起
書くのって大変ですね
昔のことを思い出していた。あの月夜のことを。
アタシたちは最強!もっとずっと強くなって、あのてっぺんにたどり着く!この世の誰よりも自由になるんだ!
ひたすらに高く、深く、暗く広がる空。彼方に輝く月がやけに近く見える月明かりの下で、剣を掲げて叫ぶ彼女の姿だけが夢のように照らされていた。身よりも住む場所もなかった僕に手を差し伸べてくれた彼女。何も持たなかった僕たちは家族だった。彼女が僕にとっての全てだった。月の下の彼女を僕にはその光景がかけがえのない奇跡のように思えた。この言葉があればどこまでもいけると思った。
その日を最後に、彼女は僕の前から姿を消した。
王宮の中心。俺は豪華な大広間の中で、煌びやかな絨毯に片膝をついている。目の前では豊かなガウンをまとい、煌びやかな王冠を被ったこの国の王が朗々と俺の勲功を読み上げていた。
「始めてその頭角を表したのは…武闘大会にて…人抜きし…を倒し…」
ひたすら腕を磨いてきた。身寄りのない自分にとっては剣こそが唯一の生きる頼りだった。
「…を狩ったことから…公に見出され…」
西に強者いては挑み、東に怪物いれば斬った。怪しげな術や武器の使い手とも戦った。
「…においては……を落とし、かの術…破り、魔導士…を討ち取り…」
何十と戦い、何百と剣を振るった。
「…の戦いにおいては…をよく助け…我が娘…」
ようやく王宮に…あの日、夢見たこの場所に辿り着いた。
「以上のいさおしに報いんとすため、この者、グレンに赤騎士の位階を叙勲する!」
俺は両手で恭しく勲章を受け取る。
万雷の拍手の中で手の中の勲章をじっと見つめた。これがあの日の誓いを叶える第一歩になるのだ。
授与式が終わり、日も暮れた後、俺は一人、城の花園で剣を振るっていた。
この辺りは城の中心からは程遠い。昼の間には花を楽しむ婦人らで賑わっていた庭園だが、こんな時間には人の気配もなくただ白銀燈の灯のみがあたりを照らしていた。だが、俺にとってはこの静けさが心地よいものだった。
ここでは城の煩わしい人間関係を考える必要はない。剣を振るう己しかいない空間というのは気分が良い。あたりにある花の繊細さも散らさないための鍛錬の一種と考えれば気にならなかった。
右手で剣を握り、左親指で鍔を弾くように抜きはなつ。そのまま踏み込みと共に剣を切り上げ、勢いを殺さないまま腕を返して振り下ろす。剣閃に呼応するように庭園を風が吹き抜け、木から木の葉が舞い散った。舞い降りる木の葉を注視する。
ひらり、ひらり雪片のようにと舞い落ちる木の葉のうち2枚がほんの刹那重なった瞬間、俺は呼吸と共に剣を振り抜いた。きらりとした銀色の閃が空気を断つ。何事もなかったかのように舞い落ちた2枚の木の葉は地面に触れた瞬間同時にぱらりと分かたれた。
かつて2枚だった4枚の葉を見て俺はふっと息を整える。体も心も滞りなくよく動いている。温度も風も心地良い。
こんな時はあの誓いの夜を思い出す。親も住む場所もなかった俺の唯一人の幼馴染。誰よりも強かった彼女と誓ったあの瞬間のおかげでここまで来れた。
俺はふと空を見上げる。この澄んだ空気と星の輝き。今日は本当にあの夜と似ている。ただ一つ違うのは空に月がないことだ。ここを照らすのは、備え付けられた幻燈の……
白銀灯の下に、一人の女性が立っていた。
それを見た瞬間、俺の心は空白になった。白みがかかった銀髪とルビーのように赤い眼が白い光に映える。その謹製のとれた身体はエプロンドレスに包まれ、背もあの日よりずっと高く。去る月日は何もかも変えてはいたが…
「元気そうだね、久しぶり」
彼女の…ブランカのその微笑みだけは…あの夜と何一つ変わってはいなかった。
俺はまるで案山子のようにその場に突っ立ってぽかんと口を開けていた。心の中に様々な疑問が浮かぶ。
なぜ急にいなくなったんだ?なぜこんなとこに?その格好はなんだ?しかし奔流のように湧いてくる質問は逆に自分の中で滞ってしまい、俺は一言も喋ることができずただ立ち尽くすことしかできなかった。
そんな俺を見て彼女はまたひどくおかしいものでも見るように悪戯っぽくクスクスと笑った。俺は突然ひどくバツが悪くなった。鍛錬や戦いの経験を経て俺は自分が一端の男になったと思っていた。だが今の俺の様子はどうだ。久しぶりに会った幼馴染を見ても言葉一つ口に出すことができない。あまりに礼を失している。これのどこが立派になった姿なんだ?
ゆっくりと息を整える。久しぶりに会った幼馴染に行う挨拶なんてたった一つだけだろう。
「久しぶりだな、元気だったか」
「アタシと同じこと言うじゃん」
彼女はもう一度吹き出した。また失敗してしまった。
「アンタが騎士になったって聞いてびっくりしたよ。城内はあんたの噂で持ちきりだよ。平民出の英雄、天下無双の騎士様ってね」
「まだまだ大したこと無い。技も剣も理想には程遠いさ」
白銀の灯の下で彼女と俺は会話を弾ませていた。最初こそ躓いたが、不思議なことにそれが長年の別れでできたしこりを解いたようだった。
「知りたいな、アンタが今までどうしてきたのか」
彼女に聞かれるままに今までの人生を語った。どんな戦いをしたのか、どんな鍛錬をしたのか、何を見て何を知り、どう生きてきたのか。
俺の言っていること一つ一つに彼女は聞き入り、口を出し、そして笑う。俺はそれがたまらなく嬉しかった。たわいのないことでも一つ一つ彼女と言葉を交わすその感覚が尊く、かけがえのないもののように思えた。
「そういえば、ブランカは今までどうしてたんだ?きっと、あの時よりずっと…」
自分自身の話がひと段落ついた時、俺はなんとはなしに質問をした。俺はあの時の誓いを心に刻んで強くなった。だからこそ、彼女がどんな10年を生きてきたのか気になったのだ。彼女の武才は膂力、敏捷、身のこなし、技術、どれも群を抜いていた。その身に宿った強さは圧倒的であり、だからこそこの年月で磨かれたものを聞いてみたかったのだ。
「…ごめんね。アタシ、弱くなった」
だが、その問いを聞いた彼女の顔にふっと影が差した。
「昔のようにはいかないんだ。体がうまく動かない。約束、守れなくなっちゃった」
俺は狼狽した。確かに違和感はあった。彼女の動きにはそこかしらに昔にはなかった澱みが感じられた。それに彼女は自分のことを一切話そうとしなかった。服装も振る舞いも、俺の知らないことが彼女の身にあったことを示していた。
「何があったんだブランカ?病気か、怪我か?俺ができることならなんでもする、昔とは違うんだ」
「大丈夫だって気にしないで、あたしにもあたしの人生があったってことだから、別に死病に侵されてるってわけでもないし」
「だからと言っ「それに」」
彼女はこちらの言葉を遮るようにキッパリと言葉を紡いだ。
「アタシはあんたが昔のことを覚えてくれたのがたまらなく嬉しいんだ」
幻燈の下、彼女は踊るようにくるりと回った。スカートが風に乗ってふわりとはためく。
「あんたはアタシのことなんて忘れてると思ってた」
「さっき最初話しかけた時、ほんとはすごく不安だった、もし反応されなかったらどうしよう、無視されたらどうしようって」
「だからあなたがアタシに応えてくれて、あの日のことを覚えててくれてたってだけでアタシはもう報われたの」
「あなたは少しも変わってない。あの日のままのかっこいいあなたでいてくれてありがとう」
そう言った彼女の顔は満面の笑顔なのに…今まで見たことがないくらい儚く、寂しそうに見えた。
耐えられないと思った。戦いの中で負ったどんな傷でも感じたことがないほど俺の心は軋んだ。
俺は肩を震わせながら口を開いたが、何の言葉を返す事もできず、重い静寂があたりを支配していた。
「こんなところで何をヘラヘラしている?」
沈黙を割くように低い声が庭園に響いた。その声を聞いた彼女は不意をつかれた猫のように体を跳ねさせながら振り向いた。
見ると彼女の後方から一人の男がこちらに近づいてくるのが見えた。男はまだ俺と変わらないぐらいの年に見えたが、その肌は不健康に青白く、顔には老人のような皺も浮かんでおり、手には細い杖が握られていた。普段なら整っていたであろうその男の顔は、内に潜む激情によってか歪んでいた。
「突然いなくなったかと思えば、こんなところで男と逢引きか?随分と偉くなったものだ」
「申し訳ありません。懐かしい人と会っていまして」
見知らぬ男の叱責に対する彼女の返答を聞いて俺は狼狽した。感情の起伏を殺した口調、怜悧とした振る舞い、どちらも俺の知っている彼女とは全く違っていた。
「お前は誰だ?一体彼女のなんだ?」
「不躾だな英雄殿。スラムでは大した作法など学べなかっただろうが、軍はお前を躾けてくれなかったようだな?」
「減らず口を叩くな。質問に答えろ」
俺が怒気を漲らせながら問い詰めると、男はこれみよがしに舌打ちをすると手を広げて大仰に一礼を行い、芝居がかった口調で話し始めた。
「私の名はネロ・ドラクロア。前財務大臣フォリエ・ドラクロアの息子であり、現財務大臣補佐、パラディン総括、「無垢の家」創始者、「パーツ商会」相談役、そして」
男は一拍開けて驚くべき言葉を吐き出した。
「この女の所有者だ」
「何を言っている…?」
全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。この男の言っていることが何一つ理解できない。
彼女は男の横で目を伏せたまま口をつぐんでいた。男はこちらを嘲笑いながら言葉を続ける。
「そのままの意味だよ、この国の制度上および事実関係の上でこの女の身柄は私が無期限で所有している。現在及び未来においていかなる理由においても彼女が私の下を離れることはない」
「違う!」
俺は血を吐くように叫んだ。心の中の澱みを声と共に吐き出してしまいたかった。
「違うものか、言ってみろブランカ、お前は私のなんだ?」
男は嘲るように彼女に問いかけた。彼女は淡々と答える。
「ネロ様のおっしゃる通りです」
「わたしは、ネロ様の筆頭侍従です」
彼女は先ほどと同じように感情を失った声で淡々と答えを返した。俺は彼女の言が信じられなかった。男はなおも言葉を続けた。
「聞こえたな。この女は俺の奴隷だ。逆に聞かせてもらおう。お前は彼女の何だ?」
「俺が…彼女の何か…だと?」
「そうだ。お前はこの女に10年ぶりに再開したばかりだろう?こいつが今何をしているか、これまで何をやってきたか、何一つ知らないはずだ。知り合いだかなんだか知らんが、今のお前はこの女の何なんだ?答えてみろよ、英雄殿」
奴のこちらを追い込むための問いかけ。だがそれを聞いて逆に俺は妙に落ち着いた気分になった。
そうだ、これは単純な話なのだ。他の理屈など関係ない。俺たちのあり方などあの日から永遠に変わらない。
「俺じゃない」
「何?」
男の顔が歪んだ。
「俺たちだ」あの月の下の誓いを確かめるように口に出す。「俺たちは最強だ」
それを聞いてただ息を殺していた彼女の肩がびくりと震えた。
目を伏せたまま小刻みに震える彼女は自分の心の中の動揺を押し殺しているようだった。奴はそれを見てぎりりと奥歯を噛み締め、こちらを睨みつけ口を開く。
「貴様、何を…言ってる?」
「お前には永遠に分からんだろう」
俺は剣の柄を握る。足を一歩前に踏み出し、腰を溜めて構えをとる。俺たちは最強だ。どんな奴にも負けない。どんなことが待ち受けていようとなんの心配もない。なんだってできる。
「貴様、貴族である俺を切る気か?いい度胸だな、やってみ…」
その瞬間俺は剣を抜き放った。疾る稲妻より早く、銀色の煌めきが男の喉元に迫る。奴の首と体を切り離さんと抜き放たれた一太刀は、しかしその前にぴたりと止まった。
「ネロ様、お戯れが過ぎます」
俺が剣を抜いた瞬間、俺と奴の間に彼女は自分の体を割りこませていた。ほんの少し、俺が止めるのが遅れていたら自分の体を真っ二つにしていたであろう剣を目にしてもその声には一切の揺らぎが無く、先程までの彼女の感情の動きは嘘のように消え去っていた。
「チッ!野良犬だと思ったが狂犬だったか!」
奴はこれ見よがしに舌打ちをすると踵を返し、こちらから歩き去っていったが、何かを思い出したように振り向いた。
「英雄と言われて図に乗っているようだが、俺を敵に回して無事でいられると思うな、この女は私のも…」
「必ず助ける!」俺は息を荒げる奴の言を遮るように声を張り上げた。
「何か理由があるんだろ!俺は強くなった!心配いらない!なんだってやってやる!」
全身全霊でこちらに背を向ける胸の内を吐き出す。迷うものか、俺のやるべきことは決まっている。
「俺たちは最強だ!」
それを聞いた彼女はこちらをゆっくりと振り向いた。彼女の顔はまるで仮面をつけたように怜悧で、胸の内に一切の動揺もないように見えた。
「わたくしの所有権はネロ様の預かるところとなっています。あなたではどうすることもできませんし、何もする必要はございません、どうかアタシのことはお忘れになってください」
彼女はそれきり口を閉ざすと振り返り奴と共に去っていった。
しかし俺は去っていく彼女の目元に光があったように思えた。俺は息をゆっくり吸い込むと振り返り、自分の兵舎に向かって駆け出した。
頭の中では彼女の言葉と顔がぐるぐる回っていた。
走りながら俺は自分のやるべきことを考え続けた。おそらく彼女の事情は奴を殺しただけでは解決しない。俺のどんな犠牲を払ってでも彼女を助けなければならない。