Happily Ever After
五限の授業が終わると、いつも「帰ろう」と言って私の前を歩き始め、私よりも早く私の自転車の横に立つ。漕ぐのは私。私の自転車で私の帰り道なのだから、私は私のスピードで進みたい。そんなことお構いなしに、真由美は荷台の上に座って、絶妙なバランスをとりながら六キロメートル離れた駅までお喋りを続ける。
「ね、おかしいでしょう?」
というのが彼女の口癖で、私は面白くもなければ変でもない話に適当な相槌を打ち、乾いた笑いが風で巻き上げられ消えていく。飛ぶように過ぎた毎日は『いつまでも仲良しでした』とはならなかった。
一度読んだものは忘れないという天才肌の真由美は有名一流大学に進み、私は努力と運で二流大学に進む。高校の卒業式の日、真由美と二人乗りするのも今日で最後かと思っていたら、着物を着た上品な母親を従えて、彼女はこちらに寄ってきた。
「なんでいつも楽しくもない話に笑っていたの?」
だって、それが正しいと思っていたから。私は一瞬目を伏せて、初めて二人で帰った日のことを思い返した。
あの日、高校を出ると雨が降り出しそうな曇り空だった。夕焼けの赤を少しだけ映し出した空はミルクティーみたいで、私は喉をゴクリと鳴らした。高校を出ると老舗の喫茶店があって、さらに進むとパン屋さんがある。古い神社を囲む竹林を横目に見ながら大通りを進むと、歩道の段差が少ないので二人乗りにはちょうど良い。住宅街に入って小さな公園の手前にあった信号にかかった時、真由美は呆れたような顔でこちらを覗き込んできた。
「ね、おかしいでしょう? 笑うしかないよね」
入学してまだ数日。これが女子高生のノリなのかと勘違いした私は、真由美に言われた通り、笑った。笑いのポイントは全く理解していないけれど、そういうものだと考えることにした。ここて笑わないと真由美に悪いし、真由美の感性を理解できていないとは知られたくなかったから。そして、真由美に忠実にあろうと思った。それが保身に繋がると信じていた。
でも、そんな理由を今更言えるわけもなくて。私は桜の下で乾いた笑いを重ねた。真由美は母親の車で去っていった。
真由美にもほとんど友達がいなくて、私の他にもう一人いるぐらいだった。真由美は孤高のお嬢様だったし、そのもう一人の友達というのはクラス一の美人だったから、平凡な私は笑って繕って黙って傍にいることしかできなかった。いくらつまらなくても、友達のフリをしていれば、私は私の位置を作ることができたから。真由美は私の建前上の居場所であり、それ以上ではない。だから、高校を卒業して別々の道を歩むとなれば、もう真由美なんてお払い箱だ。
毎日真由美を荷台に乗せて自転車を漕ぐのは大変だった。太腿が日に日に逞しくなり、代わりに心が衰弱して痩せ細っていく。真由美は高校の最寄り駅から、毎日私が送り届けている大きな駅まで、ちゃんと定期を持っている。そこから彼女の家へ向かう電車は連絡が悪いことを知っているけれど、そんなの少し待てば済む話で私の労働と比べたら楽なものにちがいない。でも、私はなぜかどうしても『電車で帰りなよ』の一言が言えないし、真由美も決してそのことを言い出さない。私、何やっているのだろう。と、ぼんやりする時間が増えて、私の一人の時間を奪う真由美が憎らしくなる。真由美を撒いて、一人で帰ろうとしたこともある。でも結局教室から自転車置き場までの間で捕まって、ゆらりゆらりと二人乗り。私は早く開放されたかった。でも、開放のタイミングは私が決めたかった。少なくとも、あの日あの場所あのタイミングでなくても良かったのに。
真由美は勝手だ。
もうあんな女に振り回されてやる言われはない。
けれど、それらは何もかもが言い訳で、真実は私の抱える事情が全てだった。私の苛立ちと憤りの根源は真由美には関係ないこと。
温度の無い私の実家に私が息をつける場所は無い。私が私でいられるのは自転車に乗っている時だけだった。すごく大切で愛おしいプライベートな時間。でもそんなこと、真由美は知らない。知られたくもない。恥ずかしいもの。私は真由美の前ではいつも、格好をつけておきたいのだ。
あれから随分経って、社会人も十年目になった時。ふと思い立って真由美に年始の挨拶をメールした。一週間後、結婚して今は遠い地にいること。私がメールに添付した画像データがなぜか開けなくて、困っていることが書かれてあった。それがなぜかとても納得できた。
画像はいたって普通のJPEG形式。写っているのは、一度だけ二人で撮ったプリクラ。そっぽ向いた私と、幼い頃からのバレエ仕込みで姿勢の良い凛とした真由美が並んでいる。ど派手なキラキラデコレーションで盛っているにも関わらず、私の背後だけどんよりとした空気が見て取れる。
プリクラを見つけたのは引っ越し準備の途中だった。私は何もかも捨てて、もうすぐ世界一素敵な失恋をする予定になっている。長い実家暮らしから解き放たれ、面倒な上司や後輩、砂漠の中で砂粒一つひとつを拾い上げて小さな箱に収納していくかのような事務仕事からもサヨナラする。ほとんどの物は捨てた。とにかく身軽になりたくて、私の匂いをできるだけ消して、最後には私自身も消える。完璧な作戦。持ち物はスーツケース一つにしようと決めていた。
ゴミ袋が山のように積み重なる。それらが雪崩を起こして生き埋めになった朝、汚い絨毯から涎の糸を引きながら、私はプリクラを見つけたのだった。
プリクラの裏には丸っこい文字。私には書けない、可愛らしい線の集まり。
『これからもよろしくね』
真由美からの返事があった日、私は最後のゴミ袋の中にプリクラを埋葬した。そして、家を出た。
新しい街は都会だ。時刻表を見てから家を出なくても、駅に行けばひっきりなしに電車が来る。いろんな人が生きているんだなと漠然と思う。仕事を失くしたサラリーマンが家族に打ち明けることもできず、スーツを着て公園に佇む図に、私は少しだけ似ている。朝になったら地下鉄のホームへ向かい、何をするでもなく自販機で珈琲を買ってベンチに座る。不審者に見られないようにと気を遣うならば、こんなところに居座らなければいい。一方で、ここを動かなければならないという確固たる理由もないので、お腹が空くまで座り続ける。引いては寄せてを繰り返す人の波を眺めていると、自分がかろうじて社会を形作る歯車でいるように錯覚させてくれる。
これだけたくさんの人が生きていれば、一人ぐらい私のような人間を許容してくれるのではないか。そう信じて通り過ぎていく人を見つめ続ける。けれど、それはあくまで風景にすぎず、ピンとくる人もいなければ、誰かが私にピンとくることもなかった。
一度、やってみたかったのだ。失恋。誰かに期待したり、他人を信じたりできない私は、まだ一度も恋愛したことが無い。もしするとしたら、きっとそれは失恋になると予想している。そんな世間一般にはありきたりな人生イベントさえこなせば、少しは普通の人になれる気がして。私が恋愛に求めているのは、その独特の形式。好きだと言ってみたり、物理的に寄り添ったりするということ。そこに愛とか言う言葉で表現されるようなものが思い描けないので、結局のところ恋愛に失恋している状態なのだ。
そんな暮らしが十日目になると、私の方を訝しげに見る目もすっかり減ってしまった。萎んでしまった緊張感に物足りなさを感じてしまう。
その日、雑踏が私にもたらしたのは一冊の本だった。表紙カバーが無くなって薄茶の表紙がぐったりとしている。初めは黄色の点字ブロックの上にあったが、駆け込み乗車の巻き添えをくってホームの端、断崖絶壁のところでギリギリ踏みとどまっているのを見た時、それがたまらなく重要な物に見えてきて拾ってしまった。
表紙の絵だとかタイトルなんてどうでも良かった。どんな話なのかだけが気になった。捨てられたか、取りこぼされたか、はたまた運命の方舟からあぶれてしまったのかは定かではないけれど、そんな本の結末だけが知りたかった。
私は心の中で一つの賭けをする。背表紙から、ページを捲った。遊び紙があって、奥付があって、そして。
『そして、いつまでもいつまでも幸せに暮らしました。』
最後の一行に目が釘付けになる。
慌てて本をパタンと閉じた。
賭けに負けたのか勝ったのかは、まだ分からない。私は、この物語の結末を目指して生きようと思っていたのだ。それがまさか。
私は拾った本を胸元に抱いたまま、電車を待った。乗るべき電車は、きっと直感で分かると思った。
真由美がいつもスキップしていた『駅』というものに運命を委ねる。
「ね、おかしいでしょ?」
もしいつかどこかで真由美と再会したら、私のつまらない人生を語って聞かせたい。叶うならば、その物語のラストを『いつまでも幸せに暮らしました』で締めくくれますように。
私はもう、自転車に乗らない。前進する方法って、いろいろあるのだ。
電車が来た。扉が開く。
お読みくださいまして、どうもありがとうございました。
タイトルは、童話のラストでよくある『いつまでも幸せに暮らしましたとさ』の意味のつもりです。