七話
美春は家に帰ると、まずはお弁当箱を洗って片付けた。
自室で制服を脱いでハンガーにかけ、そっと手でなぞった。
(楽しい事も、色々あったよね……)
ぼやぼやしていては、両親が帰宅してしまう。
まだ17時前。定時前に帰宅する事はないだろうが、今両親に会えば決心が鈍ってしまうだろう。手早くGパンとTシャツに着替えた。
昨日荷物を詰め、押し入れに隠しておいた旅行鞄を取り出す。学生鞄から筆記用具とノート、財布を取り出し旅行鞄に移した。
お金は、帰りにキャッシュコーナーで引き出して来た。お年玉やお小遣いをずっと貯めて来たお金だ。二十万円ある。銀行の封筒に入ったお金を、旅行鞄の奥に詰め込んだ。携帯の充電器も入れる。
もう戻る事はない。
美春は忘れ物がないか部屋を見渡した。
誕生日に貰ったぬいぐるみや小物。お気に入りのクッション、ベッドカバー。本棚にはたくさんの本やCD。
何度も何度も読み返したお気に入りの一冊を、そっと手に取った。
ハードカバー製本の分厚く重い本。童話を作者独自の世界観でコミック化したその本は、コミックなのに6千円近くして美春には手が出せなかった。
だが、諦めきれずに本屋へ行くたびに何度も手に取る姿を見た母が、こっそり誕生日プレゼントにくれたのだ。包みを開けた時の喜びが蘇る。ずっしりと重たいその本のページをぱらぱらとめくり、迷いながらも鞄に入れた。最後に家族写真が入った写真立てを入れて、これでおしまいだ。
両親に手紙を書こうと思ったが、何を書けばいいのか思いつかない。
『ありがとう』
それだけを便箋の中央に大きく書き、ダイニングテーブルに置いた。
立ち去ろうとして思い直し、追加で小さく書き添えた。
『ごめんなさい』、と。
その日から美春は、琥珀の元に身を寄せた。
目的もなく、ただ時間をつぶすだけの日々。
子狐達に追い立てられるように、掃除や洗濯をし、自分は食べない料理を作るだけの日々が始まった。
美春の両親は警察に届けたが、置き手紙から家出と判断された。警察は積極的に動こうとせず、見つかったら連絡しますと言うだけだ。
両親は仕事を交代で休み、街頭に立って行方を探し始めた。
その頃美春は、気を操る訓練を行っていた。それが出来れば、次は人の認識を狂わせる訓練を行うそうだ。
教えるのは不親切な教師、琥珀だ。
「ただ飯食らってないで、少しは建設的な事をすれば?」
そう言われた。定期的に琥珀の血をもらっている身で、反論は出来なかった。
何でも、気を操るのはすべての基本なのだそうだ。
「人の認識を狂わせる? 何のために必要なのよ」
琥珀は、自分は神狐だと言っていた。人をだます為の力なのだろうか。
「あんたさぁ。いつまでもここに籠っているだけのつもりなわけ? 死なないあんたには、長い時間がある。あんたを知っている人間が死に絶えるまで、ここに籠るのか? ま、好きにすればいいけど?」
「覚えれば、外に出られる?」
「その姿を変えれば、人間には分からないだろうよ」
人の認識を狂わせる、いわゆる幻術が使えれば、姿が変えられる。そうすれば、両親の様子を見に行けるだろう。しばらくは近づくつもりはないが、遠くからでも姿を見たい。そんな思いから訓練を受け始めた。
琥珀との訓練の他に、美春は子狐達に体術を習い始めた。
何度か力かげんを誤り、障子やふすまに穴を開けてしまったのだ。もちろん修復も自分でやったが、その時骨組み自体を壊しかけて二匹にどつかれた。不器用ではないはずの美春だが、力かげんが上手く行かないのである。
そして、怒った子狐達に体の使い方を学べと詰め寄られたのだ。
渋々承諾させられた美春の前で、黒と白の子狐は小学生くらいの少年の姿に変化した。
背格好はどこにでもいる少年なのに、琥珀と同じくその美しさに思わず目を奪われる。
「師匠と呼べ」
黒髪の少年が言う。
「先生と呼べ」
白髪の少年が言う。
対戦など、アーケードの格闘ゲームを何度かやった位の美春である。打ちかかって来いと言われても、どうすればよいのかが分からない。何よりも、子狐の姿よりはましだが、自分よりも小さな少年に拳を向けられず戸惑う。
子狐は美春の戸惑いなどまったく意に介さず、容赦なく打ち込んで来る。
「黒師匠! 女の子の顔を狙うなんて、最低!」
「美春だから、どこを狙ってもいい。黒って言うな」
「白先生! なんでお尻とか、胸ばかり狙うの!?」
「急所だから」
「お尻は違うと思う!」
「そう? 白って言うな」
後ろに回られ、お尻を蹴り飛ばされた。
結局、ここに住む全員の性格が悪い事に変わりはなかった。自分だけは、ああならない様にしなくては、と決意を堅くした美春である。
子狐達の特訓の方がましだ。琥珀のいう事はまったく理解できない。
「自分の周りにある気を感じるんだよ。自然の中にある力の流れをさ」
「この神社には神木があるだろう? この大きな、強い流れも分からないの?」
「自分の中に流れる気は? は? それも分からない?」
「使えない僕だよ」
「神木の下で、座禅でも組んでみれば? 暇なんだろう?」
あきれた口調で畳みかけられた。
(琥珀の奴、ムカつく。初心者には、もっと分かりやすく説明しろって言うのよ!! 分かるか、馬鹿ぁ!!)
そう思いっきり叫びたかったが、居候の分際でそれも出来ず、言われたとおりに神木の下で座禅を組んでみる事にした。
だが、その座禅が組めない。足先がどうしても太ももに上がらないのだ。うー、うーと呻きながら引き上げようとするが、どうしても足があがらない。
「あの、正座じゃ駄目かな…?」
「はっ!」
「「ばぁ~か」」
琥珀には鼻で笑われ、子狐達にも馬鹿にされた。
子狐達は、体術の指導をする時以外は狐の姿である。人の姿の時よりも、余程表情豊かにあざ笑うのだ。
歯噛みした美春は携帯で座禅の方法を調べ、ストレッチから始めることにした。携帯から居場所を探られるのではないかと不安で、調べるとすぐに電源を切った。
美春は、家事と子狐達との特訓の合間に、心の中で琥珀に悪態をつきながらストレッチを続けた。
何日かすると何とか無理やりにだが、座禅を組めるようになった。美春は様子を見に来た琥珀にどうよ、とばかりにドヤ顔をしてやった。
琥珀がニヤリと口の端を上げた笑みを浮かべ、美春は寒気が走った。
「二尾行け」
「はい!」
組んだ足の上に二尾が飛び乗り、美春は悲鳴を上げた。子犬サイズの二尾だが、ギリギリのところで座禅を組んでいた美春にとっては、重しでしかない。
ぷるぷるとふるえる美春に向かって、どこか楽し気に琥珀は言う。
「それが座禅、ね。及第点以前の座禅が組めたのはいいけれど、早く内心の声を漏らさない様にしてくれるかな。そんなに人に悪口を聞かせたいわけ? ホント、あんたって性格悪いよね?」
琥珀への悪口が筒抜けだったことを言われ、美春は唇をかむ。
(性格が悪いのは、あんたの方でしょうが!!)
痛みに声が出せない美春は、心の中で悪態をついた。
「へぇ、主に向かっていい度胸だね」
三尾を抱き上げた琥珀が美春の前に立ち、ニイッと笑った。背筋がぞくっとした美春は(ごめんなさい!)と心の中で謝った。
「ふぅん、謝るんだ。素直だね、褒めてあげるよ。でも、ちょっと遅かったね」
琥珀は三尾を落とした。美春の足の上に。
「~~~~っ!!」
声にもならない悲鳴を上げ、美春は痛みに悶えた。
「あはははっ!」
楽しげに笑いながら、琥珀は社に戻って行った。
「…主様が笑った」
「…琥珀様が笑った」
美春の上で呆然とする二匹。
「いいから…早く……どいて………」
息も絶え絶えな美春であった。
そんなこんなで苦労したが、今では何とか形になっている。
座禅を組むうちに、琥珀の言う気の流れが分かるようになって来た。
神木を流れる気。
神木の下で座禅を組んでいると、神木からの流れが自分にも流れているのを感じた。神木から美春、美春から地へ。そして地から美春、美春から神木へ。流れを、温かさを感じた。
気を感じ、動かせるようになってからは、呪力を操る事を教えられた。気を呪力に変換し、自在に動かせるようになれと言うのだ。
自在に動かせる様になったら、こんな事も出来る。そう言って琥珀は狐火を浮かべて見せてくれた。幻術を覚えるのはその次だそうだ。
ようやく一歩進めたと思った美春だが、今度は何をどうしていいのかが全く分からない。呪力とはなんだろう。きっかけすらもつかめず、ただ戸惑うばかりであった。
琥珀は進み具合を見るだけで、助言すらもくれない。毎日、「はっ!」と鼻で笑って社へ戻って行く。
──まだ先は長い。
「目的を持てないから、力の方向が定まらない」
次のステップに進めずにいる美春に、琥珀は言った。
「……目的なんて、ないもの」
「死んでるから? でもあんたは今、ここにいる」
ここにいる。いるだけだ。
目的とはどうやって探せばよいのだろう、美春は未だ定められずにいる。