1.たそがれ時<トワイライト>
姉の一周忌を終えた数日後のことだった。
わたしが忘れ物を取りに教室戻ると、残っていたクラスメートの子たちの話し声が聞こえた。
「雨宮さんのお姉さんが?」
え。なに、わたし? ではなくてお姉ちゃんのこと? わたしは思わず教室の入り口で立ち止まった。
「そうなの、昨日も見たって」
「ホントに?」
「うん、うちのお姉ちゃんが同じ学校でさ。噂になってるんだって」
「聖オーレリィ女学園だっけ?」
「そうそう。学校前の交差点にさ、立っていたんだって」
「見間違いじゃないの」
「違うよ。何人も見てるもの。間違いなく雨宮さんのお姉さんだったって」
「つまりそれって」
「そう。幽霊。雨宮さんのお姉さんの・・・」
話している子がわたしに気づいて黙ってしまう。しまった、という風に目を見開いていた。
一緒に話していた子の中に仲良しの柚っちがいた。柚っちは慌てて、
「違うの、利奈、違うの」
わたしはゆっくりと教室に入っていった。
「いいの。聞かせて」
「利奈、違うの、違うの」
「いいから。聞かせてよ」
わたしはどんな顔をしていたろうか。クラスの子たちはしどろもどろになって、その噂話を教えてくれた。
今年の夏ごろから、夕方になると姉の姿が聖オーレリィ女学園の近くで目撃されるようになったのだという。夕陽に赤く染まった交差点や、学校裏の道、通学路なんかで。ひっそりと立っていて、気づいた生徒が近づこうとするといつの間にかいなくなってしまうのだという。
「そんなこと、あるわけない」
わたしはつぶやくようにそう言った。クラスの子たちは、
「そうだよね、そんなことあるわけないよね」
「そうそう。だから気にしないで雨宮さん」
「ごめんね、変な話をして」
「ただの噂だから」
そう口々に言う。柚っちが強い口調で言った。
「もうやめようよ、こんな話」
そしてわたしの手を握って、
「帰ろう利奈」
わたしと柚っちは教室を出た。
帰り道、並んで歩きながら柚っちはお気に入りのアーティストの話とか、昨日見たテレビの話をしてきた。
でも無理に明るい話題を振ってくれる柚っちには悪かったけれど、そんな話なんてしたくなかった。わたしのおざなりな返事にいつしか柚っちも話すのをやめていた。
しばらく黙って歩く。ややしてわたしは、
「さっきの話だけど」
「やめようよ利奈」
わたしの言葉を遮る。そして憤慨してみせた。
「ひどいよね、あんな話。あるわけないのに。みんなおもしろがってさ」
わたしはちょっと笑って務めて明るく言った。
「うん。あるわけないよ」
「そ、そうだよね」
わたしの愉快そうな口調に戸惑っている様子だったけれど、それでも相槌を打ってくれる。
わたしは笑いを含んでこう言った。
「ほんとにお姉ちゃんの幽霊がいるなら、真っ先にわたしのところに出るはずだもの」
「え」
絶句する柚っちにわたしはこう続けた。
「幽霊って、思いを残した人とか場所とかに出るんでしょ。もしお姉ちゃんの幽霊がほんとにいるなら、わたしのところに出ないなんておかしいもの」
柚っちは目を瞬かせて顔を背けた。
「うん・・・そう・・・だよね」
そしてそれきり黙ってしまう。
変なの。
わたしはおかしくなって柚っちから見えないのを幸いについ口の端を歪ませてしまった。
柚っちが泣くことなんてないのに。
わたしは柚っちと別れると、家には向かわずに近くの駅へと向かった。
さっきの話のことなんか信じていない。けれど、もしも、もしも本当に姉の幽霊が出るのなら。夕暮れ時に聖オーレリィ女学園に行けば会えるかもしれない。そう思ったのだ。
聖オーレリィ女学園へは入学前の姉に連れられて行ったことがあった。
「ほら、お姉ちゃんは四月からこの学校に通うの」
嬉しそうにそう言っていたことを思い出す。
去年の文化祭の時は、姉のピアノ演奏を聴くために母と一緒に行った。講堂の舞台の上で美しい曲を弾く姉が誇らしくて、「わたしのお姉ちゃんなの! いま弾いてるのはわたしのお姉ちゃんなの!」と叫びたくて堪らなかった。
わたしはオンチで音楽のことなんて何もわからない。
芸術家肌で繊細な性格の姉と、ガサツで何事も大雑把なわたしとは全く似ていなかった。小学生の頃からピアノを習っていた姉は勉強もできる優等生で、陸上部のわたしはいつも赤点すれすれの劣等生だった。
そりゃあ姉妹だから顔は多少似ていたけれど、色白でいかにも美少女という風情で前髪ぱっつんのセミロングの姉と、同じ前髪ぱっつんでも部活で日焼けしていて、おかっぱ頭だったわたしとでは天と地ほども違う。
口の悪い友達(柚っちではない)からは、姉がひな人形なら妹はこけしちゃん、とか、姉の劣化コピーとか言われてからかわれていたくらいだ。
最寄りの駅から聖オーレリィへと歩いてゆく。商店街を抜けて公園の横を通って正門前の交差点に。
夕焼け空の下、紅に沈む街並み。下校時間はとうに過ぎているらしく聖オーレリィのセーラー服を着た生徒の姿は見えなかった。
ここにいれば会えるのだろうか。姉の幽霊に。
わたしは道路の端に立ち止まり、あたりを見回した。
やっぱりいる訳がない。そう思った時だった。
逆光のなか、セーラー服のシルエットが見えた。
部活で遅くなった生徒だろうとは思った。けれど、その人影はまっすぐにわたしに向かって歩いてくる。単に歩いているんじゃない。明らかにわたしを目指して。
お姉ちゃん、と一瞬声が出かけた。でも違う。夕陽に透けて見える髪は肩までで、ゆるいウェーブがかかっていた。髪形がぜんぜん違う。
「利奈さん、だよね」
私の前まで来たそのひとはそう言った。
わたしは戸惑い、けれどうなづいた。
「ああやっぱり。そうだと思った」
やさしい声が私の耳をくすぐる。なんだかほっとするような声だった。
「わたしの事、憶えてない?」
首をかしげていると、
「何度かおうちに遊びにいったこともあるんだけどな」
夕陽が陰り、薄暮の中かろうじて顔が見えた。
卵型のきれいな顔立ちのお姉さん。どことなく見覚えがあった。
「浅倉彩華だよ。美来の・・・お姉さんの友達の」
「あ・・・」
そういえば姉が何度か友達を連れてきたことがあった。その中にいたような気がする。
「あの・・・はい」
彩華さんは私の顔をじっと見ている。
「どうしたの、こんな時間にこんな所で」
「はい。あのう」
姉の幽霊が出ると聞いて、とは言いづらい。けれど、彩華さんは声をひそめて、囁くようにこう言った。
「もしかして知っているの」
「なにをですか」
「幽霊の噂」
わたしは思わず身じろぎした。そのわたしの反応に彩華さんはそれと察したらしい。
「そう。知っているんだ」
「・・・はい」
わたしは今日その噂を聞いたこと、気になってつい来てしまったことを話した。
彩華さんはため息をつき、そして言った。
「わたしもなの」
「はい?」
「わたしも噂を確かめたくてこんな時間まで学校に残っていたの」
そしてこう続けた。
「もしよかったら少しお話しない? 時間ある?」
わたしはうなづいた。
「そう。ならそこの喫茶店に行かない?」
「え、喫茶店ですか。でも」
「ああそうか。中学生だったよね。制服ではダメだよね。校則違反?」
もちろんそれだけじゃない。よく知らない人と同席することには抵抗があった。
「わかった。ならそこの公園のベンチは? それならいいでしょ」
わたしはちょっと考え、そして答えた。
「はい」
彩華さんは途中で缶ジュースを買ってくれて、一緒に公園にいった。遊んでいる子どももいない静かな公園。ベンチに並んで腰を下ろした。
わたしはクラスメートに聞いた噂話のことを説明した。真剣に聞いていた彩華さんは、わたしが話し終えると、
「わたしもね、何日か前に知ったの。だから確かめたくて」
「信じているのですか」
姉の幽霊が出ることを。
「いいえ」
意外なくらいあっさりとしたこたえが返ってくる。
「どうしてですか」
そう聞くと、彩華さんは胸を張って答えた。
「もし本当に美来・・・美来さんの幽霊がいるなら、わたしのところに出るはずだもの」
「あ・・・」
親友の自分のところに出るはず、という強烈な自信。わたしは目の前のこのひとと姉との関係がおぼろげに理解できた。
「ただの見間違いだと思うんだ」
と彩華さんは続けた。
「たぶん、生徒の中にたまたま美来さんと背格好が似ている人がいるんだよ」
「そう、なんですか」
本当にそんな簡単な理由なのかな。
「たぶんね。だって目撃された時間はいつも今くらいだったんでしょ」
「今くらい・・・」
「そう夕方。今くらいの時間のことを“たそがれ時”って言うでしょ? “誰そ彼”、つまり薄暗くて顔が良く見えなくて誰だかわからなくなる頃、って意味でしょ」
たそがれってそういう意味だったのか。わたしは彩華さんの言葉になかば納得していた。
「でも、それなら誰が間違えられたのか分かるんじゃあ」
そう言うと彩華さんは、
「うーん、たぶん目撃された“美来”は一人じゃないんだと思う。特に噂が広まってからは。一人で歩いていただけの子を美来だと思いこんでしまったのじゃないかな」
「でも夕方のことを『逢魔が時』ともいいますよね」
わたしはなんとなく反論してみた。
「幽霊とか妖怪とかの魔物と出会ってしまう時間だって」
それを聞くと彩華さんは笑いをふくんだ声で、
「美来さんは魔物じゃないよー。どっちかというと聖女さまだし」
「聖女さま?」
「そう。美来さんは美人だし成績も良かったし、明るくて面倒見がいいから人気があったんだよ」
ズキン、と何故だか胸が痛くなる。高校での姉がどんな様子だったのか、自分がまったく知らないことに気づかされる。
「今でも美来さんのことを慕っているひとは大勢いるよ。親しくなかった子たちでさえ」
やや眉をひそめて、
「そう、崇拝してる、てカンジかな。好きすぎて話しかけることもできなかった子たちにとっては、亡くなってもう会えない今も同じなのかも。偶像としての美来さんを見ているの」
「偶像?」
「あ、難しかったかな。つまりね、ええと、うちの学校はフランスの聖女、聖オーレリィにちなんでいるのだけど、その聖女のイメージと美来さんを重ねて見ているみたいなの。わかる?」
「なんとなく」
聖オーレリィのことは姉から聞いて知っていた。改宗を拒否するために自ら命を絶った信心深い女性だったそうだ。でもそう聞いてわたしは、自殺した女の人の名を女子校につけるなんていいのかな、と思っていた。
「あと、以前にも在学中に亡くなった生徒が何人かいて、その人たちのことが今も語り継がれているの。うちの学校の隠れた伝統というか伝説として」
なんでもこの学校では生徒が亡くなっても、進級の際にその机をそのまま新学年の教室に並べるのだという。現に姉の机も二年生の教室にあるという。死者を忘れない様にするため、と教師たちは説明したそうだ。
「聖女さまの遺徳を偲ぶために校舎にはいくつも聖オーレリィの像とか絵とかが飾ってあるの。わたしたち生徒にとって死せる聖女さまのお姿はとても身近で・・・だから聖オーレリィのお姿に美来さんを見ているのかも。それに」
また眉をかすかに歪ませる。
「美来さんはとっても面倒見がよかったの。困っている人に進んで手を差し伸べたり、話を聞いてくれたり。まるでみんなのお姉ちゃんみたいに。だから亡くなる前から美来のことを聖女さまって呼ぶひともいた」
ズキン、と再び胸がうずくのを感じた。なんだろうこの気持ちは。少しだけ不快な、嫌な感じ。
「“お姉ちゃん”だもの」
思わず私の唇からそんな言葉が飛び出ていた。
「いつも優しい、わたしのお姉ちゃんだもの・・・」
ああそうか。わたしは嫉妬したんだ。姉を慕ってくれる人がいるのはうれしいけれど、姉はわたしだけの“お姉ちゃん”であって欲しかったんだ。きっと。
彩華さんは気まずそうに、
「ごめんなさい、利奈さんには面白い話ではないよね」
かるく頭を下げる。わたしは大げさに首を振って見せた。
「いえ。学校での姉の事を聞けてうれしいです」
それもまた本当のことだ。学校の事は姉も話してくれたけれど、姉がどんなふうに見られていたのかは知りようがなかったのだから。
「わたしね、変なことを考えていたの」
やや唐突に彩華さんはこう言い出した。
「幽霊の話が出たのは、誰かが美来さんにいて欲しい、って思ったからじゃないかって」
「それは」
わたしは考え考え聞いた。
「誰かが姉の幽霊に成りすましているということですか」
「そこまで具体的じゃなくても、誰かが故意に噂話を流しているのかも、とか」
それは嫌だな、と思う。なんというかそれは冒涜的だ、と感じる。
「だったら許せないな」
わたしは無意識にそんな言葉を吐いていた。
「そう・・・そうだよね」
彩華さんもつぶやく。そして、
「ねえ、だったら調べてみない。わたしとあなたとで」
「なにをですか」
「幽霊の正体」
調べる? 彩華さんと二人で?
「目撃した人に話を聞いてみるの。証言を集めれば何かわかるかも」
「探偵みたいにですか」
「そう。どう?」
いたずらっぽい目で笑う彩華さん。
「でも、どうやって」
「うちの学校は土曜日も半日授業があるの。午後は全員参加のクラブ活動の時間だから、その時にちょっとくらいならお話を聞けると思う。利奈さんは土曜日はお休みでしょう?」
「はい」
たしかに公立中学だから土曜日は授業がない。陸上部の部活は今もお休みしていた。
「だから、学校見学ということにして・・・いいえ、本当に学校見学に来るといいよ。私が案内してあげる」
彩華さんの話では正式な学校見学とは別に、生徒の親族や知り合いを私的に学校に招く制度があるのだそうだ。そういえば姉もそんなことを言っていたような気がする。聖オーを受験するならお姉ちゃんが案内してあげる、て。
姉の幽霊には興味がある。姉の通った学校をもっと知りたいという気持ちもある。それに彩華さんともっと姉の話をしたかった。
「行きます」
考えた末にわたしはそう答える。
学校見学には保護者の許可とか学校側への届け出とか、いろいろ準備が必要とのことで、彩華さんと連絡先の交換をした。うまくいけば今週末に行けるかもしれないという。
「待ってるからね」
どこかうれし気にそう言う彩華さん。
その言葉と声音には聞き覚えがあった。
ああそうだ。
姉から言われたんだ。同じ言葉を。
2.白昼<ハイヌーン> に続く