19: 手紙
私は手紙が嫌いだ。嫌いだった。
好きなものの話、と言っているのにいきなり何かと思われるかもしれない。
私は長年、手紙と名のつくものや、電子メール、携帯電話の簡単なメールさえも嫌いだった。
もう随分昔から気がついたら苦手になっていて、大人になってもそれは続き、年賀状などもとうに出すのを止めてしまったくらいだ。
別に手紙に何か嫌な思い出があるとかそういう事ではない。
ただ理由もなく、とても苦手だったのだ。
貰うのは別に嫌ではない。開く時に少しばかり緊張するくらいだろうか。
たまに憂鬱な気分な時なんかだと、見たくないと思う事はあるけれど、見れないというほどではない。
ただ、自分が出すとなるともう本当に駄目なのだ。
私に手紙やメールを送った人はその返事の遅さと返ってこなさに呆れる事だろうと思う。
たとえばネットで好きな小説を書く人に感想のメールを出したい、と思っても簡単にはいかない。
書くか書かないかを三日ほど悩み、書き始めてから書き上げるまでに一週間くらいかけ、下書きフォルダに入れたまま送信ボタンを押すまでにもう三日くらい悩む。
意を決して送信ボタンを押してからがまたひどい。三日くらいは送らなければ良かったとくよくよと後悔するのだ。
この嫌悪感には本当に理由がないから困る。
子供の頃はもっと気軽に友達と手紙のやり取りをしていたし、授業中に回す小さな手紙も好きだった。
手紙やメールで嫌な思いをしたことは別にないのだ。
なのに、年を経るごとに段々と苦手になって、ある時、本当にもう出したくない、と思うくらい嫌いなことに気が付いた。携帯のメールさえ友人たちに断って、気力の問題で一日に一通しか返せないが許してほしいと言っておいたくらいだ。
それを少し前、どうしてそんなに嫌いなのかじっくりと分析してみた。
すると私はどうも心の奥で、手紙やメールを送ると悪い事が起こると思っているらしいのだ。
それこそもう、私が送った手紙が原因で誰かが陥れられて死ぬとか、メールが爆発するとか、そんな事が起こるんじゃないかという不安感を心の奥底に持っているのだ。
もちろんそんなことはありえないという事はよく分かっている。別に手紙に何か細工がしてある訳でも、メールにウィルスが入っている訳でもないのだ。
結局、結論として私はこの嫌悪感や不安感は前世に何かあったのだ、と思う事にした。
そうでも思わないと理由のつけようがないのだ。本当に今までの人生では思い当たる理由がないのだから。
前世の事なら仕方ない。
そうなれば、これは今の私の思いではないのだと自分に言い聞かせるしかない。
記憶にもない昔に何があろうとも、今の私には関係ない。悪い事は起こらない。
そうやって少しずつ自分の心と話をしては言い聞かせ、ようやく最近それを克服しつつある。
この間、小説を再開してからもらったメールに、私は返事を書いた。
書こう、と思ったその日に返事を書き上げ、何の気負いもなく送信ボタンを押した。
少しばかり不安が胸を過ったけれど、それでも今までのように激しい後悔はしなかった。
それに対する返事をもらった時の嬉しさと言ったら。
憂いなくメールのやり取りが出来た、それが本当に、心の底から嬉しかった。
私は言葉が好きだし、言葉の持つ力を信じている。
だから、本当は手紙も好きなはずなのだ。
暖かな言葉を贈りかわす喜びを知っている。
知っているのにそれを憂いなく送ることが出来ない事が、本当はずっと残念でならなかった事にも気が付いた。
だからこれからは、少しずつ自分からも誰かに手紙やメールを送れるようになりたいと、なれるだろうと思っている。
嫌いで嫌いで、本当は好きな、手紙。
私の言葉が、誰かを少し幸せにする。
そんな手紙を、いつか気負いなく送れるようになりたいと願う。