四話
学校はどこかピリピリとした空気が流れている。
ポツン、ポツンと増え続けている空席。
ネットの噂も生徒に流れている。どうやら、溶ける人間を見た生徒もいるらしいのだ。それはそうだろう。毎晩、美春だけが見るだなんて、おかしな事だ。
──何かが起こっている。
それを漠然と感じる生徒が増えているのだろう。
──何か。
それは、被害者である美春にはわからない事だ。加害者の祐里奈ならば、その何かを知っているのだろう。
祐里奈は学校に来ていた。
だが、けっして美春には近づいて来ない。今までお昼も移動教室の時も、体育の時だって、いつも祐里奈と優子、そして美春は一緒だったのだ。
急に態度を変えた祐里奈に、優子が怒っている。祐里奈は優子も避けているのだ。
「急に何よ、あの子ったら!」
「いいよ。私が気に入らないみたいだもの。ほっとこうよ」
こうして避けられている美春では、何も出来ない。それに、どうかしようとも思えなかった。
今の美春は、自分の体の不調で精いっぱいなのだ。
食事は相変わらずとっていない。お昼の、量を少なくしたお弁当のみ。水分もその時だけだ。あれから三週間たっていたが、これまでは問題なかった。大体排泄もしないのだから、食べる必要のない体になったのだろう、とそう思っていた。これだけ食べていないのに、全く体重は変わっていないのだから。
だがこの所、体がだるくて仕方がない。
力が抜けるようなだるさなのに、ときおり力かげんがおかしくなる。
今朝など、家の洗面所の蛇口を壊してしまった。
朝。今日も家族が起き出す前に家を出ようと早起きし、洗面所へ行った。水を出そうとレバーを軽く上げたつもりだったのに、バキッと音がしてレバーが折れ、蛇口が根元からとれたのだ。
ブシュー!
水が噴き出して、美春にもかかる。
「きゃあ!」
おろおろと水があふれる部分を手で押さえるが、そんな事で止まるはずはない。
どうしよう、どうしよう、と気持ちばかりが焦る。
美春の悲鳴が聞こえたのか、トントントンと慌てて階段を降りる音がした。母だ。
「どうしたの!? あらあら…」
母は状況を見て取ると、落ち着いて流しの下を開き、元栓を閉めてくれた。それでようやく水が止まった。美春は水浸しになった床にへたり込んだ。
「びっくりしちゃったわ。蛇口が傷んでいたのかしらね? 美春、びちゃびちゃじゃないの。シャワー浴びていらっしゃい」
洗面所は、お風呂場の隣にあり脱衣場を兼ねている。母は台所にあるガスのスイッチを入れに行ってくれた。美春が歩くとビシャビシャになるので、その場から動けないでいた。
「でも拭かないと…」
「私がやるわ。風邪引くわよ。早く行きなさい。着替えは出して置いてあげるから」
早く早くと急かされ、体に貼りつくパジャマを脱いで母に渡し、お風呂場へ入った。
シャワーを浴びて出ると、綺麗に拭き掃除が終わっていた。着替えも制服と共に用意されている。体を拭いて下着をつけて髪を乾かした。セミロングの美春の髪はすぐに乾く。制服を着てダイニングに行くと、母が朝食の支度を終え、父も食卓についていた。
「おはよう。お母さん、ありがとね」
「あら、そう言えば、さっきはおはようも言わなかったわね。おはよう美春」
新聞を読んでいた父が顔を上げた。
「おはよう。顔合わせるのが久しぶりだなんてなぁ…。食事位は家族一緒にしたいもんだ。今朝は久しぶりに一緒に食べれるな」
「本当に久しぶりよね。今日はお弁当も母作よ~。味わって食べてね!」
「……ありがとう」
食卓の上で冷ましてある、久しぶりに見る母の弁当は、冷凍食品で一杯だが品数が多く彩りが綺麗だった。
「さ、いただきましょう?」
コーヒーを三人分入れた母が食卓に座る。朝食はベーコンエッグ。半熟の目玉焼きとカリカリのベーコン。厚切りのトーストが好きな母の好みで、美春の家は4つ切りの食パンが常備してある。バターを塗って焼き、はちみつを塗ったトーストは、母と美春の好物だった。父はバターだけだ。
そろって頂きますと言うのも、ものすごく久しぶりだった。
「うふふ。やっぱり家族そろっての食事はいいわね」
「本当だな」
嬉しそうな両親に、美春は申し訳ない気持ちがあふれる。はちみつトーストは、久しぶりに美味しく感じられた。
「──今日はちゃんと食べているわね」
にっこりと笑う母の言葉にドキリとする。
「何の事?」
「だってお米が減ってないんだもの。食パンもね」
(お米…。そこまで考えてなかった。そうだよね。パンも減らなかったら、食べていないってわかっちゃうか)
自分はどれだけ抜けているのだろか、と美春は呆れた。何か言い訳をしなくては…。
「最近ね、穀物を食べないダイエットをしてたの」
「ダイエット? 美春には必要ないだろうに」
父が言う。
「あなた、女の子は気になる時期があるのよ。でもね美春。それなら、おかずだけでもしっかり食べるのよ?」
「…はい」
「ダイエットしてたなら、蜂蜜トーストはまずかったかしら…」
「ううん。久しぶりで美味しいよ」
そう答えて、また一口かじる。
良かったわ、と微笑む母。
「水道は、お母さんが業者に連絡して直してもらうわ。今日は半休貰っちゃった」
「ごめんね、お母さん」
「きっと古くなっていたのよ。美春のせいじゃないわ」
(ごめんなさい。先に死んでしまって。愛して貰ったのに、何も返せなくて。…ごめんなさい)
好きで死んだわけではないけれど、自分のせいではないとも分かっていたけれど。分かっていても、両親に申し訳なく思った。このままの生活がいつまで続けられるか分からない。
出来る限りここにいたいけれど、いつまでもこのままではいられない、そんな焦燥感があった。
学校の雰囲気は徐々に悪化して行く。
食事に味を感じる事が出来たのは、あの日だけだった。やはり砂を噛むような味気なさ。米を減らす為に炊いたご飯は、母に申し訳なく思いながらも近所の犬に食べて貰った。
平常にしがみついているような美春の毎日だった。
そんなある日の放課後。
美春はいつもの様に夕刻の町を歩いていた。ゆらり、と視界が揺れた。体のだるさがひどくなる。立っているのがひどく辛い。ここじゃ不味い、どこか人気のない所は…。焦る美春の目に入ったのは、中央公園。町中なのに大きな木々が生え、野外ステージもある市民の憩いの場だ。大きな敷地には郷土の資料館なども建てられており、灯りの灯る場所は明るいが、建物と木々の間は暗く人目につかない。
よろよろと木に摑まりながら、暗闇に入り込んだ。
「はぁ…、はぁ…」
荒く息をつきながら、木にもたれた。ずるずると座り込む。
(これは何? 私の体はどうなっているの?)
目がかすむ。体に力が入らない。座っている事すら辛くなり、ずるずると地面に倒れ込んだ。
「どう、して?」
目を開けている事も出来ない。音も聞こえなくなって来た。
(私も、ああなるのかな…)
毎夜の様に出会うあれになってしまうのだろうか?
「いや…だ、よ」
「あんた、何してるのさ」
淡々とした冷たい声。町の音はどこか遠いのに、その声だけはクリアに届く。目を開くと、町の光に影になって見える少年の姿。
「こ…はく?」
「何のためにあれを渡したと思っているのやら。一度でも顔を出せばこんな事にはならなかったのにね」
「な…に…? 私の体…どうなっている…の?」
「ああ、主から呪力の供給がないと、動かなくなるんだよ。あんたが死んでから、そろそろひと月だろ。限界だね」
「動かなく、なる? …また、死ぬの? ……私?」
口が回らない。途切れ途切れになる、言葉。
「安心すれば? 動かないだけ。あんたはもう死んでいるんだからさ。当然、あれにもならない」
「あ、んしん…でき、るか…、ば、か」
馬鹿の言葉に目を細める琥珀。暗闇なのに、その表情がはっきりと見える。にぃ、と口の端が上がる。
「ねぇ? このままここで動かなくなって、人間に見つかったらどうなると思う? 心臓は動いてないし、死亡したと判断されるよね? 火葬されるんじゃない?」
くすくすと笑う琥珀。
「悪…趣味…!」
くすくす、と。楽し気に笑いながら、琥珀は美春を見降ろしている。
「今動かなくなるのは、つまらないね。仕方ないな。主を馬鹿扱いする僕に温情をかけるなんてさ。僕って、優しい主だよね?」
琥珀は自らの指を噛み切り、血の滴る指を美春の口に突っ込んだ。
「……や!? んっ…!?」
慌てて指を吐き出そうとしても、琥珀は許してくれない。何よりも体が動かない。奥まで突っ込まれた指のせいで、目に涙がにじんだ。血が口の中に溢れる。
(な…!? 甘い……? 血が甘いなんて、どうして? とろりとして、まるで蜜のよう…)
美春は知らず、喉を鳴らして血を飲み下していた。食事を美味しく感じられなくなっていた美春には、特に甘く感じられた。
美春はいつの間にか体を起こしていた。そして、琥珀の手をしっかりとつかんで血を飲み続けた。