10話「グレース・フォンテーヌ②」
死体の腐敗臭。もはや洗い流すことも諦めてしまった返り血。うなだれる兵士。暗い部屋の中、今が朝か夜かもわからない。外から見られるのを防ぐため、窓をふさいでいるのだ。
「グレース様、リアス様がお呼びです」
「...今行く」
兵士の中の一人が呼びに来る。その顔は土色で、一度転んでしまえばもう二度と起き上がらないのではないかと思うほど、歩く姿も弱り切っていた。人間の反撃が始まってからわずか3日、今までの進軍が嘘だったかのようにわが軍は壊滅状態に追い込まれた。もはや生きている兵士の数も把握しきれておらず、町の家屋を使って、今はゲリラ戦を展開している。しかし、もう戦況を覆すことはできないだろう。
「...失礼します、父上」
グレースが入ると、すでに将校たちが話し合いをしていた。議論に夢中になっているのか、グレースに挨拶をするような者はいない。皆、自分のことで手一杯なのだ。
「この状況では、ほかの貴族からの援軍も期待できないでしょう...よって、私は撤退を進言します」
眼鏡をかけた一人の将校が冷静に述べる。その眼にはクマができており、何日も寝ていないことが簡単に見て取れた。
「お前は恥を知らないのか!私は断固反対です!この状況で撤退など、死んでいった者に示しがつかない!汚らしい人間どもを一匹残らず駆逐するべきだ!」
ひげを蓄えた将校が父上に訴えるように、身振り手振りを使って訴えている。
「落ち着けハリス将校。あまり大きな声を出すと位置がばれるぞ」
リアスは足を組みながら激昂する将校をなだめる。
「しかし...」
「グレース。お前はどう思う」
将校たちの視線が一気に彼女に注がれる。いきなり話を振られたグレースは少し戸惑ったが、すぐに落ち着きを取り戻す。
「私は...」
「獣人ども聞け!」
突然、外から声が聞こえてくる。瞬間、部屋の中の空気が凍った。想定しうる中で最悪の状況。
「お前らは完全に包囲された!今すぐ武器を捨て、投降しろ!さもなくば皆殺しだ!」
その最悪の状況が...起こってしまった。
「いったいどうなっている!まだ前線近くに潜伏する兵士がいたはずだ!こんなに早くここまでたどり着くなど...」
確かにグレースたちが隠れているこの建物は、前線とされている場所からは距離がある。前線が崩壊したとしても、あまりに早すぎる。
「投降したか、もしくは...内通者」
眼鏡をかけた将校がつぶやく。内通者、裏切者が我々の中にいる。
「私の責任だ」
リアスは立ち上がり、扉に向かって歩き始める。
「リアス様の責任ではありません!敵の動きを予測できなかった我々の..」
「違う。私のせいだ」
リアスの有無を言わさないその姿勢に、将校たちは黙り込んでしまう。リアスは別の部屋から長剣と短剣を取り出してくる。彼が剣を持つ姿を見たのは久しぶりだった。
「私は打って出る」
「私も行きます!」
反射的にグレースは答えていた。
「父上が行くのなら、私も行きます!せめて最後ぐらい..」
「お前に、役割の話をしたな」
外が騒がしくなってくる。おそらく突撃の準備をしているのだろう。リアスは外が見えない窓を、何かを懐かしむような顔で見ていた。
「私の役割は忘れないことだ、民を導くことだ。だが、今この瞬間その役割はお前に移る。その気高き心を持ち続けるのだ。グレース・フォンテーヌ、お前がフォンテーヌ家を継げ」
リアスのその言葉を受け、周りの兵士が一斉に動き始める。そしてそのうちの一人がグレースを後ろから拘束する。
「っ!なぜですか父上!私はまだ!」
兵士の拘束を解こうと暴れるが、無意味だった。暴れるグレースの前にリアスが立つ。
「グレース。私はお前を...愛している」
それと同時にグレースは後頭部強い衝撃を感じ、そして...気絶した。
私が気づくとそこは町の近くの森だった。起き上がり周りを見ると、横には私を逃がしたであろう兵士が横たわっていた。その兵士はすでにこと切れていた。
私は走った。足がもつれ、こけそうになる。体のあちこちが痛い。だがそんなことはどうでもいい。軍は、父上はどうなった?町にはほとんど人間は残っていなかった。おそらく前線を町の向こうへ上げたのだろう。その数少ない人間に見つからないよう、家の隙間を走り抜ける。
(確かこの角を曲がって...)
私は角を曲がり...膝から崩れ落ちた。私たちがいた建物は完全に崩壊していた。
「あぁ、あぁ!」
私は地面に突っ伏し泣いた。父上は死んでしまった。私が未熟だからだ。私が自分を、役割を理解できていなかったからだ。私は泣き続けた。
「おい、誰かいたか?」
「もういねえだろ。あんだけ燃やしたんだからよぉ」
しばらくすると人間の兵士の声が聞こえてきた。まずい、ここで見つかるわけにはいかない。私は何とか立ち上がり、がれきの下に隠れる。人間はそもそも真剣に探す気はなかったのだろう。簡単にやり過ごすことができた。だが、私はそこから出なかった。違う、出る気になれなかったのだ。何もかも失ってしまった。私のせいだ。私はそのまま何日も自分を責め続けた。このまま死んでしまうのも、自らへの罰だと考えれば悪くないとすら思った。そうして何日か経った後、ふと見ると奥で光るものがあった。手を伸ばし、何とか手繰り寄せる。それは忘れもしない、父上の、リアス・フォンテーヌの短剣だった。その短剣が私を勇気づけ、私のやるべきことを思い出させた。そうだ、私にはやることがある。私は、役割を果たすのだ。フォンテーヌ家を継ぐものとして!




