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人生の全てが悲劇的という訳ではなく、時には喜劇だって起こりうるのと同じように、梅雨の季節であっても、時折晴れる日は訪れる。梅雨に飽きていた人々がこの晴れの日に心を踊らせたからか、今日のキャンパスは天候以外の面で見ても、間違いなく朗らかだった。
「凜ー、今日の夜って開いてる?実はさ、他所の大学の男子と合コンするんだけど、数がまだ揃ってなくて……」
「ごめん杏、今日はちょっと用事が……」
「えーまたー?さては……男でも出来た?」
「違うよっ、単なる用事だって!」
当たらずと雖も遠からずの答えに、少しだけ驚く。そんな私に、彼女は更に勘違いしたようで。
「いいねぇ美人さんは、彼氏さんはさぞイケメンなんでしょうなぁ」
「もーからかわないでよー!ごめん、また埋め合わせするから!」
「はいはい、いってらっしゃーい」
と、まるで戦場へと向かう戦士に接する様に、私を見送ったのだった。
こんな風に友達に誘われる事は、仄暗い高校時代を思い返してみると凄くありがたい事だ。けれども今日は4時からレンカノの予約が入っているから、私は渋々その誘いを断って教室を出て、駐輪場へと向かった。
ズラリと並ぶ二輪車の右から3番目、水色のベスパのロックを解除して、チョークを引き出したら、思い切りキックを踏む。3回位踏んだらぼっぼっぼっと小気味良い音が鳴り始めので、ボディとお揃いの青白ツートンのヘルメットを被って、ベスパに跨がる。こうして初めて走る事のできるレトロな機械は、普通に考えれば面倒臭くて敬遠されがちなのだけれど、私は逆にその面倒臭さこそを愛して止まないのだ。加えて此処のところ雨ばかりでバス通学をしていたから、久しぶりのこのひと手間に、余計に心が踊った。
山の奥にある大学から坂を下って、街中の自分のマンションを目指す。昨日までと一転からりと晴れた空の下、小さなスクーターに跨って街を駆け抜ける。一つ、また一つと通りを過ぎて行けば行くほど、どこか遥か彼方に飛んでいけるような気がして、どんどんとギアを上げていく。そのスピードに耐えきれずエンジンが悲鳴をあげる頃、私は予定より遥かに早い時間に帰宅した。
「あーあ、調子に乗って飛ばしすぎちゃったかな?」
誰に言うでも無く呟いたら、少し反省しながらバイクを停めて、階段を登り自分の部屋に入る。少し散らかった部屋の端っこに放り出された卓上時計を見て、レンカノのデートに向かうまで暫く暇だから、友達と少し話そうかなとスマホを開くと、久しぶりに見る名がそこにあった。
「桐ヶ谷先輩からのメッセージがニ件……か」
『お久しぶり!高校以来だね!?』
『突然だけど通話できないかな?今年エレ件の元部員のみんなで集まろうと思ってて、それについて話したくて』
私は少し迷いつつも、結局桐ヶ谷先輩に電話を掛けた。
「もしもし、葉月です。桐ヶ谷先輩、お久しぶりですね」
『久しぶりー凜ちゃん。元気してた?』
「はい、お陰様で。先輩こそいかがお過ごしですか?」
『うーん、まあぼちぼちかな。色々あったけど、今はそこそこ楽しく過ごしてるよ』
その言葉は嘘の様には思えず、先輩が話していた問題云々はやっぱり桐ヶ谷先輩の事だったんだろうな、と少し思った。
『さっそく本題に入るとね、今度のお盆休みに元部員達で集まろうって話になって。それも元部長の希望でね』
「そうなんですか……」
少しだけビクリとして、私は相槌を打つ。
『他の子は京くんから誘ってもらうんだけど、数少ない女の子の凜ちゃんには私から誘ったほうがいいかなーって思ったの』
「なるほどです。……それにしても何で今年からする事にしたんですか?」
『去年は京くんにそんな事する余裕が無かったからね、色々とあって。それが落ち着いたから、盆に同窓会的なものをしようと思ったんじゃないかな』
夏目先輩に桐ヶ谷先輩、両者共に色々あったと言うけれど、果たして二人は去年どんな関係にあって、その上に何が起こったのだろうか。直接彼女に聞こうとした言葉は喉元まで出かかって、だけど臆病な理性がそれを飲み込ませたから、私は代わりに単なる相槌を呟いた。
『そういえば、私凜ちゃんに謝らないといけないことがあって……』
「えっ、何ですか?」
見に覚えのない謝罪に、私の心は少しだけ震える。
『凜ちゃんも今年の春からこっちに出てきたんでしょ?本当なら私とか京くんで後輩を迎えなきゃいけないのに、サボっちゃって電話だけで済ましちゃったから』
「いえいえ、先輩もお忙しかったんでしょ?電話でそう言ってたじゃないですか……。それに、街は一緒ですけど通う大学は違うんですから」
『そうなんだけどねー、やっぱりそこはきちんとすべきだったなって反省してるの。だからさ、また今度、来週辺りにでも二人でお茶しない?遅めの歓迎会的な感じで』
電話越しだとアレだけれど、直接会えば少しは先輩の色々を知れるかな、と私は軽い気持ちで「はい!是非行きましょう」と答えた。
『りょーかい、また来週開いてる日を後でLINEで教えてねー。あ、最後にも一つ』
桐ヶ谷先輩は不自然なほど艶かしい声で呟く。
『凜ちゃん、紫陽花が好きなんだね。私と同じで』
唐突なその言葉に私は不意をつかれて、えっ、とも言えぬまま凍りつく。暫くしてなんとか一言発そうとした時には、既に電話は切れていた。
メインのお話で初めての凜視点。