三話
その翌日。
美春は朝五時前に起床し、簡単な朝食を作った。お味噌汁と卵巻きだ。
小さく握ったおにぎりと卵巻きを弁当箱に詰める。お昼を食べないと優子が心配するから、少量である事が分からない様に、おかずカップを使う。ピックやレタス等を使って見た目良く、隙間がないようごまかした。
使ったフライパンやボールを洗う時に、自分のお茶碗、お椀、皿を食器棚から取り出し、軽く濡らして水切りかごに伏せておいた。
そして、両親が起きて来ない内に家を出る。
『委員会の用事で早めに登校します』と、メモを書きダイニングのテーブルに置いて来た。
食事をしたくないというよりも、両親と顔を合わせたくなかった。
家を出たはいいが、早朝からふらふらと歩き回っていれば不審がられるかも知れない。寄り道はしないで、ゆっくりと歩いて学校へ向かった。
部活動の早朝練習がある為、学校の門は早くから開いている。ランニングをしているのだろうか。運動部の掛け声が聞こえる。
人気のない玄関に入り、下駄箱で靴を履き替える。校舎内はひんやりとした空気が漂っていた。人気のない学校は、人を、美春を拒絶するかの様に感じさせられた。
誰もいない教室で席に座り、文庫本を読む。なぜ恋愛小説を持って来てしまったのか。美春はすぐに飽きて、机に伏せて眠った。
「美春ぅ。何かあった? 今日も顔色悪いし、ちゃんと寝てる?」
優子が聞いてくれた。今日も祐里奈は休んでいる。
「大丈夫だよ。ちょっと夢見が悪かっただけ」
「それならいいけどさ」
ふと、昨夜の谷村の姿が思い浮かんだ。彼はどうしてしまったのだろうか。ぽつりと、その名が美春の口からこぼれた。
「……谷村君」
「谷村君がどうかした?」
「あ…うん。どうしてるかな、って思って」
「美春は委員会が一緒だったっけ。どうしているんだろね。家出なのかなぁ」
「…うん」
呻きながら溶ける体。そして蟲……。
優子は思いにふける美春の頭にぽん、と手を置いた。
「知り合いが行方不明って、そんなに仲良くなくても心配になるもんだよね。でもさぁ、それで美春が体調崩したら、私が気になるんだからね」
「うん、優子、ありがとね」
姉御肌の優子はいつも美春を気づかってくれる。美春は、感謝の言葉と共に微笑んで見せた。
優子とたわいのない会話をしながらも、昨日の谷村の姿が頭から消えない。
あの後、工事現場に戻ってみたが、そこにあったのは掘り返した後と、濡れた地面だけだったのだ。
──夕刻。灯りが灯り始める町の雑踏。
どうしても家へ足が向かず、美春は一人歩いていた。今日も両親の帰りは遅い。どちらも普通の会社員だが、新しいプロジェクトが始まるとかで、この所忙しいのだ。両親は同じ会社に勤めており、課は違うが、今は共同でプロジェクトを進めているのだという。
一緒にいられなくて悪いな、と死ぬ前に父に言われた。
まだ時間が取れないのよ…、と死んでから母に言われた。
自分が死んだとは思えない。まだ信じられない。けれど、体の変調はそれを物語っているのだ。
(やっぱり私…死んでるんだよね…)
つらつらと考えながら道を歩けば、町の灯りと雑踏が神経に障る。
ふらり、と、たまたま目に付いた暗く細い路地裏へ入った。誰からも見られない事に安堵する自分。そんな自分にため息をつき、ゆっくりと歩き出し、すぐに立ち止まる。
薄暗いはずの路地なのに、隅々まではっきり見える。街灯の下よりも、灯りのないこの路地の方が良く見えるのだ。
明らかにおかしな視界。美春はまた、人ではなくなった事を思い知らされた。
「うっ…」
路地裏の真ん中に横たわり、苦しそうに呻く人影が見えた。背広を着た男性だ。50代位だろうか。今はまだ夕方の6時。
(こんな時間から、あんなに酔っ払うなんて……)
他にここを通る者などいないだろう。やむを得ず美春は人影に近づいた。
「大丈夫ですか?」
近づいてはっきりと分かった人影は、その姿は──。
「…ぐ、が……あぁ…」
美春の目の前で、人であった『物』が蠢いている。
この姿に自分がなる所だった、何度その事実を突きつけられるのだろうか。
蟲に喰われているのか。それが溶けて消えて行く姿を、美春は呆然と眺めていた。
「またなの? 何で? どうして、私の前に現れるのよ…」
思わず口から漏れた言葉に、返事が返ってきた。
「あんたが蟲に関わったと記憶されたからだろ」
琥珀だ。
いつからいたのか、壁にもたれてけだるそうに腕を組んでいた。
「…琥珀」
「主を呼び捨てとは、いい身分だね」
「何でここにいるのよ…」
「何となく通りかかっただけ」
そんな訳はないだろう。見張られているのだろうか、不安な表情を読んだのか琥珀は鼻で笑う。
「あんたを見張る程、僕は暇じゃない」
「……記憶されたって、一体何によ。だから私、あれに会うの?」
「そう言っている」
気のない返事をする琥珀を、キッと睨みつけた。
「琥珀だって、関わったじゃないのよ!」
「神たる僕が記憶される? はっ、何を馬鹿な事、言ってるのさ。あんたと違って、僕はそんなに間抜けじゃない」
琥珀は馬鹿にした様に美春を見る。
「やる」
そう言って琥珀が投げてよこしたのは、小さな丸い珠の中に鈴が入った根付けだった。木彫りの珠は透かし彫りで、細かく美しい細工が施されている。植物を模した模様の中に、小さな狐の姿が彫りこまれている。
中の小さな金色の鈴がコロコロと転がり、澄んだ音色を奏でる。
「鳥居をくぐる時に鈴を鳴らせば、家に来れる。あんたの好きに使えばいい」
「……」
美春は根付けを振った。チリン、と澄んだ鈴の音する。身体に染み入る音色に、なぜか目が潤んだ。礼を言おうと顔を上げだが、もう琥珀の姿はない。
──好きにすれば、琥珀の言葉はそればかりだ。
──私は、どうすればいいんだろう……。
すでに呻いていた男の姿はなく、地面が濡れているだけだった。
あれ以来、新聞やニュースを気にして見ているが、人が行方不明になる事件は報道されていなかった。だが、ネットでは都市伝説として噂が流れていた。
曰く『人が溶ける』、『蟲に食われる』だ。
他にも見かけた人間がいるという事だろう。
──その人も記憶されたのだろうか…? 美春は思った。
学校の帰りに町を歩くたびに、美春は蝕まれた人に出会い、その最後を見る羽目になる。男、女、大人、子供、老人……。
道を変えても、休みの日に遠出しても。不思議と他の人がいない時に、見てしまう。毎日、毎日。
そして、学校へ行くと行方不明者の噂を聞かされる。
──何股もしていたあの娘。突然、家に帰って来なくなったらしいよ。
──真面目でテストでいつも上位に入っていた田辺さん、最近学校に来ないよね?
──クラスの嫌われ者の木村も家に帰ってないんだって。
どこまでが、普通の行方不明なのだろうか。どの人が、蟲の被害者になったのだろうか。
学校ではこれだけ話題になっているのに、ニュースにならないのは何故だろう?
どこか、世界がずれてしまった様な違和感を覚える日々が続く。美春は自分の身体の違和感と共に、ただ漫然と日々を送っていた。