愛を叫んでもスライムには届かない件
真夏の朝、三人は実家の神社をあとにした。
蝉の声を背に、石畳の細道を歩く。
古びた木造の家々が並び、軒先の風鈴がチリンと鳴った。
戦闘時のイメトレ中だろうか、岬は口角を緩ませながら、「私はにぃにの……私はにぃにの……」と何やらぶつぶつ唱えている。
紫微は眠たそうな表情で無言のまま、団扇をだらんと片手に持っている。
俺は汗をぬぐいながら、ぼんやりと考えていた。
──夏休みって、こういうもんだったか?
数分ほどで雑木林に着くと、紫微が草むらを指さす。
「……ほれ、そこにおるぞ」
言われた先を覗くと──
ぷるん、と震える球体。
青緑色の半透明のなにかが、草陰でのんきにぷるぷるしていた。
「……マジで、スライム……」
俺がぼそりとつぶやくと、風鈴の音がチリン、と間の抜けた合いの手を入れた。
「よーし……見ててくださいね、にぃに!」
岬が前に出ると、深呼吸をひとつ。胸元に手を当て、顔を火がついたように赤く染めて叫ぶ。
「私はっ──にぃにの、たったひとりの彼女ですっ!!」
その言葉とともに、手のひらにきらりと光が集まり、杖が出現する。
昨日、オークを結晶化させたときと同じあの杖だ。
「いきますっ!」
地を蹴って、岬がスライムに向かって杖を振る。
だが──
何も起こらない。
「……えっ?」
一瞬、時が止まる。
慌ててもう一度振る。
「キラキラ結晶・ラブ・ぶっころ・モード!!」
……何も出ない。
杖の先から、派手な光も結晶も、なにひとつ出てこない。
「うそ……にぃにの前なのに……!」
岬が呆然と立ち尽くす。
「ふむ、やはりそうか」
隣で紫微が静かに口を開く。
「力というのは、ただ心が強ければ出せるというものではないのじゃ。
根本的に、この世界の“界律”──つまり物理法則のようなものを歪ませるには、
それに見合う“異常”が必要になる」
「異常……?」
岬が振り返る。紫微はうなずいた。
「昨日のおぬしが対峙した“オーク”は、あきらかにこの世界に存在し得ぬ、強い“異物性”を持っていた。
強すぎる情報。バグ。そうした存在は、周囲の界律に歪みを生じさせ、“法則”の構造を一瞬崩壊させる」
「……そこに私の“認識”が入り込んだ?」
「そうじゃ。『私は、にぃにを守る彼女だ』という強い自己定義と、わらわが与えた"理屈"がそれを支える形で歪みに乗じた力となった。
界律を歪める力というのは、突き詰めれば“認識の投影”にすぎん。自分が、自己を通して世界をどう定義するか──それが法則を書き換える鍵になる」
「じゃあ……今日は?私のにぃにに対する愛は普遍で不変なのですが…」
「このすらいむは、異物としては弱すぎる。
異世界の存在であることに変わりはないが、あまりに情報が薄く、この世界の法則にすでにある程度“順応してしまっている”のじゃ。界律が揺れないなら、どれほど強く願っても、認識は現実に干渉できぬ」
岬は黙って話を聞き、やがて小さく息をのんだ。
「じゃあ、今日、私はどうすれば…」




