一話
蟲が出てきます。体の中を探るなどの表現あり。
苦手な方は、ご注意くださいね。
「死んじゃえ」
山瀬美春はそう言われて、包丁を腹に突き立てられた。
「な、んで……? どう…して、なの?」
コンクリートの地面に、うつぶせに倒れる。刺した少女の駆け去る足音、振動が体に伝わって来た。
(お腹が熱い。熱い? 嫌だ…、私、まだ死にたくない、よ……)
美春の目から涙が零れた。何とか体を起こそうとしても、体が言う事を聞いてくれない。
血が止まらない。体が冷たくなっていくのを感じる。包丁を抜いては駄目だ。もっと血が止まらなくなるから、助からなくなるから、混濁する意識の中でそう考える。
(携帯…、救急車……を)
携帯の入った鞄は、ほんの1メートル先に落ちている。
「くっ…う…」
呻きながら必死で腕に力を込める。ずっ…ずっ……と、少しずつ這い進めた。たかが1メートルが、こんなに遠く感じるなんて、と美春は絶望感と焦燥感に襲われていた。
(もう…少し……早くしない…と)
頑張って移動出来た距離は、何センチだろう。携帯には、どうしても手が届かない。脱力感が増す。絶望に目を閉じると、声が聞こえた。
「何、人んちの前で死にかけてるのさ、あんた」
美春は驚いて目を開ける。
そこに立っていたのは、冴え冴えとした月のように美しい少年だった。漆黒の髪が月の光で艶めいて見える。目の錯覚だろうか、瞳は琥珀色に輝いて見えた。
血だらけで死にかけている少女を見ても、慌てる様子もなく淡々としている。
うつぶせで必死に移動しようとしていた美春を、少年は足で蹴って仰向けに返した。
「ひど…い……」
抗議の声にも、もう力が入らない。
「ふぅん、厄介な呪がかかってるね、これ」
そう言うと、少年はあっさり美春に刺さった包丁を抜いた。血が腹から溢れ出す。
「ああ、あ……。ぐっ…ぅ」
「あ、痛い?」
全く悪いとは思っていない口調で少年は言う。
そして、「……へぇ」と面白そうに笑うと、ずぶり、と少年は美春の腹に指を突き入れた。
「あああ…ぐ…ぅっ!? な、にを……」
「ん? 何って? これこれ」
少年は美春の腹から抜いた指に、うねうねと動く青白い蟲を掴んでいた。
「取っておかないと、死んだ後に厄介な事になるよ。この僕が親切にも、掃除してあげようとしてるんじゃないか。感謝して欲しいものだね」
「あ、ああ……」
少年は、また美春の腹に指を入れる。楽しそうに、口元に笑みを浮かべて。
美春の腹の中で少年の指が動く。執拗に探っている。美春は体の中を探る指を感じながら、意識が遠のいて行った。
「あれ? もう死んだんだ。人間は弱いな」
つまらなそうに言った少年は、赤く染まった手を美春から引き抜いた。美春が死ぬと同時に、蟲の動きが活発になり、全身に移動しようとし始める。
「どうするか。久しぶりに関わった物だし、このまま蟲に使わせるのも面白くない…。ふん、手出ししてやるか」
少年が美春の血に染まった赤い手に念を込めると、光を放ち始めた。その手を、再び美春の腹に突き入れる。数瞬後、手を引き抜いた。
そして、うねうねとした大きな団子状の物を虚空にしまい込んだ。
初めから今の力を使わなかったのは、美春の反応を楽しんでいた為。その為に美春の死期が多少速まったのだが、少年は気にもしていなかった。
美春は、朝目が覚めた。
自室でのいつもの朝。
「夢…? だったのかな…」
パジャマをまくって腹を見たが、傷一つない。
いつものように登校の準備をして家を出た。
いつも通り。ありふれた日常だ。
美春は、どこかしらに違和感を感じながらも、学校に到着する。
「おはよう、美春! どうしたの? 何だか顔色悪いよ?」
友人の本郷優子だ。美春にとっては小学校時代からの友人で、高校でも同じクラス、大事な親友である。
「おはよう…、優子。うん、大丈夫。何だか、ぼうっとするだけだから」
「そろそろ生理だっけか? まぁ、美春がボケッとするのはさ、いつもの事じゃないのよ!」
バンッと、背を叩かれる。
「もう! 優子ったら、ひどいよ」
美春の顔に笑みが浮かび、調子が戻って来た。
じゃれ合いながら、二人で2―Aの教室に入った。
ガタンッ!
美春を見て慌てて立ち上がり、椅子を倒した少女。田中祐里奈が、生徒達の注目を浴びる。その祐里奈を、美春はじっと見つめた。
「ひっ!」
祐里奈は蒼白になって、教室を飛び出していった。
「何よ、あの子。どうしたのかしらね?」
「…………」
美春は返事を返さず、祐里奈が出て行ったドアをただ見つめていた。
教室を飛び出した祐里奈は、屋上へ来ていた。鬼気迫る顔で、何事か呟きながら携帯を操作している。
「何でよ…。どうして生きてるのよ…」
祐里奈は包丁を購入したサイトに、クレームのメールを送ろうとしていた。
『完全犯罪』・『凶器』。そう入力して、いくつかヒットしたサイトの一つだった。
『おめでとうございます。選ばれた貴方は、当サイトを見る権利を得ました。』
正直、胡散臭さしか感じなかった。だが、次の文字を読んだ祐里奈は画面に釘付けになったのだ。
『こちらで購入した商品で殺した相手は、姿を消してしまいます。安心安全。完全犯罪が可能です。』
『相手に刺したら、そのまま立ち去って下さい。それで、あなたの問題は綺麗に解消されます。相手は二度と、あなたの前に姿を現す事はないでしょう。』
何百を超えるレビューには、感謝のコメントばかりが寄せられていた。
『あれから、何の心配もなく過ごせています。ありがとうございました』
『商品説明の通りでした。いなくなった事を不審がる人間はいますが、死体がないので疑いはかかっていません』
『長年の恨みが晴らせました。是非また利用したいです』
いくつかはやらせかも知れない。だが、何故か信用出来た。信用してしまったのだ。
だから祐里奈は包丁を購入し、美春に突き刺して家に帰った。
──それなのに。
「どうして学校に来てるのよ…」
「おかしいじゃない…」
「もし生きてたとしても…、確かに突き刺してやったのよ……」
「ピンピンしてるのは、何で……?」
「どうして?」
「嘘つき…」
祐里奈はぶつぶつと呟きながら、クレームの文章を打ち続けた。
美春は、すべての感覚がおかしい気がしていた。
まず、お腹が空かない。
朝食は食べなかったのに、お昼休みになってもお腹が空かないのだ。優子とお弁当を食べたが、砂を噛んでいるようで味が感じられず、半分以上を残してしまった。
体育の授業で短距離の新記録を出した。自分では、ゆっくりと走ったつもりだったのだ。
一度もトイレに行かなかった。朝からだ。ありえない。
極め付けなのは、今起こった事だろう。
美春は、今日は帰りが遅くなると言っていた母の代わりに、夕食を作っていた。朝からの感覚の鈍りが祟ってか、指を切ってしまったのだ。ざっくりと、深く。
しまった! そう思って、止血をしようと指を見て固まる。
ぱっくりと口を開けた傷口からは、血が出ていない。呆然と眺めていると、すうっと傷口は消えて行った。美春はぺたん、と床にへたり込んだ。
「何よ…、これ…。どういう事? 血が出ないって……。昨日…私、どうなったの?」
考えても答えなど出るわけがない。美春は、機械的に夕食を作り終えると、自転車を引いて家を出た。
そして、どこか曖昧な昨日の記憶を辿る。
──昨日の放課後。
美春は祐里奈に買い物に付き合って欲しいと頼まれた。美春と優子と祐里奈。祐里奈は高校で同じクラスになってからの友人だ。同じクラスの三人は仲が良かった。
優子も誘おうとしたが、「予定があるって言ってた」と祐里奈が言うので、二人だけで出掛けた。
徒歩で30分程の市の中心部。友達と買い物へ行く、町へ行く、と言うとこの場所を指す。繁華街があり、服屋や雑貨屋等の店も多く他校の生徒も集まる、にぎやかな場所だ。
二人は買い物をして、喫茶店で一休みした。
美春は珈琲が苦手なので、紅茶を頼んだ。祐里奈は珈琲だ。
「ねぇ美春…。山本先輩とは、その後どう?」
山本先輩は、美春に告白してきた上級生だ。委員会が同じなので、顔を合わせる機会が多かった。話しやすい先輩だと思っていたが、恋愛感情に疎い美春は交際を断り、友人としてアドレスを交換したのだ。
「どうって言われても、断ったからそれっきりよ? たまにメールは貰うけどね」
「ほんっとに勿体ない事したよ、美春。先輩に憧れてる子、沢山いるんだよ」
「そんな事言われても、私、まだ恋愛とかよく分からないから…」
「あ~あ。山本先輩も、どうしてこんなお子様が良かったのかなぁ」
美春は、その言葉に刺のようなものを感じて戸惑った。
喫茶店を出ると、祐里奈は先に立って歩き出す。
「どこへ行くの?」
「ちょっと付き合って欲しいんだ」
祐里奈は無表情にそう答えた。
向かっているのは学校へ戻る方角だ。いつもなら、もう少し店をひやかして、ぶらぶらとしてから別れる。どこへ向かうのだろうか。
雰囲気の違う祐里奈に戸惑いながら、美春は後を追う。
そのまま住宅地を抜けて行くと、稲荷山の麓までやって来た。田舎である水瀬市は、住宅地の近くに山や川、畑、田んぼがある。山裾から住宅地が広がる形になっている、自然たっぷりの市なのだ。特徴と言えば、美春の通う割と偏差値の高い公立高校があるくらい。
美春はこの辺りに来た事はなかった。
「そろそろ暗くなるよ? ねぇ、祐里奈、帰ろうよ」
美春の言葉に祐里奈は振り返った。その手には光る物。
そして、
「死んじゃえ」
美春は刺されたのだ……。
「ここ…だったよね? 刺された場所」
美春が記憶を辿ってやって来たのは、人気のない寂れた稲荷神社の前。神主が常駐しない、小さなお社だ。両隣に家はあるが、ここも人気が感じられず廃屋に見える。
「あの人、人んちの前って言ってたのに…」
その社の前は、山肌が見えるきつい斜面が続く。美春は自転車を引いたまま、上を見上げた。上にも家は建っていないようだ。
美春は刺された後の記憶がはっきりしない。少年に話しかけられた。それから──。
「なぁに、あんた。主に仕えに来たの?」
気だるげな声がした。
「え!?」
振り返ると、あの少年が鳥居に背を預け、気だるげに立っていた。黒い髪に黒い瞳。あの時、瞳が琥珀に見えたのは、やはり見間違いだったのだろう。
「主って…、どういう意味? あなたが仕えている主に、って事?」
美春は、少年の言葉の意味が分からなかった。
「あんた馬鹿なんだ。はっ、助けるんじゃなかったよ。僕は馬鹿な僕はいらない。好きにすれば?」
そう言い捨てて、去ろうとする少年。
「待ってよ! もう、私! 訳が分からないのよ。教えてよ!」
「何だ。助けてやった事も覚えてないのか。ホント、使えない奴」
少年は美春の額を指でとん、と突いた。
その途端、美春に昨夜の記憶が蘇った。
少年に腹の中を探られた事を。
蟲が自分の腹から出て来た事を。
──思い出したのだ。
「刺されて…、あなたに蹴られたわ。そして蟲…?が、お腹から出て来た」
美春は自分の身体から出て来た蟲を思い出して、ぞっとする。
「朝には、刺された傷が無くなってた。あなたが助けてくれたの?」
「そう。あのままだとあんた、死体を操られてどこの誰か知らない奴に使われる事になってた。死んだあんたが操られないようにしてやったんだ。感謝して欲しいものだね」
「死んだ…私、を?」
「そう。何変な顔してるのさ。死んでた自覚もないの?」
「死んだ自覚なんて、ある訳ない。だって私、動いてるじゃない。生きてる……よね?」
少年はくくっ、と笑った。
「ああ、そう言う事? 安心していいよ。あんたもう、人間じゃないから」
「え?」
(どういう…意味…?)