花が咲いた日のこと
いつもの村の朝。
遠い山々に囲まれた、小さな村のことでした。
この村には特別なものはありませんでしたが、それゆえに、人びとは静かな暮らしを送っていました。
朝が来ると、どの家からも煙突から細い煙が立ち上り、
牛飼いはのんびりと草を食む牛を連れ、畑仕事をする者はくわを肩に畑へ出ていきました。
村の道には子どもたちの声が響き、鳥は木の枝で歌をうたい、花は季節になると当たり前のように咲きました。
だれもが、それを特別だとは思いませんでした。
あたりまえの日常は、あたりまえであるがゆえに、まるで空気のように存在感を持ちませんでした。
ひとりの少女。
この村に、ひとりの少女が住んでいました。
名をナミといいました。
ナミはごくふつうの子でした。特別な才能もなく、目立った特徴もありませんでしたが、毎朝、同じ時間に目を覚まし、同じ時間に朝食をとり、家の手伝いをしては学校へ行くのでした。
けれど、ナミにはひとつだけ、特別な楽しみがありました。それは、庭の隅に咲く小さな白い花を眺めることでした。
その花は毎年、春になると決まったように咲き、夏になるとそっと散り、やがて忘れられてしまうような小さな花でした。
ナミは毎日その花を見つめながら、ふと思うことがありました。
花はいつか散るのに、どうして咲くのだろう。
何気ない毎日は、いつまでつづくのだろう。
それでも、彼女はそれ以上深く考えることもなく、毎日を静かに過ごしていました。
村に訪れた異変。
ある年の春、村に思いがけないことが起こりました。
いつもなら決まったように咲く花々が、いっこうに花を開かなかったのです。
空は晴れているのに、草木には芽吹く勢いがなく、鳥たちは、なぜかいつものように歌いませんでした。
人びとは首をかしげました。
「今年はなにかおかしいなあ」
「どこかで変わったことがあったかねえ?」
けれど、理由は誰にもわかりませんでした。
ナミも、庭の小さな白い花が咲かないのを見て、胸が痛むのを感じました。
毎年、当たり前に咲いていた花が、今年は蕾さえもつけていませんでした。
花を待つ日々。
村人たちは、心配になって何度も空を見上げました。
子どもたちも、なぜか元気がなくなり、いつもはにぎやかな村の道も、どこか寂しいものになりました。
ナミは庭に出て、咲かない花の前に座り込みました。
「ねえ、どうして咲かないの?」
問いかけても、花はなにも答えません。
毎日が過ぎ、村人たちはやがて気づきました。
当たり前にあると思っていたことが、当たり前ではなかったのだということに。
ふつうの朝が来て、ふつうに花が咲き、ふつうに鳥が歌い、子どもたちが遊ぶ、そんなありふれた日々こそが、どれほど尊いことだったのかを、村人たちは静かに知りました。
花が咲いた日。
ある朝、ナミが目を覚ますと、庭が少し明るいように思えました。
庭に出てみると、あの小さな白い花が、ひとつだけ、静かに咲いていたのです。
それは、かつて当たり前のように見ていた姿でした。
けれどいま、ナミの目には、その小さな花がまぶしくてしかたありませんでした。
村のあちこちでも、少しずつ花が咲きはじめました。
鳥たちは、ふたたび枝の上で歌いはじめました。
子どもたちの声が、いつもより大きく響きました。
村の人びとは、それらを目にするたびに微笑みました。
そして、何度も口にしたのです。
「ありがたいことだねえ。ふつうの日が戻ってきたよ。」
ほんとうの豊かさ。
ナミは、その小さな花に向かって言いました。
「毎年、当たり前のように咲いていたけれど、あなたが咲いてくれることは、本当はすごいことだったんだね」
花は答えませんでした。
けれど、風に揺れるその姿は、うなずいているようにも見えました。
そしてナミは、心にひとつのことを誓いました。
これから先、どんなに何気ない日々が続いても、
それを当たり前だと思わず、ちゃんと目を向けて生きよう、と。
花が咲くことも、朝がくることも、鳥が歌うことも、それらはすべて、かけがえのないものだと心に刻もうと。
その日以来、村人たちは毎年春がくるたび、あの花が咲いた日のことを思い出しました。
そして、あたりまえの日常に、ひとつひとつ感謝をしながら暮らしたのでした。