かがくっついていたのだから、それがなくなってしまったことへの違和感がぬぐえず、かといって、ストタップだけを買うということも、どうにも億劫であった。
『ちょうどいい』とたぶん私は口にしながらそのおまけつきの缶コーヒーを買い、駅までの5分の道のりでそれを飲み干そうと考えた。駅の周りにある自動販売機のくず入れに飲み終わった缶コーヒーを捨てる。しかし、普段から歩きながら缶コーヒーを飲むことなどあまりしない私は、最初の一口を飲み干した跡に『お釣り』をもらってしまったのだ。
『お釣り』
口を離すタイミングと缶を傾けるタイミングに少しばかりのズレが生じ、数滴缶コーヒーの中身をネクタイにこぼしてしまったのである。
「しまった! 汚しちまった」
あわててハンカチを取り出そうとしたがあいにく両手がふさがっている。
カバンは肩にかけているが、右手に缶コーヒー、左手に新聞だ。右手に持った缶コーヒーを左手に持ち替えないと、右のズボンのポケットに入っているハンカチは取り出せない。しかし、うっかりすると新聞を汚してしまいかねない。右の脇に新聞を挟み左手に缶コーヒーを持ち替え、不自由な右手でズボンのポケットからハンカチを取り出すまで、ぎこちなくこなしながら、それでも歩くことをやめない私は、すっかりうろたえてしまっていた。
「まったく、なんてことだ」
仮にその動きがどれだけ俊敏であってもネクタイについた缶コーヒーのシミを完全にふき取ることなどできなかったかもしれないが、私はすっかり落ち込んでしまった。
なんだよ。今日はついてない。
コーヒーのシミは、よく見なければわからない程度のものだったが、そこにそれがあると知っている私にはとても気になるものだった。ネクタイをはずしてしまおうかとも思ったが、それはそれで、気持ちが悪かった。
そこにあるべきものがないのは気持ちが悪いのだ。