アイリの風ー異世界編エピローグ②
風が吹いた。
肌に砂がぶつかる。パチパチと小石を叩きつけるような音。
むき出しの腕に刺さる感覚に、思わず身をすくめた。
ここには、日陰がない。
遮るものもない。
焼けた土と、白い陽光と、鈍い金属の匂いがあるだけ。
「おい、新入り。手止めんな」
次の瞬間、背中に焼けた縄を叩きつけられたような激痛が走った。
鞭の先が肌を裂いたのがわかる。息が詰まり、視界が一瞬だけ白く霞む。
でも、声は出なかった。
音だけが空に吸い込まれていき、誰も振り返らない。
すぐ近くで、兵士たちがぼそぼそと話していた。
「ったく、また外落ちかよ。最近、首都で暴れたやつがいたばっかだろ」
「市場でいきなり爆発して、商人と客、合わせて十人以上吹っ飛んだらしいな」
「で、始末に困ったのが全部こっち回し。地方警備なんて割り食ってばっかだぜ」
「言葉通じるやつもいるが、どうせ異能持ちかもしれねぇしな。暴れるかわかりゃしねぇ」
その言葉は風と一緒に皮膚をかすめて、耳の奥に染みこんできた。
外落ち。
それが、この世界での“名前”だった。
意味は知らない。ただ、皆がそう呼ぶ。
空から落ちてくる異物。
記憶がある者も、ない者も。言葉を持つ者も、持たない者も。
都市では恐れられ、辺境では砂に埋もれていく。
ここは〈アゼラフ王朝〉の強制収容施設。
外落ちと呼ばれる者たちは、灼熱の農地で、労働と監視に押し込まれる。
日が傾く頃、柵の向こうに商人たちが現れた。
香水のような匂い、飾り紐のついた服、乾いた目。
その姿を見た兵士の一人が、にやりと口元を歪める。
「おっと、お出ましか。だったら、こいつなんかどうだ?」
彼は彼女の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。
砂と汗にまみれた髪を払い、形の整った輪郭と無抵抗な瞳を見せつける。
「目は死んでるが、顔はいい。細いし、黙ってりゃ飾りにもなるだろ?」
商人は一瞥して、鼻を鳴らした。
「……覇気がねえ。まるで人形だ」
視線を浴びた。すぐに逸らされた。
風がまた吹いた。今度は冷たくも、熱くもない。ただ痛いだけの風だった。
──私は、ただ、“演じるべき役”がわからないだけ。
「……それなら、私が買いましょう」
低く澄んだ声が割り込んだ。
振り返る兵士たちの視線の先、柵の外に青い髪の男が立っていた。
磨かれた外套、細身の体、手にはずっしりと金の詰まった革袋。
「代金はここに。搬送の手間も不要です。書類も後ほど」
兵士は下品な笑みを浮かべながら皮袋に飛びつき、商人は怪訝な顔で男を睨んでいる。
男は彼らに一瞥もくれずに彼女に一歩近づき、屈んで手を取り目線を合わせる。
「――お迎えにあがりましたよ、アイリさん」
──アイリ。
その名前を聞いた瞬間、ずっと痛かった風が、ほんの少しだけ、優しくなった気がした。