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元子と  作者: 久木
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同僚として

元子に出会ったのはいつだったろう。


彼女とはある職場で出会った。


私、久木は地元のコンサルタント会社に期限付きで他社から応援に来た真面目なサラリーマン。既婚29歳、子供2人。


第一子が生まれる時に、子育てと妻への負担を考え、妻の実家へ住み始めた。しかしそれが失敗だった。義両親から何かと言われる日々に耐え忍んでいたが、義両親の味方となった妻との愛情は一気に覚めていく一方だった。それでも仲直りにと2年して二人目を設けるが、妻に病気が見つかり、妻と義両親から家を出るように言われる。


そうして実家に戻ったのだった。


当時の私はささくれだっていた。妻に棄てられたと言う思いから、酒に溺れ飲み歩く日々だった。


しかし私は、自分を裏切らない女性を探そう、例え仮初め、一時だけの愛情だとしても、と言う考えを抱き始めていた。


弱かったかもしれない。しかし当時の私は、今もだが、到底妻を信用する気には成れない。


そんな中、元子は何気なく接してくれる同年代の女性だった。私のプライベートなど彼女は知る由も無かったろう。



元子に出会ったのは、秋に私が実家に戻る、その年の、春頃であった。


5月半ば。職場に新しい仲間が来た。何でも社長の新しい秘書らしく、スマートな女性らしい。前の秘書はワンマン社長のワガママに耐え兼ね、半年でやめてしまった。


今度の方も危篤だなぁと同僚と話つつ、新しい秘書がどんな女性なのか、その時は何も気にしていなかった。どうせ直ぐ辞めるやろと。


私は企業の金融コンサルタントとして、銀行から期限付きで派遣されている。私のチーム:経営向上課は、相談を受けた企業の経営計画作成から、補助金取得審査、他分野のコンサルタントの派遣まで手広くカバーしている。チームは20名。私はその中の男性職員では一番若く、次いで若い証券会社出身の大東とはよくつるんでいた。また飲み友達と言う点では、商談課の南山ともつるんでいた。南山は地元のライバル銀行から派遣されている、好色漢だ。


私はその中でも特に若いだけに飲み会の幹事もしょっちゅうで、若い奴らだけの飲み会も時々企画していた。


ところで秘書は総務課に所属しているが、総務課の部屋は、経営向上課の部屋の隣なので、総務課長の決裁印を貰う際にはよく行き来していた。


そんな私は、元子が来て数日後、総務課長の印を貰いに総務課へ行った。ふと彼女と目があって「こんにちは」と短く挨拶した。元子の印象は、少し控え目な、でも正に清楚と言う言葉が似合う女性だった。黒い髪は後ろで上げていて、細いスレンダー、いや華奢と言って良い、には白いジャケットが似合っていた。歳は2~3私より上の印象だったか?


5月は、上期募集の補助金の審査に忙殺されただただ過ぎていった。毎日が終電。どうせ早く帰っても義父のありがたい指導を頂くだけだ。義父がわめきだしたら、義母も妻も子供を連れて寝室へ逃げる。それよりとにかく働いてる方が充実しているし、残業代はなかなか手厚い。働けば働くほど、金が貰える、知恵を捻れば捻る程、相談企業が喜んでくれる。楽しかった。


6月、40歳までの若手だけで飲み会を企画することにした。うちの会社は50歳以上が半数以上を占める極端な構成であり、若手だけで飲み会をすることで、普通の会社と言うものは何か、と言うこと味わいたかった。


大東と南山と、地元、居酒屋を調べる。当然、若い女の子を呼びたいので、お洒落な飲み屋を探しまくる。南山が居酒屋を調べ、私がメンバー集めを行うことにし、大東が二人のサポートとなった。私は手始めに、よく可愛がっている女性の後輩の日野と山城の二人から誘う事にした。日野は24歳。山城は27歳。どちらも三人で飲みにつれったこともある。まず、だれか女性が来ると成らないと、他が集まらんからな。


そうして他の課の歳の良く似た男女をみなに声かける。


そして、集まってくると、元子をどう誘うか考える事にした。元子だけは社長秘書と言う立場もあり、何だかハードル高めだ。しかし仲良しと思われる日野と山城が来ることは確定済みだ。


その勢いで元子を誘う事にした。


「どーも、経営向上課の久木です。実は若手だけで飲み会を企画してまして。どうですか? ちなみに、日野さんと山城さんは勿論来るよ(笑)」

「あはは、誘いに来ると思ってました。分かりました。よろしくお願いします。」

なんと意外に簡単だった。何かハードル高そうだったんだが。しかしこの受け答え。さすが秘書やなぁ。


そうして若手の飲み会が始まった。場所は駅前近くの創作料理店。この店は近くのスペイン料理店の姉妹店で、お洒落なお料理が自慢の店だ。

「皆さん、今日はありがとうございます。固い話は抜き!飲みましょう!」と乾杯の音頭は私が取った。

初めの1時間、ひたすら盛り上げるために私は懸命で、南山と冗談ばかりを言っていた。

そうして、皆もそれぞれの、仲良しを見つけて話し出のを見計らい、私も適当に話し出した。

元子は私の左手一個向こうに座っていた。

元子から「久木さんていくつなんですか?」と聞かれ、

「髪は少ないですが、29です(笑)」

「そんなぁ、普通じゃないですか?じゃあ私と一個違い何ですね」

「そうなん? あ、すみません、先輩に対してこんな口の聞き方」

「良いですよ、殆ど同い年じゃない。特におじいさん多い職場だから、一つ二つなんて、同い年と一緒よ」

「確かに(笑)」

元子と普通に話したのはこれが始めてだった。清楚で少し話し掛けにくい見た目とは裏腹に、話すと、とても気さくだった。

それからと言うもの。元子とは合えば挨拶するぐらいの関係で、何も進展は無かった。


7月、補助金の二次審査会が連日続き、昼は審査会、夜と休日はテープから議事録起こしで潰れつつ、経営計画審査業務についても同時にこなさねばならない日が続いた。

経営向上課には、義父の元部下がおり、私の仕事振りを義父に伝えてるようだった。そんな事もあり、職場でも自宅でも銀行員としての気構えを崩せない日々だった。

土日は相変わらず、義父から説教される日々。始まれば2時間は覚悟せねばならない。妻は、そんなときは他人のふりだった。

私は深い孤独感を味わいながら、家に帰りたいわけもなく、毎日終電まで働くことで、家族と顔を合わさないようにしていた。たまに経営向上課の飲み会が有ると、ストレスからか飲みすぎてしまう。

そして二日酔いで帰るとまた義父母に色々言われる。正直限界だった。妻と一緒に寝られる訳でもない私に居場所は無かったのだ。私の味方になってくれない妻の態度。妻への愛情は覚め、憎悪と不信感に変わったのを覚えている。しかし二人目の子供を身籠る妻を手放しで恨む気持ちにも成れず、私は随分苦しんだ。


毎朝、私には出社すると日課があった。総務課へ経済新聞を取りに行き、県内企業の特集記事を切り出し、回覧すると言うものだ。新聞を取りに行くと、必ずと言って良いほど、元子に挨拶を交わした。少しのやり取り。しかし何気無いやり取りが、自分の中で、癒しの様なものに変わって行くのがわかった。


8月、またもや若手の飲み会を企画することになった。今度はスペイン料理屋。この会もそれなりに集まった。しかし元子と1次会では全く話さず終わった。そして大東や南山と2次会へ行くことになった。なんと元子も来ると言う。

そこで、元子と連絡先を交換した、だけだった。メール送ると迷惑そうな雰囲気がしたので控えた。一緒に2次会に参加した高川が元子に興味あり、いやかなりがっついていたのが、印象的だった。元子は、迷惑そうにしていた。高川は少しキザなところがあるハンサムボーイだった。


そんな折、8月末のある日の朝、妻が胸がピリピリ痛むと言う。妻はその日、病院へ検査に行くと言った。

結論は乳癌とのことだった。二人目の子供が臨月を迎えていた。緊急手術により、子供を帝王切開で産み、乳癌のら患部である右の乳房を切除すこととなった。

私は保険会社に連絡し、保険金の請求手続きを調べながら、上司に事態を報告し、手術の数日間休暇を頂くことにした。こういった時に休暇が取れるこの会社の仕組みは有りがたかった。


手術は無事に終わり、妻は1ヶ月の入院。子供は1ヶ月の集中治療室。上の子は妻の実家に居るまま。私は、妻の実家の母から、家を出ていく様に言われた。確かに妻の実家に負担はかけられない。迷惑かけるつもりも無いが、追い出されたのは明らかだった。

私は要らない人間なのだと思った。そう思いながらも、しかし、妻が死んでも、どんな手段を使っても生き残る事だけ決心した。そして自分の実家から職場へ通うことにした。

私は、高卒以来、ずっと家を出ていたが、意外な形で実家に戻ったのだった。


9月、程なくして職場に復帰し、忙しい日々が戻ってきた。経営計画審査の仕事については、他の補助金と絡んだ運用となり、申し込みが集中。管理システムをエクセルマクロで効率化してあったがそれでも、事務処理に終われる日々だった。


この月は、プライベートの事情が事情だけに、飲み会は控えていたし、行くわけ無かった。毎週水曜日、仕事が終われば病院へ行き、お菓子を買って妻と子供を見舞う。妻は初めの頃は何で自分が癌になったのかと言って、泣いていた。私は見守るしか出来なかった。そして妻の好きなお菓子と小説を買ってくぐらいしか出来なかった。妻が家で味方になってくれなかったこと、こんな風に励ましながら、心の底で愛想はとっくに尽きていること。そもそも妻が私を労ってくれたことは、妻の家に来てから一度も無かった。心の支えでも何でも無くなっていた。それは一度だっててを差しのべてくれた事など無かったから。そんな矛盾を心の中に抱えながら、しかし私は夫の役目として、妻を励まし続けた。自分の命をかけて、二人目の子供を生んでくれた事に変わりはない。子供たちの為にも生き延びてくれるなら、その意思があるなら、素直に有りがたかった。泣きたい気持ちもあったが、泣く暇が有るなら死ぬ気で働くことで、自分を保つことにした。そんな中、二人目の子供の存在もまた大きかった。小さくも、懸命に生きようとする命。私はこの子の為にも、何があっても生き抜かねばならない。そんな色んな気持ちを抱えながら、己こそ己の依る部なり、結局自分しか頼れないのだと、今更ながらわかった。


そうして、11月になっていた。妻と子供は退院。実家に戻り、両親と暮らし始めた。私はこの2ヶ月、休日出勤も繰返し、毎日終電まで働いていた。

気が付けば、来年の4月には銀行へ戻る。このコンサルタント会社への出向もあと半年。銀行へ帰るまでに、貪欲に何でも持ち帰ってやる、そんな気持ちが一層私を仕事に駆り立てた。

元子とは、廊下で会えば世間話をするぐらいになっていた。この頃、元子は「久木さん、あと半年でしょ?寂しくなるね。居なくなるなら私も辞めよっかな」「久木さん居なくなるなんて寂しいよ」とどこまで冗談かわからないが、お世辞を言ってくれる様になっていた。私も「元子さんがそう言ってくれると、何だか帰りづらいけど、頑張り甲斐があるよ」と答えるようになっていた。要は何だかんだ良い感じで話すようになっていた。


私は、プライベートが落ち着いた(訳でもないが)のを見計らい、大東と高川、女性陣は元子、日野、山城で飲み会を企画した。もとはといえば大東と元子と企画していたが、高川が元子に気があるとみんな分かっていたので敢えて誘うことにしたのだ。

そうして、3対3の合コン形式の飲み会を開催した。…しかし、結果は高川が暴走し、元子にばかり話しかけつつ、自慢話に終始する展開に終わった。押さえれなかった私は強い責任と失敗感を負いつつ、女性たちに申し訳ない気持ちになった。

翌日、高川は落ち込んでいた。しかし高川を二度と誘わないと言う点で、5人は一致した。


そんな折、あるイベントで、出演者の控え室の管理を大東と元子と3人で任される事になった。

待機時間が長く、仕事中にもかかわらず、大東と元子と色んな話をした。社内の噂話、生い立ち等々。

元子の気さくな性格。本当に話しやすい。自分を無理に作る必要なんて無かった。

家庭で居場所なんて無い、安らげる場所なんて無い。心がひび割れた私。心の拠り所などとっくに失った私。そんな私の心のひびに、元子の存在は染み込んで行った。職場の話しやすい同僚。年の近い女性。因みに妻の方が綺麗だ。しかしそんなことどうでも良かった。元子は私の事情など知らないだろう。しかし、気さくに優しく接してくれた。

元子の存在を有り難く感じた、忘れられない1日になった。元子の事を考えると、心が暖かくなる自分を感じていた。

イベントが終わり、始めて元子にお疲れ様とメールを送った。

「お疲れ様(^.^)今度、社長がワガママ言ったら、不味いコーヒー淹れたるんですか?」

「コマンドルスキー豆(笑)はい、本人は気付かないでしょうから、せめてもの腹いせです(^^)d 明日からまた秘書頑張ります☆」


そんな二人の共通のネタが出来た事が嬉しかった。

しかし、妻を、子供を裏切る事になってしまう自分を感じていた。何をイチャイチャ楽しんでいるのか。

ここまでだろう。許されるのは。


そして12月。今度は若手で忘年会を企画した。元子はもちろん参加。大東は珍しく欠席。南山と高川は参加。他も日野と山城のペアなどいろいろ参加。相変わらず、公の飲み会では元子とは話さなかった。元子は人気の女性になっていた。だから、ここで気さくに話すことはお互いに控える空気があった。私は、盛り上げようと南山と高川と上司の真似をしつつネタを言い合うことにした。

私は、元子がいつも私の企画した飲み会に出てくれるのが嬉しかった。忘年会はつつがなく終わり、この日は一次会で解散となった。


家で妻はしばらく落ち着いていたが、抗がん剤治療が始まり、入退院を繰返し始めていた。またもや水曜日は早く帰り見舞いに行く日々。妻は泣くことは無くなったが、手術の方法に疑問が出てきたらしく、この病院のやり方を批判し始めていた。私は、まずは生き延びれたことに感謝しようと言った。なんと励まして良いか分からず、添い寝しようとしたら、汚いからやめてと言われた。

私はやりきれない気持ちのまま、その日は帰った。


妻の実家に帰って、義父からなにか言われると言うことは無くなった。しかし義母から細かい小言を言われる事が増えた。何で小言いわれなあかんのやろ。人が死ぬ気で働いてんのに。疑問だらけだった。しかしいちいち覚えていない。娘を見てくれていることは有りがたかったが、自分の居場所が無いことは明白だった。


私の担当業務である経営計画の審査、添削業務と言うものがある。相談頂いた企業から出された計画の叩き台を、文字通り添削し、本審査に通るレベルのものに仕上げる。やり出したらつきっきりで一週間。終電中に打ったメールは朝5時には返ってくる。先方の社長さんも私も真剣にぶつかり合うが、その結果生まれてくる計画書は、何物にも変えがたい輝きがあった。そんなものを1ヶ月に4本程度作ってくのだが、12月は、10本の申請が来ていた。補助金の審査業務を並行して担当しており、前任者3人分の仕事が常に来る。忙しいが、今思うと死ぬほど楽しい充実した仕事だったと思う。当然土日も無いが。だからこそ、家での居場所の無さを仕事に求め、尚更埋没していった。


そうして年末のある日、昼食の食堂で元子と会った。一度ぐらいはとお昼を二人で食べる事になった。

元子はビートルズをよく聞くと言う。私も父の影響でよく聞くと言う様な話をした。その他に

「元子さんて、いつも上品にされてるけど、どこかの有名女子大なん?」

「ええー?久木さんが思ってるようなお嬢様じゃないよ(笑)共学の大学だったし、ほんとはもっとやんちゃです」

「ファッションがいつも上品だから、素敵なお家の方なのかなって思って(笑)秘書さんだもんね」

「この仕事あってるのかなって思う、社長わがままだし(笑)」

「元子さんみたいなスマートな方でもそう思うんや」

「久木さんは、ホントに銀行戻っちゃうの?」

「元子さんにそうやって言われると帰りたくなくなるよ」

こんな何気無い事を話してた。それで十分だった。彼女の気さくさ。人生に依る部も居場所も無くなった私。死ぬ気で働いても義両親に否定されるだけ。妻からは一切の労いもない。何も。そんなままで病気になって、私から文句を言う一切の権利を奪ってしまった。張り詰めていた気持を彼女との会話が、何気無い笑顔が溶かし、渇きひび割れた心の隙間に彼女の存在が染み込んで行った。恐らく何かが限界だったのだろう。


この日の夜からだった。元子の事を24時間考える様になってしまったのは。自分の理性で何度否定しても無駄だった。自分をいたずらに苛めるだけだった。元子の事ばかり考えてしまう。元子の事が沸き上がってくる。元子の事を考えると心が暖かくなる。妻を、子供を裏切る行為なのだと理性で何度自分を責めても無駄だった。大河の流れに、片手を浸して塞き止めようとするようなもんだった。そのまま正月休み中、沸き上がる元子への気持ちに流されそうに成りながら、悶々とした日々を過ごしていた。


はっきり言って早く年が明けて、元子に会いたかった。

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