情欲の晩夏
情欲の晩夏
その日も妻のユリアはいつものように、午後2時を回った頃病院にやってきた。
翔が手術のため数週間の入院を強いられたので、着替えやらすぐに対応しなければならない書類やらを持ってきたのだ。
ただこの日は珍しく一人ではなかった。
ユリアは自分の斜め後ろに立った同年代の女性をさして、「Cさんの奥さんよ。ほら、隣のB棟の4階に住んでいる方。倫子さん。団地では有名な人よ、知らなかった」と訊きながらわたしに紹介した。
名前は初耳だが、顔にはなんとなく見覚えがあった。
それにしてもほとんど見ず知らずの人が、近いとはいえないこの病院までやってきて知人でもない患者を見舞うとは、なんと物好きな人だろうと翔は思った。
見舞客はユリアの肩越しから顔を出し、頭にまだ包帯を巻いている翔の方を見て痛々しいといった目つきで軽く頭を下げた。
彼女はとくべつ美人というわけではないが、どこか肉感的な雰囲気があり、男好きのするタイプに入るかもしれない。
女性というとスタイルに目がいってしまう翔にとっても、彼女は中肉中背の普通の四〇代ながら、意識して体型を維持しているのだろう、スマートの方ではあった。
しかし服装は特別センスがいいわけでもお洒落というわけでもない。
近所の主婦たちと一緒だったらその中に埋没していると思われるほど、自己をディスプレイすることに気を使っていなかった。
有名な人と紹介されて慌てた様子の倫子に、「遠いいところを見舞いに来てくださり、ありがとうございます。いろいろ妻がお世話になっています」と翔が型どおりの挨拶をすると、それが会話の呼び水になって倫子は、「奥様とはよく立ち話をするんです。明るい方でお話がとても面白いので団地暮らしが少し楽しくなりました。今日はお出かけの様子でしたので、どこへとお聞きしたら、ご主人がO市の病院に入院しているので着替えなど持って行くと。それで、時間を持て余しているから一緒にお見舞いさせてください、とお願いしてついてきました。突然でご迷惑になるかもしれませんのに、すみません」と早口で、そのためかところどころで言葉につまずきながら喋った。
なんということのない、ただ知り合ったいきさつ、病院に同行したきっかけを話しているだけなのに、しばしば言い淀み、浅く息継ぎするといった具合だった。
翔は、こちらが病人然とベッドに横になっているからなのかなと思いながら、もうほとんど完治しているのですがねと言いたかったがやめておいた。
それにしても倫子の話し方が気になった。
病人との初対面という奇妙な出会いがドギマギさせているのか、あるいは癖なのだろうか、それとも吃りなのだろうかと考えるともなく考えた。
翔の妻のユリアは倫子の申し出を、長距離の車の運転の助手代わりになるという親切と受け取ったようだ。
ひとりで走るよりも、気心の知れた人が助手席にいればずっと心強いので、ユリアは一も二もなく倫子の申し出に感謝して病院についてきてもらったのだった。
初対面の人間がかわす最初の通り一遍の挨拶と、手術後の具合や痛みの有無、退院の時期などの話題がひと段落すると、女性二人は患者そっちのけで普段から付き合いのある奥様同士らしい会話に花を咲かせている。
翔はその横でベッドに半身を起こした状態で、二人の話を聞きながらときどき訪問客の様子に目をやった。
手術で開かれた左側頭部はもう痛みも消え、翔はほとんど普段と同じように本を読んだり音楽を聞いたり考え事をしたりできるようになっていた。
倫子はユリアと話をしているときはまったく言い淀んだり、妙な息継ぎにならなかった。
ところが、何かの用事でユリアが「ちょっとのあいだ倫子さんのお相手をしててね」という言葉を残して病室を離れ、翔とふたりだけで話し始めるとまた奇妙な声が戻ってきた。
「やはり原因は精神的なものだな」と推測し、緊張が解けるように心がけようと思いながら、「ここのO市のお城に行かれたことがありますか」と当たり障りのないことを訊いてみた。
それでも倫子は先を急いで返答しようとするのか、息使いがところどころで途切れるような喋り方になる。
だが話しは饒舌だった。
T市にはもう十年以上住んでいるのにO市やH市の城も近隣の寺社も、岬や湖や山も見に行ったことがない。この近くは見どころも多いのに、たまにはそうした所に行ってみたいと言っても夫が腰を上げてくれない。病弱なのでそれも仕方ないのかも知れないが、彼女は車を運転しないからひとりで出かけることもできない。だから友達からどこかに誘われると、たいていは喜んでついて行く。ユリアが夫の見舞いに同行させてくれただけでも、とても気晴らしになる云々。
「それなら退院したらわたしがどこかへ連れて行ってあげましょうか」と冗談半分に翔は軽口を叩いた。
もちろん承諾を期待していたわけでなく、笑いを誘って気を楽にしてもらおうというサービス精神からだった。
ところが彼の予想に反して緊張していた顔が一瞬にほころび、「まあ、うれしい」という返事が返ってきた。
そしてかすかに「フーッ」と息を吸ったのか吐いたのかわからない音をたてて、「あのぉ、本当にうれしいです。連れて行ってくださるのでしたら」と小声で続けたのだった。
翔は冗談のわかる女性にはときどき思わせぶりな声をかけることがある。
艶話めいた言葉遊びをするのが面白いのだ。
翔の仕掛けに女性が軽妙な返事を返してくるといった、粋な下町の男と女の遊びを期待してのことだ。
ところが倫子の返事はそのような遊び心を感じさせず真剣で直接的だったので、翔は一瞬肩透かしにあったような、出鼻をくじかれたような感じがした。
と同時に、それが本気で語られた言葉であると直感したからだが、同時に「この人は・・・」と思った。
しばらくしてユリアが病室に戻ってくるとこの怪しげな会話は途切れ、ふたりは「もう行かないと。また来ます」という言葉を残して車で一時間の帰路を帰っていった。
ひとりになると翔はめずらしい見舞客を思い出しながら、彼女にどことなく軽薄なところがあるように感じていた。
極端な推測かもしれないと思いながら、ひょっとしたら男漁りでもしているのかもしれないとさえ思った。
妻が言っていた「団地の有名人」という言葉がひっかかった。
毎年二回行われる団地の祭でいつも目立っている女性のことが思い出されたのである。
どことなく倫子の顔に見覚えがあったのは、彼女が祭の有名人その人だからなのではないか。
祭の場面で翔がうっすらと思い出せるのはもっと派手な印象の女性である。
倫子がその人だとすぐにはわからなかったが、思い出せる「有名人」はやはり彼女に違いなかった。
七棟でつくる団地の祭は住民の社交場だ。
顔は見知っていても普段は言葉をかわすこともない住人と近づきになるいい機会であった。
そもそも団地の住人のコミュニケーションを円滑にする目的で始まった催事なのである。
そしてまた、男も女もそれぞれどんな奥さんなのか、どんな旦那なのか見定めることができるし、自分をアピールすることもできる。
それまで隠していた好奇心や自己顕示の気持ちを満足させられるというわけである。
だからだろう、大勢の中にまじって積極的に祭の準備に体を動かすその女性ははしゃいでいるようにみえた。
声はやや甲高くよく通ったし、身振りも大きかった。
午前中は準備に走り回り、午後にはあっちこっちで多くの人たちと何やかや賑やかなおしゃべりに加わる。
顔には笑みが絶えず、紅潮しているように見えたし、半袖のTシャツは体にフィットしていたからボディラインがよくわかった。
胸は大きくなく軽く盛り上がっている程度で、白い腕は肉付きがいいのか若々しく張りがあるように見えた。
外見にも気を配っているのだろう、化粧は少し濃いめであきらかに普段の主婦然としたディスプレイとは違っていた。
だからいやがうえにも人目をひく。
世間にはこうした機会にきまって先頭に立って世話を焼く人がいるものだが、倫子はその部類の女性であり、そのためある意味で団地全体の中の有名人であったし、男たちの人気者だった。
翔は団地の祭で動き回る女のことを思い出しながら、病院に来た倫子と比べていた。
祭の女は奇妙なくらいはしゃいでいたので、どことなくおどおどしているように見えた倫子とはだいぶ印象に違いがあった。
しかし女にはこういう事が起こり得るのだという経験を、翔はすでに小学生の時にしていた。
好きだったクラスの女の子がある朝長い髪を切って教室に入ってきたとき、翔は彼女が誰だかわからなかったことがあった。
短い髪の少女の顔に元の少女が見つかるまで、翔はじっと見つめていた。
それに気づいた少女は顔を紅潮させ、なにかひとこと言いながら恥ずかしそうに翔の肩を軽く突いてそっぽを向いた。
倫子が団地の祭の人気者だったのだとわかって、翔はもうひとつ思い出したことがあった。
団地の祭での倫子の立ち居振る舞いを見ていて、これは一種の売り込み活動だろう、本人にその意図はないとしても無意識のうちに男たちの視線を引きつけようと媚を売っているのだろうとそのとき思ったことだ。
実際、翔自身その女が気になって、どこかコケティッシュなその姿を目で追っていたが、それは倫子の眼差しがちらちらと翔に向けられているような気がしたからだった。
そのコケティッシュな一面を今度は病室で倫子との会話に垣間見たように思った。
この女は男を求めているのかもしれない、今日見舞いに来たのは漠然としたアピールなどではなくもう少し的を絞ろうということなのだろうか、それとももう照準を定めたのだろうか、それもこの俺に、と翔はどぎまぎしながら想像をめぐらした。
日常の生活の中では外で見かけた時挨拶をするくらいがせいぜいで、二人のどちらからにしろ、個人的に言葉をかけたり交わしたりするような場面などほとんどない。
だが男の入院というかたちで、それまでは離れた場所でくすぶっていたふたつの情欲は出会ってしまったようだ。
退院し団地の自宅に戻ると、翔は出勤するにも帰宅時にも、休日に外でなにかしなければならないときも、倫子の住むB棟の前や裏を通るようにした。
倫子も同じように翔に出会えるのではないかと、彼が自宅にいそうに思える時はなんの用事もないのに外に出たりした。
その機会は思いのほか早くやってきた。
ある日書店からの帰り道で、翔は普段とはちがい落ち着いた色合いの和服姿を着て日傘をさした倫子が、反対方向から歩いてくるのに出会った。
入院見舞いのお礼など、通常の挨拶の交換が一段落して、翔は「今日は和服なんですね」と言った。
城址公園にある茶室でお茶会なのだという返事を聞きながら、翔は倫子の別の面が現れたように感じ、女の変身に感心していた。
倫子は和服を着慣れているようで、身のこなしもギクシャクせず、色香が漂っていた。
翔がそれに酔って見とれていたせいか、会話をすぐに繋がなかったので倫子が口を開いた。
挨拶のやり取りの継続なのか話題の転換なのかわからない話しぶりで、「あのぉ、夏休みの終わりにどこかへドライブとかなさらないのですか」と、目をパチパチさせながら尋ねた。
翔は心の中で「ああ、やっぱり」と思いながら、情欲が騒ぎ出したのをはっきりと感じていた。
そして「近いうちに行こうと思っていました。よかったらご一緒しませんか」と正面切って誘惑の第一歩を踏み出した。
「ええ喜んで。どこか案内してくださるなんて、うれしいわ」と直截で明快な返事が返ってきた。
少しの言い淀みはいつもと同じだが、躊躇の気持ちから出ているわけではなかった。
「どう連絡をとったらいいでしょう」と翔が言うと、倫子は黙ってバッグのなかにあったカードケースから一枚の名刺を取り出し、「ここに。社交ダンスを習いたければいらしてください」と言って微笑んだ。
そこには携帯電話の番号のほか、あるダンス教室の住所と、倫子がその教室の共同主催者であることが記されていた。
倫子はユリア一家が同じ団地に越してきてまだ数年なのに、近隣の名所旧跡をよく知っているらしいことに驚いたことがある。
羨ましいと思ったが、その羨ましさの一面はユリアの夫に対するものであった。
ときどき団地で見かけるユリアの夫君は背が高く肩幅も広く、彼女の夫と違い頑丈で健康そうな体つきをしている。
だから家に閉じこもることもなく、休みには家族を外に連れ出したりしているのではないだろうか。
倫子はそんな想像をしたが、実際にはユリアと夫の夫婦仲はすでに危機的な状態にまで悪化していて、彼女の想像どおりだったのは体つきだけであった。
倫子には数年前までダンス教室で知り合った秘密の恋人がいた。
結婚後はじめてのことだった。
転勤してしまったのでもう密会することはない。
恋しいという気持ちも湧いてこなかった。
ただ、背は高くないが胸板が厚くガッシリしていて、太い脚はドシンと地面を踏みしめるようだったのが彼女の好みなのでよく思い出せた。
はじめて夫以外の男に抱かれたとき、危険な恋に慄きながら大きな体の中でなんとなく安心感のような、安定感のようなものを感じた。
考えてみれば倫子は学生時代からラグビー部や柔道部、ボート部の男たちに憧れ、彼らが開くコンパなどに女友だちとよく参加した。
そうした経験をとおして、倫子は男がどのようなことで男としての自負心をくすぐられるのかを自然と学んだ。
そして学んだことを男を振り向かせるための道具として使うにはどうしたらいいのかも覚えた。
同じ大学のラガーマンのひとりが最初の恋人になるまでにはたいして時間がかからなかった。
彼とは結婚も考えたが、倫子の夫には同等以上の学歴の持ち主をという理由で家族の大反対にあい、けっきょく別れてしまった。
周囲の反対を押しきってでもと思うほどにはふたりの愛に確信を持てなかったからだが、親たちの言う学歴や家柄などのバランスが、いろいろ言われているうちに気になってきたという面もあった。
そんなことがあってしばらくしてから、兄に同じ国立大学の後輩だという青年を紹介された。
弱々しい体つきが彼女の好みではなかったけれども顔立ちは繊細で、他の男たちにはない若干女性的とも言えそうな優しさと気遣いと一途な気持ちに倫子はほだされてしまった。
そしてふたりは倫子の卒業を待って結婚した。
とはいえ結婚によって男に対する倫子の嗜好が消えたわけでも変わったわけでもない。
たしかに若い二人は、若者の特権で、お互い無我夢中に愛欲の捌け口を求めたし、その満足に裏打ちされた多幸感に満たされていた時もあった。
そんな時には、写真に凝っていた夫の誘いでヌード写真のモデルになったり、夫の興奮に伝染して男を誘惑する売笑婦の演技をしたりして、お互いにスリルを感じあったりもした。
性の快楽をふたりして求めている間は、倫子は夫の体に対する不満を忘れることができた。
しかし子が生まれ、子育ても終わり、子どもたちが家を出て大学に通うようになり、もはやほとんど会話も性の欲求もない夫とふたりだけの生活が再開すると、夫の弱々しさ、倫子によれば身体的な貧弱さに由来する陰気臭さ、内にこもるばかりで外の世界に興味のない夫の生活態度が、しだいに耐えられなくなっていった。
だからといって夫の優しさも時を経て変わってしまったわけではなかった。
だがいつしか倫子はもし恋人ができたらと考えるようになった。
背が高く、がっしりした体つきで、ハンサムな、なにを着てもおしゃれに見える男がいい、などと子どもじみた願望を四十歳を過ぎて空想するのだった。
最初の恋人は背丈はそれほどではないが体格は好みのタイプだった。
社交ダンスの相手としても申し分なかった。
しかしあまり時を経ずしてこの男の話しには面白味がないと思うようになり、そのうち夫と同じようにあまり話しをすることもなくなった。
束の間の逢瀬に貪欲に体を求め合っても、セックスはマンネリ化しスリル感はしぼんでいった。
倫子に罪悪感がないわけではなかった。
しかし夫婦生活の退屈と若いときから抱いていた不満の再燃が、罪悪感を覆い隠してしまった。
この男のことをすっかり忘れた頃には、「恋人はもっと素敵な人でなくちゃ」と思うようになり、ダンス教室や手習いの場、団地の祭などでアンテナを張り、男たちを観察した。
その中で一番気になったのが翔だった。
翔を夫にもつユリアが羨ましかった。
同時にユリアのような美貌があれば、このふたりが仲の良い夫婦であることは当然のように思われた。
倫子はそのような夫婦の間に割って入ることなど到底できるわけがないと思ったが、二人と仲良くなれたらどんなに素敵だろうと一種羨望のようなものを抱いていた。
翔を恋人にすることはできなくても、ふたりと近しく付き合うことはできるかもしれない。
そうしたら彼らふたりの濃密な関係をほんの少しは体験できるかもしれない、自分の理想の形がわかるかもしれないと想像するのだった。
ユリアと仲良くなるのは思った以上に簡単だった。
住んでいる棟が隣どうしということもあり、出会う機会は頻繁にあったし、決定的だったのは秋祭で一緒に餅つきを手伝ったことだった。
その時ユリアが想像に反して人懐っこく快活で、得てして美人にありがちなツンと取り澄ましたところなどまったくないことを知った。
そんな人柄が倫子のユリア感をますます高いところに押し上げた。
倫子自身も無警戒なほど社交的で愛想もよいのでふたりは急速に親しくなった。
彼女にとってユリアは団地の主婦連の中では特別な存在になっていったし、ユリアには倫子はよい話し相手になった。
それから間もなくして、倫子は来たる夏、翔がO市の病院に手術入院することを聞いたのである。
旅の途中ある美しい都市で翔はユリアと出会った。
酔っぱらった中年のサラリーマンたちにからかわれていた、まだ子どもっぽさの残るユリアが困った顔をしていたのを見て、翔は友人を装って彼女に近づき、腕を掴んでイルミネーションの輝く大通りへと連れて行った。
旅の途上であること、明日の夕方の便で帰ること、もうすぐ学期が再開すること、一方彼女は新市街の図書館で働いていること、今日は送別会だったことなど、短い言葉をかわしたのち翔がホテルに帰ろうとすると、ユリアが「もうこの町を見られましたか」と訊いてきた。
アルバイトで来た一泊の旅なのでまだなにも見ていない、明日朝少し散歩をしようと思っていると返事するとユリアが、「ここはきれいな町ですよ。明日の午前中ご案内しましょうか。休みですから」とガイドをかって出たのだった。
小柄なユリアはとても若く美しかった。
若い頃の翔は男としての自信が持てず、憧れの女性がいても自分から近づいてゆくことなどできなかったし、チャンスがあったとしてもその時には行動も思考もぎこちなくなって失敗してしまうのだった。
そのためガールフレンドができても、諦めと妥協の産物だった。
だから関係が長続きするわけなどなかった。
そんな現実と憧れとの間の大きな乖離を感じないですんだ最初の恋がユリアとの関係だった。
もしそこに障碍となるものがあるとしたら、そして実際に障碍となったのだが、それは翔の思想だったろう。
翔はある時から自分以外の誰にも囚われず惑わされることなく自由に考え、自由に行動し、そしてその責任は自分以外の誰にも何物にも転嫁せず、最後にだれの面倒にもならずひとりで死んでいく、そんな個人主義を貫きたいと考えるようになっていた。
中年と呼ばれる年齢になり、自分の主義の資本はやはり身体だと考えるようになってからは、食事に気をつけ体づくりも怠るまいと、意識して習慣化した。
そのため二年も経たないうちに肩幅が広くなり、胸板は厚く、胴回りは絞られ、臀部から大腿部にかけては筋肉がついて盛り上がってきた。
そのような体形の変化は服の上からも見てとれたろう。
翔の個人主義はほとんど信念といってよいほどのセルフコントロールをともなっていたのである。
しかし子どもができたと聞いたとき、翔は自分の個人主義の信条に従ってユリアと結婚するしかないと自分に言い聞かせた。
それでも本当は家族など持つべきではないのだという内心の非難の声との葛藤にいつまでも悩んだ。
その一方で生まれてきた赤ん坊を掛け値なしに可愛がる自分に気づいた時には、翔は自分の個人主義に小さな風穴があいたように感じた。
他方では体つき全体がずんぐりしてきたユリアを見るにつけ、かつていちど解消された現実と女性の理想像との乖離がふたたび露わになったように思えた。
容姿の変化だけでなく、母になったユリアは突然翔の仕事に理解を示さなくなったように思われた。
あるいはもともと理解がなかったのが、赤ん坊の誕生を契機に露呈しただけなのかもしれない。
研究やそれにつきものの調べ事は、特に収入が乏しい時には、子育てに追われる家族にとって無為と同然か、あるいは無駄な労力、時間の浪費に見えてしまうのだろう。
稼ぎのある仕事を探してほしいと言われたときには、信頼していた妻の言葉であるだけに、怒りとも幻滅ともつかない憎悪の混じった感情が翔の心に湧いてきた。
翔が安定した職について以後もこの感情は恨みのように残った。
このとき翔は自分の仕事の支えは自分ひとりだと再確認したし、個人主義の堅持こそが為すべきことになった。
ずっと後になって過去を振り返ったとき、夫婦関係の終焉の最初のきっかけは、このときに生じた感情の変化ともつれだったと翔には思われた。
夫婦間の感情がこうしてささくれだっていくのと並行するかのように、女たちが翔をイイ男と見るようになった。
そのことに気づいたとき、最初翔は自分が自惚れて誤解しているのではないかと疑ったが、そうではなさそうなことはそれ以降いろいろな出会いに恵まれるようになったからである。
こうして始まった女性遍歴の中で、翔は女性の容姿について自分の好みがどのへんにあるのか次第に気づいていった。
それまで無意識の好みだったものが意識化されてきたと言えるかもしれない。
特に惹かれるのはスタイルのよい女性だった。
特に翔たちの年齢になると意識してトレーニングをしたりしないと、男であれ女であれみっともない体型になりかねない。
その意味でもスタイルのよい大人の女性は称賛に値すると思えたし、外見にくわえその自意識も魅力だった。
翔がこんなことを思うようになったのも、彼の独特な個人主義に基づいた心身の鍛錬によって自分に自信が持てるようになっためで、それゆえ好みにあった女性を求めても買いかぶりすぎにはならないだろうと考えるようになっていた。
女性の容貌にかんしては、翔の好みを伝えることはほぼ不可能だろう。
なぜなら翔自身がわかっていなかったし、彼の恋人たちから何らかの共通項を見出すこともできないと思われるからだ。
言い換えれば容貌はあまり気にせず、アバンチュールの愉楽にひたれればよかったのだ。
だからといって本気で好きになった女性がいなかったわけではなかったが、その女性と翔との間にはあまりにも多くの障碍があり、結局ふたりの関係は発展を見ずに終わってしまった。
いろいろな女性と付き合えば付き合うほど、近づいてくる女たちに対する翔の評価は厳しくなり、彼はときには冷酷とも言える態度で彼女たちに接するようになった。
それでも不思議とそれが少なからず女たちをいっそう夢中にさせてしまうらしい。
そんな状態に堕してしまうと女性は男の言いなりになりやすい。
翔の求めたのはセクシュアルな要求を満たすことだったから、彼に近づいてきた女たちはその餌食になっていった。
それでも、そこから両者がともに満足を得られるならば、そのようないびつな人間関係でも長続きし得るし、ひょっとしたらそこから新たな関係が生まれないとも限らない。
しかしたいていは、ふたりのうちのどちらかが、あるいは両方が、こうした関係に苦痛を覚え耐えられなくなったり、あるいは退屈や物足りなさを感じたりして早々に空中分解してしまうのだった。
残暑の中にも秋の風が感じられるようになったある日、翔は倫子をドライブに連れ出した。
あらかじめ約束していたわけではなく、急に休みがとれたのでほとんど気分転換のつもりで電話をかけた。
突然のことだから都合が悪くても仕方ないのだが、倫子はまったく躊躇する様子もなく、ふたつ返事で誘いにのってきた。
数時間後に車に乗り込んできた倫子はさすがに団地で見かける主婦の風情ではなく、服装も化粧も行き届いていて、薄い綿のサマーパンツとTシャツ姿の翔とは好対照だった。
こうしたコントラストがなんとなくひとつの贅沢のように思えて、翔は気分がよかった。
それも手伝ってか、海と青空の広がる岬の方に向かって車を走らせた。
しかしどこへ行くと決めたわけではなく、目的地のアイデアが湧いてくるのにまかせて走っていた。
そのあいだダンス教室の様子を聞いたり、先日のお茶会を話題にしたりしてふたりの間の気持ちの溝を狭めようと気を回したが、そんな必要はなかったと思えるほど倫子は饒舌だった。
ほとんどひとりで話し、ひとりで笑いながら翔の顔を覗きこんで笑いを誘った。
いつもの言い淀みはいつの間にかなくなっていた。
「岬の近くの遺跡の丘に行ってみましょう。まだ紅葉はしていないけれど、眺望はいいし風も気持ちいいと思いますよ。昔あった登り窯を記念する石碑が立っている丘なのですが、行ったことありますか」と言いながら、翔は左手を倫子の太ももの上に乗せ静かに撫でた。
ポリエステルのフレアスカートの上から倫子の太ももの輪郭がはっきりと感じられ、体熱も伝わってきた。
倫子は久しぶりに男の手が体に触れて、何年も忘れていた興奮を覚えた。
「行ったことないんです、どこも。今日は誘ってくれてありがとうございます」と丁寧に返事を返した。
ありがとうと言ったのは、ドライブに誘ってくれたことばかりでなく、翔が彼女に触れてきたこともあったかもしれない。
「ああ、彼は私のことをからかっていたのではないのだ」
そう思うと倫子は大胆になれた。
翔がするように倫子も右手を伸ばし男の太ももに手をおいた。
しっかりとついた筋肉は力強く、少し硬めだった。
翔は倫子の期待に応えてやろうと決め、話を継いでまだ残っているに違いない彼女の警戒感を弱めにかかった。
隣の男がそのような作戦を練っていることなど想像もしなかったが、倫子は彼の行為がエスカレートすることを自らも望んでいた。
「岬は視界二七〇度海に囲まれているので、風がよく通ります。そして潮の香りがするんです。わたしはここの海に来ると時間があれば帰りにこの丘に寄って、風に吹かれるのです。爽やかな空気がからだじゅうに吹き込んでくるようで、気持ちが清々しくなります。あなたもやってみませんか。潮風に体を晒すんです。今日のスカートなら、パンツを脱いでしまったら本当に裸で海の風に浸れます」
翔は倫子がどれくらいのところまで許容するのか、ゾンデを上げてみたのだった。
ひょっとしたら翔の言葉が倫子を怒らせて、ここから引き返すことになるかもしれないと思いながら賭けてみたのである。
倫子は一瞬ドキッとしたが、翔の言葉に悪意は感じなかったし、淫らとも思わなかった。
たくらみがあるのはすぐにわかったが、暗示しているものが倫子自身の願望と同じなので、騙すとか陥れるという類の話ではありえないほど内容は直接的に聞こえたのだ。
底意があるなら最後まで隠しておいて襲えばいいのだ。
そう感じて倫子は翔を面白いことを言う人だと思った。
「こんなことをほかに誰が言うだろう。それに言うことが怪しくてエロチックでどことなく詩的だ」と、倫子は翔への興味をますます強めていった。
それだけでなく翔が話した行為自体に今まで想像したこともない、羞恥心を超えていかなければならない冒険を察知して、ゾクゾクする感覚を覚えた。
もしこれが恋ならば、最初からスリルに満ちた恋になるだろう。
「やってみようかしら」という倫子の声は翔にははっきり聞き取れなかった。
そのため翔にはかすかな不安が残り会話を進められなくなった。
翔がMP3プレーヤーのスイッチを入れると車のステレオ装置からタンゴが流れ始めた。
コントラバスが薄暗いリズムをズンズンズンズーンと刻む。
突然ガラス瓶が舗装道路に転がったかのような甲高いピアノの音が、バスが紡ぐ単調ながら緊張感の張り詰めた闇に割って入る。
なにかを叩く音が激しくなる。
継続するバスのリフレーンに、はじめてピアノが奏でるメロディらしいメロディが乗る。
それでも不気味さは増すばかりだ。
バンドネオンが入って息苦しさは少し解消されるが、音の情景が明るくなるわけではない。
翔はこのピアソラの曲を聞くたびに陰鬱な世界に吸い込まれる。
性のアバンチュールの欲情が燃え上がる中で、まるで身の危険を感じて、「静かに。音を立てるな!」と囁く冷たい声のようだった。
「なんだか怖いタンゴね。タンゴを踊るけれど、こんな曲ないわ」
こう倫子が言ったので翔は曲を途中で止めた。
音楽が止んでも翔がなにも言わず黙っているので、気分を害してしまったのかと倫子は勘違いし、横目で翔の顔色をうかがった。
しかし「もう着きますよ。ほら、正面に見えるのが石碑のある岬の丘です。ここからは海はまったく見えませんけれどね」と言った翔の声は明るかった。
気分を害した様子などなく倫子はほっとした。
駐車場といってもそこはだだっ広いだけの空き地にすぎず、車は一台もなく人影も見当たらなかった。
観光地だとされているのに不思議なくらい静かだった。
正面からゆるい傾斜地が上へと続いているが、どこまで続いているのか下からは確認できない。
人の膝下ほどの丈の青草が一面に生えていて、吹いている風に音もたてずに揺れている。
遠くに一箇所だけ背の高い黄色い花をつけた草が群生している。
翔が「アクセントになっている」と独り言のように言うと、あれはセイタカアワダチソウといって嫌われものの雑草だと倫子が言った。
なぜ嫌われているのだろうと思いながら翔がドアを開けかけたとき、倫子がそれをおしとどめて横を向いていてほしいと言った。
翔は一瞬なぜと思ったが、倫子が体をシートの上に倒し気味にしたのですぐに理解した。
倫子はスカートの中に手を入れ、腰を小刻みに揺らしながらはいている物を剥ぎ取った。
翔が見ていてもなにも言わなかった。
倫子の太ももの艶めかしい白さに翔の心臓が反応したように思われた。
車を降りたふたりは、人っ子ひとりいない明るい草原に設けられた緩やかな階段を登っていった。
木と石でできた階段は訪れる人が少ないせいか、ところどころ痛んだまま放置されているようだった。
途中の踊り場で周囲を眺めると、見えるのは相変わらず風に揺れる草とあの雑草と遠くの木々と畑だけだった。
翔は倫子をうながして先頭を行かせ自分は後ろを歩いた。
スカートの上から下になにも履いていない倫子の尻をまさぐりたかったからだ。
倫子がダンス教室を主宰していると知った時から、きっと臀部の筋肉はそれなりに発達していて彼女の尻は心地よい丸みがあるのではないかと夢想していた。
想像どおりであることはすぐにわかったし、想像どおりであることが翔の頭を熱くした。
薄いスカートの生地を通して掌に伝わってくる女の体の形と熱がさらに翔の情欲を駆りたてた。
頂上近くになって傾斜が緩くなると、ふたりはもう前後に体がくっつくくらいまで近寄っていた。
そのためときどき二人の足がもつれ、立ち止まることになった。
するとこの時とばかり、翔は倫子の胸、腰、太ももと、体全体に触れて女の体の魅力をあますところなく感じ取ろうとろうとした。
倫子は倫子で、最初のうちは尻を押すような触り方だった翔の手が撫でまわすようになって、はらはらするような気持ちで次に起こることを待った。
もっと激しくもてあそぶほどに求めてほしい、手でだけでなく体全体を感じられるほどに抱きついてほしいと、自分の欲求が具体的になっていくにつれ、いよいよ体全体が火照った。
丘の頂上からは翔が言っていたとおり、背後を除けば三方に海が広がっていて水平線が弧を描いていた。
振り向くと遠くに、林の中にぽつんと秘密めいた池があるのが見えた。
風はさすがに遮る物のないここでは下の駐車場より強く、ときどき倫子のスカートを靡かせ脚にまとわりつくように体の中に入ってきた。
いままで知らなかった感覚とはじめて見る広々とした眺めに、倫子の口からため息ともつかない「ふわー」という声が漏れた。
耳元で翔が「気持ちいい素晴らしい眺めでしょ」と言ったときは、もう後ろから彼の腕が腰に巻きついていた。
ふたりは体を寄せ合ったまま、もっとぴったりとくっつこうとして体と体を擦るように動かし、欲情をさらに掻き立てあった。
倫子はそのあいだも、周囲を見回しそこがふたりだけの世界かどうか確認することを怠らなかった。
確証がなければ完全に翔のするがままに身をまかせる覚悟はできなかったろう。
知らぬ間に翔の掌が左太ももの内側を滑っていた。
なんとなく汗ばんでいるように感じたのは翔だけではなかった。
翔の指が尻から陰部に達すると、陰唇を弄びながらクリトリスを探り当てた。
翔は倫子の反応を面白がるように敏感な部分を指先の腹でくすぐった。
倫子はそれにより陰部がさらに濡れたことに気づいたが、「だいぶ濡れてるね」と翔に耳元で囁かれたときには、隠し事が暴かれたようで恥ずかしかった。
言われた恥ずかしさがさらに膣を濡らすと、それを感知したのか翔の指が膣の中に滑り込んできた。
はじめはそろそろとだったが、行けると見きってすぐに奥まで侵入してきた。
倫子の口から「あっ」という細い叫び声が漏れて顔が空に向いた。
倫子は体が圧し広げられてゆくにつれ、すべてを脱ぎ捨ててしまいたいと思うほど熱くなってきた。
快感に圧倒され陶然となっている倫子を見ながら、翔は指の動きへの女の反応をすべて見逃すまいと女の表情を注意深く見ていた。
その冷たい目が表情に変化を見つけるたびに、翔の体の中で性の興奮の波がたった。
しかし興奮と冷静のないまぜになった状態は長続きしなかった。
倫子の手が気づかぬうちに翔の股間に伸びてきていた。
薄いズボンの上で硬直している目標にたどり着くのは簡単だった。
倫子はペニスを握って何かを確認するかのようにしばらく捏ねるように手を動かしていた。
翔は倫子を向き直おらせると、少々乱暴に両肩を抑えつけて草の上に膝をつかせた。
彼女は翔の顔を見上げてまばたきし、ズボンのベルトを緩めにかかった。
チャックを下ろし、膨らんだパンツの上から壊れ物でもあつかうように男の陰部を引き出すと、指でつまんだり手で握ったりした。
数秒ペニスを間近で眺めると、もう一度顔を上げ翔の目を見た。
翔が見た倫子の表情は淫靡だったが、まるで微笑んでいるかのようだったので翔は声に出すことなく「ん、どうした」という顔で見返した。
すると「太い」とひと言だけ言って、女は翔のペニスを口に含み、そしてしゃぶりだした。
ペニスをしゃぶったときに翔があげた興奮した声が彼女を歓喜させ夢中にした。
口の中で翔のペニスがぴくっと跳ね上がったのだ。
翔の興奮がうれしかった。
口の動きにつれて倫子が抱えていた翔の尻が縮まるように動いたり、彼が上体を捻じるようにしたり、まるでイヤイヤをするようにすこししゃがみ込んだり、体を押しつけてきたりした。
彼女がし、彼がされる。
彼女が行為し、彼が反応する。
その快楽の関係がうれしかったのだ。
快感に呆然と立ちすくんでいる翔を感じて、倫子はいつまでも彼のペニスをしゃぶり続けることができるだろうと思った。
だがそれが支配関係の逆転という快感ゆえの想像だとはつゆほども思わなかった。
翔は倫子のするにまかせ快感に酔いながら、まだ二〇代の頃北欧出身の友人とふざけてペニス比べをしたことを思い出した。
彼の一物は太く長く、翔のモノを圧倒した。
嘲笑われても見事な反撃ができた。
友人のは刺激されてもただそのまま固くなるだけなのに、翔のモノは松ぼっくり状態からみるみる固く太く大きく成長し対抗者を驚かせた。
それ以来翔は自分のペニスを特別大きいとも小さいとも思わないし、太いとも細いとも思うことがなかった。
ただ膨張率には自信が持てるようになった。
翔は倫子を立ち上がらせて後ろを向かせた。
スカートをたくし上げると、前かがみになって尻を突き出す姿勢を取らせた。
中腰で体を寄せながら、ねらった場所にペニスを食い込ませるのに最適な姿勢をみつけようと、上体をそらしたり腰を動かしたりしてとうとう的を探り当てた。
ジグゾーパズルがはまったかのように、あっけないくらいすんなりとペニス全体が収まった。
それまで止んでいた風がまたサワサワとそよぎだしたと翔が感じたのは、行くべきところに着いた安堵感があったからか、あるいは次への準備が整った安心感からだろうか。
いずれにしてもそのとき一瞬、間が空いた。
だがすぐ翔は規則的に倫子の体を背後から突き始めた。
その動きに合わせて唸り声があがりだすと、倫子からもときどきかすかに呻くような声がもれた。
声の交錯はふたりの情欲の共演となったが、それでもそれはふたりがそれぞれ自分と相手の快楽を求め、相手と自分との間で快楽を授受しあい、それがともにふたりの共同の喜びになる関係から生まれたものではなかった。
翔はただひたすら自分の性欲を満足させようとしたのであり、倫子を興奮させようとするのも、それにより自分の興奮をさらに焚きつけるためだった。
翔が頂点に達し射精するまであまり時間はかからなかった。
久しぶりのセックスであり、前戯で充分興奮していたからだが、もう充分だという気もしていた。
倫子はもっと続けてほしかった。
膣の中から充分な快感を得るにはもう少し時間がかかった。
だがそれでも、翔とこんな事ができたこと、それも草原でのプレーが物語の中にいるかのような気分にしてくれ、すべてをスリリングにしてくれたことに夢中だった。
事が終わった時どことなく白けた雰囲気がふたりの間に漂った。
ふたりはひと言も言葉をかわすことなく、それぞれ違う方角に顔を向けて脱いだ服を着た。
海の方を眺めていた翔が、突然、拳を握りしめて腕を激しく振り下ろしながら「うわー」と叫び声をあげてしゃがみこんだ。
倫子はあまりに突然の予想しようもない出来事に直面して、恐怖に近いものを感じ二三歩翔から後退さった。
翔の顔からはもはや、さきほどまであった快感の表情は失せていた。
いまは顔が歪んでいるようにさえ見えた。
「驚かさないで」と言った倫子に翔はなにも答えなかった。
ただ俯いたまま登ってきた階段を先頭にたって、振り向くこともなく歩いていった。
倫子は翔の後ろ姿を見ながら、彼は今の快楽に苦しんでいるのかもしれないと思った。
「でも後悔はしてほしくない。わたしは後悔していない」
そう倫子は頭の中で呟いた。
駐車場について倫子が彼の肩に手をかけると、翔はその手を握り返し、振り向いて彼女を引き寄せ手で彼女の尻と乳房をぎゅっと握った。
おそらくこれは、驚かせて悪かった、もう大丈夫というサインなのだと思って倫子はすこし安心した。
顔の表情ももとに戻っているように見えたが、視線は倫子に向かわず、さっきの快楽などなかったかのようにただ正面を見つめていた。
海沿いの帰り道を走っている間もふたりは黙りこんでいた。
だからなのか、いろいろなことが倫子の頭の中を駆け巡った。
空想のような出来事のあった丘の上から、夫が帰ってくる我が家へ、ユリアも住んでいる団地へ、帰るのだとふと思ったとき倫子は翔の叫び声がわかるような気がした。
しかしそんなことは考えたくなかった。
倫子が「なにか音楽を聞きたい」と言うと、すぐ賑やかにアメリカン・ポップスが車内に響いた。
晩夏の太陽はすでに西に傾いていた。
空にはまだ茜色が残っていたが、水平線に横たわる雲は漆黒で、荒天が間近であることを告げていた。