10
6月もあと少しで終わろうかという日、空は相変わらず灰色だった。雨は降っていなかったけれど、どんよりとした空気は変わらなくて、私をより一層陰鬱な気分にさせる。
家の近くにある、東西に貫く大通りと南北に貫く川が交差する橋の袂で、待ち人を待つ。河川敷にあるちょっとした公園みたいなところで遊ぶ親子をみて、純粋に幸せそうだなぁだなんて思っていたら、目の前に黒いポルシェが停まった。もしかしてと思って窓を覗いたら、久しぶりに見る彼女の姿があった。
「久しぶり、凜ちゃん」
「……お久しぶりです、桐ケ谷先輩」
先日の電話の相手で、今私が一番会うべき人。それは相手も分かっていたから、少しだけピリリとした空気が流れる。
「ま、ここで話すのもなんだから、横乗ってー」
「はい、お邪魔します」
私は恐る恐るドアに触れて、ゆっくりと乗り込んだ。
「改めて、お久しぶりです。桐ケ谷先輩」
「お久しぶりー。もうこっちに来て3ヵ月くらいになるだろうけど、どう?慣れた?」
「最初は戸惑いましたけど、もう慣れました。大学の友達もいい子ばっかりで、楽しく過ごせてます」
「じゃあ安心だ。……ところでさ、もうお互い大学生だからそんなに固くなくていいのに、ね?」
「いえいえ、慣れた呼び方ですし」
「そう?ならいいけどね」
先輩はきょとんとした顔で、私を見る。昔と変わらない仕草に、かつての景色が少し見えた。
「それにしても随分と変わったね、凜ちゃん。眼鏡じゃないし、服も可愛らしいのだし……。あとお喋りも!昔の凜ちゃんからは想像出来ないかも?」
「そんなに違いますか?」
「うんうん、同一人物じゃない位。こっち来てから?」
「いえ、実は先輩が卒業した後から、少しずつ変えてたんです。最初に眼鏡をやめて、髪を綺麗にして。そこからちょっとずつファッションについて勉強して、って感じです」
「なるほどねー、凄いな。私なんて高校の時と何にも変わってないよー」
「先輩はそのままでも十分綺麗ですよ?」
「お世辞?でもありがと」
上っ面だけの会話が、緩やかに流れていく。
「それにしても先輩、車持ってたんですね。買ったんですか?」
「違う違う、これはお父さんのお下がり。去年免許を取ったときに貰ったんだ」
「なるほど。そういえば昔、先輩のお父さんが乗ってたのを見たことがあった気がします。一回校門までこの車で迎えに来てませんでしたっけ?」
「あーそんな事もあったね、まさにその車だよ。とは言ってもあんまり乗ってないけど」
「そうなんですか?」
「市内の移動は電車か自転車で事足りるからねー。朝と夕方は派手に渋滞するし、乗るのはどこかにドライブに行く時くらい。だから今日は特別」
「特別、ですか……?」
「大切な後輩にちょっと格好つけたかったから、かな?」
少しだけ顔を朱に染める先輩を見て、あの人もこんな彼女を好きになったのかなと、思った。
車は川沿いの道をどんどんと下って、窓から見える街並みは段々と背が高くなっていく。
「じゃあそろそろ、この間の電話の続きでも、しよっか」
「……はい」
「ええとね、別にそんなに身構えなくていいよー。もっと気楽にね?」
私はそれでも、黙って頷く事しか出来ない。
「最近ねー、京くんにさ。可愛い女の子のお友達が出来たってサークルで噂になってね。まあサークルの子が見かけたらしいんだけど」
「……」
「栗色の長い髪で、いかにも女の子らしい服を着た美人さんらしくて。お前には不釣り合いだーって男の子たちに羨ましがられてて」「……そうなんですか」
「そそ、でも私その子に心当たりがなくて。何しろ京くんって孤独体質だし、頑固というか思い込み激しいというか、そんな奥手な子だからさ」
「……はい」
「でね、この間私紫陽花見に行ったんだ、宇治の三室戸寺に。そしたらなんと京くん見かけてさ、それも噂の女の子連れてる。その子をよーく見たら凜ちゃんで、私ビックリしちゃったんだ!」
やっぱりあの時見られてたんだと気付いて、私の顔はどんどんと強張っていく。
「それでね、なーんだと思って。その勢いでそのまま凜ちゃんに連絡したんだー」
「……なるほど、分かりました」
「それでね、少しだけ質問」
彼女は眩しいほどの笑顔で私を見て、それでも恐ろしく冷えた声で私に質問する。
「京くんと付き合ってるの?」
「……いいえ、まだそんな関係じゃ無いです。ただの友達ですよ」
「まだ?」
「……そこまで先輩に言う必要、あります?」
「ないよ?それじゃ次の質問」
口元はニッコリとさせたまま、射るような目つきで私を見る。
「凜ちゃん、高校の後輩の凜ちゃんとして京くんと友達になった?」
一瞬、私の心臓の鼓動と呼吸とが、同時に止まった気がした。
「どういう、事ですか?」
「そのままだよ?だって京くんが後輩の凜ちゃんと友達になったならさ、私に言わない訳ないじゃん」
「……それは、先輩が夏目先輩と別れたからじゃ無いんですか?」
「あれ、それ話したっけ……?まあそうだとしても、私に言わないなんてこと、絶対に無いよ」
「……」
私は何も言い返せずに、黙り込む。彼女と彼の絆の強さを知っていたから。
「私ね、去年の冬に京介と別れたんだ。凜ちゃんは私が彼と付き合ってたことも知ってるんだよね?」
「知ってるも何も、高校時代からずっと一緒だったじゃないですか」
「え?あー……あの時はただの親友関係だよ?付き合ったのは大学に入ってから」
「そ、そうなんですか?」
「そそ。それで別れちゃったんだけど、また最近仲直りして、親友に戻ったんだ」
「そう、なんですか」
それだけであんなに元気になれるなんて、先輩にとって桐ケ谷先輩がいかに大切な人か、痛いほど分かってしまって、悲しくなる。
「だからさ、適当に京くんと付き合うのは止めて欲しいな。自分の正体も名乗らずに昔の知り合いと付き合いをするなんて、どうかしてるよ」
「ごめんなさい……」
「まあ気付かない方も気付かない方だけど!京くんは色々あって、高校時代周りの物事なんて見る余裕なかったから仕方ないけどね。顔どころか存在を覚えられてない人がほとんどだし、凜ちゃんの顔も覚えてなかったのも仕方ないよ」
「……そうですね」
私が先輩に覚えられていないことも、本当は分かっていた。いくら容姿が変わっていたとしても、これだけ会っていて気付かない訳が無いのだから。けれども見ないふりをして、彼と同時に私も騙しながらレンタルされていた。
「だから、今後付き合いをするのなら、正体を隠すだなんて事はしないでね。親友として見過ごせないから」
「……はい」
私には、断る事なんて出来なかった。
車内に重苦しい空気が漂う。けれども少しすると、彼女はにこりと笑って、項垂れる私に話しかける。
「はい、お説教パート終わりー」
そこには、もうあの恐ろしい先輩はいなかった。
「ここからはね、凜ちゃんへのお願い事」
笑顔のまま、それでも何処か儚げに、彼女は言う。
「京くんを、よろしくね?」
予想だにしない言葉に、私はただ驚くことしか出来ずにいた。
いつしか、車は路肩に停まっていた。
「京くんはさ、私と付き合うと不幸になるから」
桐ケ谷先輩は涙を堪えて、そう言う。
「付き合ったタイミングもあったんだけど、結局私は京くんの本当の彼女にはなれなくて。それで彼にすっごく負担をかけちゃったんだー。それで、これ以上辛い顔を見たくないと京くんと別れたら、余計に彼に辛い思いをさせちゃって」
潤んだ瞳からツーと涙が流れ始めても、彼女は語り続ける。
「結局我儘言って仲直りして親友には戻れたけど、やっぱりまだ京くんは私に対して辛い思いをしてると思うんだ」
「そう、なんですか……」
「でもね、4月頃から少しずつ元気になっていったんだ、京くん。多分、凜ちゃんのお掛けだよ?」
「え……?」
「紫陽花を見ながら手を繋いで、二人とっても幸せそうだったよ?」
「……はい」
「だからさ、京介を幸せにしてあげて、葉月さん。私には出来なかった事だから」
大粒の涙を流しながら、嗚咽交じりの声で、それでも力強く私の手を握って、彼女は私にお願い事をした。
結局あの後先輩は直ぐに泣き止んで、お目当ての喫茶店に着くころにはいつも通りの眩しい先輩に戻っていた。それから美味しいコーヒーを飲みつつ、エレ研時代の事とか、盆休みに集まる事だとか、色々と話したけれど、私の心には彼女のお願いが染みついたままで。彼女と別れて家に帰ってからもそれは変わらず、結局ベッドで意識を手放すその時まで、ずっとずっと彼と彼女の事を考え続けていたのだった。
一話終わり。次から主人公視点に戻ります。