02:ニンジャ覚醒
まだ残暑の残る日差しの強い朝。
俺は退院して間もない萎えた体で、ガードレールで車道と仕切られた、さほど広くも無い歩道を歩いて最寄りの駅へと向かっていた。
俺が真っ直ぐに歩けずにフラついていたのは、日焼けもしていない白い肌に刺さるような9月の暑さのせいだけじゃない。
それは長い入院生活中に萎えてしまった足の筋力が、まだ戻っていないからだ。
俺はゆっくりと一歩ずつ、確実に前へ歩く事だけに専念していた。
生きてゲーム世界から戻れた事自体は、嬉しくない訳が無い。
だけど楽しくも無い現実と再び向かい合う事になったのは、正直に言えば億劫なだけで、更に言えばとても憂鬱だった。
私鉄の、無骨な鉄骨が組み合わされたガードの下を歩いている時、急に周囲の風景に対して俺は違和感を覚えた。
急に物音が低く鈍く聞こえ、周囲で動いていたはずの物や人の動きが、突然ゆっくりとしたスローモーション動画のように切り替わったからだ。
ゲーム世界に捕らわれ続けた後遺症なのかと戸惑う俺の右横ギリギリを掠めて、通学途中らしい高校生の乗った自転車が、恐ろしくゆっくりとすり抜けようとしている事に気付く。
その自転車の左ハンドルが俺の右肘に当たる軌道上にあると判断したので、それが当たる寸前でなり振り構わず必死に体を捻ってかわした。
回避し終えた途端に、元の速度に戻る世界。
さっきまで聞こえていた騒がしい音が、唐突に戻ってきた。
俺が違和感を覚えていた世界の音と速度は、まるで何事も無かったかのように元通りに動き出す。
俺は情けない事に思い切り体を捻ってバランスを崩した体勢を、退院したばかりで弱った足では支えきれずに、その場にペタリと尻もちをついた。
呆然と状況を把握しようとフル回転する俺の頭だったが、ようやく状況が飲み込めてきた。
俺にぶつかりそうになった自転車の高校生が、一言も謝りもせずに遠ざかって行くのを見て、俺は無性にムカついた。
ひとつ間違えば俺は右腕を怪我していたかもしれないと言うのに、まるで俺がここに存在していないかのような、俺の存在を無視したままの、そいつの態度がとてもムカつく。
あからさまに俺の存在を無視するクラスの連中の顔が、脳裏を過ぎる。
悪びれる事もなく、ゲーム感覚で俺に対する無視という遊びを楽しんでいるんだろうクラスの連中の事を思いだした俺は、その自転車の高校生に対して、やり場の無い怒りを感じた。
だからと言って、遠ざかって行く自転車に対して俺が何かを出来る訳が無いのも理解していた。
俺は非力な、ただの中学二年生なのだ。
結局は、いつものように怒りを堪えて泣き寝入りするしか無いのだという、俺を取り囲む現実が哀しい。
力が欲しいなあと…… 俺は思った。
ゲームの中に捕らわれて、どっぷりと飽きることなく繰り返していた自分のアバターが持っていた、あの力が懐かしかった。
俺の意思とは関係無しに勝手にゲームの世界に取り込まれて、ログアウトする事も出来ず過ごした日々は辛くもあったが、あそこには使い続けて成長したアバターの非凡な力があった。
それに比べて、再び俺自身の意思とは関係無く現実世界に放り出された、非力な存在である俺というものを嫌でも実感させられる日々。
それは、あまりに不公平な程に立場が違い過ぎた。
これがゲームの中なら、あんな奴は俺のスキルで……
俺は心の中でイメージした左右の手を、胸の前で組み合わせて印を結ぶ。
ゲーム世界の中に囚われる前から、嫌なことがあった時にはいつも俺のゲームアバターが使えるスキル、つまり『忍術』スキルを心の中で唱えて相手を心のなかで何度も痛めつけていた。
それが力のない俺に出来る、溜まった鬱憤の晴らし方だったのだ。
そう、俺がゲームで使っていたキャラの職業はニンジャ、漢字の『忍者』では無く、カタカナ表記の『ニンジャ』なのだ。
しかも他の職業への『転生』という、ゲーム運営会社が俺たちを長く引き止めるために提示したオプションで脇道に逸れること無く、ひたすらニンジャ道を突き進んだ。
そして俺は、ゲームから解放されるまでに『ニンジャ』の三次職の最終奥義を全て会得した『ニンジャマスター』にまで登り詰めていた。
だから、いつものように心の中でイメージする仕返しの手段も、ゲームの中に捕らわれる前と同じように、当然ニンジャスキルを使う事になる。
もちろん、それが現実になるなんて思うほど、俺はバカじゃ無い。
心の中で術を使って、心の中だけで相手が転んでダメージを受けるシーンを思い浮かべ、心の中で悦に入る。
現実に何もやり返すことが出来ない俺にとって、何か嫌なことがあった時に、こうやって心の中で相手への復讐を何度も繰り返す事は、いつしか膨れあがった負の感情をガス抜きする為に必要な行為となっていた。
そう、現実の解決には何の役にも立たないのは誰よりも俺が判っているけれど、せめて心の憂さぐらいはすぐにでも晴らしてしまいたかった。
(『風遁、風縛りの術』)
俺は何も起きないことを承知しながら、心の中で術を唱える真似をする。
その瞬間、遠ざかろうとしていた自転車が前輪に急ブレーキを掛けたように不自然に急停止した!
狭い歩道を勢いよく走っていただけに、急停止の反動で自転車は後輪が高く持ち上がると前のめりになって、乗っていた高校生は前方に吹っ飛んだ。
まるで前輪に突然根が生えたかのような、ブレーキを掛けた時にある制動距離も無い、あまりに唐突で不自然な停止に見えた。
それは、とても不自然な現象だった。
「え?!…… 」
何が起きたのか判らずに混乱する俺の前方で、俺の横をすり抜けた自転車による自損事故が起きていた。
ハンドルをいつまでも手放さなかったせいで、頭を下にした姿勢でふわりと宙に浮き上がって、そのまま顔から地面に突っ込んだ自転車の高校生は、地面に伏したままピクリとも動かなくなる。
遠目にも、強引な急停止の力に耐えられず歪んで曲がったせいで動かなくなった前輪と、カラカラと虚しく空回りを続けている後輪の細いスポークの銀色が、無機質に日の光を反射してキラキラと輝いて見えた。
これは! 俺の目の前で何が起きているのだろう?
俺が心の中で行った術の真似事との因果関係を都合良く夢想する事は出来るけれど、それはやはり現実には有り得ない事だ。
だから、俺の先程の心の中の行為と結びつけて考えた結論は、偶然の一致という答えだった。
周囲に居た通行人が一斉にその場から離れて、事故現場だけがスポットライトを浴びた舞台のように丸く浮かび上がっていた。
当然のように俺の理性は、心の中で唱えた術の真似事と目の前で起きた事故との因果関係を否定する。
そりゃそうだ、目の前の事故が俺のせいだなんて受け入れられる訳が無い。
だけど、心の片隅では『もしや、俺のせいなのでは…… 』という疑念と不安が頭をもたげていた。
「見てたわよ!」
突然後ろから声を掛けられて、俺は心臓が口から飛び出すんじゃないかと思うくらいに驚いた。
そして反射的に、声の聞こえた方を振り返る。
そこには少し怒ったような顔をした、通勤途中らしい若い女の人が俺の方を見つめて立っていた。
俺はその人がいったい何を言い出すのかと、内心ドキドキしながらも様子を伺うように少し俯き加減のまま、上目遣いでその女の人の表情を観察した。
「あいつ、いっつもこの時間に歩道を凄いスピードですり抜けていくから、いつか事故ると思ってたのよね。 でも凄いじゃない! あなたが当てられそうになったのに間一髪のタイミングで避けたのも、後ろから見てたわよ」
「あ、ああ、そうなんですか…… 」
俺は訳も無くホッとしている自分に気付いて、心の中で苦笑いを漏らしながら立ち上がった。
別に俺が術を唱えたから事故った訳じゃ無いのに、反射的に自分のせいだと言われたように聞こえた事を、我ながら恥ずかしく思った。
「でも、あれを良く避けられたわよね。 後ろから見ていて、絶対にぶつかると思ったんだけど…… 」
その言葉を聞いて、事故と自分は無関係だと思い込もうとしていた俺の脳裏に、あの時に感じた不可解なスローモーション現象が思い出される。
そう言えば俺はあの現象と、その現象を表す名称そのものに覚えがあった。
(あれは、『見切り』のスキル? ――でも馬鹿な! そんな事がある訳が無い…… )
それは確かに、俺が閉じ込められて入院をする羽目になった『ソード&マジックVR』というオンラインゲームの中で、運営側からログアウトできなくなった全員の生存率を上げるための特別措置として与えられたスキルの中の一つである、『見切り』の発動と同じ感覚だった。
図らずもゲーム内での死が現実の脳死と直結する事が判明してから急遽与えられた、一連の生存率を上げる為のスキルの一つが『見切り』だった。
自分に危機が迫ると自動的に発動するそのパッシブスキルは、自分を取り巻く世界の速度がスローモーションに切り替わったように感じるもので、危機が迫る速度に呼応してスローに感じる速度が変化する。
しかし、自分の体も同じように動きが遅くなるので、筋力増強か動作速度上昇のようなスキルが無い限り、自分に迫る攻撃が見えて判っていながらも、充分な時間的な余裕を持って避けることができる訳では無い。
あのスキルの発動が現実だとすれば、もしかすると俺が何も考えずに使った『風縛りの術』も、この現実――つまり、リアル世界の中で発動したと言う事になるのだろうか?
俺は疑問を解くために、再び心の中でゆっくりと確実に印を結んだ。
目標は、200m程先にある駅ビルの屋上だ。
(『雷遁、雷撃単打の術!』)
突如耳をつんざく雷鳴が鳴り響き、駅ビルの屋上に見える避雷針に雷がドンという腹に響く轟音と共に落ちた。
間近に落ちた落雷の衝撃波で空気がビリビリと震える。
余りの轟音に、一瞬だけ俺の鼓膜が麻痺してしまったのか、その次の瞬間には周囲の音が掻き消されたかのような静寂がやってきた。
「きゃっ!」
俺に声を掛けてきた女の人が、小さな悲鳴を上げてしゃがみこむ。
辺りを見回せば、見える範囲を歩いている人の反応は、皆同じようなものだった。
間違い無い! これは現実だと、俺は確信した。
青天の霹靂という言葉があるけど、雲一つ無い快晴の天気の中で、落雷が一本だけ俺の狙った場所に落ちるなんて事は、有り得ない。
俺の両手の中には、忍者が使う独特の形状をした武器である『苦無』が3本ずつ握られていた。
雷撃の術だけでは偶然という事だってあり得るから、苦無創生の術も使ってみたのだった。
そして、それは間違い無く成功していた。
これは偶然で手の中に飛び込んでくるような、街中にありふれた武器では無い。
だとすれば、あの自転車事故は俺が起こした事になる……
すべては想像でしか無く、まだいくぶん疑いを持ちながらも俺は、事故と俺の行為との因果関係を想像して、自分のやってしまった事の大きさを実感して小さく震えていた。
「別にあなたが避けたせいであの高校生が事故った訳じゃ無いんだから、気に病んじゃ駄目よ。 あれは、自業自得って言うの」
気を取り直した社会人風のお姉さんはそう言うと、バッグからスマホを取りだして時間を確認し、急いで近くにあった駅の地上出入り口の方へと去って行ったけど、そうじゃない。
俺が打ち震えていたのは降って湧いた力への恐怖でも、引き起こした事故への責任の重さに対する罪の意識でも無く、自分の行為が現実となった事への歓喜だったのだ。
そう、俺はついに念願の力を手に入れたんだ。