「無神論者の理由」
記憶の残骸を見たことはない。
思い出せなくなったあの日やこの日の美しい記憶たちをどうして思い出せなくなったのか私にはわからない。
思い出しても嫌になるあの日この日の記憶がいつかのこの日には「そんなこともあったね」ってなっていることも知っている。
私は砂利を踏みしめた。
目の前に広がった荒涼とした風景に、虹色の霧が漂っている。
私はこの、その者にとって一番忘れてしまいたい記憶を思い出すと言われている土地まで来た。
私以外に人はいない。
私はゆっくりと足を進めた。ふんわりと人工甘味料みたいな香りが鼻につき、紫がかったピンクの風が目の前を掠めた。
私にとって忘れてしまいたい思い出とはなんだろう。
そんな苦しい思い出なんて私はここまであっただろうか。記憶の中に封じ込めている思い出なんて……。
ふいに大地が逆さになったような感じがして、空へむかって投げ出されるみたいな違和感――。
目眩、だったのだろうか。
意識を一瞬失っていたようだ。顔をあげて、目の前に誰かいたような気がして周りを見渡した。
周りにはたくさんの黒い人影。それが私の周りを通過していく。どこへみんな行くのだろう。わからない。
私はその影たちを追うことなく、誰かを探そうとして影の群と逆方向に走りだした。
誰を探しているのか私にはわかっているはずなのに、その名前が思い出せずに叫ぶことができない。
「誰か、誰かッ! 私の大切なあの方の居場所を教えて!」
影が大勢振り向いた。
どれも私の探している人を知らない様子で、しばらくしたらまた人の群れに戻った。
人の群れ、人の群れ、人の、群れ……。
これだけの人がいるのにどうして自分の大切な誰かが思い出せないのか。
あれも違う、これも違う、私は誰を愛したのか、誰が大切だったのか思い出せない。
「嗚呼、神様……」
堰を切るように呟く。
神様、かみさま…… 私はどうしてあなたの名前を思い出せないのでしょう。
今私はあなたがどこにいるのかも、何を言ってるのかも、かつてどんなであったかも、本からしか知ることができないのです。
そうしてそれをみるたびに私は「これじゃない!」と呟く。
ふと、目の前の足元に聖書が落ちていた。
私は腹立たしげにそれを手に取り、思い切り地面に叩きつけようとした。
「こんなもの! 私はお前など信じない」
そうして聖書が地面にぶつかろうとする寸前に、もう一度頭が疼いた。
気絶していたわけではない。
私は元いた場所に今も立っていた。
周りには虹色の霧が今も漂っているが、幻を再び見せてくれるようではなかった。
私はここに神様の名前を思い出すために来たわけではない。
ほんの興味本位だったのだ。何を忘れたいと思っているのか。
思えば私は主と呼んでいる、あの方の名前を知らない。
他が、誰が、どう呼んでいるかなどどうでもよい。
かつて繋がっていたと感じているその御手を、今の自分は握ってないことを思い出した。
一人でもやっていけると思った。
無神論者であってもいい。知らない神を信じるくらいだったらすべての神を否定しようとしていた。
私はあの方じゃなきゃいやだ。
私がずっとずっと昔、子供の頃よりずっと昔、赤ちゃんよりもずっと昔の頃に手をつないでいてくれたあの方のことを神と呼べなきゃ、それじゃなきゃ意味が無い。
意味がないんだ。
それなのに、私はそんなことさえ忘れていた。
(了)
お題:記憶
海外じゃ無神論者って言っただけで警戒されるらしいが、日本には無神論者多いですね。
宗教に免疫のない国だから、自分がどの神様を信じたいのかわからない人も混じってそうだなと思います。
無信仰、多信仰、無神論者の区別はつきづらい。