二話
少年は自らの事を、神で、天狐であると言う。
この社に祭られている、神だと言うのである。
美春は、胡散臭い物を見る目で少年を見た。が、少年は美春の視線など気にも留めず、話を続ける。
「あんた、運がいいよね。たまたま僕が外を見た時に、刺されるなんてさ」
「友達に刺されたのに『運がいい』ですって?」
美春は少年の言いように腹が立って仕方がなかった。だが、怒るより前に確認すべき事がある。怒りを押し殺して聞く。
「私が人間じゃないって、どういう事?」
「聞きたいわけ?」
わざとらしく深々とため息をついた少年は、美春に背を向け社へ向かう。
「ちょっと!」
「立ってるのメンドイ。知りたけりゃ、ついて来れば?」
少年に続いて鳥居をくぐると、そこは薄明るい世界だった。
先程までは宵闇が迫っていたのだ。辺りは薄暗くなり、街灯が灯り始めていた筈。それなのに、この薄明るい世界は何だろう?
闇がせまり、寂れてどこか薄汚く感じた社も、ここでは普通の社に見える。美春が振り返った鳥居の向こう側はぼやけて、向こう側がはっきり見えない。
社の隣には社務所があり、少年はそちらの玄関から中へと入る。美春は慌てて自転車を止めると、少年の後を追った。
中に入ると子狐が二匹、ピョンピョンと跳ねながら少年を迎えた。
「主様」
「琥珀様」
「「お帰りなさいませ」」
幼い声で出迎えたのは、二本の尻尾を持つ黒い子狐と、三本の尻尾を持つ白い子狐だ。二匹揃って、訝し気に美春を見上げる。言葉を話す狐とは…、嫌でもここが異界である事を感じさせられる。
「人?」
「人間?」
「二尾、三尾。それは人じゃない。僕の使鬼だ。そのつもりで扱え」
「主様の使鬼」
「琥珀様の使鬼」
「「かしこまりました」」
ピョンピョンと跳ねていた子狐達は、二本足で立ち上がると少年に向かって恭しく一礼した。
琥珀と呼ばれた少年は、先に立って奥の部屋に入った。和室にソファとTVが置いてある、ごく普通の部屋だった。琥珀はソファに寝転がると目を閉じた。
「ねぇ、説明してくれるんじゃなかったの?」
「……うるさい。二尾、三尾。代わりに説明してやれ。僕は寝る」
琥珀は気だるそうに返した。
「「かしこまりました」」
美春は琥珀が横になったソファの、テーブルを挟んで向かい側に置かれたソファに座った。二匹の子狐はその前に座り、美春を見上げる。
「お前。名前は?」
「名前。教えろ」
「…美春。山瀬美春」
可愛らしいくせに偉そうな態度の子狐に、美春は渋々答える。
「美春。主様の使鬼」
「使鬼とは、神が死んだ者に神力を注ぎ、僕に変えた者」
「人や魔が呪力を注いで作ると、尸鬼となる」
「美春は琥珀様が作った。だから使鬼」
子狐達の高い声が煩わしく、美春の頭に響く。
「……死んだ…者?」
「そう。美春は死んでいる。死なねば使鬼にならない」
「だから人じゃない」
(人…じゃ…、な…い…)
美春は訳知り顔で交互に話す子狐達が、煩わしくて堪らなかった。1人になりたかった。何を言われているのか、理解したくなかったのだ。
「……帰る…」
立ち上がろうとする美春に子狐達が言う。
「美春は主様の物」
「琥珀様の物」
「「帰れない」」
二匹の話し方が気に入らない。癇に障って仕方ない。
「うるさい! うるさい、うるさい!! 帰るの!!」
美春は叫んだ。
「……あんたがうるさい。好きにすればいいんじゃない? 僕に手の者は必要ないし」
琥珀が目を閉じたまま言う。
「主様に仕える為に、来たのではないのですか?」
「琥珀様が使うために、作られたのではないのですか?」
「作ったのは気まぐれ。どうでもいい」
「本当に…帰ってもいいの?」
「あんたさ、人の話聞いてた? 好きにすればと言った」
美春はホッと息をついた。今は、自分の身に起こった事を考えたくない。到底受け入れる事なんて出来ない。
ただ今は、家に帰れる事を嬉しく思ったのだ。
「二尾、三尾。帰してやれ」
「「…かしこまりました」」
二匹の案内で鳥居を抜けると、外は真っ暗だった。母が帰る時間が近い。美春は自転車に乗ると、何かを振り切るように家へ向かった。
美春は、何とか母が帰る前に帰宅できた。
帰宅した母には、「夕食は先に食べたから」と言って、部屋に上がる。
──祐里奈が私を殺した。
──本当に私は死んでるの?
──これからどうなるの?
祐里奈に対して憎いという気持ちが、全く湧いてこない。自分の感情がなくなってしまったように感じる。涙も出ない。胸の中央にぽっかりと穴が開いているようだ。
認めたくはないが、死んだ事で何かが変わってしまったのかも知れない。そんな自分が怖くてたまらなかった。
問題は山積みで何も片付いていない。結局、自分が人間ではなくなった事が分かっただけ。
美春はその夜。不安で眠れぬ時を過ごした。
例え眠れなくても朝はやって来る。
美春は食欲がないと朝食は断り、お弁当を持って学校へ向かった。
今日、祐里奈は休んでいた。
「なんかさぁ、最近休んでる人、多いんだって」
「…そうなの?」
「うちのクラスでも、何人か休んでたじゃん」
お昼休み、美春と優子は教室でお弁当を食べていた。優子に言われて思い返してみれば、祐里奈の他にも空席があった。
「祐里奈もだけど、部活でもそうなんだ。後さ、他のクラスにも多いらしいよ? インフルの季節でもないのに、こんなに休む人がいるのは不思議だよね」
「そう、ね。どうしたのかな…」
「それでね? これは噂なんだけどさ。休みじゃなくって、行方不明になってる子もいるんだって」
「行方不明?」
「家出かもしれないって。ほら、隣のクラスの谷村君。先週から休んでるんだけど、実は行方不明らしいよ」
何かが起こっているのだろうか。美春の胸に不安がこみあげて来る。
「もう! 美春ったら、今日も元気ないよ。ごめんね、こんな暗い話しちゃってさ。ほらぁ、ちゃんと食べないから元気でないんだって!」
優子は、昨日も食欲がなく顔色の悪い美春を心配していた。
「夜ご飯は食べたの?」
「うん」
美春は嘘をついた。
自分は食事をしてもいいのだろうか?
昨日聞いておくべきだった、と美春は今になって思った。だが、もう神社には行きたくない。行ってしまえば自分が人ではないと思い知らされる。このまま、いつもの日常を続けて行きたい、そう思っていた。
優子に心配をかけまいと、味のしないお弁当をペットボトルのお茶で流し込んだ。
放課後。
家へ帰る気がしなかった美春は、一人でふらふらと歩いていた。店の中へ入る気が起こらない。店先をただ眺めて歩いた。
ふと、学ランの少年が目に入った。
「あれは…、谷村君?」
どこか虚ろな表情で歩くのは、顔見知りの谷村だった。美春と谷村は同じ図書委員なのだ。一緒に仕事をした事もある。休んでいるのではなく、行方不明になったという噂を聞いたばかりだった。
美春は、話を聞いてみようと追いかけた。
(どうしていたのか聞いてみよう。何か力になれるかもしれないもの)
何もしないでぶらぶらしている事が辛かったせいもあり、美春は谷村を追いかけた。
谷村は、何故か人気のない工事現場に入って行った。
そっと覗き込むと、隅の土を素手で掘り返している。何やら不穏な空気を感じたが、それを押し殺して声をかけた。
「谷村君、何してるの?」
谷村の動きがピタリ、と止まった。
こちらを振り返ったその眼には生気がなく、虚ろな表情だ。
「谷村君?」
「ああぁ……。ぅがぁぁーっ!!」と、突然唸り声をあげたかと思うと、飛びかかって来た。
「谷村君!? どうしたの! 何があったの!?」
とても正気には見えない動きで襲い掛かって来る谷村を、美春は必死で避ける。運動神経が良いとは言えない自分の身体が、素早く動く事に驚愕した。
掴みかかって来る谷村の両腕を、ガシッと掴み止める。不可抗力とはいえ、至近距離で見た谷村の姿に寒気が走った。
白目は黄色く変色し、血管が真っ赤に脈打っている。黒目の部分は灰色に濁っていた。
顔や首、手首。服から除く皮膚の下を、ピクピクと何かが蠢いているのが見えた。掴んだ手首からも蠢く感触が伝わってくるのだ。
(嫌だ、気持ち悪い!)
美春の全身に鳥肌が立つ。
谷村は「ヴヴヴゥ……」と呻きながら、人とは思えない力を籠めて来た。
(凄い力。…力? ど、どうして私、こんな力を受け止めていられるの!?)
美春は腕力がない。瓶の蓋も開けられないのね、と優子に笑われるほど非力だったのだ。ヒヤリとした寒気を感じる。
「ウアアアアアァアァァ!!」
突然谷村の呻き声が大きくなったかと思うと、その腕から急に力が抜け、美春は慌てて手を離した。「あああぁ…、ヴヴゥ……」呻きながら、谷村は頭を抱え始めた。
美春は不気味な物を感じ、すかさず距離を取った。
「はぁはぁ、はぁ…」
自分の息が荒い。谷村は一体どうしたのだろうか…、美春はただ見つめるしかなかった。
谷村の声が急に途切れ、べしゃり、と地面に倒れて動かなくなった。
「……谷村、君? ひぃっ!?」
その身体が、服までもが、溶けるように消えて行くのだ。濡れた地面には、ぴくぴくと蠢くあの蟲がいた。
(……蟲。私の身体から出て来たのと、同じ蟲。もしかしてこれが、私がなるはずだった『物』、なの?)
ぐぅっ、と吐き気がこみあげた。工事現場から飛び出すと、側溝に吐いた。
はぁはぁ、と荒く息をつく。
「う、うぅ…」
視界が涙でにじんだ。美春は声を押し殺して泣いた。
泣きながら、『泣く』事が出来た自分に安堵していた。






