08:レジスタンス
正体がバレないように膝を抱えて下を向き、ホームレスのブルーシートハウスがズラリと並んでいる橋脚の下にひっそりと座っていると、ウィスキーらしい角瓶を左手に下げてフラフラと歩いてきた1人のホームレスが、俺の隣にドカリと乱暴に座った。
たちまち煙草臭い匂いが、俺の鼻を突いて来る。
あれから一年、既に俺の帰る家は無くなっていた。
何事も無ければ、俺は今頃高校の三年生になっていたはずだった。
俺の家があった場所には、俺の家族はもう住んでいない。
特定能力者の関係者は、みんな同じように保護という名目で国に捕らえられて、隔離をされているらしい。
家の近くには、見え見えの監視をしているらしい男達が常駐していた。
何度かそいつらと激しいバトルになったから、俺の家はだいぶ前に倒壊してしまい、今では周辺も巻き込んで人が住むこともできない状態だ。
ニュースを見る機会も無くなり、ネットに接続することも難しくなった。
携帯電話は、逆に居場所を特定されてしまうから、所持することもできない。
何度も何度も、俺と同じゲーム出身らしい能力者のグループに、俺は追われていた。
どうしてこうなってしまったのか、襲い来る同じような能力者たちを撃退していくうちに、どんどんと俺は非合法な形で糧を得るしか無くなって行った。
そして俺は長く続く戦いの中で、いつの間にか能力者同士の戦いに慣れてしまった。
だから今では何の苦も無く、そして躊躇することも無く、相手を効率よく殺す事が出来る。
言い訳をするようだけど、そうしなければ俺が狩られてしまうのだから、それは仕方のない事だろう。
それだけの修羅場を、俺は一人だけで誰にも頼らずに潜ってきたという自信がある。
ホームレス特有のタンパク質が腐ったような垢と汗の混じった独特の匂いは、俺の鼻が既に麻痺しているせいか、特に感じられなかった。
しかし、間近で嗅ぐタバコ特有のヤニの臭いというのか、鼻を突く独特の臭いで俺はむせそうになった。
露骨に拒否の姿勢を表明するために、俺は顔をしかめて隣に座ったオッサンを睨んだ。
ヨレヨレの背広にシワだらけのシャツは、この人が元々はサラリーマンだったのだろうと俺に想像をさせる。
ボサボサで長い間手入れをしていなさそうな長髪はくせ毛で、どう見てもサラリーマン時代だって真面目に働いていたとは思えない雰囲気だ。
だらしなく半開きになった厚めの唇の端にはシケモクと言うのだろうか、折れ曲がった紙巻タバコが不安定にぶら下がっている。
律儀に緩くその首に巻き付いているだけのネクタイが、普通の社会への未練を象徴しているようだった。
不意に、いま初めて俺に気づいたかのように、その男がこっちを向いた。
「ん? ひょっとしてタバコは嫌いかな?」
ホームレスのくせにと言うのも変だけど、それは耳に心地よく響く低音で、顔に似合わず渋い声だなと俺は思った。
そしてその問いかけに対して肯定の意を示すために、俺は小さく頷く。
「悪いな。 体に良くないのは判ってるんだが、どうにも止められないんだ」
唇の端にタバコを咥えながら喋るものだから、顎の動きに合わせてタバコからポトリと灰が落ちる。
慌ててそれを払いのける仕草が見かけの渋い印象とは違っていて、俺はクスリと笑いを漏らした。
「ん? 君はまだ若いのに、こんな処に居たらダメだぞ。 そのうち俺みたいに、ここから抜け出せなくなっちまうからな」
「そんな事を真面目な顔で言われても、全然説得力が無いよ」
俺が笑いを堪えながら言った言葉に、その男の人は背広の汚れた襟元を指で持ち上げて見せて、自分の風体をマジマジと見直している。
そうして、ちょっと肩をすくめながらも苦笑していた。
「確かに、俺が言っても説得力に乏しいわな」
「ですよねー」
短い会話だったけど、たったそれだけで俺の警戒心はだいぶ解けていた。
ずっと他人と話をしない生活を続けていて、俺自身も会話に飢えていたのかもしれない。
「君が苦手そうなこのタバコだって、吸わなくても良いのに最初は好奇心で吸い始めたんだぜ。 最初の一口目を思い切って肺に入れてみたら喉が痛くて咽せるし、すぐに目が回って気持ち悪くなって半日寝てたくらいなんだけど、いまじゃ体に悪いって言われても止められないからな」
「だったら、最初の一口目で止めれば良かったじゃ無いですか。 半日寝込むほど気持ち悪かったんでしょ?」
「そう言うけどな、あの頃は大人の真似をしたかったんだよ。 それにタバコ吸ってる俺って、同級生よりちょいワルって仲間内での競争みたいなのもあってな」
「ちょっと、同級生っていつから吸ってんですか」
「最初の一口目に火をつけるのには勇気が必要だったんだけどなあ…… 今じゃあ、チェーンスモーキングするのだって、まったく抵抗感無しだ」
「そこで止めておけば、今頃こんなところで俺と話しなんかしてなかったんじゃ無いの?」
サラリーマン風の身なりでこんな場所に居る事を俺が揶揄してやると、その人は再び苦笑を漏らした。
それは先ほど漏らしたものよりも、更に一段深い反省を込めた苦笑だった。
「持ち慣れない力ってものを持つと、つい使わなくても良いところでも使ってみたくなるんだよな」
「えっ?」
真っ先にそれは俺の事を言っているのかと思い当たり、その発言の真意を探るためにその人の顔をマジマジと見つめてしまった。
その人は何故俺が顔を見つめているのか、その理由が解らないようで、不思議そうな顔をして俺を見返してきた。
反射的に、俺は目を逸らしてしまう。
その顔を見る限り、その人が俺の事を言っているのでは無いと思えた。
「なに言ってるのか判らないと思うけど、最初の一歩って今までとの違いが大きくないから、踏み出すのに抵抗が少ないんだよな。 あるいは、自分が一歩踏み出している事にすら気付かないで通り過ぎてしまうのかもしれないなあ…… 」
「いったい、何の話なんですか?」
「君くらいの年齢に判る話だと、そうだなあ…… 例えば、友達をちょっとからかってみたらクラスの連中に受けたから、次の日も同じ事をやってみる。 でも昨日と同じだとマンネリで刺激が少ないから少しだけからかう度合いを強くして、その次の日も少しだけって繰り返して行くと、いつの間にか最初の何でも無かった時に比べると、ものすごい壮絶なイジメになってるんだけど、やってる本人は昨日と同じか少し強いくらいにしか感じていないなんて、ありがちなんじゃないかな?」
「え?!」
俺は、この人が何を言っているのか判る気がした。
俺が能力を使い出した切っ掛けも、それを振るう事にどんどん抵抗が無くなって行ったのも、なんだか心理的には似たようなものだったからだ。
「例えば逆の立場で言うと、ちょっとからかわれて嫌な思いをするけど、少しだけなら割と不満を飲み込んで我慢が出来ちゃう。 こんな小さな事でムキになって、とか言われそうだし。 そうして次の日も同じ事の繰り返しで、昨日も我慢したから今日も我慢する事になる。 気が付いたら、凄い事をされているんだけど、やられている本人も感覚が麻痺しちゃっていて、それでも無理矢理我慢しちゃうとかね」
「なんで、そんな話を俺に?」
「ソード&マジックVRってゲームにさ、盗賊系の三次職でグランドローグってのが有るのは知ってるかな?」
「なんで、そのゲームの名前を…… 」
俺は、男の言った職業の名称よりも、俺が約半年間も仮想現実の世界に捕らわれたゲームの名称が出てきた事に、むしろ驚いた。
男は、俺の動揺をよそに話し続ける。
「グランドローグには、隠れている敵の魔力感知をするスキルがあるんだよね。」
「―― !!」
俺はその場から咄嗟に跳び退る。
そして空中に居る間にスキルで創生した念属性クナイを2本、その男に向けて投げつけた。
躊躇すれば逆に自分が殺られる、そんな荒んだ世界に俺は生きていた。
だから、死に繋がる攻撃を容赦無く放つ事に、なんの拘りも抵抗すらも無い。
しかし、キン!という甲高い金属音が二つ連続で聞こえて、ボトリと地面に俺の投げたクナイが落ちていた。
いつの間にか、男の両手には太い両刃のナイフが1本ずつ握られている。
「やめとけ! ちなみに俺のサブジョブはアサシンマスターだ。 物理攻撃は無駄だから落ち着いて俺の話を…… 」
「くそっ、お前らは何処まで俺を狙うんだ!」
そう叫んでいる俺を、俺は草むらに潜んで見つめていた。
男がクナイを叩き落とす僅かな隙に『影分身の術』を使って、本体である俺は草むらに『瞬身跳躍』していたのだ。
俺の影分身が『草木縛りの術』を唱えて男の足首に雑草を絡め、その動きを少しの間だけ止めてやる。
そこへ『氷柱落としの術』で、頭上から小型自動車ほどもある巨大な氷柱を落としてやった。
奴の言葉じゃないけれど、何度も力を振るっている間に俺は人を殺す事にすら、一切の躊躇をすることが無くなっていた。
それに追い打ちをかけたのは、俺を狙う奴等の存在だった。
手を抜けば自分が殺されるかもしれないから、そうなる前に少しでも早く相手を殺すしか無いのだ。
奴の言葉を借りれば、最初の小さな一歩を踏み出した時の迷いは、今の俺にはもう無い。
いまさらあの時の弱い自分に戻る事なんて、もう俺に出来はしないんだ。
ただあの時、力を使う事を躊躇していればどうなったのか、あの時俺が力に溺れていなければ、もう少し違う結果もあったのでは無いかという後悔が、今無いとは言えない。
地響きを立てて、巨大な氷柱が男を直撃する。
元々臆病な俺は、念のために二度目の影分身を造り出して、更にその場から後方に離れた。
2体同時に動かすことは出来ないが、新しく造った影分身を静止状態で待機させることで、最初の影分身に意識を戻す。
圧壊した氷柱の下部に潰れた肉塊の赤色を探してみるけれど、そこに男の姿は無かった。
「おいおい、問答無用かよ。 クソガキめ、少しは大人の話を聞きやがれ!」
突然、俺が意識を移している影分身の後ろから声が聞こえた。
同時に首の後ろ、延髄の辺りにチクりとした鋭い痛みが走る。
他職の事には詳しくないが、盗賊系の上位スキルに攻撃を受けた瞬間に敵の背後へ跳ぶという、忍者の変わり身の術のようなスキルがある事を思いだしていた。
どちらも効果が似ているようで、実は大きく違う。
一番の違いは変わり身の術がパッシブスキルで、敵の使ったバックなんとかと言うスキルはアクティブだという事だ。
つまり、奴は絶妙のタイミングでそのスキルを発動させたと言う事になる。
攻撃を受ける前では発動条件を満たせず不発に終わり、ゲームでは術後硬直時間が発生する。
そのために自爆スキルと呼ばれていた不人気スキルだったが、奴は攻撃判定が下りるまで待って発動させたらしい。
そんなことが出来るのは、奴も俺と同じく『見切り』が使えるからなのだろう。。
「少しでも動いたら、一瞬でお前を5回は切り刻む事だって出来るんだからな。 判ったら俺の話を…… って、なっ!」
勝ち誇って言う男の目の前で、突然俺の影分身がサラサラと細かい塵となって崩れて落ちた。
驚愕の表情を浮かべる男を、俺は草むらに潜ませた影分身に移した意識から眺めていた。
一瞬の間が空いた後、ハッと気を取り直した男は瞬時にバックステップで後ろへ飛び下がる。
僅かに遅れて男の居た地面が生き物のように盛り上がり、触手のような形状の粘土状の土が、何本も空中で絡み合った。
「人の話を聞けよクソガキが! 俺はお前の敵じゃねーぞ。 まったく見境なく即死攻撃を仕掛けやがって、ビビってんじゃねーぞ」
男はそう言うと、両手に持ったナイフを腰の後ろにしまう。
何をするのかと様子を伺っていると、そのままスッと両手を挙げて戦う意思がない事を俺に示してきた。
「俺はお前と同じく、政府の言う特定能力者の管理に反対して排除対象になった者だ。 判ったら大人しく話を聞いてくれ」
そんな都合の良い話を簡単に信じる程、俺は馬鹿じゃ無い。
俺は、その言葉を無視して男の様子を伺う事にした。
「俺は、いや俺たちは政府の弾圧に反抗するレジスタンス組織だ! 君も、政府側に今更大人しく尻尾を振る事は出来ないだろう? どうだ、俺たちの仲間にならないか?」
「俺たち?…… 」
俺は迂闊にも男が放ったその複数形の自称に、つい意識を向けてしまった。
その時、俺はすっかり囲まれていることに気付いた。
1、2、3…… 今、俺を囲んでいるのは、感知スキルの反応が正しければ九人。
目の前に居るオッサンを含めて、総勢10名という大パーティだった。
それは、今までに経験をしたことが無いような大人数だった。
さすがに、2マンセルや3マンセルのチームを相手に戦ってきた俺でも、相手が多過ぎると感じる。
いや、例え雑魚が揃っていたとしても、この人数差では勝てる訳が無かった。
俺は、どうやってこいつらを出し抜こうかと必死で考えたけど、さすがに思いつかない。
このまま下手に動いて集中砲火を喰らうよりは、一旦油断させてチャンスを待つべきだと俺は考えた。
だから俺は両手を挙げて、ゆっくりと立ち上がった。
「オーケイ、素直で嬉しいよ」
紙巻きタバコをだらしなく唇からぶら下げた癖毛で長髪のオッサンは、俺向けて嬉しそうな顔を見せた。