カメラが回ってない神が可愛すぎた件
きら、きら、きら──
夕暮れの境内に、ありえない現象が舞い降りた。
岬が放った光の結晶は、御神渡りのように地を這い、神聖かつ不気味な音を立ててオークへと殺到した。
無数の結晶がオークの皮膚を食み、その黒々とした巨躯を覆い尽くす。
「グオオオ……ッ!?」
うなり声と共に、オークの動きがピタリと止まった。
まるで、時間ごと封じられたかのように。
その様子を見て、紫微が小さく感嘆の声を漏らす。
「……おお、さっそく結晶化を顕現させたか。やはり素質は本物じゃな」
彼女の視線の先では、氷のような結晶がオークの体をじわじわと侵食し、その肉体を透明な彫像のように変えていっていた。断末魔のような呻きも、やがて泡と化して消える。
恐怖すら感じる光景だった。
「おい、あれ……どうなってんだよ……!」
俺の言葉に、紫微はふうとため息をつき、説明を始める。
「お主の妹が放ったあの力は、“結晶化”じゃ。己が愛によって、自分が愛する者、あるいは強烈な嫌悪を抱いた対象を、結晶へと変える力」
「……は?」
「フランスの哲学者、スタンダールの《恋愛論》において、恋する者は“結晶化”を起こすという概念がある。恋の感情は対象を理想化し、やがては幻想に塗り替える。その理屈を文字通り現実に適用したのじゃ」
「いやいや、待て。何言ってるかさっぱり──」
「さらにフランス繋がりでバタイユの《エロティシズム》も応用しておる。禁忌、つまり“禁止”を超えた衝動、たとえば近親相姦のような社会秩序を踏み越える愛情こそ、界律を侵犯する力に転ずる」
「ちょ、ちょっと待て!近親って……おま、それって岬が!?」
紫微はにやりと口元を緩め、俺の動揺を愉しむように続けた。
「お主の妹のブラコン精神は、そなたへの強すぎる執着を通じて、禁忌を侵すほどの強度にまで達しておる。理論としても申し分ない。」
「あいつの狂気もここまでこじつけてもらえれば馬子にも衣装だな」
「分からなくともよい。理屈の面はわらわが引き受ける。あとは、お主らの“思い込み”が答えさえすればいいのじゃ」
俺は、結晶の光に包まれた岬を見た。
彼女の瞳は、なおも俺を見つめている。
曇りのない、真っすぐすぎる眼差しで。
「だが…このやり方ではいつまでも持つまい」
紫微は深慮するようにその整った小さな顎を親指で撫でる。
「本来結晶化とは、自己の心理世界で起きる現象。それをこうも大胆に主客一致させる形で顕現させるとは…。本人は相当消耗しているはずじゃ。ちゅーとりあるの次はとれーにんぐ、じゃな」
「さっき電話してる時も思ったけど、お前絶対キャラ作ってるよな?いきなり神っぽくカタカナ苦手ですみたいな雰囲気出したりしてるけど、普通に喋れるんだろ?」
紫微はふっと目を細め、わずかに首をかしげた。
「……できるけど。それ、崩れたら惚れるよ?」
その瞬間、空気が変わった。
神秘も芝居も纏っていない――その笑顔は、鈴木愛理のオフショットそのものだった。
あの、教室の隅でふとこちらを見て微笑んだ、何気ないけど決定的な一瞬。俺は、思わず息を呑んだ。
「お、おまっ、それは反則…っ!」
ーパキパキッ
瞬間、オレの足元は先ほどのオークと同じく、白く透き通った結晶に蝕まれ、動けなくなっていた。
「あらあら、“元”彼女候補さま。他人の旦那においたが過ぎますよ?」
冷徹な笑みを浮かべる岬が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。その表情はどこか余裕に満ち、けれど瞳だけは異様に真っすぐで、ひどく、ひどく俺だけを見ていた。
「待てって、岬、落ち着け! お前、なんか変な力使って──」
「はい、落ち着いてますよ? とても冷静です。だからちゃんと自覚しました」
結晶の光を背に、彼女は小さく微笑む。そして両手を胸の前でそっと合わせ、いじらしげに言った。
「私たち、もう夫婦なのですから……」
「はぁああああああ!?」
飛躍が過ぎるだろ!さっきは「私はにぃにの彼女!!」とかいって覇気を発してませんでした!?
「いやいやいや、何が“なのですから”だよ! 婚姻届も提出してないし、そもそも俺たちは兄妹──」
「でも、法的にはまだ制限されてるだけで、時代は変わりますよ?」
岬はうっとりとした表情で言葉を続ける。
「今どきは夫婦別姓も議論され、同性婚も現実味を帯びてきている……なら、次のトレンドは、近親婚に違いありません。近親婚実現のためなら私はどんな左翼政党にも票を投じるつもりです」
「いやいや、お前、まだ投票権ないけどな?」
咄嗟に返しながらも、俺の頭の奥がじんじんと熱を帯びていく。
おかしい、明らかに異常な話なのに、岬の言葉が変に説得力を持って聞こえる。目の前の妹が、どうしようもなく“女の子”として見えてきて――
岬はゆっくりと結晶で動きを封じた俺の方へ歩み寄ってくる。まるで獲物を狩る獣のようだが…その仕草は慎ましやかで、けれど妙に艶がある。
結晶の光に照らされた頬、制服の襟元からのぞく白い肌。喉元を伝う汗の粒に、思わず目を奪われてしまう。
「……だから、私たちはもう……」
「界律、正常化」
紫微の宣言とともに、空間に漂っていた異様な“熱”が引いていく。結晶は砕け、空気は澄み、夏の夕暮れの日常が戻ってきた。
「……うっわ、なんだこれ、頭がスッキリした……」
思わず額を押さえた俺は、ようやく自分が正気を取り戻したことを自覚する。
岬も、俺の前でまばたきを繰り返しながら、きょとんとした表情を浮かべていた。
「……あれ? わたし……いま、何か……」
「お前、今俺のこと“旦那様”とか言ってたぞ」
「え、にぃにが旦那様!?」
ぱあっと頬を染める岬。
「それはそれで素晴らしいですが……私は、結婚までの過程もちゃんと楽しみたい派なので……」
「こええよ! 正気戻ったのに怖えよ!」
「ふむ……岬。お主、自らが産んだ歪みに呑まれておったぞ」
紫微が静かに言う。
「自分で改変した現実に、自己の認識が飲み込まれれば自我が崩壊する。下手すれば死ぬぞ?」
「し、死ぬ!?」
先ほどからこれだけの事が起きて、その間死のリスクを考える暇すら無かったことに今更気づく。
「まあ、今回はわらわが干渉したゆえ、大事には至らなんだが」
「……すみません、にぃに。今度から、現実改変はほどほどにします……」
「いや、普通にやめろ」
俺は深いため息をついた。
この夏、もう普通には戻れない気がする……。