焦げたハンバーグが神への返答になった件
盛大に風邪ひいましたすみません。
まだ治りません…。
夕暮れの光が障子を淡く染める。
ちゃぶ台に湯気が立ちのぼり、昭和風の古びた居間に、少しだけ“日常”の気配が戻ってきていた。
「お粗末さまでした。……見た目はアレですが、味には一応、自信ありますので」
岬がエプロン姿でカウンター越しに整然と味噌汁を差し出す。
手際がいいのは性格のせいか、兄への忠誠心ゆえか。
「おぉ……普通にうまそうだな……」
「普通にじゃなくて、ちゃんと、です。あと、紫微さん、ハンバーグって中まで火通したほうがいいですか?」
「無論じゃ。火の通らぬ肉は、神の怒りを買う」
「いや、お前が腹を壊すだけな」
俺がそう返すと、紫微はふんと鼻を鳴らしながら味噌汁をすすった。
岬はカウンターの奥で黙々とハンバーグの面倒を見ている。
ジュウ、と肉が焼ける音が居間に広がって、なんだか妙に落ち着いた気分になる。
さっきまで異世界の魔物と命懸けで逃げ回っていたのが嘘みたいだ。
でも──
あの光景が、頭から離れない。
「なあ……」と、俺はぽつりと口を開いた。
「──愛莉は、無事なんだよな?」
紫微の箸を持つ手が止まる。
「愛莉の魂は、まだ異世界にとどまっておる」
「異世界異世界って……それって、どういうことだ。生きてるってことか?」
「魂は無事じゃ。あちらの世界で、新たな肉体に受肉しておる」
「じゃあ、無事なんだな?本当に……」
「無事であるとは思う。愛莉は特別な素質を持っておる。が、故に狙われる可能性も高い」
「誰にだ…?」
「他の時空間検閲官、あるいは執行官たちじゃ。わらわたちがこの世界でスライム狩りをしておるように、あちらの世界でも転生者を“排除すべき異物”と見なす者らがいる」
思わず顔が強ばる。
「そ、それじゃ一刻も早く助けに…ってかお前の仲間だろ?どうにかできないのかよ?」
「……正当な界律維持行動ゆえ、止めるのは難しい。妨げれば、わらわが“越権”となる」
「じゃあ……なんで助けようとしてんだ、お前は」
その問いには、紫微も言葉を詰まらせた。
沈黙を破ったのは、岬の冷ややかな声だった。
「……別に、助けなくてもいいんじゃないですか?そっちで無事に暮らしてるなら、もう放っておいても」
口調は丁寧なのに、言葉の刃が鋭い。
紫微は、すかさず返す。
「その場合、妾がこのままずっとこの格好で居候することになるが?」
岬の手が止まった。
フライパンの上で、ハンバーグが小さく鳴いた。
「……脅迫ですか?」
「いや、既成事実じゃ。数刻前に、お主は妾に麦茶を献上したじゃろ」
「は?私は可哀想な野良猫女ににぃにの手前、一杯の麦茶を施してさしあげただけですが…」
「“献上”したのじゃ。麦茶を。つまり、妾はこの家の守護神格として正式に受け入れられたことになる」
「受け入れた覚えはないんですが……」
「献上とは受け入れの証じゃ。神に仕えし者の証じゃ。ゆえに妾はこの家の──」
「なら、今から追い出しても問題ないですね」
岬が紫微の茶碗、皿、お椀を神速でトレーにまとめた。
あくまで無表情。その手際に、容赦という文字は存在しない。
「ま、待て!それは妾ーー神に供された器物ぞ!妾の神饌をどこへ……!」
「洗って、仕舞います。つまり終了です」
岬が一歩も引かないと見ると紫微は作戦を切り替える。
「では実務の話をしよう。わらわは真面目である」
紫微の声色が少しだけ低くなった。
「さきほど境内に現れたすらいむ──界律の歪みから漏れ出た異世界情報。通常の魔とは異なり、あれはこの世界の余白に潜み、異質な気配に引き寄せられてくる」
確かに、あの時紫微は狩りに行くぞと言いながら、我が家の庭、つまり境内に出ただけで間も無くすらいむーー魔物が現れた。
「……省吾、おぬしは先刻、愛莉と共に界律を越える現象に巻き込まれかけた。そのときに、少しばかり“におい”がついたのじゃ。『転写残留』──界律を越えた際に付着する、異世界の情報の痕跡じゃな」
「その“におい”は、異界由来の魔にはよく目立つ。あのすらいむが狙っておったのは──わらわではない。おぬしの、にぃにじゃ」
岬の表情は見えない。ハンバーグが焦げる音だけが聞こえている。
「岬、お主にさきほどわらわが与えた異能…使いこなす自信がもう、あるのかのう?」
岬はしばしのフリーズの後、無言でトレーを戻す。
紫微が味噌汁の椀を奪還し、堂々とすすった。
「うむ、円満な合意じゃ」
「……滞在は仮のものと認識しています」
「心得た。ではハンバーグも妾の分を──」
岬は無言で、焦げたハンバーグを紫微の皿に叩きつけるように置いた。
「しっかり火、通ってますよ、紫微さん」
俺はやれやれと自分の味噌汁の椀に手をつける。
今日の味噌汁は、どこか少ししょっぱく感じられた…。