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(子どもに見せちゃいけないやつだろ、これ……)
そんなことを思いながらユーリの方を見ていたが、身体がぐわっと揺さぶられ、腹の鉤爪ごと持ち上げられた。
瓦礫が崩れる大きな音がして、キーファが――先程よりもかなり巨大化して、肢体も節足部分が歪に伸びて――現れた。
「ようやく捕まえたよ、人間」
歪んで反響するような声が聞こえた。
そのままキーファの顔の側まで運ばれる。
「それ……最終形態だよな……まだ変身するなんて……反則……」
「はっ、この姿になることなど数百年ぶり、それこそ人魔大戦以来だがな!」
息も絶え絶えになりながら、それでもユーリが心配になり見下ろす。
ユーリは泣いていなかった。真っ黒な目で、彼を見上げていた。
(また、暗い目をさせたか……ごめんな……)
大丈夫だ、と言ってやりたかったが、もうその力も出そうになかった。
と、キーファが声を殺して笑っているのか、鉤爪から震えが伝わってきた。
「くくっ……まさか覚醒が進んでいるのか……?
そうか……あの魔女が言っていたのはこういうことか! 絶望とは希望を与えないということではない! 希望を与えた上で奪う! これがお前の絶望か……!」
キーファは耳障りな声で笑い、その度毎に彼の身体はなすすべなく揺さぶられた。
「お前はこの子にとってちょうどいい希望になってくれたよ! 本当の絶望を教えるための、最高の前菜だ! ……はっ、もう聞こえていないか」
彼は力なく四肢を垂らしていた。キーファは彼を放り投げた。ユーリはゆっくり、本当にゆっくりとした歩みでそれに近づいていった。
彼女が触れた彼の手は、彼女が毎日居た部屋の床より冷たかった。
彼女の髪がぶわりと逆立った。
瞬時に様々な感情――罪悪感、失望、後悔、悲しみ、虚しさが去来したが、一番の感情は『自分を消したい』という気持ちだった。
そう思うことが彼に対する一番の償いに思えた。
「いいぞ! そのまま魔王に――!!」
キーファの喜色の声は驚きに遮られた。
死んだはずの彼が、ユーリの腕を掴んでいたために。
「!!」
「なっ……!!」
彼はがくん、とまるで生きているとは思えない動きで上体を起こした。生気のない、虚ろな目を向ける。
「お……にいちゃ……」
ユーリが怯えた目でそれを見つめる。と、彼は口の端を上げた。
「怖がらせて悪かったな。ちゃんと生き返ったよ」
「バカな!! 確かに殺したはず!!」
キーファが驚愕しながらウィルを指差した。彼はユーリの頭をぽんぽんと撫でながら立ち上がった。
「だから、死んで生き返ったんだよ。俺にはアンデッドの呪いがかけられている」
「アンデッドの呪い……だと……。冥界の王からのギフトをお前ごときが……?」
「お前さ……ごときとか言うのやめろよな」
ごきっと首を鳴らしながらキーファに近づく。
「ギフトじゃない。呪いだって言ってるだろ。
この力はなるべく使いたくないんだ。使う度、俺の心が死んでいく気がするし。それに」
「……?」
彼は慄きながら彼の次の言葉を待つキーファの手にそっと手を伸ばした。まるで優しく包み込むように、微笑みながらその手に触れた。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
突如キーファが全身から血を噴いて痛みに絶叫した。
「すごく地味な能力なんだ。剣どころか拳すら使わない」
「痛いぃ!! お前! 私に一体何をした!!」
彼はキーファのとぐろを巻いていた長い肢体を振り返った。それは最早走ることなどとてもできない、無残な状態になっていた。
「『自業自得の感傷』ってあいつは呼んでいたな。『人の痛みを知れ』。つまりお前が今まで他人に付けた傷をお前自身が受け取る羽目になったというだけだ。
随分人を痛めつけていたみたいだな。まぁ、大戦になんて参加してたなら、それは凄絶なもんだろうな……」
彼はすらっと剣を抜いて、冷たい目で呻くキーファを見下ろした。
「よく即死しなかったな。けど、どうせそのままじゃ苦しんで死ぬだけだ。いいよ、俺が介錯してやるよ」
「……!!」
彼が剣を振り下ろそうとした時――
どん、と腰に何かがぶつかった。ユーリが彼にしがみついていた。
「ユーリ……」
彼女はふるふると首を振った。
「おにいちゃ……キーファ様、殺しちゃだめ……!」
「気にしなくていい……こんな奴に生きる価値なんて……」
(ユーリの価値を勝手に決めるななんて言っておいて、俺も結局同じだな……)
彼は剣を下ろして鞘にしまった。しがみつくユーリを安心させるように頭を撫でた。
「ごめんな、こんなところをお前に止めさせるなんて。大人としてまだまだダメだな」
彼の雰囲気が和らいだのを察して、彼女もまた彼を見上げて微笑んだ。
(初めて笑ってくれたな……)
「お前は本当に優しい子だな」
「くそっ!! くそがっ!! ……あと少し……あと本当に少しであの御方が戻れたのに……」
キーファが拳で地面を叩き、血を吐きのたうち回りながら叫んだ。
「お前のせいで……呪ってやる……」
ウィルはユーリを抱き上げてキーファから離れようとしていた。何かするつもりかも知れないと警戒していた。何もする余力など無いはずだが。
「あいにく俺はもう呪いはお腹いっぱいなんで」
「お前じゃない」
キーファはにぃっと顔を歪めた。
「185番。
お前には価値が無い。お前の周りの者はお前に落胆してお前の元を去るよ。誰もお前自身を受け入れない。これから先もずっと、お前を愛する者など現れない」
「!!」
ユーリの方をぱっと振り向くと、催眠術にでもかかったかのように、また何も光の届かないような暗い目に戻っていた。
「てめっ……!!」
「組織は広く強大だ! 私が失敗しても、また誰かがお前を魔王にするさ!!
くくっ、アハハハハハハ!!!」
キーファがユーリの表情を見て満足気に笑い出した。
そして彼女は笑いながら業火に包まれた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
最後にリリスに蹴飛ばされた高台までやって来た。二人が安全な場所まで来るのを見計らったかのように、施設が爆炎を上げた。
抱いていたユーリを下ろして、その光景を並んで眺めた。
(お前を囲っていた箱が壊れても……お前の心は救われないんだろうな……)
ユーリはただぼんやりと目の前の光景の方を向いているだけで、何の感慨も示さなかった。
「ユーリ……お前にこれまであった事、それに今日あった事は忘れていい。むしろ忘れてほしいくらいだ。だけど、俺の言葉を憶えていてくれないか」
彼はしゃがんでユーリの暗い目を覗き込んだ。
「お前にはこれからたくさんの出会いがある。お前はまだ何も知らない。まだまだこれからなんだ。きっと毎日感動するよ。
まだ足を踏み入れたことの無い場所に行ったり、新しい事を教えてもらったり、自分で発見したりして胸が熱くなる感覚を経験する。温かいスープでお腹を満たされて、柔らかい布団で眠る幸福を知るよ。息ができなくなるくらい笑って、それを誰かと分かち合いたいって心から思えるやつに巡り合うよ」
ユーリに話しているはずなのに、自分のこれまでの冒険のことを思い出していた。
「許せない、って思う奴も、受け入れられない奴もいるけど、きっとお前を認めて受け入れてくれる奴もいるよ。
信じられないほどバカみたいにひたむきな奴もいるし、優しすぎて見てる方が泣けてくるような奴もいるんだ……」
(別れるのは辛いけど、会わない方が良かった、なんて思わない……)
思い出すと胸がどうしても痛むが、温かな気持ちだって広がるのだ。世界を冒険していて、やっと会えた、かけがえのない人たち。
「見つからないって言うなら探しに行け。世界のどこかにきっとお前に会えて良かったって言ってくれて、お前自身が会えて良かったって言いたくなる奴がいるから。
……少なくとも、俺はお前を絶対に助けてやるから」
その時、山間の隙間から、朝日がさしてきた。
眩しさに目を細める。
ユーリもまだ暗い目をしてそれを見ていたが、朝日の反射で目がきらりと光ったと思ったら、また涙が零れていた。
それを見て、安心して笑ってしまう。
「大丈夫だ……大丈夫だよ、ユーリ」
泣きじゃくる彼女の頭を撫でる。
「こんな所にいたんですね!!」
後ろでリリスが声を張り上げている。
「まったく! 散々探しました……」
リリスがウィルの背中越しにユーリの姿を認め、息を呑む。
「あぁ…………本当に……ずっとお会いしたかった……」
リリスは目尻を拭うと、ユーリの側にゆっくりとしゃがみこんだ。
「私は魔女リリス。あなたをずっと探していました。あなたのお名前は?」
ユーリは怯えているようだったが、ウィルが頷くのを見て、リリスに視線を戻した。
「……ユーリ」
「ユーリ」
リリスはほぅ、と溜め息をついた。
彼女は躊躇いがちに、ユーリに向かってゆっくりと手を伸ばし、その頬に手を触れた。
「ユーリ、私の小さなお姫様……会いたかった……」
リリスはユーリをゆっくりと抱きしめた。よく見えないが、リリスは泣いているようだった。
ウィルは立ち上がって小さく息をついた。
「これでリリスの依頼は完了だな」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数年後、あるギルドの扉の外で、小柄な少女が行ったり来たりを繰り返していた。
受付のニッツは堪りかねてドアを開く。
「あの……お客さん……?」
少女はぴゃっと飛び退く。
「あ! 私……客じゃないんです! ここのギルドマスターに会いたくて……」
ニッツはその少女の瞳の輝きに目を奪われる。まるで吸い寄せられるような明るさを讃えた瞳だった。
その時ちょうど、彼らの待ち人が帰ってきた。
「お帰りなさい、ギルドマスター! ちょうどお客さん……じゃない、ええと、まぁお客さんがお見えでした」
ウィルは驚きに目を見張り、ふっとその表情を綻ばせた。
「お前……大きくなったな」
少女は少し照れくさそうに、それでもウィルをしっかり見上げた。
「冒険をしに来たの。もっと……もっと出会いたくて。私、冒険者になりたいの」
少女は花が咲くように笑った。