結 (後編)
書き終えました!
男の子がいました。強い子でした。誰よりも強く、真っ直ぐで、自分の力でどこまでも進んでいける子でした。
小さな子がいました。寂しい子でした。誰よりも強がりで、頑固で、ひとりでも遠くへ行ってしまう子でした。
脇腹からこぼれた血が足を伝って床に流れる。口の傷から入った毒で体が痺れる。今にも倒れそうになる体に鞭を打ちながら、縛られたブランカの下に歩みを進めた。
力を振り絞った一撃で鎖を断ち切り、倒れる彼女の体を抱き止める。彼女の体は人間とは思えないほど冷たく、人形のように軽かった。彼女の目が動いてこちらを捉える。
「グレン…」
「ブランカ、これを見てくれ」
俺は懐から二つの首輪を取り出した。黒と白の首輪、王宮から先ほど盗み出した命の共有を行う呪具、彼女をネロに縛りつけているのと同じものだ。
「この呪具は黒が主、白が従の関係になっているのはわかってるだろ? 黒い首輪をつけた者が白い首輪を付けた者に命を分け与えると言う効果のせいで歪な主従関係が生まれてしまう。でも…」
俺は息をついて言葉を続ける。
「お互いが白と黒の首輪を両方つければ命を均等に分け合うことができる。君が一人で生きる力を取り戻すことができるんだ」
「一緒に生きよう。君は自由だ。どこへだっていける。俺たちは最強だ」
俺は彼女を抱きしめ、叫んだ。
彼女はゆっくりと顔を上げた。彼女の顔は蝋のように真っ白で目は漆で塗ったように潤んでいた。
「グレン…あなたは変わらないね。昔と同じ、本当に真っ直ぐで強い、素敵な男の子のまま…アタシとは大違い」
「ブランカ、早く…」
「グレン」
彼女はこちらの言葉を遮る。彼女の瞳がまっすぐこちらを見た。昔と変わらないルビーのような輝き。俺はそれについ目を奪われた。
「ごめんね、大好き」
腹に衝撃が走った。俺の膝から力が抜ける。首輪が床に落ちて砕けた。俺はそのまま床に倒れ伏す。何が起こった?
彼女はゆっくりと立ち上がった。俺に背を向け、壁までゆっくり歩いていくと、倒れ伏すネロを抱き起こし、奴の髪を慈しむように撫でた。俺は立ち上がることもできずそれを見つめていた。ネロが目を開ける。奴の腕の血はいつの間にか止まっていた。
「遅いぞ…何をしている」
ネロは唸るように呟いた。
「申し訳ありません、ネロ様」
彼女の声からはさっきまでの暖かさが消え失せていた。俺は喉から声を絞り出す。
「ブランカ、なんで…」
ネロはこちらを見て憎々しげに笑う。その目には凶暴な光が宿っていた。
「お前は何もわかっちゃいない…見せてやれ」
「…はい、ネロ様」
ブランカはネロの促す通りに、首元を曝け出す。そこには…
黒い首輪が、
はめられていた。
「え…?」
俺は自分の目を疑う。あまりにも無茶苦茶だ。なぜ彼女が主となる首輪を付けている。ネロは狂ったように笑いながら自分の襟元を引きちぎる。そこには紛れもない白い首輪が巻きついていた。俺はますます混乱する。
「10年前、賊の協力者だったこの女は護衛として王宮に入り込み、賊を手引きし、邪魔した俺の父と母を殺した。目的は賊から払われる金さ! 単純だろう?」
ネロは喉も裂けんばかりに笑いながら言葉を続ける。
「だが、この女は死にゆく俺に、あろうことか目的である呪具を使った! ハハハ、ハハハ! だから言ったろう? お前はこの女のことを何も知らないと!」
「そんなの…そんなのおかしい」
俺は息も絶え絶えになりながら、喉から声を絞り出した。
「彼女がお前を助けたなら…なんで、彼女はお前の奴隷になっている? なんでお前の命令を聞くんだ?」
俺の問いを聞いて、ネロは突然能面のように無表情になった。奴はこちらに無造作に剣を向ける。
「知ったことか、この女の考えることなど…俺にはわからんし、今から死ぬお前が知ることもない」
奴の振り下ろす剣を、俺はただ見つめていた。混乱していたがそれ以上の諦念が心を満たしていた。俺は彼女を知らなかった。俺のやっていたことはただの空回りでなんの意味もないことだったのだ…
奴の振り下ろす剣が止まった。俺は何もしていない。彼女が俺の前に立っていた。あの夜とは逆に、奴の剣と俺との間に彼女が割り込んでいた。
「なんの…つもりだ」
無表情のまま奴が呟いた。彼女は座り込み、床に頭を擦り付ける。
「ネロ様、お願いします。この人の命だけは助けてください」
ネロの表情が歪んだ。
「なぜ、そんなことをする必要がある?」
「ネロ様、どうか…」
「違う!」
ネロは叫んだ。その顔はくしゃくしゃに歪んでいた。
「なぜ、俺に懇願する!? そんなことする必要はないはずだ! お前がほんの少し俺を拒絶するだけで、俺は干からびて死ぬ! 金の場所も、隠れ家の場所も、俺の知っていることはお前も知っている! 俺にできることはお前にもできる! 俺のことなぞお前は必要ないはずだ!」
ネロは駄々をこねるように足を踏み鳴らし、頭を掻きむしった。ブランカは変わらず懇願を続ける。
「お願いします、ネロ様」
「好きな男と一緒になりたいのだろう? 何でお前は俺に従う!? 何でどんな命令も聞く!? なんで…なんでお前は! 」
ネロは床にうずくまり拳を叩きつけ、声の限り叫んだ。
「なんで僕のことを捨てない!?」
ブランカはその問いに答えなかった。その時彼女がどんな顔をしているか俺にはわからなかった。彼女は掠れるような声で懇願を続けた。
「ネロ様、何でもします。私はどうなっても良いです。この人の命だけは助けてください」
ネロは、荒い息をつきながらその場に膝をついた。奴の姿がやけに小さく見えた。
「何でも…何でもするだと…? なら………わ、ら…」
奴は唇を噛み締め、下を向いて押し黙った。しばしの沈黙の後、奴は顔を上げた。
「僕のそばから離れるな…」
ネロの目から大粒の涙がこぼれ落ちていた。奴は口をへの字にして僅かに震えながら彼女を見ていた。彼女はゆっくりとネロに近づき、慈しみをこめて胸に抱きしめ、頭を優しく撫でる。
それを見て、俺は唐突に昔見た絵画のことを思い出していた。貴族の付き合いで美術を鑑賞していたときに妙に印象に残った絵があった。物語の一節を絵画にしたもの。生まれたばかりの子を抱き抱える聖母の肖像。
(そうか…選ばれないはずだ…)
ネロは急に立ち上がり、彼女を突き放すと足早に部屋から去って行った。彼女は影のようにその場に付き従う。
去っていく彼女が一瞬こちらを振り向いたように見えた。だが、彼女がどんな顔をしていたか、ぼやけた俺の目には見えなかった。
節聖歴 243年
王宮宝物庫に賊が侵入。同日、財務大臣補佐ネロ宅で襲撃事件発生。
騎士一名が行方不明、関連は不明。
王国から去った、一人の騎士。
王国に悪意を振り撒く、一人の貴族。
貴族に付き従う、一人の侍従。
彼らが何をなし、何処へ行くのか。それは誰にも分からない。
ありがとうございました!